元祖大師法然上人御法語 後篇 第八章
(本文)
それ浄土に往生せんと思わば、心(しん)と行(ぎょう)との二つ相応(そうおう)すべきなり。かるがゆえに、善導(ぜんどう)の釈に、但しその行のみあるは、行(ぎょう)即ち一人にして、また至る所なし。ただその願のみあるは、願すなわちむなしくして、また至るところなし。必ず願と行と相い助けて、なすところ皆(みな)剋(こく)すと言えり。およそ、往生のみに限らず、聖道門(しょうどうもん)の得道(とくどう)を求めんにも、心と行とを具すべしと言えり。発心(ほっしん)修行と名付くるこれなり。今この浄土宗に善導のごときは、安心(あんじん)起行と名付けたり。
(現代語訳)
さて、浄土に往生しようと思うならば、心と行との二つが一致していなければなりません。ですから、善導大師の解釈に、「ただその行だけがあるというのも、行が孤立して、行き着く先がない。ただその願いだけがあるというのも、願いが虚しいものとなって、やはり行き着く先がない。必ず願と行とが互いに助け合うときに、目的はみな達成される」と言われています。
およそ極楽往生に限らず、聖道門の覚りを求めるときにも、心と行とを〔ともに〕具えるべきであるといわれています。「発心と修行」というのがそれです。今、この浄土宗では、たとえば善導大師は、「安心と起行」と名づけています。
(解説)
私たちが目的地に行く場合、「行こう」という気持ちがあって、体が動いてはじめて行くことができます。
どちらが欠けても行くことはできません。
行こうという気持ちがあっても体が動かなければ行くことはできませんし、また体がいくら元気でも行く気が起こらなければ行くことはできません。
どちらが欠けても目的地へ行くことは叶いません。
どちらが欠けてもいけないということは世の中にはいくらでもあります。
車のエンジンとタイヤのどちらが大切ですか?と聞かれたら困りますよね。
エンジンが無くてもタイヤが無くても車は動きません。
同じようにお念仏も「称える声」と、極楽へ往きたいと「願う心」がそろわなくてはいけません。
そのどちらがかけても極楽へ往生することはできない、と法然上人はお説きくださっています。
「それ浄土に往生せんと欲わば、心と行との二つ、相応すべきなり」
「極楽浄土に往生したいと思うならば、往生したいと願う心と行としての念仏が一致していなくてはならない」
「かるが故に善導の釈に、但しその行のみあるは、行すなわち一人にしてまた至るところなし」
「善導大師の解釈によると、ただその行だけが孤立してしまって行き先がなくなってしまう」
「但しその願のみあるは、願すなわち虚しくして、また至るところなし」
「但しその願いだけがあるとしても、お念仏が無ければ願いが虚しいものになってしまってやはり行き場を失ってしまう」
「必ず願と行と相助けて、なすところみな剋すといえり」
「必ず願と行とがお互い助け合って、目的は達成される、とおっしゃっている」
「およそ往生のみに限らず、聖道門の得道を求めんにも心と行とを具すべしといえり」
浄土宗からみて、仏教を大きく二つに分けることができます。
まず生きている間に一所懸命修行をして、覚りをめざす道です。
これを「聖道門(しょうどうもん)」といいます。
その一方で、「とても今のままでは到底覚りをめざしても至ることはできない」という者を、阿弥陀仏という仏さまが「私の名前を呼んでごらん。必ず極楽浄土に迎え取ってやるから」と言ってくださっています。
極楽浄土へ往生したならば、必ず阿弥陀さまによって、私たちが仏になるまで育て上げていただけます。
その極楽へ往くにはただ阿弥陀さまの名前を称えるだけです。
それが南無阿弥陀仏のお念仏です。
直接覚りを目指すのではなく、まず極楽浄土への往生を目指すのです。
この道を「浄土門(じょうどもん)」といいます。
ここでいう「往生」というのはこの浄土門を指します。
「浄土門の往生の教えに限らず、聖道門の覚りを求めるときにも、心と行とを共に具えるべきであると言われている」
「発心修行と名付くるこれなり」
「聖道門ではこの心と行を発心と修行と名付けられている」
「発心」とは「必ず覚りを開くぞ」という強い思いです。
修行は宗派によって様々あります。
「覚りを開くぞ」という思いを持って、修行をするわけです。
どちらが欠けても覚りは達成できません。
「今この浄土宗に善導のごときは、安心・起行と名付けたり」
「今この浄土宗では善導大師が心と行を安心と起行と名付けてくださっている」
安心(あんじん)とは「心の置き所」です。
「阿弥陀さまを信じて極楽浄土へ往生したいと願う心」です。
起行(きぎょう)は南無阿弥陀仏と称えること。
どちらが欠けても「極楽往生」の目的は達成できません。
ところでみなさんは極楽浄土へ往生したいと思われますか?
もし「別に往生なんてしたくない」というのであれば、今まで申し上げたことは徒労に終わってしまいます。
みなさんは極楽浄土を想像することはありますか?
日常のことは色々と想像するでしょう。
今日の段取りであるとか、おかずを何にしようとか。
あるいは今から数年後にはどうなっているだろう、もしかしたら病気になって一人で倒れているのではないか、この先どうしよう、と先を想像して不安に思うということもあるかも知れません。
それなのに、いつか必ずやってくる死、その先に往くべきところのことは考えたことがないというのは如何なものでしょうか。
たまには極楽浄土のことを想像してみるとよいのではないでしょうか。
お経には「極楽には綺麗な花が咲き乱れて、美しい鳥がさえずっている」と記されています。
それは抜群の環境を示してくださっているのでしょう。
私たちの心がゆったりできる、美しいところなのでしょう。
また池に入ると丁度良い温度になるといいます。
この世は暑いや寒い、湿気が多いや何だかんだと不平不満を言いますが、極楽はそんな憂いが全くないところなのでしょう。
そして極楽には嫌いな人が一人もいないのです。
大好きな、尊敬する人ばかりに囲まれます。
極楽へ往って会う人はみんないい人ばかりです。
だから私も穏やかになれます。
極楽へ往く時に、このやっかいな腹立ちの心や欲張りの心を綺麗に取り除いてくださるのです。
極楽へ往くと私自身が「いい人」にならせてもらえます。
そして極楽へ往くと「先に往生したあの人」と必ず逢えるといいます。
そして再会を喜び合うことができます。
そういう人たちに囲まれて、楽しくなごやかに穏やかに過ごすことができるところです。
そして「阿弥陀さまってどんな方なんだろう?それはそれは優しい方なんだろうな」と想像するのです。
時々こういった想像を働かせてみるのがよいのではないでしょうか。
この世は、生きていれば必ず萎んでいく世界です。
それを「萎みたくない、このままでいたい」ともがくのですが、それを避けることはできません。
しかし、お念仏を称える者には、萎んだその先に必ず極楽浄土があります。
その極楽浄土を恋い焦がれてお念仏を称えて過ごすのです。
そういう生き方をしていく、これが信仰の強さでしょう。
グラグラの信仰ではいざというときに役に立ちません。
「いざというとき」は誰にでも訪れます。
体を壊したり、最愛のひとと別れねばならないときも来るかも知れません。
そのいざというときに、しっかりとした信仰があれば、きっと強いことでしょう。
その為にも「信」、「心」を育て「お念仏を称える」生き方を進めて参りましょう。
元祖大師法然上人御法語 後篇 第七章
(本文)
浄土宗の意(こころ)、善導の御釈(おんしゃく)には、往生の行(ぎょう)に大いに分かちて二つとす。一つには正行(しょうぎょう)、二つには雑行(ぞうぎょう)なり。初めに正行というは、是に数多(あまた)の行あり。初めに読誦(どくじゅ)正行というは、これは無量寿経、観経(かんぎょう)、阿弥陀経等の三部経を読誦するなり。次に観察(かんざつ)正行というは、これはかの国の依正(えしょう)二報(にほう)のありさまを観(かん)ずるなり。次に礼拝(らいはい)正行というは、これは阿弥陀ほとけを礼拝するなり。次に称名(しょうみょう)正行というは、南無阿弥陀仏と称(とな)うるなり。次に讃嘆(さんだん)供養正行というは、これは阿弥陀仏を讃嘆し、奉るなり。これをさして、五種の正行と名付く。讃嘆と供養とを二つの行とする時は、六種の正行とも申すなり。この正行につきて、ふさねて二つとす。一つには、一心に専ら弥陀の名号を称え奉りて、立居起臥(たちいおきふし)、昼夜に忘るることなく念々に捨てざる、是を正定(しょうじょう)の業(ごう)と名付く。かの仏の本願に順ずるが故にと申して念仏をもて、正しく定めたる往生の業と立て候。もし礼誦(らいじゅ)等によるをば、名付けて助業とすと申して、念仏の他の礼拝、読誦、讃嘆供養などをば、助くる業と申して候うなり。さてこの正定業と助業とを除きて、そのほかの諸々の業をば、みな雑行と名付く。
(現代語訳)
浄土宗の教えについて、善導大師の解釈を見ると、〔極楽〕浄土に往生するための行には大きく分けて二つがあります。一つには正行、二つには雑行です。
初めに、正行についていうと、これには数多くの行があります。
第一に読誦正行というのは、『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』という三部の経典を読誦することです。
第二に観察正行というのは、極楽の国土と、そこにおられる阿弥陀仏や菩薩衆のありさまを想い画くことです。
第三に礼拝正行というのは、阿弥陀仏を礼拝することです。
第四に称名正行というのは、「南無阿弥陀仏」と称えることです。
第五に讃嘆供養正行というのは、阿弥陀仏を誉め讃えることです。
これらを指して五種の正行と名づけます。讃歎と供養とを二つの行とするときは、六種の正行とも申します。
これらの正行について〔善導大師〕は、まとめて二つとします。第一に、「一心にただひたすら阿弥陀仏の名号を称え、立ち居起き臥し、昼も夜も忘れることなく、一瞬たりともやめない、これを〈正定業〉と名づける。〔これは〕かの阿弥陀仏の本願の意に添うものだからである」といって、称名念仏を「まさしく定まった往生の行」と位置づけます。
〔第二には、〕「もし〔念仏以外の〕礼拝、読誦等によるならば、名づけて助業とする」といって、念仏以外の、礼拝・読誦・讃歎供養などを、その念仏を助ける行と申します。
さて、この正定業と助業とを除いてその他の様々な行は、みな雑行と名づけます。(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊)
(解説)
お念仏というのは極めて簡単な行です。
「極楽へ往きたい」と願う人にとれば、これほど簡単な行はありません。
阿弥陀さまの名前を呼ぶだけですから。
しかし「極楽へなんか往きたくない」という人にとってはどれだけ簡単であっても、面倒くさいことでしょう。
極楽は往きたい人が必ず往けるところです。
往きたい人はお念仏を称えればよいだけです。
ただ、「極楽へ往きたい」と思ってもその気持ちを持続するのはそれほど容易いことではありません。
人間というのは弱いもので、「極楽へ往きたい」と思っても時が経つにつれて段々その気持ちが薄らいでくるものです。
煩悩が邪魔をするのです。
そもそも普段から私たちはずっと阿弥陀さまや極楽浄土に心を向けているわけではありませんね。
こうしてお仏壇に向かっているときは阿弥陀さまや極楽浄土、ご先祖さまに心が向くことでしょう。
でも部屋を出た瞬間に「はい、ここからは日常生活」という風にスイッチを切り替えてしまうものです。
それが普通でしょう。
それでもずっと「極楽へ往きたい」と願う気持ちを維持できれば問題はありません。
しかし、そのぐらいの信心というのは実は危ういものです。
何か大きなことが起こるとすぐにぐらつきます。
例えば近くで巨大地震が起こったら、その程度の人は「自分が生きることがまず大事」と仏さまのことはそっちのけになってしまいます。
先の東日本大震災では瓦礫の中から一生懸命お家の仏さまやお位牌を探す人もいたと聞きます。
そういう人は普段からしっかりとした信仰を保っている人です。
でも殆どの方の場合はそうではならず、仏さまのこともすっかり忘れてしまうということになりかねません。
そういう弱い私たちですから、できるだけ日常生活から阿弥陀さまや極楽浄土に向くような生き方をお勧めするのです。
その阿弥陀さまや極楽浄土に近しい行のことを正行と申します。
反対に阿弥陀さまや極楽浄土に近しくない行のことを雑行と申します。
正行と言いますと「正しい行」、雑行は「間違った行」のように聞こえますが、そうではありません。
仏道修行の目的は「苦しみから抜け出すこと」です。
その方法をお釈迦さまが、こちらの能力に合わせてたくさんご用意くださっています。
その中には、直接「覚り」という頂点を目指す修行と、一度極楽浄土に往生してから「覚り」に至ろうという修行の二つがあります。
お念仏の教えはまず極楽浄土に往生しようという教えです。
極楽浄土に往生しようというならば、「南無阿弥陀佛」と称えるお念仏が最も勝れています。
その他のいかなる修行よりも圧倒的に勝れています。
お念仏を申すこと、そして極楽浄土とそこの主である阿弥陀さまに近しい行が正行です。
他の方法でも極楽浄土に往けないことはありませんが、遠回りです。
極楽浄土に往生しようというならば、遠回りをする必要はありません。
正行には五つあります。
五種正行といいます。
この御法語は、五種正行について説かれた御法語です。
「浄土宗の意、善導の御釈には、往生の行に大いに分かちて二つとす。一つには正行、二つには雑行なり」
「浄土宗の教えについて、善導大師の釈には、極楽浄土へ往生するための行を大きく分けて二つある。一つは正行、二つ目は雑行である、と説かれている」
「初めに正行というは、これに数多の行あり」
「初めに正行についていうと、これにはたくさんの行がある」
五種類あるわけです。
五種正行です。
「初めに読誦正行というは、これは無量寿経・観経・阿弥陀経等の三部経を読誦するなり」「一つ目は読誦正行です。これは無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経の三つ、浄土三部経を読誦することです」
「読誦」の「読」は文字を見て読むことです。
「誦」は文字を暗唱することです。
「読誦」とは、お経の本を見て読んだり、見ずに読むこと、つまりお経を読むことです。
しかしお経ならどんなお経でもいいかというと、そうではありません。
無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経です。
この三つを浄土三部経といいます。
この三つのお経には、阿弥陀さまや極楽浄土、お念仏のことが詳しく説かれています。
お釈迦さまは五千巻余りのお経を説かれました。
その中で阿弥陀さまのこと、極楽浄土のことなどが説かれているお経がいくつかあります。
更にその中から特に阿弥陀さまや極楽浄土のことをたっぷりと説いてあるお経を法然上人が示してくださいました。
それが浄土三部経です。
この浄土三部経を読むことが読誦正行です。
ですから、これ以外のお経を読むことは雑行となります。
よく読まれる般若心経や法華経などを読むのは読誦雑行となります。
もちろん般若心経や法華経を読むこと自体は悪いことではありません。
どれもお釈迦さまが説かれた尊い教えです。
間違っているはずがありません。
しかし、今は極楽浄土の方を向きたいのです。
そうなると般若心経や法華経を読むことは遠回りになります。
ですから極楽へ往生したい者には浄土三部経を読むことをお勧めするのです。
「次に観察正行というは、これは彼の国の依正二報のありさまを観ずるなり」
「二つ目は観察正行という。これは極楽浄土のありさまと、阿弥陀さまや菩薩方のありさまを思い描くことである」
二つ目が観察正行です。
極楽浄土や阿弥陀さまのことを想像するのです。
「極楽ってどんなところだろう?綺麗な花が咲き乱れて、美しい鳥がさえずり、丁度良い気温が保たれていてとても快適なところなんだろうなあ。そこに嫌な人や憎い人は一人もいなくて、大好きな人や尊敬する人に囲まれて穏やかに和やかに暮らすことができるんだろうなあ。極楽に往けば先に往生したあの人ともこの人とも会えるなあ。そして何と言っても阿弥陀さまと会えるんだ。阿弥陀さまってどんな方だろう。きっとお優しい方で、こんな私を包み込んでくださるような方なんだろうなあ」と想像するのです。
先ほど「極楽浄土へ往きたいと願ってお念仏を称える者が極楽浄土へ往生できる」と申しました。
だから極楽浄土へ往きたいと願うことが大切です。
一方今の私たちの頭の中はこの世の損得のことばかりです。
好き嫌いのことばかりです。
勝ち負けのことばかりです。
それでは極楽浄土へ往きたいという心は育ちません。
ですから極楽や阿弥陀さまのことを想像することをお勧めくださっているのです。
この世で生きていれば、辛いことや悲しいことがあります。
対して極楽は最高に幸せなところです。
それを想像して、極楽への思いを育てるのです。
これが観察正行です。
「次に礼拝正行というは、これは阿弥陀仏を礼拝するなり」
「三つ目は礼拝正行という。これは阿弥陀さまを礼拝することである」
三つ目が礼拝正行です。
礼拝をキリスト教では「れいはい」と読みます。
仏教では「らいはい」です。
阿弥陀さまに体で敬いを表すことを礼拝といいます。
合掌して頭を下げるのも礼拝です。
最上級の礼拝は、立ち上がって阿弥陀さまを拝み、地面にひれ伏して両手を広げます。
五体投地接足作礼といいます。
両手を広げるのは、両掌の上に阿弥陀さまのおみ足をいただくためです。
両掌の上に阿弥陀さまに乗っていただくのです。
インドでは敬いを表すのに相手の足を触ります。
足は地面を踏みますから、最も汚れるところです。
対して手は食事をするところ、特にインドでは直接手で食べますから、一番綺麗にしておくべきところです。
自分が一番綺麗にしておきたい手で、相手の一番汚れた足を触るということは、相手の全人格を受け入れ、敬うということなのです。
数年前、インドに行きました。
その時に物乞いの女の子が私に近づいてきて、足を触ろうとしてきました。
私は知らないものですから、何をされるのかと思って避けました。
するとガイドさんが教えてくれました。
「あれはあなたを敬っている、ということで礼拝の原型なんですよ」と。
このようにインドでは足を触って敬いを表すのです。
「心の中ではちゃんと敬っているのだから、体で表現しなくてもよい」と仰る方がおられるかも知れません。
しかし、敬っておれば自然と体も敬いを表そうとします。
後輩と電話をしていても頭は下がりませんが、先輩と話す時は相手には見えないのに「どうも、どうも」と頭を下げていませんか?
また体で敬いを表すことによって、敬いの心も養われるという両面があります。
これが礼拝正行です。
「次に称名正行というは、南無阿弥陀佛と称うるなり」
「四つ目が称名正行である。これは南無阿弥陀佛と称えることである」
もちろんこの四つ目の称名正行が中心です。
これについては後に申します。
「次に讃嘆供養正行というは、これは阿弥陀仏を讃嘆したてまつるなり」
「五つ目は讃嘆供養正行という。これは阿弥陀さまを誉め讃え、供養することである」
讃嘆というのは誉め讃えることです。
「阿弥陀さまという方は素晴らしい方です」と誉め讃えます。
また、ご詠歌は讃嘆しているのです。
キリスト教には賛美歌というのがあります。
あれは神様を讃えているわけです。
仏教ではご詠歌によって仏さまを讃えます。
また礼讃というのがあります。
よく法事などで「三尊礼」というのを読みます。
「弥陀身色如金山」、つまり「阿弥陀さまの体は金の山のようだ。」と阿弥陀さまを讃えています。
供養はお供えをすることです。
お仏壇に果物やお饅頭を置いているわけではありませんね。
保管しているわけでも隠しているのでもありません。
「お供え」しているのです。
お仏壇におられる阿弥陀さまやご先祖さまに「どうぞ」とお供えしているのです。
お仏壇は極楽浄土を表します。
そこにおられる阿弥陀さまやご先祖さまに「どうぞ」とお供えすることによって、極楽浄土や阿弥陀さまに思いを寄せているわけです。
「供養」とは「供物養心」の略です。
お供えをして心を養っているのです。
極楽浄土や阿弥陀さまに向かう心を養っているのです。
浄土真宗ではお膳をお供えしないそうです。
これは「阿弥陀さまだけ、お念仏だけであるから他のものには向かない」ということのようです。
しかし浄土宗ではお供えをして阿弥陀さまや極楽浄土へ向かう心を養うのです。
これは大きく違うところです。
「これを指して五種の正行と名付く。讃嘆と供養とを二つの行とするときは、六種の正行とも申すなり」
「この五つを五種正行という。讃嘆と供養とを二つに分けるならば、六種正行ともいう」
普通は五種正行といいます。
この五種正行をまとめた場合、大きく二つに分けることができます。
「この正行につきて、総ねて二つとす」
「この正行をまとめて二つに分ける」
「一つには一心に専ら弥陀の名号を称えたてまつりて、立居起臥、昼夜に忘るることなく、念々に捨てざる、これを正定の業と名付く。彼の仏の本願に順ずるが故に、と申して念仏をもて、正しく定めたる往生の業と立て候」
「一つには、一心にただひたすら阿弥陀さまのお名前を称え、いつでもどこでも、昼も夜も忘れずにずっとお念仏を続けることを正定の業と名付ける。これが阿弥陀さまの本願であるから、と善導大師はおっしゃって、称名念仏を極楽往きが正しく定まった行いと位置づけてくださっている」
この善導大師のお言葉を「浄土宗開宗の文」といいます。
この一文によって法然上人は浄土宗を開かれました。
南無阿弥陀佛とただひたすら称える、この一行こそが極楽往きの王道である、なぜならそれは極楽の主である阿弥陀さまが「わが名を称えよ。称える者を救うぞ」と先にお誓いくださっているからなのです。
ですから、称名正行を正定の業と位置づけます。
「もし礼誦等によるをば、名付けて助業とすと申して、念仏の外の礼拝・読誦・讃嘆供養などをば、彼の念仏を助くる業と申して候うなり」
「他の礼拝や読誦などのことを、助業と名付けると善導大師はおっしゃって、念仏以外の礼拝、読誦、讃嘆供養などを正定の業である称名正行を助ける業、つまり助業という」
五種正行の内、中心は正定業である称名正行です。
称名正行は唯一、これをするだけで極楽浄土へ往ける行です。
南無阿弥陀佛と称えれば必ず極楽へ往けます。
だからこれだけをしていればいいのです。
極端に言うと、極楽へ往きたいと思って南無阿弥陀佛と称えていればいいのですから、お仏壇も仏像もお位牌も要らないのかもしれません。
でもお仏壇がなければとてもお念仏がしにくいでしょう。
お仏壇の前でこそお経を称えますし、お仏壇を拝んで極楽を想像します。
阿弥陀さまのお像があり、その元でご修行される、先に往生された方々を表すお位牌があります。
それを拝んで極楽や阿弥陀さまに心を向けるのです。
阿弥陀仏像に礼拝し、讃嘆し、お供えをするのです。
この読誦や観察、礼拝、讃嘆供養をすることによって、お念仏がとても称えやすくなります。
そういうものを助業といいます。
「さてこの正定業と助業とを除きて、その外のもろもろの業をば、みな雑行と名付く」「さて、この正定業と助業とを除く、他のの行はみんな雑行と名付ける」
法然上人は、まずはこの五つを正行とし、それ以外を雑行となさいます。
ただし、他にもお念仏を称えるのに役立つものを助業として拾います。
例えば、歩くことは極楽とも阿弥陀さまとも関係ありません。
しかし、私は歩くとき「南無阿弥陀佛」と小さな声で称えながら歩きます。
そうすると歩くことがお念仏の助業になります。
ある人はお風呂に入って湯船に浸かるのに百辺お念仏を称えてから出る、といいます。
その人にとってはお風呂に入ることがお念仏の助業になっています。
ある人は洗い物をしながらお念仏を称えます。
「以前は洗い物は面倒だと思っていましたが、今はお念仏を称える大切な時間なんです」とおっしゃいます。
この人にとっては洗い物がお念仏の助業となっているわけです。
このようにあらゆるものをお念仏の助業にすれば、日常をお念仏のスイッチを切り替える必要がありません。
お念仏生活の中の日常になります。
お念仏を称える工夫をして、お念仏が癖付けば苦労なく続けることができるようになります。
お念仏を続ける道筋、お念仏が身につく道筋をお示しくださっているのが、五種正行なのです
元祖大師法然上人御法語 後篇第六章
(本文)
釈迦如来(にょらい)、この経(きょう)の中(うち)に、定散(じょうさん)の諸々(もろもろ)の行(ぎょう)を説き終わりて後に、正しく阿難(あなん)に付属(ふぞく)し給(たも)う時には、上(かみ)に説くところの散善(さんぜん)の三福(さんぷく)業(ごう)、定善(じょうぜん)の十三観をば付属せずして、ただ念仏の一行(いちぎょう)を付属し給えり。経(きょう)に曰(いわ)く、仏(ほとけ)阿難(あなん)に告げ給わく、汝(なんじ)よくこの語を持(たも)て、この語を持(たも)てとは即ちこれ無量寿仏の名(みな)を持(たも)てとなり。善導和尚(ぜんどうかしょう)この文(もん)を釈して曰(のたまわ)く、仏(ほとけ)阿難に告げ給わく、汝よくこの語を持てより已下(いげ)は、正しく弥陀の名号を付属して遐代(かだい)に流通(るづう)し給うことを明かす。上来(じょうらい)定散(じょうさん)両門の益(やく)を説くといえども、仏の本願に望むれば、意(こころ)衆生(しゅじょう)をして、一向(いっこう)に専(もっぱ)ら弥陀仏(みだぶつ)の名を称(しょう)せしむるにあり。この定散の諸々の行は弥陀の本願にあらざるがゆえに、釈迦如来の往生の行を付属し給うに、の定善散善をば付属せずして、念仏はこれ弥陀の本願なるがゆえに、正しく選びて本願の行を付属し給えるなり。今、釈迦の教えに随(したが)いて往生を求むるもの、属の念仏を修(しゅ)して、釈迦の御心に叶(かの)うべし。これにつけても又よくよくお念仏候(そうろう)て、仏の付属に叶わせ給うべし。
(現代語訳)
釈尊は、『観無量寿経』の中で〔極楽往生のための修行として、精神を統一して行う〕定善と〔通常の心のままで行う〕散善との、様々な行を説き終わった後、まさしく弟子阿難に教えを託される段になると、それまでに述べられた、散善の功徳ある三種の行いや、定善の十三種の観想を託されずに、ただ念仏の一行のみを託されました。
『観無量寿経』には「釈尊は阿難に告げられた。〈汝はこの語をよく保て。この語を保てとは、無量寿仏の名号を保てということである〉」とあります。
善導和尚はこの経文を解釈して「〈釈尊は阿難に告げられた。汝はこの語をよく保て〉以下の語は、まさしく〔釈尊が〕阿弥陀仏の名号を〔阿難に〕託し、それを遙か後の世にまで広く伝えようとされていることを表している。この、名号を託する段に至るまで、定善・散善の二種の修行の利益を説いてこられたが、阿弥陀仏の本願に照らせば、釈尊の意図は、人々にひたすら阿弥陀仏の名号を称えさせることにある」と述べておられます。
この定善・散善の様々な行は、阿弥陀仏の本願ではないから、釈尊が往生の行を託される際には、念仏以外の定善・散善を託されず、念仏は阿弥陀仏の本願であるから、まさしく選んで、本願の行である念仏を託されたのです。
今、釈尊の教えに従って往生を求める人は、釈尊が阿難に託された念仏を修めて、釈尊のご意志に従うのがよいでしょう。このことからしてもまた、よくよくお念仏をなさり、釈尊が〔念仏を〕託された御心に添うようになさって下さい。(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊)
(解説)
お釈迦さまはたくさんのお経を説かれました。
その数は五千巻余りといいます。
それらは、お釈迦さまが色んな立場や能力の方に合わせて説かれたものです。
たくさんあるお経の中に、念仏について説かれたものがいくつかあります。
その中で特に法然上人が、「この三つ」と定めてくださったお経があります。
無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経という三つのお経で、これを浄土三部経といいます。
これらのお経の中には阿弥陀さまが登場します。
お経はお釈迦さまがお弟子や信者に向かって説かれた教えを、「お釈迦さまがこのようにおっしゃいました」というように遺されたものです。
浄土三部経では、お釈迦さまが「阿弥陀仏という仏さまがおられてね」と阿弥陀さまや極楽浄土のことを説いてくださっています。
私たちは直接阿弥陀さまが説かれた教えを知ることはできません。
お経を通して、即ちお釈迦さまを通してこそ阿弥陀さまを知ることができるのです。
さて、無量寿経というお経について申し上げます。
無量寿経は非常に長いお経です。
ですから色んなことが書かれているのですが、中でも大切なのは、「念仏の根拠」が説かれていることです。
阿弥陀さまが「我が名を呼ぶ者を救うぞ。南無阿弥陀仏と称える者を私が作った幸せの国、極楽浄土へ迎え取ってやるぞ」とお約束くださっています。
そのお約束を「本願」といいます。
阿弥陀さまは数ある修行方法の中で、「極楽浄土へ往生するためにはこれだ」と念仏を選んでくださいました。
その念仏の根拠である本願が説かれているのが無量寿経です。
観無量寿経は「無量寿仏」を「観る」お経です。
無量寿仏とは阿弥陀仏のことです。
つまり阿弥陀さまや阿弥陀さまがおられる極楽を観るためのお経なのです。
我々苦しみの多いこの世で過ごす者が、阿弥陀さまと生きながらにしてお会いできたり、極楽を観ることができたら、こんなにホッとすることはありません。
それは瞑想によって実現するといいます。
その瞑想の方法を順を追って説かれているのが観無量寿経です。
この瞑想を「心が定まった善」という意味で定善(じょうぜん)といいます。
観無量寿経では定善を十三種類説かれたのちに、「心が散り乱れた者でもできる善」という意味の散善(さんぜん)を説きます。
散善には三種類説かれています。
しかしながら、定善はもちろん、散善も大変難しい修行です。
昔の修行者は、今と比べてとてつもなく高いレベルの能力を持っておられました。
ですから定善や散善というような難しい修行も可能でした。
ところが今の我々は能力が低いので、定善や散善はとてもとてもできそうもありません。
お釈迦さまは後の時代の者は能力が衰えることをご存じでしたから、定善や散善のみ教えを後に残してもついていけないことをすでに分かっておられたのです。
ですから観無量寿経の中で定善と散善に殆どを費やしているにも関わらず、最後の最後で「後の者には念仏を残せよ」とお弟子の阿難尊者に説かれます。
観無量寿経は俗に「大逆転のお経」とも言われます。
難しい定善と散善を延々説いてきたのに、最後に「南無阿弥陀仏を残せ」とおっしゃるのですから。
お釈迦さまは「定善や散善を残しても後の者は実行することはできまい。」とお考えくださったのです。
そしてお念仏を説き、託されたわけです。
これを「付属(ふぞく)」といいます。
以上を踏まえて本文を読んで参ります。
「釈迦如来、この経の中に、定散のもろもろの行を説き終わりて後に、正しく阿難に付属し給う時には、上に説くところの散善の三福業、定善の十三観をば付属せずして、ただ念仏の一行を付属し給えり」
「この経」とは「観無量寿経」のことです。
「お釈迦さまはこの観無量寿経の中で定善、散善のさまざまな行を説き終わった後に、正しくお弟子の阿難尊者に教えを託そうという時には、今まで説いてきた散善の三福や定善の十三観を託さずに、ただ念仏の一行のみを託されました。
「経に曰く、仏阿難に告げ給わく、汝よくこの語を持て、この語を持てとは、即ちこれ無量寿仏の名を持てとなり」
「観無量寿経の最後のところに、お釈迦様は阿難尊者におっしゃいました。汝よ、この言葉をしっかりと伝えていけよ。この言葉とは無量寿仏、即ち阿弥陀仏の名前であるぞ」
「善導和尚、この文を釈して宣わく、仏阿難に告げ給わく、汝よくこの語を持てより已下は、正しく弥陀の名号を付属して、遐代に流通し給うことを明かす。上来定散両門の益を説くといえども、仏の本願に望むれば、意衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称せしむるにあり」
「善導大師はこのお経の文を解釈して、仏阿難に告げ給わく、汝よくこの語を持て、以下は、正しくお釈迦様が阿弥陀様の名前を阿難尊者に託して、後の世にまで広めようとなさっていることを明らかにしている。ここまで定善と散善の功徳を説いてこられたが、阿弥陀さまの本願を鑑みれば、お釈迦さまの意図は、人々にひたすら念仏を称えさせようというところにある」
「この定散のもろもろの行は、弥陀の本願にあらざるが故に、釈迦如来の往生の行を付属し給うに、余の定善、散善をば付属せずして、念仏はこれ弥陀の本願なるが故に、正しく選びて本願の行を付属し給えるなり」
「この定散のさまざまな行は、阿弥陀様の本願ではないので、お釈迦様が極楽往生のための行を託されるときには、念仏以外の定善や散善を託さずに、念仏は阿弥陀様の本願であるから、正しく選んで本願の行を託されたのである」
「今、釈迦の教えに随いて往生を求むる者、付属の念仏を修して釈迦の御心に適うべし」
「今お釈迦様の教えに随って極楽へ往生したいと願う者は、お釈迦様が阿難尊者に託された念仏を実践して、お釈迦様の御心に叶うべきでしょう。」
「これにつけても又よくよくお念仏候うて、仏の付属に適わせ給うべし」
「このことからしても、またしっかりとお念仏を称えてお釈迦様が託された御心に添うようになさいませ」
阿弥陀さまは数ある修行方法の中から、「どれも後の世の者には難しいであろう。しかし私の名前なら呼べるであろう。私の名前に私が修行したすべての功徳を収め込もう。だから我が名を称えよ」と念仏を選ばれました。
座禅する者を極楽に迎え取るともおっしゃらず、滝に打たれたものを救うともおっしゃらず、念仏称える者を救うとおっしゃったのです。阿弥陀さまが「これだ」と選らんでくださった行がお念仏です。
また、お釈迦さまも後の世の者には念仏しかない、と選んで阿難尊者に託されました。
法然上人は、お釈迦様が後の世の者の為に念仏の行を選ばれたのは、阿弥陀様の本願だからであると説かれています。
阿弥陀さまが選ばれ、お釈迦さまが選ばれた行なのです。
よく「念仏は法然上人が選ばれた行である」という人がいますが、実はそうではありません。
阿弥陀さまが、お釈迦さまが、さらには「阿弥陀経」では諸仏も念仏を勧めておられます。お念仏、すべての仏さまがあらゆる修行方法の中から、私たちのために先に選んでくださり、「極楽へ往生したいならばこれをせよ」とお示しくださったものなのです。
元祖大師法然上人御法語 後篇 第五章
(本文)
善根(ぜんごん)なければ、この念仏を修(しゅ)して無上の功徳を得んとす。余(よ)の善根(ぜんごん)多くば、喩(たと)え念仏せずとも頼む方(かた)もあるべし。しかれば善導(ぜんどう)は、我が身をば善根(ぜんごん)薄少(はくしょう)なりと信じて、本願を頼み、念仏せよと勧め給えり。経(きょう)に一(ひと)たび名号(みょうごう)を称(とな)うるに、大利(だいり)を得(う)とす。又すなわち無上の功徳を得(う)と説けり。いかに況(いわん)や念々相続せんをや。しかれば善根(ぜんごん)なければとて、念仏往生を疑(うたご)うべからず。
(現代語訳)
善い行いを積んでいないので、念仏を修めて、この上ない功徳を得ようとするのです。念仏以外の善い行いを多く積んでいるなら、たとえ念仏を称えなくても頼る手立てもあるでしょう。
ですから善導大師は「自分は善い行いをごくわずかしか積んでいないと信じて、本願を頼みとし、念仏しなさい」とお勧めになりました。『無量寿経』に「一たび名号を称えると、大利益を得る。つまり、この上ない功徳を手に入れる」と説かれています。まして念仏を絶えず続けるならばなおさらです。ですから、善い行いを積んでいないからといって、念仏による往生を疑ってはなりません。(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊)
(解説)
昔中国に白居易(はくきょい)という詩人がいました。白楽天(はくらくてん)とも呼ばれています。
当時中国には、儒教、道教などの宗教があって、白居易はそれらは知っているけれど、仏教のことは余り知らない。
そうだ、有名な道林禅師という方に尋ねてみよう、と思いつかれました。
道林禅師も少し変わった方で、木の上で修行しておられたといいます。
白居易は、木の上の道林禅師に対して、「道林禅師でいらっしゃいますか?私は白居易と申します。私に仏教の教えを説いていただきたいと思いまして、こうして伺いました。お示しください」と言いました。
道林禅師は、「そうか。では説こう。悪いことはするな。善いことをせよ。そして我が心を清くするのだ。それが仏教であるぞ」と説かれました。
すると木の下の白居易は笑います。
「なんだ、仏教っていうのはそんな程度の教えなのか。悪いことをするな、善いことをせよか。そんなことは三つの子でも知っていることではないか」と馬鹿にします。
それを聞いた道林禅師も笑います。「その通り。三歳の子どもでも知っていることであるぞ。悪いことをするな、善いことをせよとは、三歳の子でも知っているけれども、人生経験を積んだ八十のおじいさんでも実行はできないではないか。誰もが知っていることでありながら、誰もできていないのだよ。だからそのために修行をしなくちゃいけないんだ」とおっしゃったのです。
災害が起こった時、どれだけ「気の毒に」と同情しようとも私たちのする義援金は、自分の生活がある上でのことです。
普段とさして変わらない贅沢をし、その上でそう生活に影響を及ぼさない程度の義援金しかできないのではないでしょうか。
家も家財道具も財産もすべて失った方に、自分の生活レベルを下げてまでは中々できません。
所詮自分中心の私たちです。
ですから善いことをしようにも大した善いこともできないのが現実の私の姿です。
善いことをせよという仏教の教えであるけれども、私たちがする程度の善いことでは話にならないのです。
ただ、お念仏の教えだけは違います。
阿弥陀さまは私たちが善いことの一つもできないことは重々承知なさっています。
だからこそ阿弥陀さまご自身のお名前に功徳すべてを収め込んでくださって、「我が名を呼べよ、それだけでよいぞ、我が名を呼べば私が救うぞ」と願ってくださっているのです。
善いことだけができるのであれば、お念仏も必要ありません。
お念仏がなければ救われようがないからこそ、阿弥陀さまはお念仏をご用意くださったのです。
さて本文に入ります。
「善根なければ此の念仏を修して無上の功徳を得んとす」
「善いことをしてこなかったのであるから、念仏を称えてこの上ない功徳を得ようとするのです」
「余の善根多くば、たとい念仏せずとも、頼む方もあるべし」
「念仏以外の善い行いをもし多く積んでいるのであれば、念仏しなくとも頼る手もあるでしょう。でもそうではないでしょう?」
「然れば善導は、我が身をば善根薄少なりと信じて本願を頼み、念仏せよ、と勧め給えり。」
だから善導大師は「自分は善い行いを殆ど積んでいないのだと信じて、本願を頼りにして念仏しなさい、と勧めてくださっています」
「経に一度名号を称うるに、大利を得とす。またすなわち無上の功徳を得と説けり」
「無量寿経に一度念仏を称えれば、大きな利益を得ることができる。つまり、この上のない功徳を手に入れる、と説かれています」
「いかに況んや念々相続せんをや」
「ましてや念仏を絶えず続けるならば尚更のことです」
「然れば善根なければとて、念仏往生を疑うべからず」
「ですから、善い行いを積んでいないからといって、私などは念仏を称えても救われない、などと救いを疑ってはなりません」
まずは自分が善い行いなどできないのだ、ということを明らかに自覚せねばなりません。そうでないと、自分の力を頼ってしまい、阿弥陀さまの救いを頼もうとしないでしょう。
阿弥陀さまの救いがなければ救われないのに阿弥陀さまにすがらなければ救われようがありません。
まずは自分の立場、置かれている位置をしっかり確認して、「阿弥陀さまの力でないと到底救われない私」が阿弥陀さまの力で救われていくことを信じるのです。
ただ、自分の力のなさを知るが余りに、勝手に卑下して、「いくら阿弥陀さまでもよもやわたしは救われまい」などと思う人がおられるかもしれません。
しかしそうではありません。
私に力はなくとも、阿弥陀さまに無量のお力があるのです。
何ともかたじけなくもありがたいみ教えなのです。
元祖大師法然上人御法語 後篇 第四章
(本文)
双巻経(そうかんぎょう)の奥に、三宝(さんぼう)滅尽(めつじん)の後(のち)の衆生(しゅじょう)、乃至(ないし)一念に往生すと説かれたり。善導(ぜんどう)釈して曰(いわ)く、万年に三宝滅して此の経住(とど)まること百年、その時聞きて一念すれば、皆まさに彼処(かしこ)に生(しょう)ずることを得(う)べしと言えり。此の二つの意(こころ)を持て、弥陀の本願の広く接し、遠く及ぶほどをば知るべきなり。重きをあげて軽(かろ)きを収め、悪人をあげて善人を収め、遠きをあげて近きを収め、後をあげて前(さき)を収むるなるべし。誠に大悲誓願の深広(じんこう)なること、容易(たやす)く言葉をもて述ぶべからず。心を留めて思うべき也。抑(そもそ)もこの頃、末法(まっぽう)に入(い)れりといえども、未だ百年に満たず、我ら罪業(ざいごう)重しといえども、未だ五逆をつくらず。しかれば、遙かに百年法滅の後を救い給えり。いわんやこの頃をや。広く五逆(ごぎゃく)極重(ごくじゅう)の罪を捨て給わず。いわんや十悪の我らをや。ただ三心(さんじん)を具(ぐ)して、もはら名号を称(しょう)すべし。
(現代語訳)
『無量寿経』の末尾に、「三宝が滅びた後の人々も、わずか一度の念仏で往生する」と説かれています。善導大師はこれを解釈して、「末法一万年の後、仏・法・僧の三宝が滅びても、この経だけは百年間、世に留まる。その時に阿弥陀仏の名号を聞き知り、一声でも念仏すれば、だれでもかの極楽浄土に往生することができる」と述べています。
これら二つの文意から、阿弥陀仏の本願が、いかに幅広い人々を包みこみ、いかに遠い未来にまで及ぶかを理解すべきです。
これは罪の重い者を挙げて軽い者を含め、悪人を挙げて善人を含め、遠い未来の者を挙げて近い将来の者を含め、末法一万年以降の者を挙げてそれ以前の者を含めているのでしょう。
まことに〔阿弥陀仏の〕大いなる憐れみにもとづく誓願が、いかに深く広く行き届いているかは、たやすく言葉に表すことなどできません。心を傾けて推し量るべきです。
そもそも、今は末法の時代に入ったとはいえ、まだ百年も経っていません。私たちの犯した悪業は重いとはいえ、五逆罪までは造っていません。それゆえ、遠く三宝が滅んだ後の百年間の者をもお救いになるのです。まして今の時代の私たちをお救いにならないはずはありません。幅広く五逆というこの上なく重い罪を犯した者までお見捨てにならないのです。まして十悪を犯した程度の私たちを、お見捨てになるはずはありません。
ただ、三心を〔欠くことなく〕具えて、ひたすら〔阿弥陀仏の〕名号を称えるべきです。
(解説)
お釈迦さまが入滅されてから500年ほどはお釈迦さま在世当時と同様人々の宗教的な能力が高いので、覚る人が大勢いたといいます。それが正法の時代です。
その後1000年ほどは少し宗教的能力が落ちてくるので、覚る人が減ってくるわけです。それが像法の時代です。
その後の一万年が末法の時代です。能力が低いために修行する力もなく、当然覚る人などほぼいなくなるという時代です。法然上人の時代はすでに末法の時代に入っています。現代もまだ末法の時代が続いています。今は末法に入って1000年弱しか経っていません。
末法の時代が1万年続いた後のことなど、その頃には私たちは生きていませんから、関係ないと言えばそうなのですが、お釈迦さまはその後のことまでお説き下さっています。末法が1万年続いた後には何と仏教は滅びるといいます。これを法滅といいます。
ところで仏教が成り立つのに必要な三つの宝を三宝といいます。仏・法・僧の三つです。仏はほとけさま、法は仏が説かれた教え、僧は教えを信じる者です。仏さまがおられても、教えがなくては成り立ちません。教えがあっても信じる者がなければあってもないのと同然です。仏教の教えは真理ですからずっと変わらないのですが、末法が1万年過ぎた後には、教えを伝える者がいなくなりますから、当然教えを信じる者がいなくなります。そういう法滅の時代を三宝が滅びた時代ということで、三宝滅尽の時代といいます。
三宝滅尽の時代には、あらゆるお経が失われます。ただ一つ、無量寿経というお経だけが、三宝滅尽の後も100年間残るといいます。無量寿経は上下二巻ありますので、別名双巻経ともいいます。では本文を見ていきましょう。
「双巻経の奥に三宝滅尽の後の衆生、乃至一念に往生す、と説かれたり」
「無量寿経の末尾に、三宝が滅びた後の人々も、無量寿経を読んで念仏を称えれば往生できると説かれている」
「善導釈して曰く、万年に三宝滅して、此の経住まること百年、その時聞きて一念すれば、皆まさに彼こに生ずることを得べし、といえり」
「善導大師がおっしゃるには、末法が1万年過ぎて三宝が滅びた後もこの無量寿経だけは百年間この世に留まる。その時念仏のことを聞いて、念仏を称えれば極楽浄土へ往生できるということである」
「この二つの意をもて、弥陀の本願の広く摂し、遠く及ぶ程をば知るべきなり」
「無量寿経に説かれていること、善導大師がおっしゃっていることの二つの心によって、阿弥陀さまの本願がいかに広くを包み込み、遠く未来まで及ぶのかを知ることができる」
「重きを挙げて軽きを摂め、悪人を挙げて善人を摂め、遠きを挙げて近きを摂め、後を挙げて前を摂むるなるべし」
「罪が重い者を救うと説いて下さって罪が軽い者も含んで下さり、悪人を挙げ善人も含めて下さり、遠く未来の者を挙げて近い者も含めて下さり、末法1万年後の三宝滅尽の時代の者を挙げてそれより手前の者を含めてくださる」
「誠に大悲誓願の深広なること、たやすく言をもて述ぶべからず。心を留めて思うべきなり」
「誠に阿弥陀さまの大きな慈悲による本願がいかに深く広いかは言葉では言い尽くすことなどできない。心を寄せて仏の有り難さを思うべきである」
「そもそもこの頃、末法の入れりといえども、未だ百年に満たず。我ら罪業重しといえども未だ五逆をつくらず」
「そもそも今の時代は末法に入ったといってもまだ百年も経っていない」
末法に入ったのが日本では平安時代、西暦1052年と計算されます。法然上人がお生まれになった、西暦1133年にはまだ末法に入って百年足らずであったということです。
「私たちは罪深いといっても、まだ生まれてこのかた五逆はつくっていない」
五逆とは、父親を殺す、母親を殺す、覚りを開いた者を殺す、仏さまに血を流すような傷をつける、仏教教団を破壊するという五つです。
「然れば遙かに百年法滅の後を救い給えり。況んやこの頃をや」
「そう考えてみると、法滅の後百年経った者まで救って下さるのだから、今の時代の者が救われないはずがありません」
「広く五逆極重の罪を捨て給わず。況んや十悪の我らをや」
「広く五逆という最悪の罪の者さえもお捨てにならないのであるから、十悪の我々をお捨てになることがあろうか、いやそんなことはない」
十悪というのは、五逆の次に重い罪なのですが、実は私たちは毎日その重い罪を犯しています。
まず殺生です。私たちは毎日生き物を殺して生きています。
次に盗みです。別に万引きしたり空き巣に入るわけではありませんが、人の物を羨んだり欲しがったりすることも含みます。といいますのは、私たちは人の目を気にして生きていますが、人の物を羨む心があると、全く誰も見ていない、咎めない状況ができた場合には盗みかねない心なのです。
次は不倫です。他人の妻や夫と邪な関係になると、いらぬ争いの元になります。時には骨肉の争いにまで発展させる大きな原因になります。
それから嘘をつく、二枚舌を使う、悪口を言う、おべんちゃらを言う。
そして必要以上に欲をかく、腹をたてる、自分ばかりを生かそう生かそうとするという十の行いを十悪といいます。
これが地獄・餓鬼・畜生行きの行いなのです。私たちが日常的に行う、毎日していることが地獄・餓鬼・畜生行きの行いだというのです。厳しいと思いませんか?そんなことを言われたら生きていけないじゃないかと思いませんか?そうです。末法の私たちは十悪の行いをしないと生きていけないのです。お釈迦さまの時代の優れた修行者には避けることができた行いが、今はしないと生きていけないのです。
だから念仏が必要なのです。念仏がなければまともに修行することすらできない私たちです。十悪の者も五逆の者も救われる教えです。末法の者でも法滅後の者でも救われる教えです。
まるでドブさらいするかの如く、どんなに悪い者でもどんなにひどい時代の者でも救ってくださるのです。つまり、「私なんて救われない」という人は一人もいないということです。すべてを救いの範疇におさめてくださっています。
阿弥陀さま側からは100%救う用意がなされています。あとはこちらが救いを信じてお念仏を称えるかどうかだけです。ただこちらが気づいて向き合うだけなのです。