成道山 法輪寺

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御法語

元祖大師法然上人ご法語第十七章

(原文)

念仏を申し候(そうろう)ことはようようの義(ぎ)候(そうら)えども、ただ六字(ろくじ)を称(とな)うる中(うち)に、一切の行(ぎょう)は収まり候(そうろう)なり。心には本願(ほんがん)を頼み、口には名号(みょうごう)を称(とな)え、手には念珠(ねんじゅ)をとるばかりなり。常に心を掛くるが極めたる決定(けつじょう)往生の業(ごう)にて候(そうろう)なり。念仏の行(ぎょう)は、元より行住坐臥(ぎょうじゅうざが)時処諸縁(じしょしょえん)を嫌わず、身口(しんく)の不浄を嫌わぬ行(ぎょう)にて易行(いぎょう)往生と申し候(そうろう)なり。ただし、心を清くして申すを第一の行(ぎょう)と申し候(そうろう)なり。人をも左様(さよう)にお勧め候(そうろう)べし。ゆめゆめこの御心(みこころ)はいよいよ強くならせ給い候(そうろう)べし。

 

(現代語訳)

念仏を称えることには、様々な意味がありますが、ただ(南無阿弥陀仏の)六字を称える中に、一切の行がおさまっています。心には本願を頼みとして、口には名号を称え、手には数珠を繰るだけです。常に(そのように)心がけることが、必ず極楽往生の叶う、この上ない行であります。
念仏の行は、言うまでもなく、立ち居起き臥しや、時、所、状況を選ばず、身と口との不浄を問わない行であって、(それによるのを)易しい行による往生と申すのです。
ただし、心を浄くして称える念仏を、最上の行と申します。他の人にも、そのようにお勧め下さい。つとめてこの御心を、よりいっそう強くなさって下さいますように。

(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会)

 

(解説)

法然上人のお弟子、信者の層の幅は多岐にわたります。

天皇や貴族から何と泥棒までいます。

もちろん説かれた教えが念仏という誰もが救われるみ教えであるということもありますが、法然上人のお人柄の懐の広さがよくわかります。
その中でも武士が目立ちます。

武士というと多く身分が高いというイメージを持ちますが、鎌倉時代の武士と江戸時代の武士では全く違います。

鎌倉時代の武士は野蛮人と見られていたようです。

教養もありません。

武勲を挙げるということ、つまり出世するためには殺生を重ねなくてはなりません。

武士だってできれば殺生なんてしたくありません。

そしてそれが罪だということは分かっています。

でもせざるを得ない。

もう救いを諦めるしかなかったのです。

そこに法然上人は、「その生業をやめることができるのであればやめなさい。しかしやめることができなければ、その身そのままでお念仏を称えなさい。必ず救われますよ。」とお説き下さいました。

こうして多くの鎌倉武士が法然上人に帰依し、念仏者となっていきました。
その鎌倉武士の頂点は源頼朝公です。

その奥さんは北条政子さま。

「尼将軍」などとも呼ばれ、NHKの大河ドラマでも何度も取り上げられてきましたのでご存じでしょう。
北条政子さまは臨済宗の信仰を持っていました。

しかし部下である御家人の中に多くの念仏者がいたので、念仏の教えも知っておかねばということも思われたのかも知れません。

そういう思いで法然上人に手紙を送られました。

それに対して法然上人がご返事を書かれました。

その一部分がこのご法語です。

「念仏を申し候事は、ようようの義候らえども、ただ六字を称うる中に一切の行はおさまり候なり。」
「念仏を申すということには、三心や四修などの色んな義があるけれども、ただ南無阿弥陀仏という六文字を称えるという中にすべての行の功徳が収まっています。」

法然上人は常に「極楽浄土へ往くには、ただ南無阿弥陀仏と称えるだけ」とお示しくださいます。

その一方「誠の心を持って」「深く信じる心をもって」「極楽へ往きたいと願って」という「三心」や、念仏生活の仕方を示す「四修」などもお説きくださっています。

ただ、これらは細かく分析して色んな角度から説いてくださったもので、その一々を常に気にしないといけないのではありません。

ただ「南無阿弥陀仏の六字を称える」という行為の中に、すべて収まってくるのです。

そして私達がすべきことは
「心には本願を頼み、口には名号を称え、手には念珠をとるばかりなり」です。

「心には阿弥陀様の本願を頼りにし、阿弥陀様お救い下さいと思って、口には南無阿弥陀仏と称え、手には数珠を繰るだけですよ」ということです。

体の行い、口の行い、心の行いすべてを極楽へ、阿弥陀様へ、念仏へと向けていくのです。

数珠というのは念仏の数を数える道具です。

数を数えるというのは非常に励みになります。

これは間違いのないことです。
例えばダイエットをするにも、体重を量りますよね。

体重を量らないと成果がわからないので努力する気が起こりにくいようです。

食べるものを減らし、運動をして体重を量る。

そうして少しでも減っていると嬉しくなってまた運動する気が起こる。

でもダイエットはある程度まで体重が下がるとその後一旦どれだけやっても減らない時期が来るのだそうです。

そうするとやる気が失せてきます。

そしてダイエットを止めてしまう。
しかしお念仏は称えれば称えるほどに増えていきます。

増えるともう少し、もう少しと益々やろうという気が起こってくるわけです。

私達はお寺へ来てどれだけ有り難い法話を聞いて、お念仏を称える気になっても家に帰ったら「あーおなか空いた、晩ご飯、晩ご飯!」とすっかりスイッチを切り替えてしまいます。
お念仏のスイッチをオンオフしてしまうんですね。
でもそれではいけません。
お念仏生活が底辺にあって、その上で日常の生活ができればありがたいことです。
そのためには放っておいてはいけません。
お念仏が続くように工夫や努力が必要です。
数珠を使うのもその一つです。
私は万歩計を使ってお念仏を数えて、日々の念仏が続くように工夫しております。
色々と工夫をして、極楽へ、阿弥陀様へ、お念仏へと向けていくことが必要です。
ですからご法語はこのように続きます。

「常に心をかくるが極めたる決定往生の業にて候なり」
「常に心を極楽、阿弥陀様、お念仏にかけるのが往生するための究極の行いなのですよ。」ということです。
そして念仏とは決して難しいものではないのですよ、ということが書かれています。

「念仏の行はもとより行住坐臥、時処諸縁をきらわず、身口の不浄をきらわぬ行にて、易行往生と申し候なり」
「念仏の行は元々歩いていても立ち止まっていても座っていても寝転んでいても、できますよ。いつでもどこでもどんな時でも称えることができますよ。そして体や口の汚れ、不浄も嫌わない行であるから、容易く往生できる行であるよというのです。」ということです。

どんな行でも場所を選びます。例えば座禅でしたら、時々電話が掛かってきたり、車の音が聞こえたりする場所ではきません。
ですから曹洞宗のお寺は多く山の中にあります。
でもお念仏は歩きながらでもできますし、たとえ雑踏の中でもできます。
もちろん大きな声では称えられませんが、私は電車の中でも称えます。
隣の人が気づかないほどの声でいつも称えます。
そんなことができる行は念仏以外にありません。

また、神社や大きなお寺に行きますと柄杓で手を洗い、口を洗ってから神前、仏前に進みます。

あるいはお香を焚いて、時にはお香を跨いで、体にお香を塗ったりして道場に入ります。
しかし念仏はそれすらも必要ないのです。
その身そのままでできる唯一の行なのです。

これはとても有り難いことです。
いつも正座をしてビシッと背筋を伸ばして念仏を称えよと言われたら、足が痛くなったり病気になったらできなくなってしまいます。
私達は好む好まざるにかかわらず、老いていきますし病気にもなります。

誰一人寝たきりになりたい人はいないのに、なってしまうこともあります。

でもそうなったらそうなったままで称えることができます。

起きられなかったら寝転んだままで、大きな声で称えられなかったら小さな声で称えることができるというのは本当に有り難いことです。
阿弥陀様は私達の弱いところをとことんお考え下さって、私達が置かれた状況のままでできる行を用意して下さったのです。

もちろんやる気がなかったらできません。

極楽へ往生したくない人には念仏を称えることは難しいでしょう。

しかし往生したいと思う人、やろうと思う人は誰でもできるという行です。

やろうと思ってもできないことは山ほどあります。やる気はあっても体がついてこない、能力がついてこないということは一杯あります。

念仏は本当に誰でもできます。

あとはこちら次第です。

そして次の一文です。
「但し、心を清くして申すを第一の行と申し候なり」
「色々と理屈もあるけれども、それは一旦おいて、但し、心を清くしてお念仏を申すのが第一ですよ。」ということです。

心を清くするといっても心を清くするのは非常に難しいことです。

私達は中々心が清くなりません。煩悩だらけの凡夫です。

心は汚れ、散り乱れています。

それを清くせよと言われたらとてもできません。

ここではそのようなことをいうのではありません。
ただ純粋に「阿弥陀様お救いください」という思いで南無阿弥陀仏と称えるだけです。

それだけなのです。

「人をも左様にお勧め候うべし。ゆめゆめこの御心はいよいよ強くならせ給いそうろうべし。」
「北条政子さま、あなたのようなお立場の方は人にもそのようにお勧めください。どうぞどうぞこの御心を益々強くお持ち下さいよ」ということです。

臨済宗の信仰をお持ちの北条政子さんに対して、浄土宗の大きな特長をお伝え下さっている有り難いお言葉です。

元祖大師法然上人ご法語第十六章

(原文)

念仏の数を多く申す者をば、自力を励むという事、これまたものも覚えず浅ましき僻事(ひがごと)なり。ただ一念二念を称うとも、自力の心ならん人は自力の念仏とすべし。千遍万遍を称え、百日千日夜昼励み勤むとも、偏(ひとえ)に願力(がんりき)を頼み、他力を仰(あお)ぎたらん人の念仏は、声々念々(しょうしょうねんねん)、しかしながら、他力の念仏にてあるべし。されば、三心(さんじん)を起こしたる人の念仏は、日々夜々(にちにちやや)、時々刻々(じじこくこく)に称うれども、しかしながら願力を仰ぎ、他力を頼みたる心にて称えいたれば、かけてもふれても、自力の念仏とはいうべからず。

(現代語訳)

「念仏の数を多く称えるのは自力を励む人だ」と言うこと、これまた道理を外れ、あきれる程の心得違いです。わずか一念二念を称えても、自力の心構えである人(の念仏)は、自力の念仏とすべきであります。
千遍万遍を称え、百日千日、昼夜に励み努めても、ひたすら(阿弥陀仏の)願力を頼みとし、他力を尊ぶ人の念仏は、一声一声が、そのまま全部他力の念仏であるとすべきです。
それゆえ三心を起こした人の念仏は、毎日毎夜、絶え間なく称えたとしても、それらはすべて願力を尊び、他力を頼みとする心で称えているのですから、決して自力の念仏と言うべきではありません。

(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊)

(解説)

お念仏の教えは「南無阿弥陀仏と称える者を阿弥陀様が救って下さる」という教えです。お念仏を称えてこちらが段々偉くなって救われるのではありません。こちらは自分の力ではどうにも救われない身であるけれども、阿弥陀様の力によって救われるのです。その阿弥陀様の力を「他力」といいます。
一般的に「他力本願」といいますと、「自分は大した努力もせずに他人任せにすること」と、とらえられていますが、本来の意味とは大きく違います。本来は「阿弥陀様の力」のことを限定して「他力」というのです。
自力というのは、自分を磨いて正しい生活をし、難しい修行をして悟りを開く力をいいます。そういうことがとてもできない私達は、他力にすがらなくてはならないのです。
ですから、自力の心で念仏を称えてはなりません。あくまで、阿弥陀様の力、他力を仰いでお念仏をお称えするのです。
ただ他力という言葉に固執するとややこしいことになります。といいますのは、念仏を多く称えるのは自力であるなどということを言う人がいます。
たとえば「お念仏をたくさん称えるのは半自力半他力だ」などという批判です。
法然上人ご在世当時からそういった批判はあったようです。それに対して法然上人が「そうじゃないですよ。」とおっしゃったのが今日のご法語です。
最初から読んで参ります。
「念仏の数を多く申す者をば自力を励むということ、これまたものも覚えず浅ましき僻事なり」「念仏の数を多く申す者のことを、自力を励んでいるという人がいるが、これは物事を知らない浅はかな考えであるぞ」ということです。
「ただ一念二念を称うとも、自力の心ならん人は自力の念仏とすべし」「たった一遍、二遍というわずかな念仏しか称えていないとしても、自力の心で称えていれば自力の念仏となります」
「千遍、一万遍称え、百日、千日夜も昼も念仏に励み勤めたとしても、偏に阿弥陀さまの本願の力を頼りにし、他力を仰ぐ人の念仏は、一声一声ごとがすべて他力の念仏となるでしょう」
「されば三心を起こしたる人の念仏は、日々夜々、時々刻々に称うれども、しかしながら願力を仰ぎ他力を頼みたる心にて称えいたれば、かけてもふれても自力の念仏とは言うべからず」
三心とは、至誠心、深心、回向発願心の三つです。至誠心とは誠の心、深心は深く阿弥陀さまを信じる心、回向発願心はとにかく極楽へ往きたいと願う心です。この三つの心をもって念仏する者が極楽へ往生するのです。
このように言いますと、非常に難しいですが、「阿弥陀さま、極楽へ往生させて下さい、南無阿弥陀仏」と称える念仏がすなわち三心が具わった念仏なのです。
ですから前文を訳しますと、「三心を起こした人の念仏は、昼も夜もずっと称えていて、はたから見たら大変な苦行をしているうように見えても、すべて本願力を仰ぎ、他力に頼る心で称えているのであるから、決して自力の念仏ではありません」となります。
つまり念仏の数が少ないから他力で、念仏の数が多いから自力というわけではないということです。数の多少に関わらず、自力の心で称えれば自力の念仏となるし、他力の心で称えれば他力の念仏となるのです。自力、他力と分けて考えると非常にややこしいですが、つまりは「阿弥陀さま、お救い下さい」という思いで念仏を称える、ただそれだけなのです。
それだけなのに私達は念仏を称えるようになると、他人と比べて「あの人より私の方が念仏を称えている」と意識し、何となく偉くなったような気になるものです。でも南無阿弥陀仏とは、「阿弥陀さま、助けて下さい!」です。「阿弥陀さま、助けて下さい、阿弥陀さま、助けて下さい!」と称える者が偉いはずがないのです。阿弥陀さまにすがらなくては救われないのですから。そこを勘違いしないようにしなくてはなりません。
救う側は仏です。これは当たり前でありながら、実は理解しにくいことです。
たとえば知恩院の御前様は非常に知識も豊富、経験も豊富、人徳も勝れた方です。その御前様と私を知識や経験、人徳という基準で比べれば雲泥の差があります。しかし、称える念仏は同じです。「阿弥陀さま、助けて下さい。」の念仏です。救って下さるのは阿弥陀さまですから、知識や経験の差は関係ありません。
あくまで救う側は阿弥陀さまなのです。阿弥陀さまの力、つまり他力によって初めて救われるのが私達なのです。

元祖大師法然上人ご法語第十五章

(原文)

(いち)(ねん)(じゅう)(ねん)(おう)(じょう)をすといえばとて、(ねん)(ぶつ)()(そう)(もう)すは(しん)(ぎょう)(さまた)ぐるなり。(ねん)(ねん)()(しゃ)(しゃ)といえばとて、(いち)(ねん)()(じょう)(おも)うは(ぎょう)(しん)(さまた)ぐるなり。(しん)をば(いち)(ねん)()まると(しん)じ、(ぎょう)をば(いち)(ぎょう)(はげ)むべし。(また)(いち)(ねん)()(じょう)(おも)うは、(ねん)(ねん)(ねん)(ぶつ)ごとに()(しん)(ねん)(ぶつ)になるなり。その(ゆえ)は、()()()(ぶつ)(いち)(ねん)(いち)()(おう)(じょう)()ておき(たま)える(がん)なれば、(ねん)ごとに(おう)(じょう)(ごう)となるなり。

 

(現代語訳)

「一念や十念でも往生する」と説かれるからといって、念仏をおざなりに称えるのは、(本願への)信心が念仏の行を妨げているのです。「念仏し続けて片時もやめないならば(往生できる)」と解釈されるからといって、「一念では(往生が)不確かだ」と思うのは、(念仏の)行が(本願への)信を妨げているのです。信心については「一念で往生できる」と信じ、行については、生涯続けて励むべきです。
また「一念では(往生が)不確かだ」と思うならば、一声一声の念仏が、それぞれに不信の念仏となります。そのわけは、阿弥陀仏(の本願は)、一念に一度の往生をあてがわれた願なので、念仏するたびにそれが往生のための行いとなるからです。(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊)

 

(解説)

念仏の教えは「阿弥陀様の本願を信じて南無阿弥陀仏と称えれば必ず阿弥陀様が救ってくださる」というみ教えです。そのお念仏の数についてお経には「たとえ十遍の念仏であっても」と記されています。中国の唐の時代にお念仏の教えを完成された善導大師は「十遍の念仏で救われる」というのは「一遍の念仏でも救われる」というこのなのだとおっしゃいます。
そうすると、「それじゃ一遍でいいじゃないか。阿弥陀様の教えを信じてさえいれば、多く称える必要などない。」という人が出てきます。「一念義」といいます。「一度念仏を称えた、その時にはすでに救われているのだ」というのです。
そ れに対して「いやいや、そうではないんだ。念仏は多ければ多いほどいいんだ」と言う人もできてきます。これを「多念義」といいます。
「一念義」は、称えることよりも信じること、「信」を重視します。「多念義」は、「信」よりも「行」を重視します。ですから、「一念義」か「多念義」かという議論は、「信」か「行」かという議論なのです。
法然上人はどのようにおっしゃっているかというと、「信」だけでもなく「行」だけでもない、どちらも必要なんだとおっしゃいます。どちらか片方でよいということではない、車の両輪のように「信」と「行」はお互いを励まし合いながら進んでいくのだとおっしゃいます。それをふまえて本文をお読みします。
「一念十念に往生をすといえばとて、念仏を疎想に申すは信が行をさまたぐるなり」「一遍十遍の念仏で往生するからといって、念仏を称えるのをいい加減にするのは信が行を妨げることになります。」
「念々不捨者といえばとて、一念を不定に思うは行が信をさまたぐるなり」
「念々不捨者」というのは、善導大師のお言葉で、一瞬一瞬に捨てない、つまり「ずっと続けていく」という意味です。ですから、「念仏をずっと続けていくようにと善導大師はおっしゃっているが、一遍の念仏では往生できないと思うのは、行が信を妨げているのですよ」となります。
次の言葉が法然上人の立場を明確に表現しています。「信をば一念に生まると信じて行をば一行に励むべし」「一遍の念仏で往生できるのだと信じてひたすら称えましょう」つまり一遍で往生できるからといって、一遍で終わりではないということです。たった一遍の念仏で往生できるのだから、益々称えましょうということです。
「又一念を不定に思うは念々の念仏ごとに不信の念仏になるなり」「一遍の念仏では往生できないと思うのは、一声一声の念仏がすべて信のない念仏になりますよ。」要は一遍でだめだというのなら、何遍称えてもだめでしょう、だめなものをどれだけ重ねてもだでしょう、というわけです。
「その故は阿弥陀仏は一念に一度の往生をあておき給える願なれば、念ごとに往生の業となるなり」「なぜならば、阿弥陀様は一遍の念仏で救うと願を立ててくださっているのだから、一声一声がどれも往生の業となるのですよ 」というのです。一声で往生なのですから、称える毎に「往生、往生、往生、往生」と往生の業が積み重なっていくのです。
ただ、そもそも十遍の念仏というのは、お経では臨終の時の十念をいいます。『観無量寿経』というお経には、生きている間散々悪いことをしてきた人が、臨終の時に念仏者によって初めて念仏の教えを聞いて、念仏を称えた人の、その称えた数が十遍であったけれども間違いなく往生したとあります。
臨終間際に念仏信仰のある人がお見舞いにやってきて、念仏の教えを伝え「今まで知らなかったけれどもそんなありがたい教えがあったのか」と気づき、南無阿弥陀仏と称えた人は往生するのです。
実際に臨終間際で念仏の教えと出会う人は多くはないと思います。でも私などは、枕経で初めてお会いする人がいます。恐らく今までお念仏を称えてはおられなかったでしょう。そういう人に私は枕経の際に直接話しかけます。「初めまして。法輪寺です。阿弥陀仏という仏様が私たちのために極楽浄土という絶対の幸せの国を作ってくださいました。南無阿弥陀仏と称える者はすべて極楽へと迎えとると言ってくださっています。今まであなたがお念仏を称えてこられたかどうかわかりませんが、どうか今称えてください。声に出して称えることはできないでしょうが、私も家族のみなさんも一緒にお念仏を称えてくださいますので、どうか最後の今、称えてください」と申し上げてお念仏を十遍称えます。それから改めて家族の方にご挨拶をし、打ち合わせをし、正式に枕経のお勤めをします。枕経というのは大事な時です。それが終わって念仏を称えてお通夜を勤めます。親しい人が故人を思って思い出話をするのもよいのかも知れませんが、取り返しのつかない大事な時ですから、やはりお通夜はお念仏を称えて過ごすべきでしょう。そしてお葬式で導師が引導を渡し、十遍の念仏を授けるのです。
信心さえあれば一遍の念仏でもいいなどと言いますが、私達凡夫の信心なんていい加減なものです。「ありがたいな」と思っても、そのまま放っておいたら信心なんてなくなってしまいます。だからやはり念仏を称えなくてはならないのです。ありがたいと思ったら、南無阿弥陀仏と称えるのです。そしてまたありがたいと信心を深めて更にお念仏を称えるのです。
また、「多念義」のように、ただ多く称えればよいと言っても、信心がなければ多く称えることなんてできません。信仰もないのに1万遍念仏を称えるなんてことは、苦痛以外の何者でもないでしょう。
信心を起こし、念仏を称え、また信仰を深める。これが法然上人がお説きくださるお念仏のみ教えです。

元祖大師法然上人ご法語第十四章

(原文)

(ほん)(がん)(ねん)(ぶつ)には(ひと)()ちをせさせて(すけ)をささぬなり。(すけ)というは、()()をも(すけ)にさし、()(かい)をも(すけ)にさし、(どう)(しん)をも(すけ)にさし、()()をも(すけ)にさすなり。(ぜん)(にん)(ぜん)(にん)ながら(ねん)(ぶつ)し、(あく)(にん)(あく)(にん)ながら(ねん)(ぶつ)して、ただ()まれつきのままにて(ねん)(ぶつ)する(ひと)を、(ねん)(ぶつ)(すけ)ささぬとはいうなり。さりながら、(あく)(あらた)(ぜん)(にん)となりて(ねん)(ぶつ)せん(ひと)は、(ほとけ)()(こころ)(かな)うべし。(かな)わぬもの(ゆえ)に、とあらんかからんと(おも)いて(けつ)(じょう)(しん)()こらぬ(ひと)は、(おう)(じょう)()(じょう)(ひと)なるべし。

 

(現代語訳)

本願の念仏には独立をさせて、助けを差しはさみません。「助け」というのは、智慧をも助けとし、持戒をも助けとし、菩提心をも助けとし、慈悲をも助けとして差しはさむのです。
善人は善人のままで念仏し、悪人は悪人のままで念仏して、ただ生まれつきのままに念仏する人を、「念仏に助けを差しはさまない人」と言うのです。
しかしながら、悪を悔い改め、善人となって念仏する人は、阿弥陀仏の御心に適うでしょう。
(ただし)仏の御心に適わない自分であることから、「ああだろう、こうだろう」と心配して、「必ず往生できる」という思いの起こらない人は、往生の確実でない人なのです。

 

(解説)

法然上人は色々なお言葉を残されていますが、その中でもしょっちゅう仰っていたお言葉というものがあります。「常に仰せられけるお言葉」と呼ばれるもので、この御法語もその一つです。
まず全体的に申し上げますと、念仏というのはあまりに簡単ですので、何となく頼りなく思われるようです。念仏だけでは物足りないから般若心経も称えた方が功徳があるような気がするのです。しかし念仏は阿弥陀さまがご修行くださったすべての功徳を収め込んでくださった、極楽へ往生するためにはこの上ない行です。私たちが私たちの力で極楽へ往生するのではありません。私たちは極楽浄土への往生を願い、阿弥陀さまがご用意くださったお念仏を称えるだけです。阿弥陀さまのお力によって救われるのです。この阿弥陀さまのお力を他力といいます。いわゆる「他人まかせ」の他力ではありません。本来他力とは、阿弥陀さまのお力を限定していうものです。自分の力ではとても極楽へ往生することなど覚束ない私たちが念仏を称え、阿弥陀さまの力によって初めて往生するのです。どんなに罪深い身でも阿弥陀さまは必ず救って下さいます。そのことを踏まえ、本文を見ていきましょう。
「本願の念仏にはひとりだちをせさせて助をささぬなり。」
「阿弥陀さまの本願であるお念仏は、ひとりだちをしたものであって、補助が必要なものではないのだ。」
ここで助とは何かを具体的に挙げています。
知恵、持戒、道心、慈悲の四つです。私たちは知恵がある人の念仏の方がそうでない人の念仏よりも勝れているように思います。また、戒を守って生活を厳しく整えている人の念仏の方が勝れているように思います。「必ず悟りを開いて人々を救うぞ!」という強い決意を持った人の念仏の方が勝れているように思います。全ての人へ慈しむ人がいたならば、その人の念仏の方がそうでない人の念仏よりも勝れているように思います。しかしそうではありません。私たちは私たちが勝れているから救われるのではないのです。決して勝れた身ではない私たちが、阿弥陀さまの力でのみ救われるのです。
善人は善人のまま、悪人は悪人のまま、ただ生まれつきのままに念仏する人こそ、「念仏に助をささない人」というのです。その身そのままで阿弥陀さまはお救いくださるのです。
しかしこのように言いますと、必ず勘違いする人が出てきます。「念仏を称えれば救われるというなら、どんなに悪いことをしてもいいのか」という人です。もちろんそんなことはありません。本来仏教は「悪いことはやめましょう。善いことをしましょう。」というのが基本です。ただ、私たちには煩悩があるので善い行いがなかなかできません。善い行いができないだけでなく、煩悩による悪い行いが知らず知らずの内にも積み重なっていくのです。だからといって開き直ってはいけません。悪い行いをしたくないのにしてしまうのと、「どうせ悪い行いしかできないのだから、どんどん悪い行いをすればいい」と開き直るのでは大違いです。「悪を改め、善人となって念仏しようという人」が阿弥陀さまの御心に叶う人です。
また逆の勘違いもあります。自分を深く見つめる余りに、「私のような愚かな者は、阿弥陀さまの力でも往生などできない」と仏の力を疑ってしまうのです。私の力ではどうしようもないけれども阿弥陀さまの力は大きいのです。それを信じなくてはなりません。「どうせ私は愚かで、阿弥陀さまの御心になど叶わない」と、ああだこうだ思って往生決定の心が起こらない人は往生できないと書かれています。
阿弥陀さまの力を信じるということは、簡単なようで難しいのですね。こちら側の計らいを捨てて阿弥陀さまにお任せしていくのです。これだけのことをしっかりと信じることは昔から難しかったのでしょう。昔から勘違いする人が多かったのでしょう。だからこそ法然上人は、常に仰せられたのでありましょう。

 

元祖大師法然上人ご法語第十三章

(原文)

往生(おうじょう)の行(ぎょう)多しと雖(いえど)も、大いに分かちて二つとし給えり。一つには専修(せんじゅ)、いわゆる念仏なり。二つには雑修(ざっしゅ)、いわゆる一切の諸々(もろもろ)の行なり。上(かみ)にいう所の定散(じょうさん)等これなり。往生礼讃(おうじょうらいさん)に曰(いわ)く、若(も)しよく上(かみ)の如(ごと)く念々(ねんねん)相続して畢命(ひつみょう)を期(ご)とせば、十は即ち十生(しょう)じ、百は即ち百生(しょう)ず。専修(せんじゅ)と雑行(ぞうぎょう)との得失(とくしつ)なり。得(とく)というは往(お生する事を得(う)。曰(いわ)く、念仏する者は十は即ち十人ながら往生し、百は即ち百人ながら往生すという、これなり。失(しつ)というは曰く、往生の益を失えるなり。雑行の者は、百人が中に稀(まれ)に一二人(いちににん)往生する事を得(え)て、その他(ほか)は生ぜず。千人が中(なか)に稀に三五人(さんごにん)生まれてその余(よ)は生まれず。専修の者はみな生まるる事を得(う)るは何(なん)の故(ゆえ)ぞ。阿弥陀仏の本願に相応せるが故なり。釈迦如来の教えに随順(ずいじゅん)せるが故なり。雑業(ぞうごう)の者は生まるる事少なきは何の故ぞ。弥陀の本願に違(たが)える故なり。釈迦の教えに随(したが)わざる故なり。念仏して浄土を求むる者は、二尊(にそん)の御心(みこころ)に深く適(かな)えり。雑修(ざっしゅ)をして浄土を求むる者は二仏(にぶつ)の御心に背(そむ)けり。善導和尚(ぜんどうかしょう)、二行(にぎょう)の得失を判(はん)ぜる事これのみにあらず。観経の疏(かんぎょうのしょ)と申す文(ふみ)の中(うち)に、多く得失を挙げたり。繁(しげ)きが故(ゆえ)に出(いだ)さず。これをもて知るべし。

 

(現代語訳)

末法の時代の衆生を、極楽に往生できるかできないかの能力に当てはめて考えるとき、行が少なくても、疑ってはなりません。一遍や十遍(の念仏)で充分なのです。(悪業を犯す)罪人であっても、疑ってはなりません。「罪深くても、分けへだてはしない」と説かれています。
時代が下ったとしても、疑ってはなりません。仏教が滅んだ後の衆生でさえ往生することができるのです。まして末法の今については言うまでもありません。自身が悪くても疑ってはなりません。「私たちは煩悩を具えた凡夫である」と説かれています。
あらゆる方角に浄土は多くありますが、西方(浄土)を願うのは、十悪・五逆の罪を犯した衆生までもが生まれるからであります。様々な仏がおられるなかで、阿弥陀仏に救いを求めるのは、三遍や五遍(しか念仏できずに死に臨む者)に至るまで、自らお迎え下さるからであります。様々な行のなかで念仏を 往生するための行は多いけれども、(善導大師は)大きく分けて二つとなさいました。第一は専修、つまり念仏であります。第二は雑修、つまり(念仏以外の)あらゆる修行であります。前に述べた定善と散善がこれであります。
(善導大師の)『往生礼讃』には「もしもよく、前に述べたように、念仏を続けたまま命を終えることができた人は、十人いればそのまま十人が往生し、百人いればそのまま百人が往生する」とあります。専修の得と雑修の失とを述べた文です。
「得」というのは、往生することを得るということです。すなわち「念仏する者は、十人が、そのまま十人すべて往生し、百人が、そのまま百人すべて往生する」というこのことです。
「失」というのは、すなわち往生という利益を失うということです。雑修の者は、百人の中でまれに一人、二人、往生することができますが、その他の者は往生できません。千人の中で、まれに三人、五人が往生しますが、その他の人は往生しません。
専修(念仏)の者がみな往生することができるのはなぜでしょうか。阿弥陀仏の本願と一致しているからであり、釈尊の教えに随うからです。雑修の者が往生することが少ないのはなぜでしょうか。阿弥陀仏の本願に反するからであり、釈尊の教えに随わないからです。
念仏を行って極楽浄土を求める人は、釈迦・弥陀二尊の御心に深く適っています。雑修を行って浄土を求める人は、二仏の御心に背いています。
善導和尚が二行の得と失とを判定されたのは、これに止まりません。『観経疏』という書物の中に、多くの得と失とを挙げておられます。多いので引用は致しません。ここでの説明によってご理解下さい。

(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊)

 

(解説)

浄土宗を開かれたのは法然上人ですが、法然上人はお釈迦さまが説かれたお経をご覧になってそのまま浄土宗を開かれたわけではありません。中国の唐の時代に浄土教を完成された善導大師が書かれた書物『観経疏』をご覧になって、涙を流して感動され「これこそが私たちが救われる道だ」という確信の元浄土宗を開かれたのです。法然上人は善導大師がすべてだとおっしゃいます。かつては浄土宗のことを善導宗といったほどです。
ですから浄土宗はお釈迦さまの教え、お経を、善導大師が解釈されたように理解するのです。
この文章はお手紙の一部分で、前後に文章があります。この御法語の前は「偏に善導一師による」という文章があります。本文の多くは善導大師のお言葉の引用です。
第12章とも重なるのですが、 内容は念仏とそれ以外の行の違いについて書かれています。
仏教の目的は苦しみ迷いの娑婆世界から逃れ出ることです。解脱といいます。解脱するには苦しみ迷いの原因である煩悩を断ちきらねばなりません。その煩悩を断ちきるために色んな修行方法があります。
殆どの宗派の修行はこの世で煩悩を断ちきるための修行です。座禅も托鉢も千日回峰行もすべてそうです。しかし私たちにはそのような難しい修行によって煩悩を断つ力がありません。それならばどうすればよいのでしょうか。私たちには力はないけれども、阿弥陀様は大きな力を持っておられるわけです。ですから阿弥陀様にお任せして極楽浄土へ往生させていただくのです。これが念仏の道です。極楽浄土へ往生したならばそこで煩悩を断ちきる修行をするのです。この世はとても修行がしにくいところですが、極楽は修行しやすいように環境が整っているところです。
最終的な目的は煩悩を断ちきって悟りを開くということで共通していますが、念仏の道は極楽往生を目指します。極楽へ往生したら、悟ることは間違いありませんから。
極楽へ往生するにはどうするのか?その手段が念仏なのです。念仏は極楽往き専門の行です。往生行といいます。他の行は殆ど極楽へ行く助けにはなりません。念仏以外の行は、この世で悟りを開くために修行だからです。役割が違うのです。ただ、廻向すればごく稀に往生することもあります。以上を踏まえて本文に入ります。
「往生の行、多しといえども大いに分かちて二つとし給えり。」
「往生することができる行は多くあるが、大きく分けて二つあると善導大師はおっしゃる。」「一つには専修、いわゆる念仏なり。二つには雑修、いわゆる一切の諸々の行なり。上にいうところの定散等これなり。」
「一つは専修念仏、もう一つはそれ以外の行である。先に挙げた(この御法語の前にある)定善、散善の行などである。」
「往生礼讃に曰く、もしよく上の如く念々相続して畢命を期とせば、十は即ち十生じ、百は即ち百生ず。専修と雑行との得失なり。」
「往生礼讃には、上に説くように、一念一念怠らず念仏して、それを生涯続けようと思う人は、十人の中に十人ながら、百人の中には百人ながら往生することができる、とある。このご文が専修と雑修の勝り劣りを言ったものである。」
「得というは往生することを得。曰く念仏する者は十はすなわち十人ながら往生し、百はすなわち百人ながら往生すというこれなり。」
「得というのは、往生することができることである。善導大師が、念仏を申す者は十人が十人とも往生し、百人が百人とも往生する、とおっしゃっているのがこれである。」
「失というは、曰く往生の益を失えるなり。雑行の者は百人が中に稀に一二人往生することを得て、その他は生ぜず。千人が中に稀に三五人生まれてその余は生まれず。」
「失ということについて善導大師は、これは往生するという利益を逃がすことである。雑行の者は百人の中に稀に一人二人往生することができてもそれ以外の人は往生できない。また千人の中に三人か五人往生できてもそれ以外は往生できない、とおっしゃる。」
「専修の者は皆生まるることを得るは何の故ぞ。阿弥陀仏の本願に相応せるが故なり。釈迦如来の教えに随順せるが故なり。」
「専修念仏の者は皆往生することができるのはどうしてか。それは阿弥陀様の本願に合っているからである。お釈迦さまの教えに随っているからである。」
本願とは阿弥陀様が「南無阿弥陀仏と称える者はすべて極楽浄土へ迎えとってやるぞ」とお誓い下さったものを指します。「座禅をする者を救う」とはおっしゃっていないのです。念仏する者なのです。そうおっしゃるからそれに随うという、単純明快なことなのです。
お釈迦さまは多くの教えを説かれました。しかしお釈迦さまは、後の人は時代が悪くなり各々の力も劣っていくことをご存じでした。ですから、阿難というお弟子に「後の者達のために念仏を残してやれよ。念仏でなかったら後の者達はどの教えにもついていけないのだから」とおっしゃいます。つまり後の私たちにとりましては、念仏を称えて極楽往生を求めることがお釈迦さまの教えに随うことになるのです。
「雑業の者は生まるること少なきは何の故ぞ。弥陀の本願に違える故なり。釈迦の教えに随わざる故なり。」
「念仏以外の行をする者は殆ど往生することができないのはどうしてか。阿弥陀様の本願と異なるからである。お釈迦さまの教えに随っていないからである。」
「念仏して浄土を求むる者は、二尊の御心に深く適えり。雑修をして浄土を求むる者は二仏の御心に背けり。」
「念仏を称えて極楽往生を求める者は、阿弥陀様、お釈迦さまのお二方の御心に深く適っている。念仏以外の行をして極楽浄土への往生を求める者は阿弥陀様、お釈迦さまの御心にお背いている。」
「善導和尚、二行の得失を判ぜることこれのみにあらず。観経疏と申す文の中に多く得失を挙げたり。繁きが故に出さず。これをもてしるべし。」
「善導大師がこの二行の勝り劣りを書かれているのはこれだけではありません。観経の疏という文の中にそれ以外の多くの勝り劣りを挙げておられる。しかし余りに煩雑なのでここには書かない。以上述べてことによってご理解頂けると思います。」
日本は雑多信仰と言われます。クリスマス、大晦日は除夜の鐘、正月は神社と節操がありません。しかしこれはイベントですからそう目くじらを立てるほどのこともありません。 日本で信仰深いと言われる人は、朝早くから起きてお地蔵さんにお参りをし、お不動さんにお参りをし、八幡さんにお参りをし、天神さんにお参りをし、大黒さんにお参りをするような人をいいますね。
しかしどの宗教、どの宗派からしてもそれは危なっかしいのです。どの教えにも目的があります。念仏以外の他の行をしていても往生は叶いにくいのです。往生するには念仏です。また念仏を称えてこの世で悟りを開くことはできません。それにはそれに適した修行があるのです。
ただ、私たち自身の力を顧みると、色んな修行がある中で念仏を選ぶ力はないでしょう。難しい修行をして煩悩を断ちきることができないからこそ念仏なのです。念仏以外に選べる力など私たちにはないのです。念仏こそが私たちが救われる唯一の行なのです。