成道山 法輪寺

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御法語

元祖大師法然上人ご法語第十二章

原文

それ速(すみ)やかに生死(しょうじ)を離れんと思わば、二種の勝法(しょうぼう)の中(うち)に、しばらく聖道門(しょうどうもん)を閣(さしお)きて、選びて浄土門に入(い)れ。浄土門に入(い)らんと思わば正雑(しょうぞう)二行の中(うち)に、しばらく諸々の雑行(ぞうぎょう)を抛(なげす)てて、選びて正行(しょうぎょう)に帰(き)すべし。正行を修(しゅ)せんと思わば、正助(しょうじょ)二業(にごう)の中に、なお助業(じょごう)を傍(かたわ)らにして、選びて正定(しょうじょう)を専(もは)らにすべし。正定の業(ごう)というは、即ちこれ仏の御名(みな)を称(しょう)するなり。名(な)を称すれば必ず生まるることを得(う)。仏の本願によるが故に。

 

現代語訳

さて、速やかに迷いの境涯を離れたいと願うならば、二種の勝れた教えの中で、まずは聖道門をさしおいて、選んで浄土門に入りなさい。

浄土門に入ろうと願うならば、正行と雑行の二行の中では、まずはもろもろの雑行をなげうって、選んで正行を依りどころとしなさい。

正行を修めたいと思うならば、正業と助業との二業の中では、やはり助業を脇に置き、選んでひたすら正定業に励みなさい。正定業というのは、つまり阿弥陀仏の名号を称えることです。名号を称えれば、必ず(浄土に)生まれることができます。阿弥陀仏の本願によるからです。

(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会)

 

解説

法然上人は多くのお言葉を残されていますが、その大部分はお弟子さんが法然上人からお話を聞いて、それを記録されたものや手紙などです。著作はただ一つだけで、『選択本願念仏集』といいます。
選択は普通「せんたく」と読みますね。浄土真宗ではこれを「せんじゃく」と読みます。浄土宗では伝統的に「せんちゃく」と読み慣わしています。
選択の意味はせんたく、つまり選ぶなのですが、法然上人は特に仏さまが選んだもののみに選択という言葉を使っておられます。
阿弥陀さまは「我が名を呼ぶ者を必ず救う」と本願を建てて下さいました。座禅をする者を救うとおっしゃったのではありません。滝に打たれた者を救うとおっしゃったわけでもありません。千日回峰行を行った者を救うとおっしゃったのでもありません。ただ「我が名を呼ぶ者」つまり念仏を称える者を救うとおっしゃったのです。ということは、阿弥陀さまは他の行ではなく、念仏を「選択」されたということになります。
お釈迦さまは、「後の時代の者のために念仏を残せよ」と観無量寿経というお経の中でおっしゃっています。お釈迦さまの時代は宗教的に勝れた人が多かったのです。しかし、時代を経るに従って、科学は発達していくけれどもそれに反比例するかのように宗教的な能力は劣ってきました。お釈迦さまは多くの教えを説かれたのですが、時代が下がるとその教えを行う力を持っている人がいなくなってしまうということを先にご存じでした。ですから、後の人々のためには念仏を残してやれよとお弟子の阿難尊者という方に託されたのです。つまり、後の私たちのためにお釈迦さまは念仏を「選択」して下さったのです。
阿弥陀さま、お釈迦さま以外の仏さまはどうかと申しますと、阿弥陀経というお経の中で、「阿弥陀仏の念仏の教えは間違いないぞ、皆信じて往けよ」と念仏の教えの素晴らしさを証明して下さっています。つまり諸仏も念仏を「選択」して下さったのです。
さて、今日の御法語はその『選択本願念仏集』が第一章から第十六章まである中の第十六章の一部分です。第十六章は全体のまとめの部分です。
「選択」という言葉は仏の「選び」だと申しましたが、この御法語は数ある教えの中で私たちが選んでいくものについて書かれています。私たちの「選び」です。
では本文を読んでいきましょう。
「それ速やかに生死を離れんと思わば、二種の勝法の中にしばらく聖道門をさしおきて選びて浄土門に入れ。」
生死という言葉はイコール輪廻です。私たちは生まれ変わり死に変わりを繰り返しているといいます。多くの人が、輪廻というと人間に生まれ変わると思っていますが、殆どそんなことはないのです。私たちのような煩悩だらけの者が生まれる世界は地獄か餓鬼道か畜生道です。仮に人間に生まれたとしても人間もまた苦しみの世界です。命が尽きたらまた地獄か餓鬼道か畜生道へ堕ちるかもしれません。苦しみの世界を生まれ変わり死に変わりし続けているのが今の私たちです。そこから逃れ出るのが仏教の目的です。輪廻からの解脱です。輪廻しないようにすると言ってもいいでしょう。その方法に二つあるというのです、。
「速やかに輪廻の世界から離れようと思うならば、二つの勝れた方法がある内の聖道門を置いておいて、浄土門に入りましょう」ということです。
聖道門とは「自力」の教えです。自分の力で悟りを開くのです。難しい修行や学問をして、自分を磨き、修行して煩悩を断ち切るのです。それには自分が優れていなくてはなりません。かたや浄土門は、自分は優れていないけれども阿弥陀さまという優れた方がいる。だから阿弥陀さまにお任せして、阿弥陀さまに救っていただくという「他力」の教えです。
どちらも優れているけれども、自分自身の能力を鑑みた場合に「どうか?」ということです。先ほども申したように、お釈迦さまの時代から随分下った時代に生きる私たちの宗教的な能力は劣っています。煩悩を断ち切ることができる私でしょうか。難しい修行に耐えて覚りに至ることができる私でしょうか。
今の私たちは色んな教えがある中で「これにしようか、あれにしようか」と選べる立場ではありません。私たちができて、私たちが救われる教えは念仏しかないのです。
「浄土門に入らんと思わば正雑二行の中にしばらく諸々の雑行を投げ捨てて選びて正行に帰すべし」
「浄土門に入ろうというなら正行と雑行の二行がある中の雑行をやめて、正行を選びましょう。」
浄土門を二つに分けると正行と雑行の二つがあります。ここには書かれていませんが、選択集の別の章に正行に五つあることが明らかにされています。五種正行といいます。
一つは読誦正行です。浄土三部経を読むことです。浄土三部経とは、無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の三つです。浄土三部経には阿弥陀さま、極楽浄土、念仏のことが詳しく書かれています。それを読むのです。
二つ目は観察正行です。お仏壇は極楽浄土を象ったものです。お仏壇を見て、「阿弥陀さまの元でご先祖様も幸せに過ごしておられるんだなあ。極楽はきっと素晴らしいところなんだろうなあ。いつか命が尽きたら極楽へ往ってみたいものだなあ」と極楽を恋いこがれることを観察正行といいます。
三つ目は礼拝正行です。仏法僧の三宝(ここでは阿弥陀仏、浄土三部経、極楽の聖衆)に体で敬いを表すことです。お経を読んでいるときも頭を下げる箇所が何カ所もありますね。チベットのお坊さんが地面に頭をこすりつけて仏さまを敬っている姿をテレビなどでご覧になったことがあるかもしれません。浄土宗でもそのように五体頭地接足作礼をします。色んな礼拝がありますが、仏さまを敬えば自然と頭が下がりますし、体で敬いを表しておれば自然と敬いも出てくるというものです。敬っているけれども体はふんぞり返っているというのはあり得ない話です。電話をしていても相手が大事な人であれば、向こうからは見えないのに一所懸命頭を下げるはずです。それと同じように敬いは体が伴うのです。
四つ目は称名正行です。実際に南無阿弥陀仏と称えることです。
五つ目は讃歎供養正行です。阿弥陀様を讃えたり、阿弥陀様にお供えをすることです。
この五つの行、五種正行は極楽に近しい行ですので正行というのです。
正行の正は分解すると一と止になります。これは一つに止める、つまりそれ専門の行という意味があります。ここでは極楽往き専門の行を正行というのです。
この正行以外を雑行といいます。雑行といいますと、いかにも役に立たないように聞こえますが、そうではありません。極楽往き専門の行でないものを雑行というのです。
ですから般若心経を読むのは雑行です。般若心経を読んでも極楽へは往けません。あるいは西国霊場を巡ることも雑行です。座禅も雑行、千日回峰行も雑行、写経も雑行です。これについては後にもう一度申します。
「正行を修せんと思わば、正助二業の中に、尚助業を傍らにして選びて正定をもはらにすべし」
正行を更に二つに分けます。正定業と助業です。
「正行をしたいと思うならば、正定業と助業の二つがあるうちの助業をおいておいて、正定業をしなさい」
「正定の業というは、即ちこれ仏の御名を称するなり。名を称すれば必ず生まるることを得。仏の本願によるが故に」
「正定の業というのは、阿弥陀様の名前を称えることである。名前を称えれば必ず往生することができる。阿弥陀様の本願に随うのであるから」
阿弥陀様が「南無阿弥陀仏と称える者を必ず極楽浄土へ迎えとってやるぞ」とお約束くださった、それを本願といいます。阿弥陀様は「南無阿弥陀仏と称える者」を極楽へ迎えとると往って下さったのです。「般若心経を読む者」、「西国霊場を巡る者」、「座禅をする者」、「千日回峰行をする者」、「写経をする者」を極楽浄土へ迎えとるとはおっしゃっていないのです。
ですから私たちは往生を願って念仏を称えるのみです。それだけをやっていればよいのです。念仏は誰にでもできますし、その中には阿弥陀様が修行された一切の功徳が収まっているのですから、こんなに有り難いことはありません。ただ、行ずる側の私たちは弱いのです。簡単な行すら簡単にできません。
そこで助業が必要になってきます。助業とは念仏をしやすくするものです。決して念仏の功徳が足りないから補足するものではありません。
読誦正行をして、浄土三部経を読めば、極楽浄土、阿弥陀様、お念仏のことが詳しく記されています。それで「ああ、極楽とはこういうところか、阿弥陀様はこんなに有り難い方なのか、お念仏はこんなに尊いものなのか」と理解すれば、当然お念仏が称えやすくなります。
観察正行をして、極楽浄土を想像して恋い焦がれたならばお念仏が出てきます。
礼拝正行をして、阿弥陀様への敬いを体で表せばお念仏が出やすくなります。
讃嘆供養正行をして阿弥陀様を讃え「阿弥陀様お召し上がり下さい」とお供えをすれば当然お念仏が出るわけです。
このようにお念仏を出やすくする行いを助業といいます。
この五種正行は最も極楽、阿弥陀様、お念仏に近しいものですが、先ほど雑行として一度排除したものもお念仏のためになるならば助業となります。
般若心経を読むことも、読んで「このような真理に到達するための修行はとても私には覚束ない」と自覚してお念仏に向かうならば立派な助業です。
西国霊場を巡って「観音様は有り難いなあ。観音様にお会いするために極楽へ往きたいなあ」とお念仏を称えるならば助業となります。
更には歩く時に必ずお念仏を称えるという人は歩くことが念仏の助業となっています。料理するときに称える人は料理が念仏の助業となっています。お風呂に入ることも寝ころぶことも、あらゆることを念仏の助業にすれば、念仏は決して難しいものではなく、どんどん相続することができるのです。

元祖大師法然上人ご法語第十一章

原文

ただ心の善悪(ぜんなく)をも顧(かえり)みず、罪の軽(かろ)き重きをも沙汰(さた)せず、心に往生せんと思いて、口に南無阿弥陀仏と称(とな)えては、声に尽きて決定(けつじょう)往生の思いをなすべし。その決定心(けつじょうしん)によりて、即ち往生の業(ごう)は定まるなり。かく心得えねば往生は不定(ふじょう)なり。往生は不定と思えばやがて不定なり。一定(いちじょう)と思えば一定する事にて候うなり。されば詮(せん)は、深く信ずる心と申し候うは、南無阿弥陀仏と申せばその仏の誓いにていかなる身をも嫌わず、一定迎え給うぞと深く頼みて、いかなる咎(とが)をも顧みず、疑(うたご)う心の少しもなきを申し候うなり。

 

現代語訳

ただ心の善悪をも顧みず、罪の軽重をも問題とせず、心に「往生したい」と願って、口に「南無阿弥陀仏」と称えては、声にあわせて「必ず往生できる」という思いを抱きなさい。

その「必ず往生できる」という思いによって、たちまち念仏による往生が確かなものとなるのです。このように心得ないと、往生は不確かです。「往生は不確かだ」と思えば、そのまま不確かです。「確実だ」と思えば、確実なものとなるのです。

ですから結局は(この)深く信じる心というのは、「南無阿弥陀仏とお称えすれば、その阿弥陀仏の誓いによって、どのような身でも分け隔てなく、確実にお迎え下さるのだ」と、深く頼みとして、どのような(わが身の)罪も顧みず、疑う心が少しもないことを言うのであります。    『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊

 

解説

仏教の教えは「人生そう長くないのだから、やりたいことをし、おいしい物を食べて、会いたい人と会って、楽しく過ごすのが幸せだ。」という教えではありません。逆にそんなことをしていても決して幸せにはなりませんという教えだと言っても過言ではないでしょう。
まず自分を深く深く見つめましょうということを大切にします。
しかし自分を見つめると言ってもその見つめ方には色々とあります。
「私は素晴らしいのだ、本当は無限の可能性を持っているのにそれに気づいていないだけなんだ。」という見方もあります。最近の歌の歌詞や詩人の詩などにはこのような考え方が多いようです。他にもコマーシャルのコピー、それから新興宗教にもそのような説き方をするところが多くあります。
悲観的になって自暴自棄に陥っている人に対してはこう説くことも一つの手段でしょう。しかし最近は余りにこの価値観を広げすぎのような気がします。「自分は本当は素晴らしいのだ」と根拠のない自身を持ち、他人を見下す若者がいたり、「自分には無限の可能性があるのに今くすぶっているのは親の育て方が悪いのだ。社会が悪いのだ。」と他人のせいにするのです。
浄土宗で言う「自分を見つめる」というのはこれとは正反対です。自分の「愚かさ」を見つめるのです。煩悩によって正しい見方ができず、正しい行いができず、悪業を重ねている自分に気づくのです。その煩悩にまみれた私は自分の力ではどうにも救われがたい身であるということをしっかりと見つめるのです。そして、阿弥陀様にすがるより外に道はないと気づき、こんな煩悩だらけの私であるけれども阿弥陀様は間違いないなくお救いくださるということをしっかりと信じるのです。
これを踏まえて文章を見て参ります。
「ただ心の善悪をも顧みず、罪の軽き重きをも沙汰せず、心に往生せんと思いて、口に南無阿弥陀仏と称えては、声につきて決定往生の思いをなすべし。」
自分自身の心の中をしっかり見つめ、善い心なのか悪い心なのかを考えると、どう考えても悪い心ばかりの私であることに気づかされます。しかしそんな私を阿弥陀様は必ず救いとってくださるのです。ですから「ただ自分の心の善悪も顧みることなく、自分の罪が軽い重いということも考えることもなく、心に往生するのだと思って口に南無阿弥陀仏と称えるならば、その一声一声によって往生すること間違いなしという思いを持つべきだ。」
往生間違いなしと強く思うことを決定心(けつじょうしん)といいます。
「その決定心によりて即ち往生の業は定まるなり。かく心得ねば往生は不定なり。往生は不定と思えばやがて不定なり。一定と思えば一定することにて候うなり。」
「その決定心によって往生は定まるのですよ。このように心得なければ往生は定まりません。往生は定まらないと思えばはっきりと定まりません。間違いないと思えば間違いないということです。」
往生はできると信じて念仏を称えればできるし、できないと思えばできないのです。よく「往生なんて死んでみないと分からないよ。極楽なんて本当にあるのかね。誰も見て帰ってきた人なんていてないよ」という人がいますが、そういう人は往生できないと法然上人はおっしゃっています。極楽は信じていない人が往くのではありません。往きたい人が往くところなのです。
「されば詮は、深く信ずる心と申し候は、南無阿弥陀仏と申せばその仏の誓いにていかなる身をも嫌わず、一定迎え給うぞと深く頼みて、いかなる咎をも顧みず疑う心の少しもなきを申し候なり。」
「だから要するに深く信じる心というのは、南無阿弥陀仏と称えれば阿弥陀仏の誓いによっていかなる愚かな身であってもお嫌いにならず、必ず迎えとって下さると深くおすがりして、いかなる自分自身の罪科をも顧みず極楽往生を疑わないのを深く信じる心というのですよ。」
自分自身がどうしようも救われがたい身であることを認識して、阿弥陀様におすがりするのです。私自身は愚かであるけれども、阿弥陀様のお力は大きいのです。どんな愚かな身でも救いとって下さるのです。
このような喩えがあります。
太平洋の真ん中で泳いでいるとします。本人は太陽が燦々と照り、美しい海で泳いでいることに満足です。「いつまでもこうやって泳いでいたいなあ」と思っています。しかし阿弥陀様から見ればこんなに危なっかしいことはありません。「アメリカや日本まで自力で泳ぎ着ける者ならいいだろう。でもそんな力がある者がどこにいるのか。いつ鮫や鱶の餌食になるかもしれない、いつ足がつっておぼれるかもしれない、そうでなくても間もなく力尽きておぼれ死ぬこと間違いないではないか」とご心配下さって、お慈悲の船で助けに来て下さっています。そしてお念仏という名の浮き輪を放って、「つかまれよ、助けてやるから!」と呼びかけ続けて下さっているのです。しかし危険に気づかず、楽しんでいると思いこんでいる者にはそんな声は聞こえません。もし聞こえても「大きなお世話だ」とばかりに無視します。このままでは手遅れになります。そんな時にもし自分が危ういことに気づいたらすぐそこに浮き輪があります。もしおぼれかかっても、すぐそこに浮き輪があります。ただつかまればよいのです。浮き輪に捕まった瞬間「助かった!」と思います。実際にはまだ船にまで引き上げられていないのに、「助かることは間違いない!」と思うことができます。これが決定心です。実際にはまだ極楽へ往生はしていません。往生するのは臨終の時です。しかしお念仏を称えていると間違いなく阿弥陀様が極楽へ往生させて下さると深く信じておれば、実際にまだ往生していなくても、往生したも同然の気持ちになるのです。浮き輪を持っていても引き上げられるまでは何があるか分かりません。大きな波が来るかもしれません。大雨が降るかもしれません。しかし、しっかりと浮き輪を掴んでいたら、絶対に助かると信じるという心が大切なのです。それは浮き輪がない時と比べたら不安の度合いが全く違うでしょう。しかしそれでも疑う人はいるものです。「このロープ切れるんじゃないか?」そう思うと浮き輪に捕まっていても不安で仕方ありません。「間違いなく引き上げてもらえるんだ」としっかり信じなくてはなりません。お念仏を称えていても色々と悩みや苦しみは日々起こります。しかし、いつか必ず憧れの極楽へ往生できるとしっかりと信じるならば、強い心を持つことができるはずです。力強く生き生きと生きることができるはずです。     (高松市浄願寺上野忠昭上人考案「浮き輪の譬喩」)
「念仏は死んでからの教えだ、生きる者には役に立たない」と言う人がいますがそれは大きな間違いです。信じる者は強いのです。

元祖大師法然上人ご法語第十章(一紙小消息)②

原文

受け難(がた)き人身(にんじん)を受けて遇い難き本願に遇いて、起こし難き道心(どうしん)を起こして、離れ難き輪廻(りんね)の里を離れて、生まれ難き浄土に往生せん事、悦びの中の悦びなり。罪は十悪五逆の者も生まると信じて小罪(しょうざい)をも犯さじと思うべし。罪人なお生まる、況(いわん)や善人をや。行(ぎょう)は一念十念なお虚しからずと信じて無間(むけん)に修(しゅ)すべし。一念なお生まる、況(いわん)や多念(たねん)をや。阿弥陀仏(あみだぶつ)は不取正覚(ふしゅしょうがく)の言(ことば)を成就(じょうじゅ)して、現に彼の国(かのくに)に在(ましま)せば、定(さだ)んで命終(みょううじゅう)の時(とき)は来迎(らいこう)し給(たま)わん。釈尊(しゃくそん)は善き哉(かな)我が教えに随(したが)いて生死(しょうじ)を離ると知見(ちけん)し給(たま)い、六方(ろっぽう)の諸仏は悦ばしき哉(かな)我が証誠(しょうじょう)を信じて不退の浄土に生まると悦び給うらんと。天に仰ぎ地に臥して悦ぶべし、このたび弥陀(みだ)の本願に遇うことを。行住坐臥(ぎょうじゅうざが)にも報(ほう)ずべし、彼(か)の仏(ほとけ)の恩徳(おんどく)を。頼みても頼むべきは乃至十念(ないしじゅうねん)の詩(ことば)。信じてもなお信ずべきは、必得(ひっとく)往生の文(もん)なり。

 

現代語訳

受け難い人間としての生を受け、遇い難い本願にめぐり合い、起こし難い覚りを求める心を起こして、離れ難い輪廻の境遇を離れ、生まれ難い浄土に往生すること、それは悦びのなかの悦びであります。
罪については「十悪・五逆の罪を犯した者でも生まれる」と信じながら、「少しの罪も犯すまい」と思いなさい。罪人でさえ生まれます。まして善人は言うまでもありません。行については「一遍や十遍の念仏でも必ず実を結ぶ」と信じながら、絶え間なく称えなさい。一度の念仏でさえ往生します。まして多く念仏する者は言うまでもありません。
阿弥陀仏は「〔四十八の本願が叶わない限りは〕正しい覚りを開くまい」という〔誓いの〕言葉を成就して、現にかの極楽国におられますので、必ず命の終わる時にはお迎えくださるでしょう。釈尊は「よいことだ。〔念仏者は〕私の教えに随って、迷いの境涯を離れる」とお見通しになり、m六方の世界におられる諸仏は「悦ばしいことだ。私たちの証言を信じて、覚りに向かって退くことのない極楽浄土に生まれる」とお悦びくださっているでしょう。
天を仰ぎ、地にひれ伏して悦びなさい、この生涯で阿弥陀仏の本願にめぐり合えたことを。立ち居起き臥しにも報いるべきです、かの阿弥陀仏の恩徳に。頼みとして上になお頼みとすべきは「最低十念する人でも〔救い取ろう〕」というお言葉であります。信じた上にもなお信じるべきは「〔念仏すれば〕必ず往生することができる」という一文であります。

 

解説

輪廻という言葉をご存知でしょうか。生まれ変わり死に変わりを繰り返すということです。ただ、日本人はこの輪廻という言葉を割と楽観的に見ているような気がします。
「生まれ変わったらまた一緒になろうね。」とか、元プロ野球の清原選手の引退試合に時に、ソフトバンクの王監督が「生まれ変わったら一緒にチームでホームラン争いをしよう。」と言っておられました。それはそれでよいのですが、本来の輪廻はそんな楽観的なものではありません。苦しみ迷いの世界を経巡り続けて苦しみ続けるのが輪廻です。
インド人はこのように考えます。「この世では死にたくないのに死ぬ、病になりたくないのに病になる、老いたくないのに老いる、愛する人と別れたくないのに別れる、輪廻したらそれをまた繰り返さなくてはならない。」というわけです。しかも人間に生まれることは殆どないのです。
輪廻とは六道輪廻とも申しますように、六つの世界を経巡り続けるのです。江原啓之さんなどが前世は武士だったなどと言っていますが、人間が輪廻してまた人間に生まれ変わるなどということは奇跡に近いことです。六道とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つです。その中でも時に恐ろしい地獄・餓鬼・畜生の三つを三途といいます。三途の川の三途です。私たちは自分の行いの善し悪しによって行く先が決まるといいます。
私たちはどこから生まれたのかというと、殆どが三途で、死んだらどこに行くのかというと、殆どが三途だといいます。つまり私たちは三途から来て三途に還っていくのです。
一度三途に墜ちますと、這い上がってくることは難しいのです。なぜなら苦しい時には善いことなどできないからです。地獄は苦しみしかない世界です。限界の苦しみを味わっている最中に善いことなどとてもできません。自分のことで精一杯です。ですから地獄での寿命が尽きてもまた地獄に生まれねばなりません。
私たちは三途から来たと申しました。それなのに人間に生まれてきたということは、前世で三途のいたであろうにその苦しみの中で相当に善いことをしたのか、もしくは誰かの心のこもった廻向を受けたのかどちらかです。
お釈迦さまは人間に生まれることを、砂に喩えられました。ガンジス川の砂を指で一掬いして、弟子の阿難尊者に「この大きなガンジス川にあるすべての砂と、私の指に乗っている砂ではどちらが多いと思うか?」と尋ねられました。阿難尊者は「もちろんガンジス川の砂の方が多いでしょう。」と答えられました。お釈迦さまは「その通りである。人間に生まれてくるというのは、ガンジス川の砂と比較してこの指に乗っている砂ほどの僅かな確率なのだよ。」と仰ったといいます。
輪廻し続けて苦しみの世界を経巡り続けてようやく人間として生まれたのです。人間に生まれてくるということは決して当たり前のことではないのです。
本文を見ていきましょう。
「受け難き人身を受けて、遇いがたき本願に遇いて、発こし難き道心を発して、離れ難き輪廻の里を離れて生まれ難き浄土に往生せんこと、悦びの中の悦びなり。」
「受け難い人の身を受けて、遇いがたい阿弥陀様の本願、お念仏のみ教えに出会って、発し難い道心を発し」道心とは極楽へ往生したいと願う心です。
「離れ難い苦しみ、迷いの輪廻の里を離れて往生し難い極楽浄土へ往生することができるのは悦びの中の悦びですよ。」ということです。
今自分が置かれている立場を理解しましたら、極楽への往生を願わなくてはならないことがお分かりいただけるのではないでしょうか。
お念仏は称えても称えなくてもどちらでもいいのではありません。称えなかったら地獄へ行くしかない私であるから称えるのです。
次に私たちはどのような者で、これから何をすればよいかということが書かれています。
「罪は十悪五逆の者も生まると信じて小罪をも犯さじと思うべし。罪人なお生まる、いわんや善人をや。」
十悪五逆は、この一紙小消息の前半にも出て参りました。私たち十悪、五逆の者も往生できるとする一方、しかし少しの罪も犯さないように注意を促すのです。どんな悪人でも往生できるからといって、どんな罪を犯しても構わないということではありません。本来犯してはならないものだけれども、私たちは悲しいことに煩悩があり、次々に罪を犯してしまうのです。したくないけど罪を犯し、知らず知らずのうちに罪を犯す私たちですが、できるだけ少しの罪も犯さないでおきたいものであります。罪人でも往生できるのであるから、善人は当然であると書かれています。
「行は一念十念なお虚しからずと信じて無間に修すべし、一念なお生る況や多念をや。」
「一遍、十遍のお念仏でも往生できると信じて絶えずお念仏を称えましょう。一遍でも往生できるのだからたくさんなら尚のことであります。」
一遍、十遍で往生できるというのは、臨終の時のことです。人によってお念仏と出会う縁に早いか遅いかがあります。たとえお念仏との出会いが遅く、臨終間際にようやく出会い、僅かな数のお念仏しか称えることができなかったとしても往生できますよ、ということです。私たちは幸いに早くにお念仏と出会ったのですから、一生涯お念仏を続けて参るのです。
次に書かれているのは、阿弥陀様とお釈迦さまと六方の諸仏のことです。
阿弥陀様はお念仏を称える者をすべて救いとって下さいます。お釈迦さまはお経を説いて下さって、その中で「遙か西の彼方に極楽浄土という世界がある。そこは素晴らしい世界で、阿弥陀仏という仏様がおられる。南無阿弥陀仏と称える者をすべて救いとってくださるのだ。」とおっしゃっています。つまり阿弥陀様は「念仏を称えて来い」とおっしゃり、お釈迦さまは「阿弥陀様を信じて念仏を称えて行け」とおっしゃっているのです。釈迦は行け、弥陀は来いであります。そして六方の諸仏は阿弥陀様の教えは間違いない、お念仏を称えよと勧めて下さっています。
「阿弥陀仏は不取正覚の言を成就して現に彼の国にましませば、定めて命終の時は来迎し給わん。釈尊は善哉、我が教えに随いて生死を離ると知見し給い、六方の諸仏は悦ばしき哉、我が証誠を信じて不退の浄土に生まると悦び給うらんと。
「阿弥陀様はすべての本願を成就するまで仏にならないとお誓いになったあと、すべて成就なさり、極楽浄土をおつくりになりました。そこに今実際にいらっしゃるのです。ですから私たちは本願にしたがってお念仏を称えれば、命が尽きたときには間違いなく阿弥陀様がお迎えくださるのです。お釈迦さまは、よろしいそれでいいのだ、私のお経にしたがってお念仏を称え、輪廻の世界から離れるのだ、と見守って下さっています。六方の仏様方は、悦ばしいことだ、私たちが阿弥陀様の教え間違いないと証誠したことを信じてお念仏を称え、迷いの世界に二度と戻ることのない極楽浄土へ往生していくのだ、と喜んで下さっていることでしょう。」
「天に仰ぎ地に臥して悦ぶべし、この度弥陀の本願に遇うことを。行住坐臥にも報ずべし、彼の仏の御徳を。」
「天にも仰ぎ、地にも伏せてこのたび阿弥陀様の本願に遇えたことを悦ぶべきですよ。いつでもどこでもどんな時でもお釈迦さまのご恩に報いてお念仏を称えましょう。」
「頼みても頼むべきは乃至十念の詞、信じてもなお信ずべきは必得往生の文なり。」
「阿弥陀様の念仏往生の願を頼りにし、善導大師の念仏を称える者は必ず往生が叶うと仰った言葉を信じるべきですよ。」
非常に尊く、大事なことばかりが書かれている、内容の濃い御法語であります。

元祖大師法然上人ご法語第十章(一紙小消息)①

(原文)

末代の衆生を往生極楽の機にあてて見るに、行少なしとても疑うべからず。一念十念に足りぬべし。罪人なりとても疑うべからず。罪根深きをも嫌わじと宣えり。時下(くだ)れりとても疑うべからず。法滅以後の衆生なおもて往生すべし。況(いわん)や近来(きんらい)をや。我が身悪(わろ)しとても疑うべからず。自身はこれ煩悩具足せる凡夫(ぼんぶ)なりと宣(のたま)えり。十方に浄土多けれど西方(さいほう)を願うは、十悪(じゅうあく)五逆(ごぎゃく)の衆生の生まるる故なり。諸仏の中に弥陀に帰(き)し奉(たてまつ)るは、三念五念に至るまで自ら来迎(らいこう)し給う故なり。諸行の中に念仏を用うるは、彼の仏の本願なる故なり。今弥陀の本願に乗じて往生しなんに、願として成(じょう)ぜずということあるべからず。本願に乗ずることは信心の深きによるべし。

 

(現代語訳)

末法の時代の衆生を、極楽に往生できるかできないかの能力に当てはめて考えるとき、行が少なくても、疑ってはなりません。一遍や十遍(の念仏)で充分なのです。(悪業を犯す)罪人であっても、疑ってはなりません。「罪深くても、分けへだてはしない」と説かれています。
時代が下ったとしても、疑ってはなりません。仏教が滅んだ後の衆生でさえ往生することができるのです。まして末法の今については言うまでもありません。自身が悪くても疑ってはなりません。「私たちは煩悩を具えた凡夫である」と説かれています。
あらゆる方角に浄土は多くありますが、西方(浄土)を願うのは、十悪・五逆の罪を犯した衆生までもが生まれるからであります。様々な仏がおられるなかで、阿弥陀仏に救いを求めるのは、三遍や五遍(しか念仏できずに死に臨む者)に至るまで、自らお迎え下さるからであります。様々な行のなかで念仏を用いるのは、かの阿弥陀仏の本願(の行)だからです。今、阿弥陀仏の本願に乗じて往生したならば、いかなる願いも成就しないはずはありません。本願に乗じることは、信心の深さによります。

(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会より)

 

(解説)

今回の御法語は「一紙小消息」と呼ばれるものです。皆さんよくご存じの一枚起請文と共に、よく読まれる御法語です。一枚起請文は浄土宗の教えの肝要を最も簡潔に説かれたもので、一紙小消息は浄土宗の教えを理論的にまとめたものと言ってよいでしょう。それだけに非常に内容が濃いのです。
一紙小消息は消息、つまりお手紙です。法然上人が黒田の上人という方に送られたものです。黒田の上人がどういう方であったかは未だにはっきりとわかっていません。しかし、相当浄土宗の教義を深く理解しておられる方に送られたものと考えられます。
それがわかるのは、この方は「自分が愚かである」ということをすでに知っておられるということです。自分が煩悩だらけで、罪を作り続けていて、このまま命尽きたら地獄に行くしかないような者であるという自覚があるのです。
現代の私たちはどうでしょうか。自分が愚かであると言っても、少し失敗して反省したり、人間関係につまずいて「私もバカだなあ」と思う程度でしょう。「あなたは愚かですから地獄に行くことになるでしょう」などと言われたら腹を立ててしまうのではないでしょうか。
浄土の教えをいただくにはまず「自分の力では救われない」といことを知ることが大切です。一紙小消息のお相手の方はすでにそのレベルの方であるということを意識していただいて、本文を読んで参りたいと思います。
最初に「末代の衆生を往生極楽の機にあててみるに」とあります。
機といいますのは、素質とか能力という意味です。機を器に置き換えた方が意味が分かりやすいかも知れません。まず「どういう素質・能力の者が極楽へ往生するのか」ということです。
「お釈迦様のおられた時からずっと下った時代に生きる人々が極楽へ往生する器であるのかどうかみてみると」ということです。
「行少なしとても疑うべからず、一念十念に足りぬべし」「たとえお念仏の数が少ないとしても往生を疑ってはなりませんよ。一遍、十遍の念仏でも往生を叶えてくださるのです」
このように言いますと、現代人は「ちょっと念仏を称えるだけでいいんだな。簡単なんだな。」と単純に思うでしょう。しかし、恐らくこの手紙のお相手の方はお念仏をもっと称えている方だと思います。「称えても称えても私如きが往生できるとは思えない」という方に「お経には数少ない念仏でも往生できると記されていますよ。」とお伝えするのです。それを聞かれた方はさぞ喜ばれたことでありましょう。
次に「罪人なりとても疑うべからず、罪根深きをも嫌わじと曰えり。」とあります。
この一文は中国の法照禅師『五会法事讃』に「破戒と罪根深きとを簡(えら)ばず」と書かれているのを前提としていますので「~と曰えり」と記されます。「法照禅師が曰えり」ということです。
ここでいう罪人とは、いわゆる法律を犯した犯罪者を指すのではありません。煩悩によって日々やりたくなくとも悪い行いを繰り返してしまうことを自覚して言うのです。自分の嫌いな相手に対して「死んでしまったらいいのに」というような思いを抱くのは殺生の罪です。殺生さえも犯しかねない私は罪人以外の何者でもないでしょう。「罪人であっても往生を疑ってはなりません。お釈迦様が説かれたお経には、どんな罪深い人も阿弥陀さまは見捨てられないのだと記されているのです」ということです。
次に「時下れりとても疑うべからず。法滅以後の衆生猶もて往生すべし、況や近来をや。」これは天災や飢饉、戦によって人々が絶望している時代の方が「お釈迦様の時代から遠く隔たった私たちは救いから漏れてしまいますね」と思っているところへ「時が隔たっていても往生を疑ってはなりません。仏教が滅びたあとの人々でさえもお念仏を称えれば往生するのですよ。ましてやまだ滅びていない時代ではないですか。」と仰るのです。
「我が身悪しとても疑うべからず。自身は煩悩具足せる凡夫なりと曰えり」「自分は煩悩を断つこともできないから往生できない」という方に、善導大師様のお言葉を引用されてお説きになります。
善導大師様は中国の唐の時代に浄土教の教えを完成された方です。お仏壇の向かって右側におられる方です。
「善導大師様でさえ、自分は煩悩だらけの凡夫であるとおっしゃっているのですよ。」と説かれるのです。その善導大師様が煩悩だらけの凡夫が救われる教えを伝えてくださっているのですから、煩悩があることは障害にならないのです。
ここまでが「どういう素質、能力の者が往生するのか」について書かれた箇所です。結論は「どんな素質、能力の者でも往生できる」ということです。
ただ誤解してはならないのは「極楽への往生を願い、阿弥陀様を信じ、南無阿弥陀仏と念仏を称える者」はどんな素質、能力の者でも往生できる、ということです。逆に言いますと、たとえどれだけ社会的地位が高かろうが、人に親切なよい人であろうが、ボランティアに尽くす人であろうが、極楽への往生を願わず、阿弥陀様を信じず、念仏を称えないならば、往生は難しいということになります。
これ以降はこの三つのキーワード、「西方極楽浄土・阿弥陀仏・念仏」について書かれています。
浄土というのは極楽だけではありません。仏様は無数におられ、その仏様お一方につき一つの浄土があります。薬師如来様の浄土は東方瑠璃光浄土といいます。お釈迦様の浄土は無勝荘厳浄土といいます。阿弥陀様の浄土を指して西方極楽浄土といいます。
芥川龍之介の『蜘蛛の糸』には「ある日の事でございます。御釈迦様(おしゃかさま)は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。」とありますが、お釈迦様が極楽の蓮池のふちを歩かれることはありません。極楽におられる仏様は阿弥陀様だけです。芥川龍之介ほどの人がなぜこのようなことを書かれたのかはわかりませんが、ありえないことです。
「十方に浄土多けれど西方を願うは十悪五逆の衆生の生まるる故なり」「あらゆるところにたくさんの浄土がある中で、なぜ西方極楽浄土を願うのかというと、十悪五逆の悪人が救われるからです」とあります。他の浄土でもいいじゃないか、なぜ極楽なのかというと十悪五逆の悪人が救われるからなのです。
十悪とは殺生、盗み、不倫、嘘をつく、悪口を言う、おべんちゃらを言う、二枚舌を使う、生きることに必要なもの以上のものを欲しがる、腹を立てる、道理に暗い行いをするというもので、代表的な地獄・餓鬼・畜生行きの行いです。
これを思うと私たちがしていることばかりです。体の行いだけでなく心の行いが重要ですから、先に申し上げた人の死を願うなどというのは殺生になるわけです。十悪のどれをとっても私たちがしている行いとして当てはまらないものは何もないのです。五逆は更に親殺しや悟った人を殺すなどの重い罪です。私たちは十悪五逆の罪人なのです。この罪人を迎えてくれる浄土は、無数にある浄土の中で極楽だけなのです。他と比べて極楽へ往こうという前に、私たちが行けるのは極楽だけです。極楽のみが広く門戸を広げてくださっているのです。
「諸仏の中に弥陀に帰し奉るは三念五念に至るまで自ら来迎したまう故なり」「たくさんおられる仏様の中で、なぜ阿弥陀様を敬うのかというと、それは三遍、五遍といった数の少ないお念仏の一声も聞き漏らさず、臨終の時には阿弥陀様自らがお越し下さり極楽へ導いてくださるからです」
更にはここにはありませんが、極楽へ往生したあとちゃんと仏になるまで責任をもってお育て下さるのです。そんな至れり尽くせりの仏様が他におられますかということです。
「諸行の中に念仏を用うるは彼の仏の本願なる故なり」「色んな修行方法がある中でなぜ念仏なのかというと、それは阿弥陀様の本願だからなんだ」
南無妙法蓮華経とお題目を称えてもいいじゃないか、般若心経を称えてもいいじゃないか、千日回峰でも座禅でも陀羅尼を称えてもいいじゃないか、なのになぜ念仏なのかというと、それは阿弥陀様が約束してくださっているからだというのです。阿弥陀様ご自身が「南無阿弥陀仏と称える者を極楽に迎えとるぞ」と言ってくださっているのです。
念仏は極楽往き専門の行です。他の修行は極楽へ往くための修行ではありません。この世で悟りを開くためのものです。私たちは自分自身を見つめて、とても修行してこの世で悟りを開くことができない自分を認め、お念仏をお称えするのです。そして阿弥陀様のお力によって極楽へ往生させていただき、そこで悟りを開くことができるまで阿弥陀様に育てていただくのです。
最終的な目的は同じですが、私たちにできる道はお念仏の道しかないと信じます。「今弥陀の本願に乗じて往生しなんに、願として乗ぜずということあるべからず」「今阿弥陀様の本願を信じて往生しようと願うならば、それが叶わないことは決してありません」
「本願に乗ずることは信心の深きによるべし」「本願に身を任せて往生するということは、阿弥陀様をお慕いする心の深さによるのです。」
以上が一紙小消息の前半です。
非常に内容が濃いことがお分かりいただけると思います。
極楽への往生を願い、阿弥陀様を信じ、南無阿弥陀仏と称える者はどんな者でも極楽へ往生することができるということを理論的に整理して説かれているのです。

元祖大師法然上人ご法語第九章

原文

念仏の行者の存じ候うべきようは、後世(ごせ)を恐れ往生を願いて念仏すれば、終わる時必ず来迎せさせ給うよしを存じて、念仏申すより外(ほか)の事候わず。三心(さんじん)と申し候うも重ねて申す時は、ただ一つの願心にて候うなり。その願う心の偽らず、飾らぬ方をば至誠心(しじょうしん)と申し候。この心の実(まこと)にて念仏すれば臨終に来迎(らいこう)すという事を一念も疑わぬ方(かた)を深心(じんしん)とは申し候。この上我が身も彼(か)の土(ど)へ生まれんと思い、行業(ぎょうごう)をも往生のためと向くるを廻向心(えこうしん)とは申し候うなり。この故に、願う心偽らずして、げに往生せんと思い候えば、自(おの)ずから三心は具足(ぐそく)する事にて候うなり。

 

現代語訳

念仏の行者が心得ておくべきことは、来世の苦しみを恐れ、往生を願い、念仏すれば、命の終わる時には必ず〔阿弥陀仏が〕お迎え下さると信じて、念仏をお称えするより他の事はありません。

〔念仏者に必要不可欠な〕三心と申しますのも、まとめて申す時は、ただ一つの〔往生を〕願う心以外にありません。その願う心に、嘘偽りがなく、取りつくろうことのない点を至誠心と申します。この心が真実であって、「念仏すれば、〔阿弥陀仏が〕臨終の時にお迎えくださる」ということを瞬時も疑わない点を深心と申します。その上に、自身は「かの浄土へ生まれよう」と願い、善行の功徳は往生のためにと振り向けるのを廻向心と申すのです。

こういうわけで、願う心に嘘偽りがなく、本当に往生したいと思えば、自然と三心は具わることになるのです。    (『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会 より引用)

 

解説

お念仏はいつでもどこでもどんな時でも称えることができます。また、誰でも称えることができるということが大きな特長でもあります。
しかし、だからといって何の信心もなしに称えればそれでいいのかというと、やはりそうではありません。信心は必要です。
この信心について、三心という言葉で説明されます。三心とは、至誠心、深心、廻向心の三つです。廻向心は、正式には廻向発願心といいますが、この御法語では略して廻向心となっています。
至誠心とは誠の心です。裏表のない信心をいいます。私はお通夜に伺った時には必ずお参りの方々に一緒にお念仏をお称えするようお勧めします。色んな宗派の方、他の宗教の信者さん、無宗教の方など様々おられるでしょうが、亡き人のために共にお念仏を称えていただくようにしています。殆どの方が心を込めてお念仏を称えてくださいます。しかし、お通夜ではお念仏をお称えしても、恐らくその場限りでしょう。それ以来お念仏を称えるようになったという方がおられたら嬉しいのですが、なかなかそうはいきません。そのような方達に至誠心があるとは言い難いですね。
あるいは七回忌の法要があったときに「お念仏を称えるのは久しぶりだなあ。三回忌以来だよ」というようなことではいけません。
信心があるフリをするのではなく、誰が見てようが見てまいが、関係なくお念仏を称えるような信心を至誠心といいます。
深心とは深く信じる心です。こんな煩悩だらけの私であるけれども、南無阿弥陀仏と称えれば必ず阿弥陀さまはお救いくださると信じるのです。救われて当たり前と信じるのではありません。本来、自分の力ではとても救われない私だけれども、阿弥陀さまの力によってはじめて救っていただけることを深く信じるのです。
次に廻向心です。廻向とは功徳を回し向けることをいいます。月参りや法事でいつも行っている廻向は、私や皆さまがお念仏を称え、阿弥陀さまから賜った功徳を私が一人で使うのではなしに、亡き人にどうぞこの功徳をお使いくださいと回し向けるのです。ここでいう廻向は、あらゆる功徳を極楽へ振り向けることをいいます。一言で言いますと、極楽へ心を傾けることを廻向心といいます。
このように三心を具えて口に南無阿弥陀仏と称えることが大切です。三心のない念仏では往生できません。このように申し上げますと、「大変なことだなあ。お念仏も難しいなあ」と思われるかも知れません。しかしよく考えますと、ごく当たり前のことしか書かれていません。
廻向心は極楽へ思いを向けると申しましたが、極楽へ往きたくない人が極楽へ往けるはずがありません。極楽へ往きたくない人を阿弥陀さまが無理矢理連れて行くのであれば、それは往生とは言わず、拉致と言わねばなりません。深心は阿弥陀さまを信じる心ですから、これもあって当然です。阿弥陀さまを信じていない人が極楽へ往けるはずがありません。至誠心にしても、その信心が嘘であったら話しになりません。三心とは難しいように聞こえますが、実は当たり前のことなのです。この三心を踏まえて本文を見て参ります。 「お念仏を称える人が知っておかなくてはならないことは、命尽きた後地獄や餓鬼道に往くのではなく極楽へ往きたいと願って念仏を称えておれば、臨終の時に阿弥陀さまが必ずお迎えくださると思って念仏称える以外に何もないのです」
極楽へ往きたいと思って阿弥陀さまを信じて念仏を称える以外に何もないということです。それがすべてなのです。
「三心というのもまとめればただ一つの心です」
分析すれば三つになるけれども、要は往生を願って阿弥陀さまを信じて念仏を称えるだけです。三心は一心なのです。大阪の一心寺の名はここからきています。三心という言葉が大事なのではありません。三心なんて知らなくても、「阿弥陀さま、往生させてくださいね」とお念仏を称える人は三心が籠もったお念仏を称えているのです。
その一つの心を分析して、「往生を願う心が嘘でなくて飾っていない、これを至誠心という。誠の心をもって念仏を称えれば、臨終の時に必ず阿弥陀さまがお越しくださるということを少しも疑わない心を深心という。さらに極楽へ往きたいと思ってあらゆる行いを往生のために振り向け廻向する心を廻向心という」ということです。
「よって、願う心が嘘でなくて、本当に往生したいと思っていれば、自然と三心は具わるのです。」ということです。
だから「とにかく称えよ」と言われます。称えている内に自然と三心は具わるというのです。
最後の「三心は具足することにて候なり。」とある、具足という言葉は、「一つも欠けずに具わる」という意味です。ですから三心は一つでも欠けると往生できません。しかし、一つだけ欠けるということは不可能です。往生したくないのに阿弥陀さまを信じているというのはおかしいですし、阿弥陀さまは信じないけれども往生はしたいというのもおかしいです。阿弥陀さまを信じて、往生もしたいけれどもその心は嘘であるということなら話になりません。やはり三心は一心です。一つ一つ順番に具わるのではありません。具わる時は一度ですし、いつの間にか具わっていることもあるでしょう。
三心ということは取り立てていう、難しいことではありませんが、私たちは無意識に身勝手な思いでお念仏を称えることがあるでしょう。「家族がみんな元気でありますように。」「孫が大学に合格しますように」「宝くじが当たりますように」そのようなお念仏も称えることがあるかも知れませんが、極楽への往生のためには何にもならないのです。どれも三心に入っていないのです。極楽へ往くためには三心が必要ですから、ときどき、「私の念仏は往生できる念仏であろうか」と見直すことも大切です。