法輪寺は総本山を知恩院とする浄土宗の寺院です。
法輪寺は昭和38年に大阪天満西寺町(現在の大阪市北区兎我野町)より武庫之荘に移転して参りました。
その後長らく仮本堂にて法務を行っていましたが、都市区画整理により立ち退きが決まり、当時の住職である先の三浦師は移転先を探すために奔走します。多くの有り難きご縁によって昭和38年2月武庫之荘4丁目への移転が決まりました。ところが現在の本堂の建築に取りかかった矢先、三浦師63歳で急逝。後任に北村弘彦師が第二十四世住職に就きました。平成24年北村隆彦が第二十五世住職に就任しました。
浄土宗の開祖は法然上人(1133-1212)です。浄土宗の教えは阿弥陀仏の本願(四十八願)を根拠に、極楽浄土を願って「南無阿弥陀仏」と称える、「口称念仏」を行うことによって必ず西方極楽浄土への往生が叶うというものです。
浄土宗には総本山知恩院の他に、増上寺(東京)・金戒光明寺(京都)・百萬遍知恩寺(京都)・光明寺(鎌倉)・善光寺(長野)・清浄華院(京都)・善導寺(久留米)の七ヶ寺を大本山とします。法輪寺は金戒光明寺と縁が深く、今も門末関係にあります。
一蓮堂(納骨堂)とは室外のお墓にかわる室内型のお墓です。今までは、お墓に納骨するまでの一時的な保管場所としての利用が、最近では恒久的に遺骨を祭祀する場所として利用されています。その背景には核家族や少子高齢化などにより、代々お墓を守っていくことが困難な状況になってきた結果です。また、お墓を建立しようとしても山手に霊園が多く、交通も不便で、費用もかなりの負担がかかります。こうしたお墓に対する様々な事情により、いま納骨堂の役割、必要性が高まってまいりました。
江戸時代中期に易学の大家であった水野南北先生(1760~1834)は、日頃から不動明王の信仰が篤かった。 南北先生の遺言にしたがい、一周忌(1835年・天保6年)に門人達が大阪天満の法輪寺に南北先生と等身大の不動明王像を造立した。 大阪天満の地より1964年、寺と共に武庫之荘へ移転。現在に至る。 不動明王は大日如来の化身であり、一切の魔、煩悩を打ち砕く為に姿を変えて忿怒の相を顕しておられる。色黒く、目を怒らし右の上唇を咬み、右手には降魔の剣を、左手には縛索を持ち、岩上に立って衆生の重障を鎮めるよう護ってくださる。右手の剣は人間の三毒煩悩(貪り・怒り・道理に暗い)の心を滅する為、また左手の縛索は下降の者を救うという御心をあらわす。 また不動明王は、法輪寺本尊阿弥陀如来を讃え、人々が南無阿弥陀仏の念仏を称えることができるように守護しておられる。不動明王は暗い煩悩の道に迷う人々を救うべく、常に見護ってくださっているのである。
資料提供 ブログ『蒼流庵随想~漢方と易学~』
http://souryuanzuisou.blog.fc2.com/blog-entry-422.html
参考文献『江戸時代の小食主義』(若井朝彦著 花伝社)