成道山 法輪寺

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御法語

元祖大師法然上人御法語第二十章

(原文)

近来(ちかごろ)の行人(ぎょうにん)、観法(かんぼう)をなすことなかれ。仏像を観(かん)ずとも、運慶(うんけい)康慶(こうけい)が造(つく)りたる仏(ほとけ)ほどだにも観(かん)じ現すべからず。極楽の荘厳(しょうごん)を観(かん)ずとも櫻梅桃李(ようばいとうり)の花果(けか)ほども観(かん)じ現(さんこと難(かた)かるべし。彼(か)の仏(ほとけ)今(いま)現に世に在(ましま)して成仏(じょうぶつ)し給(たま)えり。当(まさ)に知るべし本誓(ほんぜい)の重願(じゅうがん)虚(むな)しからざることを。衆生(しゅじょう)称念(しょうねん)すれば必ず往生を得(う)の釈を信じて、深く本願を頼みて、一向(いっこう)に名号(みょうごう)を称(とな)うべし。名号(みょうごう)を称(とな)うれば三心(さんじん)自(おの)ずから具足(ぐそく)するなり。

 

(現代語訳)

今の時代の仏道修行者は、観想(かんそう)の行法(ぎょうほう)を行ってはなりません。仏の姿を観想(かんそう)しても、運慶(うんけい)や康慶(こうけい)が造った仏像ほども、ありありと想い画くことはできません。極楽の荘厳(しょうごん)を想い画いても、(この世の)桜、梅、桃、李(すもも)の花や果実ほども、ありありと想い画くことは困難でしょう。

「かの(阿弥陀)仏はいま現在、(極楽)世界にあって、仏となっておられる。阿弥陀仏が立てられた、深重(じんじゅう)なる誓願(第十八願)が実を結んでいることを、当然わきまえるべきである。衆生が称名念仏すれば必ず往生できる」という(善導大師の)解釈を信じ、深く本願を頼みとして、ひたすらに(阿弥陀仏の)名号を称えるべきです。名号を称えれば三心が自ずと具わるのです。『法然上人のお言葉』(総本山知恩院布教師会刊)

(解説)

念仏といいますと「南無阿弥陀仏と称えること」というのが、今では当たり前ですが、実は念仏には色んな種類があります。
法然上人の時代には、声に出す「称名念仏」は主流ではありませんでした。
「念仏」は「仏を念じる」と書きますように、「心に仏を映し出す」という修行法を主に「念仏」といったのです。
「心に仏を映し出す」といいますと、何となく仏さまをイメージする程度のことかと思われるかも知れませんが、そんな簡単なことではありません。
目を開けていても閉じていても、いつでもどこでも「阿弥陀さまと会いたい」と思えば目の前にありありと阿弥陀さまが目の前に現れ、「極楽を観たい」と思えばいつでも目の前に極楽の情景を観ることができるというものです。
これを観法(かんぼう)とか、観相(かんそう)念仏とか、観念(かんねん)の念と申します。
口で言うのは簡単ですが、非常に高度な修行です。
それにそれが出来たらもう修行が完成して、悟りに至ることができるのかというとそうではありません。
まだ修行の過程なのです。
恐らく今現在この観法(がんぼう)ができる人はいないでしょう。
法然上人の時代にも殆どいませんでした。
法然上人は観法をしたいと思ってされたわけではありませんが、晩年称名念仏をしている内にできるようになられました。
しかし法然上人の時代であってもごく一部の修行者にしかできませんでした。
もちろんお釈迦さまの時代には多くの修行者ができました。
時代を経るに従って、どんどん人々の宗教的な能力が衰えてきて、できなくなってきました。
それにも関わらず修行者は、みんな観法をしようとします。
法然上人も比叡山に於いて観法の修行を続けられました。
修行者達はできもしない観法をずっと続け、亡くなっていきます。
悟りに至ることなしに、修行半ばで命が尽きると元の木阿弥です。
8割できたから死んだら続きをするわけにはいきません。
死ねばまた輪廻して、どこかに生まれ変わって仏教と出会うことができるかさえもわかりません。
法然上人は、「多くの修行者達は一生懸命修行をしている。けれども悟りどころか観法もできないじゃないか。私もできずに死んでいくのか…」と悩まれました。
そして苦しみ続け、称名念仏の道と出会われたのです。
観法をする修行は自力の修行です。
自分が悟りに向かって上がっていく方法です。
修行をして自分を高めていくのです。
方や称名念仏は自分が上がっていく教えではありません。
自分はそのまま、低いままです。
「自分の力では到底救われない。いや、このままでは地獄に行くしかない」という自分の器に気づき、阿弥陀さまにすがって「南無阿弥陀仏」と称えたならば、自分が上がるのではなく、阿弥陀さまが私たちの処に降りてきて、寄り添って下さり救って下さるのです。自分が上がるのではなく阿弥陀さまがすくい上げて下さるのです。
この阿弥陀さまの力を他力といいます。
お釈迦さまは末世(まっせ)の凡夫(ぼんぶ)のためにお念仏をお説き下さいました。
末世の凡夫は観法ではなく称名念仏をせよと。
観法をする力がないのにいつまでも観法をしていたら、どれだけ時間が経っても悟りの世界からはほど遠いということになります。
その辺りをふまえていただき、本文をご覧いただきたいと思います。
「近来の行人、観法をなすことなかれ。」「今の修行者は観法をすることはないですよ。」ということです。
末世の凡夫には観法ではないのです。
「仏像を観ずとも、運慶、康慶が造りたる仏ほどだにも観じあらわすべからず。」
観法の修行段階で、いきなり仏さまを観ようとしても絶対観ることはできませんので、まず仏像を観て、それを心に映し出そうとするのです。しかし、私たちの能力からいくと、仏像を観ても所詮仏像を超えることはできません。ましてや運慶や康慶といった鎌倉時代の超一流仏師が造る仏像を超えるほどの力は決してないということです。
「極楽の荘厳を観ずとも、桜梅桃李の花果ほども観じあらわさんこと難かるべし。」
「極楽の様子を観ようとしても所詮桜や梅、桃、すももなどの美しさを超えることはできません。」
極楽の美しさはこの世の美しさとは比べものにならないほど美しいはずです。
それなのにこの世の桜や梅、桃、すももの美しささえも超えることができないほどの力しかないではないか、ということです。
その私たちのために阿弥陀さまはおられます。
「彼の仏今現にましまして成仏したまえり。正に知るべし。本誓の重願虚しからざることを。衆生称念すれば必ず往生を得の釈を信じて、深く本願を頼みて一向に名号を称うべし」
阿弥陀さまは今現在極楽浄土におられて仏となっておられます。
決して昔の話ではないんです。
今現在、今こうしている間も阿弥陀さまは「我が名を呼ぶ者を救うぞ。頼む、称えてくれ。」と願って下さっています。
決して阿弥陀さまの本願は虚しいものではない、「救うことができなかったら仏にならないと誓われたのにちゃんと仏になっておられるのだから。人々が称名念仏を称えれば必ず往生できるという言葉を信じて、深く本願を頼りに一筋に南無阿弥陀仏と称えよ」ということです。
「名号を称うれば三心自ずから具足するなり。」
「南無阿弥陀仏と称えれば心も自然とついてきますよ」ということです。
「お念仏と言いますが、中々難しいですわ」とよくおっしゃいますが、本来の修行、観法と比べたらそんなことは言えないでしょう。
「私救われたいんです。」という人に「そうですか。では観法をしましょう」と言われたらもう救われることを諦めざるを得ません。
法然上人の時代はそうだったのです。
だから称名念仏の教えがすぐに広まったのです。
救われないと諦めている人のところに阿弥陀さまがそっと寄り添って下さって、「そうかそうか、救われたいか。ならば私の名前をお呼び。救ってやるから」と言って下さっているのです。
救いを諦めている人からすると、「そんな簡単に救われるんですか!」という思いでしょう。
お念仏が簡単か難しいかは「救われたいかどうか」にかかっているのです。

元祖大師法然上人御法語第十九章

(原文)

他力本願に乗(じょう)ずるに二つあり、乗(じょう)ぜざるに二つあり。乗(じょう)ぜざるに二つというは、一つには罪を作るとき乗(じょう)ぜず。その故は、かくの如く罪を作れば念仏申すとも往生不定(ふじょう)なりと思うときに乗(じょう)ぜず。二つには道心(どうしん)の起こるとき乗(じょう)ぜず。その故は、同じく念仏申すとも、かくの如く道心(どうしん)ありて申さんずる念仏にてこそ往生はせんずれ。無道心(むどうしん)にては念仏すとも叶うべからずと、道心(どうしん)を先(さき)として本願を次に思うとき乗(じょう)ぜざるなり。次に本願に乗(じょう)ずるに二つの様(よう)というは、一つには罪作るとき乗(じょう)ずるなり。その故はかくの如く罪を作れば、決定(けつじょう)して地獄に堕(お)つべし。然(しか)るに本願の名号(みょうごう)を称(とな)うれば、決定(けつじょう)往生せんことの嬉しさよと喜ぶときに乗(じょう)ずるなり。二つには道心(どうしん)起こるとき乗(じょう)ずるなり。その故は、この道心(どうしん)にて往生すべからず。これ程の道心(どうしん)は無始(むし)よりこのかた起これども、未(いま)だ生死(しょうじ)を離れず。故に道心(どうしん)の有無を論ぜず、造罪(ぞうざい)の軽重(きょうじゅう)を言わず、ただ本願の称名(しょうみょう)を念々相続(ねんねんそうぞく)せん力に依りてぞ往生は遂(と)ぐべきと思うときに、他力本願に乗(じょう)ずるなり。

 

(現代語訳)

(阿弥陀仏の)他力本願に乗じる場合に二つあり、乗じない場合に二つがあります。

「乗じない場合に二つ」とは、第一に、罪を犯す時に乗じません。そのわけは、「このように罪を犯せば、念仏を称えても往生は確かでない」と思う時には乗じないからです。

第二に、菩提心が起こる時に乗じません。そのわけは、「同じように念仏を称えても、このように菩提心があって称える念仏によってこそ、往生できるであろう。菩提心がなくては念仏しても叶うはずがない」と(自らの)菩提心を優先させ、(仏の)本願を二の次に思う時には乗じないからです。

次に、本願に乗じる場合の二つのありようとは、第一に、罪を犯す時に乗じます。

そのわけは、「このように罪を犯せば、必ず地獄に堕ちるだろう。けれども、本願の名号を称えれば、必ず往生できるとは何と喜ばしいことか」と喜ぶ時には乗じるからです。

第二に、菩提心が起こる時に乗じるのです。そのわけは、「この菩提心によっては往生できない。この程度の菩提心は、遠い過去から今まで(何度も)起こしてきたが、いまだ私は迷いの境涯を離れてはいない。だから菩提心の有無に関わらず、犯した罪の軽さ重さを問わず、ただ本願の称名念仏を絶え間なく続ける力によってこそ、往生は遂げることができる」と思う時には他力本願に乗じるからです。

『法然上人のお言葉』(総本山知恩院布教師会刊)

 

 

仏教には「自力の仏教」と「他力の仏教」があります。
自力の仏教とは「修行や難しい学問をして、自分自身を高めて最終的に覚りを得よう」という教えです。
つまり「自分の力で覚りを開こう」という教えです。
その「自分の力」を「自力」といいます。

片や「他力の仏教」とは、どういうものか。
難しい修行や学問などできないどころか日々煩悩により悪い行いばかりを繰り返して、到底覚りなど覚束ないと自覚した者を、阿弥陀仏という仏さまが見るに見かねて、「私の名前を呼ぶ者を救ってやろう」と言って下さいました。
それを信じて南無阿弥陀仏と称えるならば、阿弥陀さまの力によって初めて極楽浄土へ救いとって頂けるという教えです。
その「阿弥陀さまの力」を「他力」といいます。

このように申しますと、それなりに「そういうものか」とご理解いただけると思うのですが、完全に「他力」というものをご理解いただくことはとても難しいのです。
分かったようでわからないのが「他力」ではないでしょうか。

なぜわかりにくいのかと言いますと、「自分の力も認めたい」という心が誰しもあるからです。
「阿弥陀さまの力によって救われる」と言いながら、「しかし私の力だって少しは役に立っている」と思いたいのですね。

ここに二人の信仰者がいるとしましょう。
一人は家でお念仏を称えています。
そしてもう一人は西国霊場をすべて回ってお念仏を称えているとします。

西国霊場を回ってお念仏を称える人は、「私は家でお念仏を称えている人よりも少しレベルが高い」と思ったりします。
西国霊場を回っても極楽浄土へ往生できないのに、南無阿弥陀仏と称える者を救うと言って下さっているのに、私の努力で少しは近づいたような気になるものです。
それでは他力を理解したとは言い難いですね。
私達は自分の力では往生できません。
往生するのに自分の力は少しも役に立ちません。
阿弥陀さまの力によって初めて往生できるのです。

もちろん霊場巡りをすることが悪いはずはありません。

仏菩薩に対する敬いの心は、とても尊いことです。

ただ、その「私の努力」によって極楽へ往生するのだ、という心は慢心です。

尊いことをする時も注意しないと、ついつい強い「我」が出てくるものです。

また、自分は罪深いのだと思うが余り「南無阿弥陀仏で往生できるはずはない。そんな簡単に救われるはずがない」と阿弥陀さまを信じることができない人も往生できません。

先の「自力」を頼る人、後の自分を卑下して阿弥陀さまの救いの力を疑う人は共に往生できません。
しかしこういう人が多い。
そこで今日の御法語があるのです。

少しややこしい御法語で、何気なく読むと「さっきこうかいてあったのに次は逆のことが書いてある」と思うかもしれません。
ですから少し丁寧にお読み下さい。

「他力本願に乗ずるに二つあり、乗ぜざるに二つあり」
「阿弥陀さまの本願の力で往生できるのに二つのパターンがある。
また往生できないのに二つのパターンがある。」
「乗ぜざるに二つというは、一つには罪を造るとき乗ぜず。」
「往生できない二つのパターンの内、一つは罪を造ると往生できません。」

罪を造る人は往生できないといいます。
しかし念仏の教えは罪を造る者でも往生させていただけるという教えですよね。
「どうしてだろう?」と思いつつ読み進めることにします。

「その故は、かくの如く罪を造れば、念仏申すとも往生不定なりと思う時に乗ぜず」
「なぜならば、このように罪を造っていたら念仏を称えていても往生なんてできないと思ってしまう場合には往生できません」

先ほど申し上げたことですね。
自分が罪深いと思うが余りに阿弥陀さまの力さえも疑ってしまうようではダメです。

「二つには道心の起こる時乗ぜず。」
「二つ目は道心が起こる場合は往生できません。」

道心というのは「必ず覚りを開くぞ」という強い心です。
ですから決して悪い心ではありません。
むしろ善い心です。
しかし道心がある人はダメだというのです。
なぜか?と思いつつ読み進めていきます。

「その故は、同じく念仏申すとも、かくのごとく道心ありて申さんずる念仏にてこそ、往生はせんずれ。無道心にては念仏すつも叶うべからずと、道心を先として、本願を次に思う時乗ぜざるなり」
「なぜならば、同じように念仏を申していても、私のように道心があって申す念仏によってこそ、往生できるのだ。道心がなければ念仏していても往生なんてできっこないと、道心を優先して阿弥陀さまの本願を次に思ってしまうようでは往生できません」ということです。

先に申し上げた西国霊場を巡る人がこのパターンですね。
自分が「悟るぞ」という強い心を持っているからこそ往生できるのだと、自力を頼ってしまうのです。
阿弥陀さまの力よりも自分の力を頼る、あるいは阿弥陀さまの力で救われるのだけれども、自分の力も加わってこそ往生は叶うというように他力を信じ切れないのではダメです。

「次に、本願に乗ずるに二つの様というは、一つには罪造る時乗ずるなり。」
「次に阿弥陀さまの本願によって往生できるのに二つのパターンがあるという内の一つは、罪を造る場合は往生できます」

前半では罪を造る人は、自分の罪深さを自覚する余り、阿弥陀さまでも私など救うことはできないと阿弥陀さまの力を疑うからダメだと書かれていました。
しかし今度は罪を造る人が往生できるとあります。恐る恐る読み進めて参ります。

「その故は、かくの如く罪を造れば、決定して地獄に堕つべし。しかるに、本願の名号を称うれば、決定往生せんことの嬉しさよと喜ぶ時に乗ずるなり」
「なぜならば、このように罪を造っていたら、間違いなく地獄に堕ちるであろう。しかしながら、阿弥陀さまの本願である南無阿弥陀仏のお名号を称えていたら、間違いなく往生できるということが嬉しいなあ、と喜ぶ場合は往生できます。」ということです。

日々罪を造る私達は、そのままでは到底極楽往生など覚束ない者です。
地獄行き間違いないなのです。
しかし、そんな私が南無阿弥陀仏と称えて阿弥陀さまにすがれば間違いなく往生できるのです。
自力では100%往生できない者が他力によって100%往生させていただけるのですから、こんな有り難いことはありません。
それをしっかりと分かって念仏を称える者は大丈夫ですよということですね。

「二つには道心起こる時乗ずるなり」
「二つ目は道心が起こる場合は往生できます」

先ほどは道心が起こる人は自力に頼って他力を侮るから往生できないとされたのが、今度は往生できるとあります。「おや?」と思いつつ読んでいきます。

「その故は、この道心にて往生すべからず。これ程の道心は無始よりこのかた起これども、未だ生死を離れず。故に、道心の有無を論ぜず、造罪の軽重を言わず、ただ本願の称名を念々相続せん力に依りてぞ、往生は遂ぐべきと思う時に、他力本願に乗ずるなり」
「なぜならば、この道心で往生するのではない。この程度の道心は過去に輪廻を繰り返す内に起こったこともあるであろうが、未だに輪廻しているではないか。だから道心の有無は関係ないのだ、罪の軽い重いも関係ないのだ、ただ阿弥陀さまの本願である称名念仏をずっと続けていくことによってのみ、往生できるのだと思う場合に阿弥陀さまの本願によって往生できるのだ」

無始というのは、始まりのない昔という意味で、前世、前前世、ずーと昔ということです。この程度の道心は何度も輪廻を繰り返す中で起こしたこともあるだろう。
でもまだ人間として輪廻の輪の中で苦しんでいるじゃないか。
そんな私が起こす程度の道心なんて何の足しにもならないではないか、という自覚をした上で、阿弥陀さまにすがるしかないと気づいた人は往生できるのです。

阿弥陀さまは、「わが名を呼ぶ者を救う」と言って下さっています。
ただそれだけです。
なのにこちら側が勝手に「私の罪ではダメだ」とか、「あの人と比べたら私の方が頑張ってる」と他人と比較して上だとか下だとか言っているのです。
阿弥陀さまからご覧になれば、ドングリの背比べです。
何の違いもないのです。
「ただすがれよ」と言って下さっている、それを素直に信じていくのです。

このことを私はいつも大きな川を渡るという比喩を以て説明します。
大きな川があるとします。その川は濁流です。
こちらの岸は食べる物もないし、そのことで争いが絶えない世界です。
でも向こう岸は楽園です。向こうに渡れば助かるのです。
自力の人は体を鍛えて向こう岸に渡ろうとします。
でも実際に渡れる人は殆どいません。途中で溺れてしまいます。
私達はどうかといいますと、背中に籠を背負わされ、次々に重い石が積まれています。
背中にたくさんの石を抱えたままでは泳ぐどころか水に入ったらたちまちに沈んでしまいます。
途方に暮れていると、阿弥陀さまが見るに見かねて大きな舟を用意して下さいました。
どんな大きな石を背負っていようと、どんなに重い石を抱えていようとも阿弥陀さまの舟に乗れば必ず向こう岸に渡していただけます。
阿弥陀さまは「早く乗れよ。必ず向こうに渡してやるから。」と呼びかけて下さいます。その声に応えて阿弥陀さまの舟に素直に乗れば必ずや向こう岸へ渡り、幸せに過ごすことができるのです。
しかしある人は、「私はみんなよりたくさんの重い石を背負っているから、阿弥陀さまの舟に乗ったらきっと舟が沈んでしまう」と言って阿弥陀さまの舟に乗ろうとしません。
阿弥陀さまも舟に乗らない人は向こう岸へ渡すことはできません。
これはまるで「私のような罪深い者は絶対に救われない」と言ってお念仏を称えない人のようではありませんか。
せっかく阿弥陀さまが必ず救うと言って下さっているのにこちら側がその声を信じることができないのであればどうしようもありません。
またある人は、背中に積もった石を一つずつ放って籠を軽くしようとしています。
でも放った先からまた石は積まれていきます。
ところが本人は石がどんどん積まれていることに気づいていません。
阿弥陀さまは「お前も重い石を背負っているな。この舟に乗らないと自分で泳いだら沈んでしまうぞ」と言って下さっています。
でもこの人はそんな声に耳を傾けず、「大丈夫大丈夫。私は何も背負っていないし体をいつも鍛えている。だから泳いで向こうへ渡れるさ」と言います。
しかし実際には重い石を背負っているのですぐに溺れてしまいます。
これはまるで西国霊場を巡って自分が偉くなったような気がしている人のようではありませんか。
阿弥陀さまはただ「わが名を呼ぶ者を救う」とおっしゃっているのですから、それを信じて称えるのみです。
こちら側の浅はかな計らいで、罪が軽いとか深いとか、道心があるとかないとかを無駄に悩んで阿弥陀さまを信じることができないようでは話になりません。
私達は自分の力では決して救われることはないですが、阿弥陀さまの力、即ち他力によってのみ救われるのだということにしっかりと思いを定めねばなりません。

元祖大師法然上人御法語第十八章

(原文)

現世(げんぜ)を過(す)ぐべきようは、念仏の申されん方(かた)によりて過(す)ぐべし。念仏の障(さわ)りになりぬべからんことをば厭(いと)い捨(す)つべし。一所(いっしょ)にて申(もう)されずば修行(しゅぎょう)して申すべし。修行(しゅぎょう)して申されずば一所(いっしょ)に住(じゅう)して申すべし。聖(ひじり)て申されずば在家(ぜいけ)になりて申すべし。在家(ざいけ)にて申されずば遁世(とんせ)して申すべし。一人籠(こ)もり居て申されずば同行(どうぎょう)と共行(ぐうぎょう)して申すべし。共行(ぐうぎょう)して申されずば一人籠(こ)もり居て申すべし。衣食(えじき)かなわずして申されずば他人に助けられて申すべし。他人の助けにて申されずば自力にて申すべし。妻子も従類(じゅうるい)も自身助けられて念仏申さんためなり。念仏の障(さわ)りになるべくば、ゆめゆめ持つべからず。所知所領(しょちしょりょう)も念仏の助業(じょごう)ならば大切なり。妨げにならば持つべからず。総じてこれを言わば、自身安穏(あんのん)にして念仏往生を遂(と)げんがためには、何事も皆念仏の助業(じょごう)なり。三途(さんず)に還(かえ)るべきことをする身をだにも捨(す)て難(がた)ければ、顧(かえり)み育(はぐく)むぞかし。まして往生すべき念仏申さん身をば、いかにも育みもてなすべし。念仏の助業(じょごう)ならずして、今生(こんじょう)のために身を貪求(とんぐ)するは、三悪道(さんなくどう)の業(ごう)となる。往生極楽のために身を貪求(とんぐ)するは、往生の助業(じょごう)となるなり。

 

(現代語訳)

この世の過ごし方は、念仏を称えやすいようにして過ごすべきです。念仏の妨げになることは厭い捨てるべきです。
同じ場所に留まって称えることができなければ、行脚して称えなさい。行脚して称えることができなければ、同じ場所に留まって称えなさい。出家して称えることができなければ、在家者となって称えなさい。在家者として称えることができなければ、出家して称えなさい。
一人こもって称えることができなければ、仲間と共に称えなさい。(仲間と)共に称えることができなければ、仲間と共に称えなさい。(仲間と)共に称えることができなければ、一人こもって称えなさい。生計が立たないために称えることができなければ、他人に支えられて称えなさい。他人に支えられて称えることができなければ、自活して称えなさい。
妻子も一族や家来も、自分が支えられて念仏を称えるためです。念仏の障害になるならば、決して持つべきではありません。領地も、念仏の助けとなるならば大切です。妨げになるならば、持つべきではありません。
これをまとめて言うならば、自身が平穏無事で、念仏による往生を遂げるためには、何事もすべて念仏の助けであります。
たとえ三悪道に舞い戻らねばならない悪業を犯す身であっても、捨てがたいので、心にかけて、守り養うのです。ましてや、往生が叶う念仏を称える身なのですから、ぜひとも守り養い、大切にすべきであります。
念仏の助けとすることなく、この世を楽しむために我が身を愛することは、三悪道へ墜ちる行為となります。極楽往生のために自身を愛することは、往生の助けとなるのです。

 

(解説)

法然上人にはたくさんのお弟子さんがおられましたが、
その中に禅勝房(ぜんしょうぼう)という方がおられました。

禅勝房様は元々天台宗のお坊さんで、
ながらく学問や仏道修行を積んでこられました。
しかし学問をすればするほどに、
修行をすればするほどにご自身の器が
「とても天台の教えについていけない」
と考えるようになられました。

そこで禅勝房様は今まで積んできた学問も修行も
すべて捨てて法然上人のお念仏の教えに入られました。

法然上人のお念仏の教えは
「自分自身の器をしっかり見つめ、
難しい修行や学問で救われない自分であると正面から見つめて、
自分の力ではなく阿弥陀様の力で救われていく」
という教えです。

法然上人の門下に入ってからの禅勝房様は、
ひたすらお念仏一行に打ち込まれました。
門下の中でも特に
「信心の堅い禅勝房」
と言われるようにまでなりました。

この禅勝房様が法然上人に色々と質問をされ、
法然上人が丁寧にお答えになるという問答が今に伝えられています。
このご法語はその一つです。
このご法語は法然上人がお答えになった部分のみですが、
禅勝房様のご質問は次のようなものです。

「南無阿弥陀仏と称えれば極楽浄土へ往生できるということはよくわかりました。
その上で私達は臨終の時まではどのように過ごせばよろしいでしょうか?」
それに対するお答えが本文です。

「現世を過ぐべきようは念仏の申されん方によりて過ぐべし。
念仏の障りにならんことをば厭い捨つべし」

「この世を過ごすには念仏を申しやすいようにして過ごしなさい。
念仏の邪魔になることを止めてしまいなさい」
ということです。

これは一見なんでもないようですが、
真剣に考えると非常に厳しいお言葉です。
私達は「念仏を申しやすいように」と思ってしていることが
どれほどあるでしょうか?
お仏壇をお祀りすることと、お墓参りをすること、
お寺の法要にお参りなさることぐらいではないでしょうか。

逆に「これを止めればもう少しお念仏を称えることができる」
ということはたくさんあるのではないでしょうか。
ですから、このお言葉を真剣に受け止めると
私達の生活自体を見直さなくてはならないということになります。

これは禅勝房という信心が堅いことで名高いお弟子に対して
おっしゃったお言葉ですので、特に厳しいのでしょう。
これを私達がどのように受け止めていくかを考えねばなりません。

「一所にて申されずば修行して申すべし。修行して申されずば一所に住して申すべし」

「一カ所に定住してお念仏を申すことができなければ、あちこちを旅してお念仏を申しなさい」

昔の坊さんは定住する人と旅する人がおりました。
どちらがよいというわけではないけれども、
お念仏を申しやすいかどうかという価値観で選びなさいということです。

「聖て申されずば在家になりて申すべし。在家にて申されずば遁世して申すべし。」

「坊さんになっているのにお念仏を申すことができないならば、坊さんを辞めて在家になって申しなさい。
在家であって申すことができないならば、坊さんになって申しなさい」

必ずしも坊さんになった方がお念仏を申しやすいとは限らないのです。
在家であった方が申しやすかったらそうすればいいということです。

「一人籠もり居て申されずば同行と共行して申すべし。共行して申されずば一人籠もり居て申すべし。」
「一人っきりで念仏を申すことができないならば、仲間と集まって申しなさい。
仲間と集まって申すことができないならば、一人で申しなさい。」

法輪寺では年に二度念仏会を行っています。
大抵の人にとっては一人でお念仏を申すよりも仲間と集まって申す方がやりやすいと思います。
念仏会はそのために行っています。

しかし特にお念仏を申し慣れている方の中には、一人で申す方がよいという方もおられます。
他人と一緒だと気が散る、他人のペースに惑わされるとやりにくいという方も少なからずおられます。
そういう方は一人で申せばいいのです。
一人でも仲間と一緒でも「お念仏を申しやすい方」を選びなさいということです。

「衣食かなわずして申されずば他人に助けられて申すべし。他人に助けられて申されずば自力にて申すべし。」

「生計が立てられないからお念仏どころではないと言うならば、他人に生活の援助をしてもらって申しなさい。
他人の援助を受けていると気が引けて申しにくいというのであれば、自分の力で生計を立てて申しなさい。」

「念仏念仏と言うけれど、生活もできないのに念仏どころではない!」という人がいても、「それなら人に援助してもらってでも念仏はできるぞ」ということです。

念仏はどんな場合でもできるのです。
極楽へ往生するということの大切さをしっかりと認識できれば、この世を生きるよりも大切なことだということが理解できるでしょう。
しかし厳しいですね。
次は益々厳しいです。

「妻子も従類も自身助けられて念仏申さんためなり。念仏の障りになるべくばゆめゆめ持つべからず」

「妻子も親戚も自分自身がそういう方々に助けられて念仏申してこそありがたいのですよ。もし念仏の邪魔になるのでしたら必要ないのです」

非常に厳しいですね。
結婚さえもお念仏を申しやすいかどうかという基準で決めなさいということです。
私は結婚前からこのご法語を知っていましたので、少なからず考えました。
普通に考えると結婚すると自分の時間は少なくなりますので、念仏も減ってしまうのではないかと思いました。
でも縁が深かったので結婚しました。
結婚したからにはお念仏が減ったというわけにはいきませんので、益々称えるようになりました。
結果的に私にとっては結婚した方がお念仏を申しやすかったということになります。

「総じてこれを言わば自身安穏にして念仏往生を遂げんがためには、何事もみな念仏の助業なり」

「まとめてこれを言うならば、自分自身が安らかに念仏を申して往生を遂げるためにはすべてをお念仏の助けとすべきですよ」

助業とはお念仏を申しやすいようにする行いをいいます。
例えばお経を読むこともそれだけでは大した功徳はありませんが、
お経の中にお念仏を称えれば必ず往生できるということが
しっかりと記されていますので、お経を読むとお念仏を称えやすくなります。

また、お供え物などもただ黙って供えるだけでは功徳はありません。
「阿弥陀様、ご先祖様どうぞ」という思いでお供えし、「いつか極楽へ往生したいものだ」と思いを馳せてお念仏を称えてこそ大切なこととなるのです。

私は歩いているときにも歩くリズムでお念仏を称えています。
ということは私にとりましては歩くことがお念仏の助けとなるのです。
お檀家さんの中にお念仏を称えつつ洗い物をしていますという方もおられます。
その方にとりましては洗い物がお念仏の助けとなります。
お念仏を称えつつお風呂に入るという方にとりましては
お風呂に入ることがお念仏の助けとなるのです。

「三途に還るべきことをする身をだにも捨て難ければ顧みはぐくむぞかし。
まして往生すべき念仏申さん身をば、いかにもはぐくみもてなすべし」

三途とは地獄、餓鬼、畜生の三つを言います。
三途の川と言いますが、あれは地獄、餓鬼、畜生行きの川です。

お葬式に行きますと、葬儀屋さんのアナウンスで「享年○才をもちまして極楽浄土へとお還りになりました」というのをお聞きになったことがあるかも知れません。

しかしこれは言葉としてはおかしいのです。
なぜなら、私達は極楽から来たわけではありません。
極楽から来て極楽へ還るのであれば、お念仏など必要ないではありませんか。

「お念仏がなければ極楽へなど到底行くことができない私」であるということを忘れてはなりません。
お念仏を称えて、「このたび初めてようやく極楽へ往生するチャンスを得た」私達です。

「極楽へ還るどころか三途に還るしかないようなことばかりしかしていないではないか」という法然上人のご指摘です。

「三途に還るようなことばかりをしているこんな我が身でも決して要らないわけではなく、捨てがたいものだから大事にするであろう。
ましてやこれから往生しようとお念仏を称える身であるならば、益々大事にしなさいよ」ということです。

「念仏の助業ならずして今生のために身を貪求するは三悪道の業となる。
往生極楽のために自身を貪求するは往生の助業となるなり」

「念仏の助けにもならないのにこの世を生きるためだけに自分自身を大事にするのは所詮地獄、餓鬼、畜生行きの行いを重ねているだけですよ。
でも往生極楽のために自分自身を大切にするのは往生の助けとなるのですよ。」
という内容です。

これは禅勝房様に宛てられたもので、非常に厳しいことが書かれています。
だからと言って、「こりゃ無理だ」と言ってしまうのは少し違うような気がします。

「これほどに法然上人が重ねて勧めて下さっているのに、自分はできていないなあ」ということをやはり自覚すべきだと思います。
これは私にとっては座右の言葉というべきで、
いつもこのご法語を思い出して、
「お念仏中心の生活になっていないなあ」と反省しています。
どうかみなさんも進むべき方向を示唆して下さっていると
ご理解いただきたいと思います。

実際に法然上人から直接お言葉を授かった禅勝房様は、
これを真摯に受け止めて
「自分にとっては坊さんを辞めた方がお念仏が称え易いと考えられ、
故郷の静岡に帰って大工をしながらお念仏を称えておられました。
法然上人の滅後15年ほど経った時に、法然上人の有力なお弟子の一人、
隆寛律師という方がご自身のお弟子を連れて、
静岡辺りを通られました。
そこで「この辺りに禅勝房様がおられるはずだ。
久しぶりにお会いして法然上人の思い出話などもしたいものだ。」
と思われ、訪ねて行かれました。

「この辺りに法然上人のお弟子で禅勝房という方がおられるはずなのですが…」とあちこちで尋ねても「そんな人は知らんなあ」というご返事です。
おかしいと思っていると、
「そんな偉い人は知らないが、大工の禅勝という取るに足りない者ならいるぞ。」と言うことを聞きます。
隆寛律師は念のためにその大工の禅勝さんへ手紙を書かれます。
それをご覧になった禅勝房様は喜んで隆寛律師の元へ飛んできました。
お二人は懐かしい法然上人の思い出話を堪能されました。

周りの人たちは今まで半ば馬鹿にしていた禅勝房様が
法然上人のお弟子であったことを知って驚きます。

隆寛律師は「禅勝房さん、あなたはお念仏が申しやすくなるように、坊さんを辞めて大工さんになられたのでしょう。
でも法然上人はおっしゃっていましたよ。
禅勝房さんは人々に教えを広めるべき人だと」
隆寛律師に説得され、禅勝房様は再び僧侶となられました。

隆寛律師のお弟子は別れ際に、
「禅勝房様、私にもお言葉を頂戴しとうございます。」と頼みました。
禅勝房様はしばらくお考えになり、
「お念仏が癖づくように工夫することが大切ですよ。」
とおっしゃったといいます。
正にこのご法語の内容ですね。

お念仏は「南無阿弥陀仏」と称えるだけですから、
やる気さえあれば誰でもできます。
でも続けることは非常に難しいのです。
ですから色々と工夫して癖づけるのです。
癖づけば何ということもなく称えることができるでしょう。
有り難いお示しです。

元祖大師法然上人ご法語第十七章

(原文)

念仏を申し候(そうろう)ことはようようの義(ぎ)候(そうら)えども、ただ六字(ろくじ)を称(とな)うる中(うち)に、一切の行(ぎょう)は収まり候(そうろう)なり。心には本願(ほんがん)を頼み、口には名号(みょうごう)を称(とな)え、手には念珠(ねんじゅ)をとるばかりなり。常に心を掛くるが極めたる決定(けつじょう)往生の業(ごう)にて候(そうろう)なり。念仏の行(ぎょう)は、元より行住坐臥(ぎょうじゅうざが)時処諸縁(じしょしょえん)を嫌わず、身口(しんく)の不浄を嫌わぬ行(ぎょう)にて易行(いぎょう)往生と申し候(そうろう)なり。ただし、心を清くして申すを第一の行(ぎょう)と申し候(そうろう)なり。人をも左様(さよう)にお勧め候(そうろう)べし。ゆめゆめこの御心(みこころ)はいよいよ強くならせ給い候(そうろう)べし。

 

(現代語訳)

念仏を称えることには、様々な意味がありますが、ただ(南無阿弥陀仏の)六字を称える中に、一切の行がおさまっています。心には本願を頼みとして、口には名号を称え、手には数珠を繰るだけです。常に(そのように)心がけることが、必ず極楽往生の叶う、この上ない行であります。
念仏の行は、言うまでもなく、立ち居起き臥しや、時、所、状況を選ばず、身と口との不浄を問わない行であって、(それによるのを)易しい行による往生と申すのです。
ただし、心を浄くして称える念仏を、最上の行と申します。他の人にも、そのようにお勧め下さい。つとめてこの御心を、よりいっそう強くなさって下さいますように。

(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会)

 

(解説)

法然上人のお弟子、信者の層の幅は多岐にわたります。

天皇や貴族から何と泥棒までいます。

もちろん説かれた教えが念仏という誰もが救われるみ教えであるということもありますが、法然上人のお人柄の懐の広さがよくわかります。
その中でも武士が目立ちます。

武士というと多く身分が高いというイメージを持ちますが、鎌倉時代の武士と江戸時代の武士では全く違います。

鎌倉時代の武士は野蛮人と見られていたようです。

教養もありません。

武勲を挙げるということ、つまり出世するためには殺生を重ねなくてはなりません。

武士だってできれば殺生なんてしたくありません。

そしてそれが罪だということは分かっています。

でもせざるを得ない。

もう救いを諦めるしかなかったのです。

そこに法然上人は、「その生業をやめることができるのであればやめなさい。しかしやめることができなければ、その身そのままでお念仏を称えなさい。必ず救われますよ。」とお説き下さいました。

こうして多くの鎌倉武士が法然上人に帰依し、念仏者となっていきました。
その鎌倉武士の頂点は源頼朝公です。

その奥さんは北条政子さま。

「尼将軍」などとも呼ばれ、NHKの大河ドラマでも何度も取り上げられてきましたのでご存じでしょう。
北条政子さまは臨済宗の信仰を持っていました。

しかし部下である御家人の中に多くの念仏者がいたので、念仏の教えも知っておかねばということも思われたのかも知れません。

そういう思いで法然上人に手紙を送られました。

それに対して法然上人がご返事を書かれました。

その一部分がこのご法語です。

「念仏を申し候事は、ようようの義候らえども、ただ六字を称うる中に一切の行はおさまり候なり。」
「念仏を申すということには、三心や四修などの色んな義があるけれども、ただ南無阿弥陀仏という六文字を称えるという中にすべての行の功徳が収まっています。」

法然上人は常に「極楽浄土へ往くには、ただ南無阿弥陀仏と称えるだけ」とお示しくださいます。

その一方「誠の心を持って」「深く信じる心をもって」「極楽へ往きたいと願って」という「三心」や、念仏生活の仕方を示す「四修」などもお説きくださっています。

ただ、これらは細かく分析して色んな角度から説いてくださったもので、その一々を常に気にしないといけないのではありません。

ただ「南無阿弥陀仏の六字を称える」という行為の中に、すべて収まってくるのです。

そして私達がすべきことは
「心には本願を頼み、口には名号を称え、手には念珠をとるばかりなり」です。

「心には阿弥陀様の本願を頼りにし、阿弥陀様お救い下さいと思って、口には南無阿弥陀仏と称え、手には数珠を繰るだけですよ」ということです。

体の行い、口の行い、心の行いすべてを極楽へ、阿弥陀様へ、念仏へと向けていくのです。

数珠というのは念仏の数を数える道具です。

数を数えるというのは非常に励みになります。

これは間違いのないことです。
例えばダイエットをするにも、体重を量りますよね。

体重を量らないと成果がわからないので努力する気が起こりにくいようです。

食べるものを減らし、運動をして体重を量る。

そうして少しでも減っていると嬉しくなってまた運動する気が起こる。

でもダイエットはある程度まで体重が下がるとその後一旦どれだけやっても減らない時期が来るのだそうです。

そうするとやる気が失せてきます。

そしてダイエットを止めてしまう。
しかしお念仏は称えれば称えるほどに増えていきます。

増えるともう少し、もう少しと益々やろうという気が起こってくるわけです。

私達はお寺へ来てどれだけ有り難い法話を聞いて、お念仏を称える気になっても家に帰ったら「あーおなか空いた、晩ご飯、晩ご飯!」とすっかりスイッチを切り替えてしまいます。
お念仏のスイッチをオンオフしてしまうんですね。
でもそれではいけません。
お念仏生活が底辺にあって、その上で日常の生活ができればありがたいことです。
そのためには放っておいてはいけません。
お念仏が続くように工夫や努力が必要です。
数珠を使うのもその一つです。
私は万歩計を使ってお念仏を数えて、日々の念仏が続くように工夫しております。
色々と工夫をして、極楽へ、阿弥陀様へ、お念仏へと向けていくことが必要です。
ですからご法語はこのように続きます。

「常に心をかくるが極めたる決定往生の業にて候なり」
「常に心を極楽、阿弥陀様、お念仏にかけるのが往生するための究極の行いなのですよ。」ということです。
そして念仏とは決して難しいものではないのですよ、ということが書かれています。

「念仏の行はもとより行住坐臥、時処諸縁をきらわず、身口の不浄をきらわぬ行にて、易行往生と申し候なり」
「念仏の行は元々歩いていても立ち止まっていても座っていても寝転んでいても、できますよ。いつでもどこでもどんな時でも称えることができますよ。そして体や口の汚れ、不浄も嫌わない行であるから、容易く往生できる行であるよというのです。」ということです。

どんな行でも場所を選びます。例えば座禅でしたら、時々電話が掛かってきたり、車の音が聞こえたりする場所ではきません。
ですから曹洞宗のお寺は多く山の中にあります。
でもお念仏は歩きながらでもできますし、たとえ雑踏の中でもできます。
もちろん大きな声では称えられませんが、私は電車の中でも称えます。
隣の人が気づかないほどの声でいつも称えます。
そんなことができる行は念仏以外にありません。

また、神社や大きなお寺に行きますと柄杓で手を洗い、口を洗ってから神前、仏前に進みます。

あるいはお香を焚いて、時にはお香を跨いで、体にお香を塗ったりして道場に入ります。
しかし念仏はそれすらも必要ないのです。
その身そのままでできる唯一の行なのです。

これはとても有り難いことです。
いつも正座をしてビシッと背筋を伸ばして念仏を称えよと言われたら、足が痛くなったり病気になったらできなくなってしまいます。
私達は好む好まざるにかかわらず、老いていきますし病気にもなります。

誰一人寝たきりになりたい人はいないのに、なってしまうこともあります。

でもそうなったらそうなったままで称えることができます。

起きられなかったら寝転んだままで、大きな声で称えられなかったら小さな声で称えることができるというのは本当に有り難いことです。
阿弥陀様は私達の弱いところをとことんお考え下さって、私達が置かれた状況のままでできる行を用意して下さったのです。

もちろんやる気がなかったらできません。

極楽へ往生したくない人には念仏を称えることは難しいでしょう。

しかし往生したいと思う人、やろうと思う人は誰でもできるという行です。

やろうと思ってもできないことは山ほどあります。やる気はあっても体がついてこない、能力がついてこないということは一杯あります。

念仏は本当に誰でもできます。

あとはこちら次第です。

そして次の一文です。
「但し、心を清くして申すを第一の行と申し候なり」
「色々と理屈もあるけれども、それは一旦おいて、但し、心を清くしてお念仏を申すのが第一ですよ。」ということです。

心を清くするといっても心を清くするのは非常に難しいことです。

私達は中々心が清くなりません。煩悩だらけの凡夫です。

心は汚れ、散り乱れています。

それを清くせよと言われたらとてもできません。

ここではそのようなことをいうのではありません。
ただ純粋に「阿弥陀様お救いください」という思いで南無阿弥陀仏と称えるだけです。

それだけなのです。

「人をも左様にお勧め候うべし。ゆめゆめこの御心はいよいよ強くならせ給いそうろうべし。」
「北条政子さま、あなたのようなお立場の方は人にもそのようにお勧めください。どうぞどうぞこの御心を益々強くお持ち下さいよ」ということです。

臨済宗の信仰をお持ちの北条政子さんに対して、浄土宗の大きな特長をお伝え下さっている有り難いお言葉です。

元祖大師法然上人ご法語第十六章

(原文)

念仏の数を多く申す者をば、自力を励むという事、これまたものも覚えず浅ましき僻事(ひがごと)なり。ただ一念二念を称うとも、自力の心ならん人は自力の念仏とすべし。千遍万遍を称え、百日千日夜昼励み勤むとも、偏(ひとえ)に願力(がんりき)を頼み、他力を仰(あお)ぎたらん人の念仏は、声々念々(しょうしょうねんねん)、しかしながら、他力の念仏にてあるべし。されば、三心(さんじん)を起こしたる人の念仏は、日々夜々(にちにちやや)、時々刻々(じじこくこく)に称うれども、しかしながら願力を仰ぎ、他力を頼みたる心にて称えいたれば、かけてもふれても、自力の念仏とはいうべからず。

(現代語訳)

「念仏の数を多く称えるのは自力を励む人だ」と言うこと、これまた道理を外れ、あきれる程の心得違いです。わずか一念二念を称えても、自力の心構えである人(の念仏)は、自力の念仏とすべきであります。
千遍万遍を称え、百日千日、昼夜に励み努めても、ひたすら(阿弥陀仏の)願力を頼みとし、他力を尊ぶ人の念仏は、一声一声が、そのまま全部他力の念仏であるとすべきです。
それゆえ三心を起こした人の念仏は、毎日毎夜、絶え間なく称えたとしても、それらはすべて願力を尊び、他力を頼みとする心で称えているのですから、決して自力の念仏と言うべきではありません。

(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊)

(解説)

お念仏の教えは「南無阿弥陀仏と称える者を阿弥陀様が救って下さる」という教えです。お念仏を称えてこちらが段々偉くなって救われるのではありません。こちらは自分の力ではどうにも救われない身であるけれども、阿弥陀様の力によって救われるのです。その阿弥陀様の力を「他力」といいます。
一般的に「他力本願」といいますと、「自分は大した努力もせずに他人任せにすること」と、とらえられていますが、本来の意味とは大きく違います。本来は「阿弥陀様の力」のことを限定して「他力」というのです。
自力というのは、自分を磨いて正しい生活をし、難しい修行をして悟りを開く力をいいます。そういうことがとてもできない私達は、他力にすがらなくてはならないのです。
ですから、自力の心で念仏を称えてはなりません。あくまで、阿弥陀様の力、他力を仰いでお念仏をお称えするのです。
ただ他力という言葉に固執するとややこしいことになります。といいますのは、念仏を多く称えるのは自力であるなどということを言う人がいます。
たとえば「お念仏をたくさん称えるのは半自力半他力だ」などという批判です。
法然上人ご在世当時からそういった批判はあったようです。それに対して法然上人が「そうじゃないですよ。」とおっしゃったのが今日のご法語です。
最初から読んで参ります。
「念仏の数を多く申す者をば自力を励むということ、これまたものも覚えず浅ましき僻事なり」「念仏の数を多く申す者のことを、自力を励んでいるという人がいるが、これは物事を知らない浅はかな考えであるぞ」ということです。
「ただ一念二念を称うとも、自力の心ならん人は自力の念仏とすべし」「たった一遍、二遍というわずかな念仏しか称えていないとしても、自力の心で称えていれば自力の念仏となります」
「千遍、一万遍称え、百日、千日夜も昼も念仏に励み勤めたとしても、偏に阿弥陀さまの本願の力を頼りにし、他力を仰ぐ人の念仏は、一声一声ごとがすべて他力の念仏となるでしょう」
「されば三心を起こしたる人の念仏は、日々夜々、時々刻々に称うれども、しかしながら願力を仰ぎ他力を頼みたる心にて称えいたれば、かけてもふれても自力の念仏とは言うべからず」
三心とは、至誠心、深心、回向発願心の三つです。至誠心とは誠の心、深心は深く阿弥陀さまを信じる心、回向発願心はとにかく極楽へ往きたいと願う心です。この三つの心をもって念仏する者が極楽へ往生するのです。
このように言いますと、非常に難しいですが、「阿弥陀さま、極楽へ往生させて下さい、南無阿弥陀仏」と称える念仏がすなわち三心が具わった念仏なのです。
ですから前文を訳しますと、「三心を起こした人の念仏は、昼も夜もずっと称えていて、はたから見たら大変な苦行をしているうように見えても、すべて本願力を仰ぎ、他力に頼る心で称えているのであるから、決して自力の念仏ではありません」となります。
つまり念仏の数が少ないから他力で、念仏の数が多いから自力というわけではないということです。数の多少に関わらず、自力の心で称えれば自力の念仏となるし、他力の心で称えれば他力の念仏となるのです。自力、他力と分けて考えると非常にややこしいですが、つまりは「阿弥陀さま、お救い下さい」という思いで念仏を称える、ただそれだけなのです。
それだけなのに私達は念仏を称えるようになると、他人と比べて「あの人より私の方が念仏を称えている」と意識し、何となく偉くなったような気になるものです。でも南無阿弥陀仏とは、「阿弥陀さま、助けて下さい!」です。「阿弥陀さま、助けて下さい、阿弥陀さま、助けて下さい!」と称える者が偉いはずがないのです。阿弥陀さまにすがらなくては救われないのですから。そこを勘違いしないようにしなくてはなりません。
救う側は仏です。これは当たり前でありながら、実は理解しにくいことです。
たとえば知恩院の御前様は非常に知識も豊富、経験も豊富、人徳も勝れた方です。その御前様と私を知識や経験、人徳という基準で比べれば雲泥の差があります。しかし、称える念仏は同じです。「阿弥陀さま、助けて下さい。」の念仏です。救って下さるのは阿弥陀さまですから、知識や経験の差は関係ありません。
あくまで救う側は阿弥陀さまなのです。阿弥陀さまの力、つまり他力によって初めて救われるのが私達なのです。