成道山 法輪寺

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御法語

元祖大師法然上人ご法語第十章(一紙小消息)①NEW

(原文)

末代の衆生を往生極楽の機にあてて見るに、行少なしとても疑うべからず。一念十念に足りぬべし。罪人なりとても疑うべからず。罪根深きをも嫌わじと宣えり。時下(くだ)れりとても疑うべからず。法滅以後の衆生なおもて往生すべし。況(いわん)や近来(きんらい)をや。我が身悪(わろ)しとても疑うべからず。自身はこれ煩悩具足せる凡夫(ぼんぶ)なりと宣(のたま)えり。十方に浄土多けれど西方(さいほう)を願うは、十悪(じゅうあく)五逆(ごぎゃく)の衆生の生まるる故なり。諸仏の中に弥陀に帰(き)し奉(たてまつ)るは、三念五念に至るまで自ら来迎(らいこう)し給う故なり。諸行の中に念仏を用うるは、彼の仏の本願なる故なり。今弥陀の本願に乗じて往生しなんに、願として成(じょう)ぜずということあるべからず。本願に乗ずることは信心の深きによるべし。

 

(現代語訳)

末法の時代の衆生を、極楽に往生できるかできないかの能力に当てはめて考えるとき、行が少なくても、疑ってはなりません。一遍や十遍(の念仏)で充分なのです。(悪業を犯す)罪人であっても、疑ってはなりません。「罪深くても、分けへだてはしない」と説かれています。
時代が下ったとしても、疑ってはなりません。仏教が滅んだ後の衆生でさえ往生することができるのです。まして末法の今については言うまでもありません。自身が悪くても疑ってはなりません。「私たちは煩悩を具えた凡夫である」と説かれています。
あらゆる方角に浄土は多くありますが、西方(浄土)を願うのは、十悪・五逆の罪を犯した衆生までもが生まれるからであります。様々な仏がおられるなかで、阿弥陀仏に救いを求めるのは、三遍や五遍(しか念仏できずに死に臨む者)に至るまで、自らお迎え下さるからであります。様々な行のなかで念仏を用いるのは、かの阿弥陀仏の本願(の行)だからです。今、阿弥陀仏の本願に乗じて往生したならば、いかなる願いも成就しないはずはありません。本願に乗じることは、信心の深さによります。

(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会より)

 

(解説)

今回の御法語は「一紙小消息」と呼ばれるものです。皆さんよくご存じの一枚起請文と共に、よく読まれる御法語です。一枚起請文は浄土宗の教えの肝要を最も簡潔に説かれたもので、一紙小消息は浄土宗の教えを理論的にまとめたものと言ってよいでしょう。それだけに非常に内容が濃いのです。
一紙小消息は消息、つまりお手紙です。法然上人が黒田の上人という方に送られたものです。黒田の上人がどういう方であったかは未だにはっきりとわかっていません。しかし、相当浄土宗の教義を深く理解しておられる方に送られたものと考えられます。
それがわかるのは、この方は「自分が愚かである」ということをすでに知っておられるということです。自分が煩悩だらけで、罪を作り続けていて、このまま命尽きたら地獄に行くしかないような者であるという自覚があるのです。
現代の私たちはどうでしょうか。自分が愚かであると言っても、少し失敗して反省したり、人間関係につまずいて「私もバカだなあ」と思う程度でしょう。「あなたは愚かですから地獄に行くことになるでしょう」などと言われたら腹を立ててしまうのではないでしょうか。
浄土の教えをいただくにはまず「自分の力では救われない」といことを知ることが大切です。一紙小消息のお相手の方はすでにそのレベルの方であるということを意識していただいて、本文を読んで参りたいと思います。
最初に「末代の衆生を往生極楽の機にあててみるに」とあります。
機といいますのは、素質とか能力という意味です。機を器に置き換えた方が意味が分かりやすいかも知れません。まず「どういう素質・能力の者が極楽へ往生するのか」ということです。
「お釈迦様のおられた時からずっと下った時代に生きる人々が極楽へ往生する器であるのかどうかみてみると」ということです。
「行少なしとても疑うべからず、一念十念に足りぬべし」「たとえお念仏の数が少ないとしても往生を疑ってはなりませんよ。一遍、十遍の念仏でも往生を叶えてくださるのです」
このように言いますと、現代人は「ちょっと念仏を称えるだけでいいんだな。簡単なんだな。」と単純に思うでしょう。しかし、恐らくこの手紙のお相手の方はお念仏をもっと称えている方だと思います。「称えても称えても私如きが往生できるとは思えない」という方に「お経には数少ない念仏でも往生できると記されていますよ。」とお伝えするのです。それを聞かれた方はさぞ喜ばれたことでありましょう。
次に「罪人なりとても疑うべからず、罪根深きをも嫌わじと曰えり。」とあります。
この一文は中国の法照禅師『五会法事讃』に「破戒と罪根深きとを簡(えら)ばず」と書かれているのを前提としていますので「~と曰えり」と記されます。「法照禅師が曰えり」ということです。
ここでいう罪人とは、いわゆる法律を犯した犯罪者を指すのではありません。煩悩によって日々やりたくなくとも悪い行いを繰り返してしまうことを自覚して言うのです。自分の嫌いな相手に対して「死んでしまったらいいのに」というような思いを抱くのは殺生の罪です。殺生さえも犯しかねない私は罪人以外の何者でもないでしょう。「罪人であっても往生を疑ってはなりません。お釈迦様が説かれたお経には、どんな罪深い人も阿弥陀さまは見捨てられないのだと記されているのです」ということです。
次に「時下れりとても疑うべからず。法滅以後の衆生猶もて往生すべし、況や近来をや。」これは天災や飢饉、戦によって人々が絶望している時代の方が「お釈迦様の時代から遠く隔たった私たちは救いから漏れてしまいますね」と思っているところへ「時が隔たっていても往生を疑ってはなりません。仏教が滅びたあとの人々でさえもお念仏を称えれば往生するのですよ。ましてやまだ滅びていない時代ではないですか。」と仰るのです。
「我が身悪しとても疑うべからず。自身は煩悩具足せる凡夫なりと曰えり」「自分は煩悩を断つこともできないから往生できない」という方に、善導大師様のお言葉を引用されてお説きになります。
善導大師様は中国の唐の時代に浄土教の教えを完成された方です。お仏壇の向かって右側におられる方です。
「善導大師様でさえ、自分は煩悩だらけの凡夫であるとおっしゃっているのですよ。」と説かれるのです。その善導大師様が煩悩だらけの凡夫が救われる教えを伝えてくださっているのですから、煩悩があることは障害にならないのです。
ここまでが「どういう素質、能力の者が往生するのか」について書かれた箇所です。結論は「どんな素質、能力の者でも往生できる」ということです。
ただ誤解してはならないのは「極楽への往生を願い、阿弥陀様を信じ、南無阿弥陀仏と念仏を称える者」はどんな素質、能力の者でも往生できる、ということです。逆に言いますと、たとえどれだけ社会的地位が高かろうが、人に親切なよい人であろうが、ボランティアに尽くす人であろうが、極楽への往生を願わず、阿弥陀様を信じず、念仏を称えないならば、往生は難しいということになります。
これ以降はこの三つのキーワード、「西方極楽浄土・阿弥陀仏・念仏」について書かれています。
浄土というのは極楽だけではありません。仏様は無数におられ、その仏様お一方につき一つの浄土があります。薬師如来様の浄土は東方瑠璃光浄土といいます。お釈迦様の浄土は無勝荘厳浄土といいます。阿弥陀様の浄土を指して西方極楽浄土といいます。
芥川龍之介の『蜘蛛の糸』には「ある日の事でございます。御釈迦様(おしゃかさま)は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。」とありますが、お釈迦様が極楽の蓮池のふちを歩かれることはありません。極楽におられる仏様は阿弥陀様だけです。芥川龍之介ほどの人がなぜこのようなことを書かれたのかはわかりませんが、ありえないことです。
「十方に浄土多けれど西方を願うは十悪五逆の衆生の生まるる故なり」「あらゆるところにたくさんの浄土がある中で、なぜ西方極楽浄土を願うのかというと、十悪五逆の悪人が救われるからです」とあります。他の浄土でもいいじゃないか、なぜ極楽なのかというと十悪五逆の悪人が救われるからなのです。
十悪とは殺生、盗み、不倫、嘘をつく、悪口を言う、おべんちゃらを言う、二枚舌を使う、生きることに必要なもの以上のものを欲しがる、腹を立てる、道理に暗い行いをするというもので、代表的な地獄・餓鬼・畜生行きの行いです。
これを思うと私たちがしていることばかりです。体の行いだけでなく心の行いが重要ですから、先に申し上げた人の死を願うなどというのは殺生になるわけです。十悪のどれをとっても私たちがしている行いとして当てはまらないものは何もないのです。五逆は更に親殺しや悟った人を殺すなどの重い罪です。私たちは十悪五逆の罪人なのです。この罪人を迎えてくれる浄土は、無数にある浄土の中で極楽だけなのです。他と比べて極楽へ往こうという前に、私たちが行けるのは極楽だけです。極楽のみが広く門戸を広げてくださっているのです。
「諸仏の中に弥陀に帰し奉るは三念五念に至るまで自ら来迎したまう故なり」「たくさんおられる仏様の中で、なぜ阿弥陀様を敬うのかというと、それは三遍、五遍といった数の少ないお念仏の一声も聞き漏らさず、臨終の時には阿弥陀様自らがお越し下さり極楽へ導いてくださるからです」
更にはここにはありませんが、極楽へ往生したあとちゃんと仏になるまで責任をもってお育て下さるのです。そんな至れり尽くせりの仏様が他におられますかということです。
「諸行の中に念仏を用うるは彼の仏の本願なる故なり」「色んな修行方法がある中でなぜ念仏なのかというと、それは阿弥陀様の本願だからなんだ」
南無妙法蓮華経とお題目を称えてもいいじゃないか、般若心経を称えてもいいじゃないか、千日回峰でも座禅でも陀羅尼を称えてもいいじゃないか、なのになぜ念仏なのかというと、それは阿弥陀様が約束してくださっているからだというのです。阿弥陀様ご自身が「南無阿弥陀仏と称える者を極楽に迎えとるぞ」と言ってくださっているのです。
念仏は極楽往き専門の行です。他の修行は極楽へ往くための修行ではありません。この世で悟りを開くためのものです。私たちは自分自身を見つめて、とても修行してこの世で悟りを開くことができない自分を認め、お念仏をお称えするのです。そして阿弥陀様のお力によって極楽へ往生させていただき、そこで悟りを開くことができるまで阿弥陀様に育てていただくのです。
最終的な目的は同じですが、私たちにできる道はお念仏の道しかないと信じます。「今弥陀の本願に乗じて往生しなんに、願として乗ぜずということあるべからず」「今阿弥陀様の本願を信じて往生しようと願うならば、それが叶わないことは決してありません」
「本願に乗ずることは信心の深きによるべし」「本願に身を任せて往生するということは、阿弥陀様をお慕いする心の深さによるのです。」
以上が一紙小消息の前半です。
非常に内容が濃いことがお分かりいただけると思います。
極楽への往生を願い、阿弥陀様を信じ、南無阿弥陀仏と称える者はどんな者でも極楽へ往生することができるということを理論的に整理して説かれているのです。

元祖大師法然上人ご法語第九章

原文

念仏の行者の存じ候うべきようは、後世(ごせ)を恐れ往生を願いて念仏すれば、終わる時必ず来迎せさせ給うよしを存じて、念仏申すより外(ほか)の事候わず。三心(さんじん)と申し候うも重ねて申す時は、ただ一つの願心にて候うなり。その願う心の偽らず、飾らぬ方をば至誠心(しじょうしん)と申し候。この心の実(まこと)にて念仏すれば臨終に来迎(らいこう)すという事を一念も疑わぬ方(かた)を深心(じんしん)とは申し候。この上我が身も彼(か)の土(ど)へ生まれんと思い、行業(ぎょうごう)をも往生のためと向くるを廻向心(えこうしん)とは申し候うなり。この故に、願う心偽らずして、げに往生せんと思い候えば、自(おの)ずから三心は具足(ぐそく)する事にて候うなり。

 

現代語訳

念仏の行者が心得ておくべきことは、来世の苦しみを恐れ、往生を願い、念仏すれば、命の終わる時には必ず〔阿弥陀仏が〕お迎え下さると信じて、念仏をお称えするより他の事はありません。

〔念仏者に必要不可欠な〕三心と申しますのも、まとめて申す時は、ただ一つの〔往生を〕願う心以外にありません。その願う心に、嘘偽りがなく、取りつくろうことのない点を至誠心と申します。この心が真実であって、「念仏すれば、〔阿弥陀仏が〕臨終の時にお迎えくださる」ということを瞬時も疑わない点を深心と申します。その上に、自身は「かの浄土へ生まれよう」と願い、善行の功徳は往生のためにと振り向けるのを廻向心と申すのです。

こういうわけで、願う心に嘘偽りがなく、本当に往生したいと思えば、自然と三心は具わることになるのです。    (『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会 より引用)

 

解説

お念仏はいつでもどこでもどんな時でも称えることができます。また、誰でも称えることができるということが大きな特長でもあります。
しかし、だからといって何の信心もなしに称えればそれでいいのかというと、やはりそうではありません。信心は必要です。
この信心について、三心という言葉で説明されます。三心とは、至誠心、深心、廻向心の三つです。廻向心は、正式には廻向発願心といいますが、この御法語では略して廻向心となっています。
至誠心とは誠の心です。裏表のない信心をいいます。私はお通夜に伺った時には必ずお参りの方々に一緒にお念仏をお称えするようお勧めします。色んな宗派の方、他の宗教の信者さん、無宗教の方など様々おられるでしょうが、亡き人のために共にお念仏を称えていただくようにしています。殆どの方が心を込めてお念仏を称えてくださいます。しかし、お通夜ではお念仏をお称えしても、恐らくその場限りでしょう。それ以来お念仏を称えるようになったという方がおられたら嬉しいのですが、なかなかそうはいきません。そのような方達に至誠心があるとは言い難いですね。
あるいは七回忌の法要があったときに「お念仏を称えるのは久しぶりだなあ。三回忌以来だよ」というようなことではいけません。
信心があるフリをするのではなく、誰が見てようが見てまいが、関係なくお念仏を称えるような信心を至誠心といいます。
深心とは深く信じる心です。こんな煩悩だらけの私であるけれども、南無阿弥陀仏と称えれば必ず阿弥陀さまはお救いくださると信じるのです。救われて当たり前と信じるのではありません。本来、自分の力ではとても救われない私だけれども、阿弥陀さまの力によってはじめて救っていただけることを深く信じるのです。
次に廻向心です。廻向とは功徳を回し向けることをいいます。月参りや法事でいつも行っている廻向は、私や皆さまがお念仏を称え、阿弥陀さまから賜った功徳を私が一人で使うのではなしに、亡き人にどうぞこの功徳をお使いくださいと回し向けるのです。ここでいう廻向は、あらゆる功徳を極楽へ振り向けることをいいます。一言で言いますと、極楽へ心を傾けることを廻向心といいます。
このように三心を具えて口に南無阿弥陀仏と称えることが大切です。三心のない念仏では往生できません。このように申し上げますと、「大変なことだなあ。お念仏も難しいなあ」と思われるかも知れません。しかしよく考えますと、ごく当たり前のことしか書かれていません。
廻向心は極楽へ思いを向けると申しましたが、極楽へ往きたくない人が極楽へ往けるはずがありません。極楽へ往きたくない人を阿弥陀さまが無理矢理連れて行くのであれば、それは往生とは言わず、拉致と言わねばなりません。深心は阿弥陀さまを信じる心ですから、これもあって当然です。阿弥陀さまを信じていない人が極楽へ往けるはずがありません。至誠心にしても、その信心が嘘であったら話しになりません。三心とは難しいように聞こえますが、実は当たり前のことなのです。この三心を踏まえて本文を見て参ります。 「お念仏を称える人が知っておかなくてはならないことは、命尽きた後地獄や餓鬼道に往くのではなく極楽へ往きたいと願って念仏を称えておれば、臨終の時に阿弥陀さまが必ずお迎えくださると思って念仏称える以外に何もないのです」
極楽へ往きたいと思って阿弥陀さまを信じて念仏を称える以外に何もないということです。それがすべてなのです。
「三心というのもまとめればただ一つの心です」
分析すれば三つになるけれども、要は往生を願って阿弥陀さまを信じて念仏を称えるだけです。三心は一心なのです。大阪の一心寺の名はここからきています。三心という言葉が大事なのではありません。三心なんて知らなくても、「阿弥陀さま、往生させてくださいね」とお念仏を称える人は三心が籠もったお念仏を称えているのです。
その一つの心を分析して、「往生を願う心が嘘でなくて飾っていない、これを至誠心という。誠の心をもって念仏を称えれば、臨終の時に必ず阿弥陀さまがお越しくださるということを少しも疑わない心を深心という。さらに極楽へ往きたいと思ってあらゆる行いを往生のために振り向け廻向する心を廻向心という」ということです。
「よって、願う心が嘘でなくて、本当に往生したいと思っていれば、自然と三心は具わるのです。」ということです。
だから「とにかく称えよ」と言われます。称えている内に自然と三心は具わるというのです。
最後の「三心は具足することにて候なり。」とある、具足という言葉は、「一つも欠けずに具わる」という意味です。ですから三心は一つでも欠けると往生できません。しかし、一つだけ欠けるということは不可能です。往生したくないのに阿弥陀さまを信じているというのはおかしいですし、阿弥陀さまは信じないけれども往生はしたいというのもおかしいです。阿弥陀さまを信じて、往生もしたいけれどもその心は嘘であるということなら話になりません。やはり三心は一心です。一つ一つ順番に具わるのではありません。具わる時は一度ですし、いつの間にか具わっていることもあるでしょう。
三心ということは取り立てていう、難しいことではありませんが、私たちは無意識に身勝手な思いでお念仏を称えることがあるでしょう。「家族がみんな元気でありますように。」「孫が大学に合格しますように」「宝くじが当たりますように」そのようなお念仏も称えることがあるかも知れませんが、極楽への往生のためには何にもならないのです。どれも三心に入っていないのです。極楽へ往くためには三心が必要ですから、ときどき、「私の念仏は往生できる念仏であろうか」と見直すことも大切です。

元祖大師法然上人ご法語 前篇 第八章

原文

浄土一宗(いっしゅう)の諸宗(しょしゅう)に超え、念仏一行(いちぎょう)の諸行(しょぎょう)に勝(すぐ)れたりということは、万機(ばんき)を摂する方(かた)をいうなり。理観り(かん)、菩提心(ぼだいしん)、読誦(どくじゅ)大乗(だいじょう)、真言(しんごん)、止観(しかん)等、いずれも仏法の疎(おろ)かにましますにはあらず。みな生死(しょうじ)滅度(めつど)の法なれども、末代になりぬれば、力及ばず。行者の不法なるによりて、機が及ばぬなり。時をいえば末法(まっぽう)万年(まんねん)の後(のち)、人寿(にんじゅ)十歳につづまり、罪をいえば十悪(じゅうあく)五逆(ごぎゃく)の罪人なり。老少男女(ろうしょうなんにょ)の輩(ともがら)、一念十念のたぐいに至るまで、みなこれ摂取不捨(せっしゅふしゃ)の誓いにこもれるなり。この故に諸宗に超え諸行に勝れたりとは申すなり。

 

現代語訳

浄土一宗が他の諸宗に勝り、念仏一行が他の様々な修行より優れているということは、あらゆる衆生を救う点を言うのであります。
真理を対象とする観法、覚りを求める心、大乗経典の読誦、真言、止観など、どの修行も仏の教えとして不十分であるというわけではありません。みな迷いの境涯を離れて覚りを得るための教えではありますが、末法になったので、力が及ばず、修行者が教えに背いてしまうことで、能力が追いつかないのです。
時代についていえば、末法の一万年が過ぎた後、人間の寿命が十歳に縮まり、罪についていえば、十悪や五逆を犯す罪人であります。(しかしそんな)老若男女の人々で、一念や十念しか称えない人たちに至るまで、みな「救い取って捨てない」という誓いの対象に含まれるのです。
こういうわけで、(浄土宗は)他の諸宗に勝り、(念仏は)他の様々な修行より優れていると言うのであります。

 

解説

仏教には無常という教えがあります。あらゆるものは移り変わる。普遍のものは何一つとしてない。生きとし生けるものはいつか必ず死ぬ。それもいつ死ぬか分からない。形あるものはすべて壊れる。栄えるものがずっと栄え続けることはない。どんなに栄えたものでも必ずいつか滅びる。これが無常です。
仏教の教え、法は真理です。真理は無常ではありません。いつの時代もどんな状況でも誰にでも当てはまるのが真理です。時代によって変わるものを真理とはいいません。
ただ、仏教教団はいつか滅びます。僧侶も信者もいつかいなくなって、法はあっても誰も法を知る人がなくなる時が来るといいます。「仏教だけが不変で栄え続けるんだ」とはなりません。
仏教教団にとって、最もよい時代は今から2500年前、お釈迦様がおられたときです。仏さまが目の前で教えを説いて下さるわけですから、そんなにありがたいことはありません。お釈迦様のおられた時には「教え(教」)、「修行(行)」、「悟り(証)」の三拍子が揃っていました。お釈迦様がお亡くなりになってからも500年はその余力でよい時代が続くといいます。この時代を「正法の時代」といいます。
500年過ぎますと、正法の時代が終わり、「像法の時代」がやってきます。「像」は「似る」という意味があります。正法の時代に似ているが、少し劣った時代です。「教」、「行」はありますが、「証」がない時代です。像法の時代は1000年続きます。
像法の時代が終わりますと、「末法」の時代がやってきます。「教」はあるが、「行」も「証」もない時代です。この時代が1万年続きます。その後仏教が滅びるのです。「法滅」の時代といいます。日本では平安時代に末法に入り、まだ1万年経っていませんから、今現在まだ末法の時代です。 お念仏のみ教えはこの末法以降の者を救う為に説かれた教えです。これを踏まえて文章をみていきましょう。
「浄土一宗の諸宗に越え、念仏一行の諸行に勝れたりという事は、万機を摂する方をいうなり。」「浄土宗が他の宗派を越え、念仏が他の修行よりも勝れているのは、すべての者が救われるという点である」ということです。「万機」の「機」は「素質」とか「能力」という意味です。「万機」ですから、「ありとあらゆる者」という意味です。優れた者だけを救うのではないということです。世の中には色んな能力の人がいますが、「南無阿弥陀仏」と称える者はどんな者でも救って下さるのです。
だからといって、他の宗派がダメで浄土宗だけが勝れていると言っている訳ではありません。次にそのことが書かれています。
「理観・菩提心・読誦大乗・真言・止観等」これは浄土宗以外の宗派がする修行を並べているのです。「どれもお釈迦様が説かれた仏教であるから、つまらない教えだということではない」ということです。
「どの教えも迷いを離れ、悟りを求める教えであるが、末法の時代になったならば、人々の力が及ばないんだ。修行する者が法に背くし、人々の教えを受け止める能力ではこれらの修行についていけない。今の時代を見てみると、末法が一万年を過ぎると人の寿命は十歳に縮まり、人殺し、盗人、親殺しの罪人ばかりになってしまう」今の時代は平均寿命80何歳と言われますが、末法が過ぎて法滅の時代になると、寿命は十歳になり、悪人だらけになるというのです。
よく「昔からとんでもない事件はあったけど、今のように頻繁にはなかった」ということを聞きますが、どんどん法滅に向かって進んでいる最中なのです。どんどん時代が悪くなっていることを実感します。
「そんな時代にお念仏は、老いも若きも男も女も、わずか一遍や十遍の念仏しかできずに亡くなっていった人でさえも皆阿弥陀仏の誓いにすべての功徳が籠もっているので救われる。だからあらゆる宗派を越え、あらゆる行よりも勝れた教えなのだ」ということです。
お釈迦様は人それぞれに合う教えを説かれました。どの教えにも「対象」があります。お念仏は末法以降の人のために説かれた教えです。後の人々は難しい修行などできなくなるだろうということで、お釈迦様は「後の人のために阿弥陀様のお念仏の教えをしっかりと伝えていけよ」と説かれたのです。
阿弥陀様は「後の者は難しい修行などできないが、我が名を呼ぶことならできるだろう」とお念仏をご用意くださいました。劣った者ができる行だからといって、劣った行ではありません。劣った者が救われるためには勝れた功徳が具わっていなくてはなりません。阿弥陀様はお念仏にご自身が修行された功徳すべてを収め込んでくださいました。本来自分で修行しなくてはならないところですが、阿弥陀様が「難しい修行などできないであろう、我が名を呼べよ、私が救ってやろう」とお念仏をご用意くださったのです。
お念仏以外の他の行も確かにお釈迦様が説かれた教えですから、正しいことは間違いありません。そしてまたそれらすべて優れた教えなのです。しかし、教えは尊くても行う側が劣っていてはどうにもなりません。
たとえば、どれだけ便利な機能を備えたコンピューターがあっても、使う能力がない者にとれば何の役にも立ちません。それと同じように、「人々にできる教え」でなくてはなりません。
お念仏は末法の時代を生きる私達のために説かれた教えです。私達はすでに、色んな教えを選ぶ力はありません。どれも末法の者のために説かれた教えではないからです。唯一お念仏だけが我々にできる行です。唯一私達が救われる行なのです。

 

元祖大師法然上人ご法語 前篇 第七章

原文

六方(ろっぽう)恒沙(ごうじゃ)の諸仏(しょぶつ)、舌をのべて三千世界に覆(おお)いて、専(もは)らただ弥陀(みだ)の名号(みょうごう)を称(とな)えて往生すというは、これ真実なりと証誠(しょうじょう)し給(たも)うなり。これ又念仏は弥陀の本願なるが故に、六方恒沙の諸仏これを証誠し給う。余(よ)の行(ぎょう)は本願にあらざるが故に、六方恒沙の諸仏、証誠し給わず。これにつけても、よくよくお念仏候うて、弥陀の本願、釈迦の付属(ふぞく)、六(ろっ)方の諸仏の護念(ごねん)を深く被(こうぶ)らせ給うべし。弥陀の本願、釈迦の付属、六方の諸仏の護念、一々に虚(むな)しからず。この故に、念仏の行は諸行に勝(すぐ)れたるなり。

 

現代語訳

六方世界の諸仏が、舌をのばして三千世界を覆い、「〈専ら阿弥陀仏の名号のみを称えて往生する〉という教えは、真実である」と証言なさるのです。これも念仏が阿弥陀仏の本願であるので、六方世界の数限りない諸仏がこれを真実であると証言なさいます。念仏以外の行は本願ではないので、六方世界の無数の諸仏が、真実であるとは証言なさいません。
このことからしても、しっかりとお念仏なさって、阿弥陀仏の本願、釈尊の付属、六方世界の諸仏の守護を、深くお受けになって下さい。
阿弥陀仏の本願、釈尊の付属、六方世界の諸仏の守護は、それぞれに、みな実のあるものなのです。それゆえ念仏の行は、他の様々な修行より勝っているのです。

 

解説

浄土三部経の一つ、阿弥陀経というお経をご存知でしょうか?お年忌法要の時にはいつもお読みしております。
阿弥陀経は前半と後半で内容が二つに分かれています。前半は主に極楽の様子が描かれています。「ここから西に向かって十万億という距離を過ぎたところに一つの世界がある。それを極楽という。そこには阿弥陀仏という仏様がおられて、今現在も説法して下さっている。その国の人々には苦しみがなく、幸せばかりの世界であるから極楽というのだ。」そして極楽の美しい様子が縷々描かれています。「その幸せばかりの極楽浄土へ往くには、お念仏を称え続けることだ。必ず命が尽きる時に阿弥陀様が多くの菩薩様方を引き連れて迎えに来て下さるのだ。」と説かれています。
後半はあらゆるところにおられる仏様方がみんな、阿弥陀様が説かれるお念仏のみ教えは間違いない教えだと証明なさり、阿弥陀様を讃え、念仏を称える者を護って下さるのだと説かれています。
仏様は阿弥陀様だけではありません。数え切れないほど多くの仏様がおられます。阿弥陀経では六方の仏様が出て参ります。東南西北下上の仏様です。お経には十方とか六方という方角がよく出てきますが、十方は八方+上下、六方は四方+上下です。いずれにしても「あらゆるところ」を意味します。その六方の仏様方がみんな舌を出して念仏を称える者が極楽へ往生することを間違いないと証明して下さっているのです。
私たちの感覚では舌を出すのは嘘をついたり、人を馬鹿にするときの仕草ですが、昔のインドでは「私が言っていることは間違いないです」と証明するときに舌を出したといいます。「もし私が言っていることが嘘であったならば、今出している舌を二度と口の中にしまいません。舌が爛れて腐ってしまっても構いません。」という誓いなのです。
この話をしていると、ある方が「嘘をついたら閻魔様に舌を抜かれるというのはここからきているんですか?」と仰いました。恐らくその通りでしょう。「私が嘘をついていたらこの舌が無くなっても構わない。」という誓いなのですから。
以上のことを踏まえて本文を見て参ります。
「六方恒沙の諸仏」とあります。六方は四方+上下だと申しました。恒沙は「ガンジス川の砂」という意味です。阿弥陀経では恒河沙とあります。仏教はインドの北部で広まりました。インド北部には母なる川、ガンジス川が流れています。誰もがガンジス川を知っています。「ガンジス川の砂ほどの」というと、数え切れないものという意味です。「星の数ほど」ということです。
「あらゆるところにおられる数え切れないほど多くの仏様方が、舌をのばして三千世界という我々の住む世界の10億倍の大きさの世界を覆い尽くして、専らただ阿弥陀様の名を称えて極楽へ往生することは真実であると証明なさっています。これは阿弥陀様の本願であるから六方恒沙の諸仏は証明して下さるのです」ということです。
阿弥陀様が、念仏を称える者をすべて救うと約束して下さっているのが本願です。阿弥陀様が「救う」と言っておられるのだから間違いないのだということです。
そして「お念仏以外の行は本願ではないから六方恒沙の仏様方は証明なさらないのだ」とあります。六方の仏様がみんな間違いないと証明なさるようなお経は唯一阿弥陀経だけです。「阿弥陀様の誓いなのだから、間違いないのだ。」と他の多くの仏様方もみんなおっしゃっているのです。
「これにつけてもよくよくお念仏を称えて、阿弥陀様の本願、お釈迦様の付属、六方の諸仏の護念を深くいただかれるがよろしい。」
「付属」といいますのは、教えをしっかりと伝えることをいいます。お釈迦様は同じく浄土三部経の一つ、『観無量寿経』の最後の部分で、お弟子の阿難尊者に阿弥陀様の名前をしっかりと後まで伝えていけよとわざわざおっしゃっているのです。それが「付属」です。
「護念」といいますのはお護りのことです。ただ単に病気や災難から守って下さるのではありません。仏様からご覧になれば、私達にとって極楽へ往くことが最も幸せだとお考えです。極楽へ往くには私達は往生を願ってお念仏を称えねばなりません。ですからお念仏を称える者を、益々お念仏が称えることができるようにお護り下さるのです。それが「護念」です。
「阿弥陀様の本願」、「お釈迦様の付属」、「六方の諸仏の護念」はどれ一ついい加減なものはありません。ですからお念仏の行は他に多くの行がある中でも勝れた行なのです。
「弥陀、釈迦、諸仏」です。阿弥陀様が本願を建てて、「念仏を称える者を必ず極楽に迎えとろう」と約束して下さり、お釈迦様が「後の人々にお念仏のみ教えを伝えていけよ」と付属なさり、六方の諸仏が「念仏を称える者を護ってやるぞ」と言って下さっているのです。
このようにすべての仏様から太鼓判を押されている行は唯一お念仏だけです。
阿弥陀経の最後に「お念仏の行は信じがたい法であるぞ」と説かれています。それは私達がいかに疑り深いかということです。せっかく救ってやると阿弥陀様がおっしゃりお釈迦様が後押しして下さっているのに、「お念仏で本当に救われるのか」、「極楽なんて本当にあるのか」、「阿弥陀様なんて本当にいるのか」などと自分の知識や経験にないものを疑い、信じることができないという私達ではありませんか。そんな私達のために六方の諸仏がくどいほどに「阿弥陀様の教えは間違いない」と仰っているのです。この仏様もあの仏様もその仏様もどの仏様もみんな「阿弥陀様の教えは間違いない」と証明して下さっているのです。微に入り細に至るまで私達を信じせしめようとご苦労下さっているのですね。

元祖大師法然上人ご法語 前篇 第六章

原文

酬因感果(しゅういんかんか)の理(ことわり)を大慈大悲(だいじだいひ)の御心(みこころ)の内に思惟(しゆい)して、年序(ねんじょ)そらに積もりて星霜(せいそう)五劫(ごこう)に及べり。しかるに善巧(ぜんぎょう)方便を巡らして思惟(しゆい)し給えり。しかも、我別願をもて浄土に居(こ)して、薄地底下(はくじていげ)の衆生を引導すべし。その衆生の業力(ごうりき)によりて、生まるるといわば、難(かた)かるべし。我(われ)須(すべから)く衆生のために、永劫(ようごう)の修行を送り、僧祇(そうぎ)の苦行を巡らして、万行万善(まんぎょうまんぜん)の果徳(かとく)円満し、自覚覚他(じかくかくた)の覚行窮満(かくぎょうぐうまん)して、その成就せんところの万徳無漏(まんとくむろ)の一切の功徳をもて、我が名号(みょうごう)として衆生に称えしめん。衆生もしこれにおいて、信をいたして称念(しょうねん)せば、我が願に応えて生まるることを得(う)べし。

 

現代語訳

法蔵菩薩は、修行という原因に応じてその報いたえられるというすじみちを、(衆生のために)大慈大悲の御心でお考えになるうち、年数はいつしか積み重なり、歳月は五劫に及びました。それでも巧みな手立てをあれこれとお考えになりました。
その上に、「私は特別の願を立てて浄土に住まいし、仏道修行の低い位にある衆生を導き入れよう。その衆生自身の修行の力で浄土に生まれるという(すじみち)であれば、それは難しいだろう。
私は是非とも衆生のために、限りなく長い修行生活を送り、果てしなく長い難行を重ねて、多くの修行と多くの善行の結果としての徳をも円かに満たし、自らも覚り他者をも覚らせるという覚りへの修行をも窮め、そのことで具わった、煩悩のけがれのない無数の功徳を、すべて私の名号にこめて、衆生に称えさせよう。衆生がもしこれを深く信じて称名念仏するならば、私の願に応じて、(間違いなく)生まれることができるであろう」(とお考えになったのです。)

 

解説

仏教とキリスト教は大きく違うところがいくつかあります。その一つは、キリスト教の神様は最初から神様という存在ですが、仏教の仏様は最初から仏ではないということが挙げられます。仏様はみんな修行して、悟りを開いて初めて仏になられます。ご本尊の阿弥陀さまも最初から仏ではありませんでした。阿弥陀さまの修行中のお名前を法蔵菩薩様といいます。
法蔵菩薩様は、すべての者を救いたいと願われました。しかしすべての者を救うことは大変なことです。仏教には因果応報の道理というものがあります。
因果応報とは「原因があって結果がある」ということです。善い行いをすれば結果として楽がもたらされます。悪い行いをすれば苦しみがもたらされます。それも自業自得といって、自分の行いの結果は必ず自分に返ってきます。
法蔵菩薩様は「すべての者を救いたいけれども、どう見ても殆どの人たちは善い行いなどできないではないか、悪い行いばかりしているではないか」と考え込んでしまわれます。悪い行いをする者を善い方向へ導くことは因果応報の道理に背きます。
法蔵菩薩様は悩みに悩まれます。その悩まれる時間は五劫といわれます。劫というのは時間の単位です。お経にはこのように記されています。
大きな岩があるとします。百年に一度天から天女が降りてきて、羽衣で岩をスッと人撫でします。そうすると理屈上、目に見えないような僅かではありますが、岩が削れます。それを百年に一度繰り返し、徐々に岩が削れて無くなってもまだ一劫は終わらないとお経に説明されています。
寿限無という落語をご存じでしょうか。「寿限無寿限無五劫の擦り切れ」という五劫はこの法蔵菩薩様が悩まれた時間からきています。「子供が生まれたので名前を付けて下さい」と裏長屋の長者さんに頼んだところ、それでは「寿(ことぶき)限りなし」という意味で寿限無とつけようと言われます。「もっとめでたい名前はないですか」と言いますと、「では五劫の擦り切れと付けましょう」となり、天女の説明がなされます。五劫というのはとてつもない時間であるから、これを名前にすればさぞ長命に育つであろうというお話しです。この法蔵菩薩様が悩まれた時間からきているのです。今は多く裏長屋の長者さんに命名を頼んだことになっていますが、浄土宗のお寺の住職に頼んだ、というのが古い形なのだそうです。
黒谷金戒光明寺には五劫思惟像というお像があります。笑福亭鶴瓶さんが昔アフロヘアーをされていましたね。あのような大きな頭をしておられます。あのお像を見ますと多くの方が笑うのですが、実はあれは救われがたい者達を救うにはどうしたらよいかと悩んで悩んで悩み尽くして、頭がパンパンに腫れ上がったお姿なのです。とても笑うことなどできません。逆に言えば、私たちはそこまで悩んでいただかなければ救われない存在であることに気づかされるのです。では本文に入ります。
「酬因感果の理を大慈大悲の御心のうちに思惟して、年序空に積もりて星霜五劫に及べり。」酬因感果とは因果応報のことです。「法蔵菩薩様は、因果応報の道理からすると善い行いができない人々を救うことができないではないか、どうすれば救うことができるであろうと大いなる慈悲でもってお考え下さっているうちに、年月はいたずらに流れ、気が付けば五劫という時間が経っていた」ということです。
「善巧方便」とは、「善い方へ導く手だて」という意味です。「善い方向に導く手だてを駆使して、このように考えられた。私は別願を建てて浄土をつくって、修行の覚束ない、覚りに至る能力のない人々を救うのだ。しかし、その人々の行いによって往生することは難しいであろう。だから私は人々のために永遠ともいえる永い間修行をし、気が遠くなるほどの長い間苦行を積んで、すべての行、すべての善の功徳を成就させ、自ら悟り、他も悟らせる道を究めたならば、この身に具わった功徳すべてを一切漏らすことなく、私の名前に込めて、人々に称えさせよう。もし人々が信を持って我が名を称えるならば、私の誓いによって往生することができるであろう。」と法然上人が阿弥陀さまの立場に立ってお書き下さったものです。
本来私たちは自分が修行をしなくてはならないのです。しかし、阿弥陀さまは「とても修行についていける者などいないではないか」と考えられました。因果応報の道理からすると、自分が修行しなくては自分に善い結果をもたらすことなどできません。そこで五劫もの間考えに考えて「では私が代わって修行しよう」と永遠に近い長い間修行して下さったのです。そして私たちは悪い行いばかりを繰り返しますから、自分が結果として苦を受けなくてはならないところを、法蔵菩薩様が代わって苦しみを受けて下さったのです。そしてご修行下さったとてつもない功徳をご自分の為に使われるのではなく、この私たちの為にすべて使って下さったのです。功徳すべてを「南無阿弥陀仏」のたった六文字の中に収め込んで下さったのです。そして、「難しい修行はできないかも知れないが、私の名前を称えるぐらいならできるであろう。この名前に功徳すべてを収め込んだから、頼む、称えてくれ。お願いだから称えておくれ。」と言って下さっているのです。
ここまでお膳立てをして下さっているのです。後は信じて称えるのみです。
「お念仏いうても難しいですわ。なかなかねえ。」なんてことは口が裂けても言えないのです。
お念仏自体は簡単です。しかし続けることは確かに難しいです。でも法蔵菩薩様が、阿弥陀様がここまでして下さっているんだと思えば、続ける努力や工夫ぐらいはこちらがしなくてはならないと思いませんか。