成道山 法輪寺

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御法語

元祖大師法然上人ご法語第十五章

(原文)

(いち)(ねん)(じゅう)(ねん)(おう)(じょう)をすといえばとて、(ねん)(ぶつ)()(そう)(もう)すは(しん)(ぎょう)(さまた)ぐるなり。(ねん)(ねん)()(しゃ)(しゃ)といえばとて、(いち)(ねん)()(じょう)(おも)うは(ぎょう)(しん)(さまた)ぐるなり。(しん)をば(いち)(ねん)()まると(しん)じ、(ぎょう)をば(いち)(ぎょう)(はげ)むべし。(また)(いち)(ねん)()(じょう)(おも)うは、(ねん)(ねん)(ねん)(ぶつ)ごとに()(しん)(ねん)(ぶつ)になるなり。その(ゆえ)は、()()()(ぶつ)(いち)(ねん)(いち)()(おう)(じょう)()ておき(たま)える(がん)なれば、(ねん)ごとに(おう)(じょう)(ごう)となるなり。

 

(現代語訳)

「一念や十念でも往生する」と説かれるからといって、念仏をおざなりに称えるのは、(本願への)信心が念仏の行を妨げているのです。「念仏し続けて片時もやめないならば(往生できる)」と解釈されるからといって、「一念では(往生が)不確かだ」と思うのは、(念仏の)行が(本願への)信を妨げているのです。信心については「一念で往生できる」と信じ、行については、生涯続けて励むべきです。
また「一念では(往生が)不確かだ」と思うならば、一声一声の念仏が、それぞれに不信の念仏となります。そのわけは、阿弥陀仏(の本願は)、一念に一度の往生をあてがわれた願なので、念仏するたびにそれが往生のための行いとなるからです。(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊)

 

(解説)

念仏の教えは「阿弥陀様の本願を信じて南無阿弥陀仏と称えれば必ず阿弥陀様が救ってくださる」というみ教えです。そのお念仏の数についてお経には「たとえ十遍の念仏であっても」と記されています。中国の唐の時代にお念仏の教えを完成された善導大師は「十遍の念仏で救われる」というのは「一遍の念仏でも救われる」というこのなのだとおっしゃいます。
そうすると、「それじゃ一遍でいいじゃないか。阿弥陀様の教えを信じてさえいれば、多く称える必要などない。」という人が出てきます。「一念義」といいます。「一度念仏を称えた、その時にはすでに救われているのだ」というのです。
そ れに対して「いやいや、そうではないんだ。念仏は多ければ多いほどいいんだ」と言う人もできてきます。これを「多念義」といいます。
「一念義」は、称えることよりも信じること、「信」を重視します。「多念義」は、「信」よりも「行」を重視します。ですから、「一念義」か「多念義」かという議論は、「信」か「行」かという議論なのです。
法然上人はどのようにおっしゃっているかというと、「信」だけでもなく「行」だけでもない、どちらも必要なんだとおっしゃいます。どちらか片方でよいということではない、車の両輪のように「信」と「行」はお互いを励まし合いながら進んでいくのだとおっしゃいます。それをふまえて本文をお読みします。
「一念十念に往生をすといえばとて、念仏を疎想に申すは信が行をさまたぐるなり」「一遍十遍の念仏で往生するからといって、念仏を称えるのをいい加減にするのは信が行を妨げることになります。」
「念々不捨者といえばとて、一念を不定に思うは行が信をさまたぐるなり」
「念々不捨者」というのは、善導大師のお言葉で、一瞬一瞬に捨てない、つまり「ずっと続けていく」という意味です。ですから、「念仏をずっと続けていくようにと善導大師はおっしゃっているが、一遍の念仏では往生できないと思うのは、行が信を妨げているのですよ」となります。
次の言葉が法然上人の立場を明確に表現しています。「信をば一念に生まると信じて行をば一行に励むべし」「一遍の念仏で往生できるのだと信じてひたすら称えましょう」つまり一遍で往生できるからといって、一遍で終わりではないということです。たった一遍の念仏で往生できるのだから、益々称えましょうということです。
「又一念を不定に思うは念々の念仏ごとに不信の念仏になるなり」「一遍の念仏では往生できないと思うのは、一声一声の念仏がすべて信のない念仏になりますよ。」要は一遍でだめだというのなら、何遍称えてもだめでしょう、だめなものをどれだけ重ねてもだでしょう、というわけです。
「その故は阿弥陀仏は一念に一度の往生をあておき給える願なれば、念ごとに往生の業となるなり」「なぜならば、阿弥陀様は一遍の念仏で救うと願を立ててくださっているのだから、一声一声がどれも往生の業となるのですよ 」というのです。一声で往生なのですから、称える毎に「往生、往生、往生、往生」と往生の業が積み重なっていくのです。
ただ、そもそも十遍の念仏というのは、お経では臨終の時の十念をいいます。『観無量寿経』というお経には、生きている間散々悪いことをしてきた人が、臨終の時に念仏者によって初めて念仏の教えを聞いて、念仏を称えた人の、その称えた数が十遍であったけれども間違いなく往生したとあります。
臨終間際に念仏信仰のある人がお見舞いにやってきて、念仏の教えを伝え「今まで知らなかったけれどもそんなありがたい教えがあったのか」と気づき、南無阿弥陀仏と称えた人は往生するのです。
実際に臨終間際で念仏の教えと出会う人は多くはないと思います。でも私などは、枕経で初めてお会いする人がいます。恐らく今までお念仏を称えてはおられなかったでしょう。そういう人に私は枕経の際に直接話しかけます。「初めまして。法輪寺です。阿弥陀仏という仏様が私たちのために極楽浄土という絶対の幸せの国を作ってくださいました。南無阿弥陀仏と称える者はすべて極楽へと迎えとると言ってくださっています。今まであなたがお念仏を称えてこられたかどうかわかりませんが、どうか今称えてください。声に出して称えることはできないでしょうが、私も家族のみなさんも一緒にお念仏を称えてくださいますので、どうか最後の今、称えてください」と申し上げてお念仏を十遍称えます。それから改めて家族の方にご挨拶をし、打ち合わせをし、正式に枕経のお勤めをします。枕経というのは大事な時です。それが終わって念仏を称えてお通夜を勤めます。親しい人が故人を思って思い出話をするのもよいのかも知れませんが、取り返しのつかない大事な時ですから、やはりお通夜はお念仏を称えて過ごすべきでしょう。そしてお葬式で導師が引導を渡し、十遍の念仏を授けるのです。
信心さえあれば一遍の念仏でもいいなどと言いますが、私達凡夫の信心なんていい加減なものです。「ありがたいな」と思っても、そのまま放っておいたら信心なんてなくなってしまいます。だからやはり念仏を称えなくてはならないのです。ありがたいと思ったら、南無阿弥陀仏と称えるのです。そしてまたありがたいと信心を深めて更にお念仏を称えるのです。
また、「多念義」のように、ただ多く称えればよいと言っても、信心がなければ多く称えることなんてできません。信仰もないのに1万遍念仏を称えるなんてことは、苦痛以外の何者でもないでしょう。
信心を起こし、念仏を称え、また信仰を深める。これが法然上人がお説きくださるお念仏のみ教えです。

元祖大師法然上人ご法語第十四章

(原文)

(ほん)(がん)(ねん)(ぶつ)には(ひと)()ちをせさせて(すけ)をささぬなり。(すけ)というは、()()をも(すけ)にさし、()(かい)をも(すけ)にさし、(どう)(しん)をも(すけ)にさし、()()をも(すけ)にさすなり。(ぜん)(にん)(ぜん)(にん)ながら(ねん)(ぶつ)し、(あく)(にん)(あく)(にん)ながら(ねん)(ぶつ)して、ただ()まれつきのままにて(ねん)(ぶつ)する(ひと)を、(ねん)(ぶつ)(すけ)ささぬとはいうなり。さりながら、(あく)(あらた)(ぜん)(にん)となりて(ねん)(ぶつ)せん(ひと)は、(ほとけ)()(こころ)(かな)うべし。(かな)わぬもの(ゆえ)に、とあらんかからんと(おも)いて(けつ)(じょう)(しん)()こらぬ(ひと)は、(おう)(じょう)()(じょう)(ひと)なるべし。

 

(現代語訳)

本願の念仏には独立をさせて、助けを差しはさみません。「助け」というのは、智慧をも助けとし、持戒をも助けとし、菩提心をも助けとし、慈悲をも助けとして差しはさむのです。
善人は善人のままで念仏し、悪人は悪人のままで念仏して、ただ生まれつきのままに念仏する人を、「念仏に助けを差しはさまない人」と言うのです。
しかしながら、悪を悔い改め、善人となって念仏する人は、阿弥陀仏の御心に適うでしょう。
(ただし)仏の御心に適わない自分であることから、「ああだろう、こうだろう」と心配して、「必ず往生できる」という思いの起こらない人は、往生の確実でない人なのです。

 

(解説)

法然上人は色々なお言葉を残されていますが、その中でもしょっちゅう仰っていたお言葉というものがあります。「常に仰せられけるお言葉」と呼ばれるもので、この御法語もその一つです。
まず全体的に申し上げますと、念仏というのはあまりに簡単ですので、何となく頼りなく思われるようです。念仏だけでは物足りないから般若心経も称えた方が功徳があるような気がするのです。しかし念仏は阿弥陀さまがご修行くださったすべての功徳を収め込んでくださった、極楽へ往生するためにはこの上ない行です。私たちが私たちの力で極楽へ往生するのではありません。私たちは極楽浄土への往生を願い、阿弥陀さまがご用意くださったお念仏を称えるだけです。阿弥陀さまのお力によって救われるのです。この阿弥陀さまのお力を他力といいます。いわゆる「他人まかせ」の他力ではありません。本来他力とは、阿弥陀さまのお力を限定していうものです。自分の力ではとても極楽へ往生することなど覚束ない私たちが念仏を称え、阿弥陀さまの力によって初めて往生するのです。どんなに罪深い身でも阿弥陀さまは必ず救って下さいます。そのことを踏まえ、本文を見ていきましょう。
「本願の念仏にはひとりだちをせさせて助をささぬなり。」
「阿弥陀さまの本願であるお念仏は、ひとりだちをしたものであって、補助が必要なものではないのだ。」
ここで助とは何かを具体的に挙げています。
知恵、持戒、道心、慈悲の四つです。私たちは知恵がある人の念仏の方がそうでない人の念仏よりも勝れているように思います。また、戒を守って生活を厳しく整えている人の念仏の方が勝れているように思います。「必ず悟りを開いて人々を救うぞ!」という強い決意を持った人の念仏の方が勝れているように思います。全ての人へ慈しむ人がいたならば、その人の念仏の方がそうでない人の念仏よりも勝れているように思います。しかしそうではありません。私たちは私たちが勝れているから救われるのではないのです。決して勝れた身ではない私たちが、阿弥陀さまの力でのみ救われるのです。
善人は善人のまま、悪人は悪人のまま、ただ生まれつきのままに念仏する人こそ、「念仏に助をささない人」というのです。その身そのままで阿弥陀さまはお救いくださるのです。
しかしこのように言いますと、必ず勘違いする人が出てきます。「念仏を称えれば救われるというなら、どんなに悪いことをしてもいいのか」という人です。もちろんそんなことはありません。本来仏教は「悪いことはやめましょう。善いことをしましょう。」というのが基本です。ただ、私たちには煩悩があるので善い行いがなかなかできません。善い行いができないだけでなく、煩悩による悪い行いが知らず知らずの内にも積み重なっていくのです。だからといって開き直ってはいけません。悪い行いをしたくないのにしてしまうのと、「どうせ悪い行いしかできないのだから、どんどん悪い行いをすればいい」と開き直るのでは大違いです。「悪を改め、善人となって念仏しようという人」が阿弥陀さまの御心に叶う人です。
また逆の勘違いもあります。自分を深く見つめる余りに、「私のような愚かな者は、阿弥陀さまの力でも往生などできない」と仏の力を疑ってしまうのです。私の力ではどうしようもないけれども阿弥陀さまの力は大きいのです。それを信じなくてはなりません。「どうせ私は愚かで、阿弥陀さまの御心になど叶わない」と、ああだこうだ思って往生決定の心が起こらない人は往生できないと書かれています。
阿弥陀さまの力を信じるということは、簡単なようで難しいのですね。こちら側の計らいを捨てて阿弥陀さまにお任せしていくのです。これだけのことをしっかりと信じることは昔から難しかったのでしょう。昔から勘違いする人が多かったのでしょう。だからこそ法然上人は、常に仰せられたのでありましょう。

 

元祖大師法然上人ご法語第十三章

(原文)

往生(おうじょう)の行(ぎょう)多しと雖(いえど)も、大いに分かちて二つとし給えり。一つには専修(せんじゅ)、いわゆる念仏なり。二つには雑修(ざっしゅ)、いわゆる一切の諸々(もろもろ)の行なり。上(かみ)にいう所の定散(じょうさん)等これなり。往生礼讃(おうじょうらいさん)に曰(いわ)く、若(も)しよく上(かみ)の如(ごと)く念々(ねんねん)相続して畢命(ひつみょう)を期(ご)とせば、十は即ち十生(しょう)じ、百は即ち百生(しょう)ず。専修(せんじゅ)と雑行(ぞうぎょう)との得失(とくしつ)なり。得(とく)というは往(お生する事を得(う)。曰(いわ)く、念仏する者は十は即ち十人ながら往生し、百は即ち百人ながら往生すという、これなり。失(しつ)というは曰く、往生の益を失えるなり。雑行の者は、百人が中に稀(まれ)に一二人(いちににん)往生する事を得(え)て、その他(ほか)は生ぜず。千人が中(なか)に稀に三五人(さんごにん)生まれてその余(よ)は生まれず。専修の者はみな生まるる事を得(う)るは何(なん)の故(ゆえ)ぞ。阿弥陀仏の本願に相応せるが故なり。釈迦如来の教えに随順(ずいじゅん)せるが故なり。雑業(ぞうごう)の者は生まるる事少なきは何の故ぞ。弥陀の本願に違(たが)える故なり。釈迦の教えに随(したが)わざる故なり。念仏して浄土を求むる者は、二尊(にそん)の御心(みこころ)に深く適(かな)えり。雑修(ざっしゅ)をして浄土を求むる者は二仏(にぶつ)の御心に背(そむ)けり。善導和尚(ぜんどうかしょう)、二行(にぎょう)の得失を判(はん)ぜる事これのみにあらず。観経の疏(かんぎょうのしょ)と申す文(ふみ)の中(うち)に、多く得失を挙げたり。繁(しげ)きが故(ゆえ)に出(いだ)さず。これをもて知るべし。

 

(現代語訳)

末法の時代の衆生を、極楽に往生できるかできないかの能力に当てはめて考えるとき、行が少なくても、疑ってはなりません。一遍や十遍(の念仏)で充分なのです。(悪業を犯す)罪人であっても、疑ってはなりません。「罪深くても、分けへだてはしない」と説かれています。
時代が下ったとしても、疑ってはなりません。仏教が滅んだ後の衆生でさえ往生することができるのです。まして末法の今については言うまでもありません。自身が悪くても疑ってはなりません。「私たちは煩悩を具えた凡夫である」と説かれています。
あらゆる方角に浄土は多くありますが、西方(浄土)を願うのは、十悪・五逆の罪を犯した衆生までもが生まれるからであります。様々な仏がおられるなかで、阿弥陀仏に救いを求めるのは、三遍や五遍(しか念仏できずに死に臨む者)に至るまで、自らお迎え下さるからであります。様々な行のなかで念仏を 往生するための行は多いけれども、(善導大師は)大きく分けて二つとなさいました。第一は専修、つまり念仏であります。第二は雑修、つまり(念仏以外の)あらゆる修行であります。前に述べた定善と散善がこれであります。
(善導大師の)『往生礼讃』には「もしもよく、前に述べたように、念仏を続けたまま命を終えることができた人は、十人いればそのまま十人が往生し、百人いればそのまま百人が往生する」とあります。専修の得と雑修の失とを述べた文です。
「得」というのは、往生することを得るということです。すなわち「念仏する者は、十人が、そのまま十人すべて往生し、百人が、そのまま百人すべて往生する」というこのことです。
「失」というのは、すなわち往生という利益を失うということです。雑修の者は、百人の中でまれに一人、二人、往生することができますが、その他の者は往生できません。千人の中で、まれに三人、五人が往生しますが、その他の人は往生しません。
専修(念仏)の者がみな往生することができるのはなぜでしょうか。阿弥陀仏の本願と一致しているからであり、釈尊の教えに随うからです。雑修の者が往生することが少ないのはなぜでしょうか。阿弥陀仏の本願に反するからであり、釈尊の教えに随わないからです。
念仏を行って極楽浄土を求める人は、釈迦・弥陀二尊の御心に深く適っています。雑修を行って浄土を求める人は、二仏の御心に背いています。
善導和尚が二行の得と失とを判定されたのは、これに止まりません。『観経疏』という書物の中に、多くの得と失とを挙げておられます。多いので引用は致しません。ここでの説明によってご理解下さい。

(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊)

 

(解説)

浄土宗を開かれたのは法然上人ですが、法然上人はお釈迦さまが説かれたお経をご覧になってそのまま浄土宗を開かれたわけではありません。中国の唐の時代に浄土教を完成された善導大師が書かれた書物『観経疏』をご覧になって、涙を流して感動され「これこそが私たちが救われる道だ」という確信の元浄土宗を開かれたのです。法然上人は善導大師がすべてだとおっしゃいます。かつては浄土宗のことを善導宗といったほどです。
ですから浄土宗はお釈迦さまの教え、お経を、善導大師が解釈されたように理解するのです。
この文章はお手紙の一部分で、前後に文章があります。この御法語の前は「偏に善導一師による」という文章があります。本文の多くは善導大師のお言葉の引用です。
第12章とも重なるのですが、 内容は念仏とそれ以外の行の違いについて書かれています。
仏教の目的は苦しみ迷いの娑婆世界から逃れ出ることです。解脱といいます。解脱するには苦しみ迷いの原因である煩悩を断ちきらねばなりません。その煩悩を断ちきるために色んな修行方法があります。
殆どの宗派の修行はこの世で煩悩を断ちきるための修行です。座禅も托鉢も千日回峰行もすべてそうです。しかし私たちにはそのような難しい修行によって煩悩を断つ力がありません。それならばどうすればよいのでしょうか。私たちには力はないけれども、阿弥陀様は大きな力を持っておられるわけです。ですから阿弥陀様にお任せして極楽浄土へ往生させていただくのです。これが念仏の道です。極楽浄土へ往生したならばそこで煩悩を断ちきる修行をするのです。この世はとても修行がしにくいところですが、極楽は修行しやすいように環境が整っているところです。
最終的な目的は煩悩を断ちきって悟りを開くということで共通していますが、念仏の道は極楽往生を目指します。極楽へ往生したら、悟ることは間違いありませんから。
極楽へ往生するにはどうするのか?その手段が念仏なのです。念仏は極楽往き専門の行です。往生行といいます。他の行は殆ど極楽へ行く助けにはなりません。念仏以外の行は、この世で悟りを開くために修行だからです。役割が違うのです。ただ、廻向すればごく稀に往生することもあります。以上を踏まえて本文に入ります。
「往生の行、多しといえども大いに分かちて二つとし給えり。」
「往生することができる行は多くあるが、大きく分けて二つあると善導大師はおっしゃる。」「一つには専修、いわゆる念仏なり。二つには雑修、いわゆる一切の諸々の行なり。上にいうところの定散等これなり。」
「一つは専修念仏、もう一つはそれ以外の行である。先に挙げた(この御法語の前にある)定善、散善の行などである。」
「往生礼讃に曰く、もしよく上の如く念々相続して畢命を期とせば、十は即ち十生じ、百は即ち百生ず。専修と雑行との得失なり。」
「往生礼讃には、上に説くように、一念一念怠らず念仏して、それを生涯続けようと思う人は、十人の中に十人ながら、百人の中には百人ながら往生することができる、とある。このご文が専修と雑修の勝り劣りを言ったものである。」
「得というは往生することを得。曰く念仏する者は十はすなわち十人ながら往生し、百はすなわち百人ながら往生すというこれなり。」
「得というのは、往生することができることである。善導大師が、念仏を申す者は十人が十人とも往生し、百人が百人とも往生する、とおっしゃっているのがこれである。」
「失というは、曰く往生の益を失えるなり。雑行の者は百人が中に稀に一二人往生することを得て、その他は生ぜず。千人が中に稀に三五人生まれてその余は生まれず。」
「失ということについて善導大師は、これは往生するという利益を逃がすことである。雑行の者は百人の中に稀に一人二人往生することができてもそれ以外の人は往生できない。また千人の中に三人か五人往生できてもそれ以外は往生できない、とおっしゃる。」
「専修の者は皆生まるることを得るは何の故ぞ。阿弥陀仏の本願に相応せるが故なり。釈迦如来の教えに随順せるが故なり。」
「専修念仏の者は皆往生することができるのはどうしてか。それは阿弥陀様の本願に合っているからである。お釈迦さまの教えに随っているからである。」
本願とは阿弥陀様が「南無阿弥陀仏と称える者はすべて極楽浄土へ迎えとってやるぞ」とお誓い下さったものを指します。「座禅をする者を救う」とはおっしゃっていないのです。念仏する者なのです。そうおっしゃるからそれに随うという、単純明快なことなのです。
お釈迦さまは多くの教えを説かれました。しかしお釈迦さまは、後の人は時代が悪くなり各々の力も劣っていくことをご存じでした。ですから、阿難というお弟子に「後の者達のために念仏を残してやれよ。念仏でなかったら後の者達はどの教えにもついていけないのだから」とおっしゃいます。つまり後の私たちにとりましては、念仏を称えて極楽往生を求めることがお釈迦さまの教えに随うことになるのです。
「雑業の者は生まるること少なきは何の故ぞ。弥陀の本願に違える故なり。釈迦の教えに随わざる故なり。」
「念仏以外の行をする者は殆ど往生することができないのはどうしてか。阿弥陀様の本願と異なるからである。お釈迦さまの教えに随っていないからである。」
「念仏して浄土を求むる者は、二尊の御心に深く適えり。雑修をして浄土を求むる者は二仏の御心に背けり。」
「念仏を称えて極楽往生を求める者は、阿弥陀様、お釈迦さまのお二方の御心に深く適っている。念仏以外の行をして極楽浄土への往生を求める者は阿弥陀様、お釈迦さまの御心にお背いている。」
「善導和尚、二行の得失を判ぜることこれのみにあらず。観経疏と申す文の中に多く得失を挙げたり。繁きが故に出さず。これをもてしるべし。」
「善導大師がこの二行の勝り劣りを書かれているのはこれだけではありません。観経の疏という文の中にそれ以外の多くの勝り劣りを挙げておられる。しかし余りに煩雑なのでここには書かない。以上述べてことによってご理解頂けると思います。」
日本は雑多信仰と言われます。クリスマス、大晦日は除夜の鐘、正月は神社と節操がありません。しかしこれはイベントですからそう目くじらを立てるほどのこともありません。 日本で信仰深いと言われる人は、朝早くから起きてお地蔵さんにお参りをし、お不動さんにお参りをし、八幡さんにお参りをし、天神さんにお参りをし、大黒さんにお参りをするような人をいいますね。
しかしどの宗教、どの宗派からしてもそれは危なっかしいのです。どの教えにも目的があります。念仏以外の他の行をしていても往生は叶いにくいのです。往生するには念仏です。また念仏を称えてこの世で悟りを開くことはできません。それにはそれに適した修行があるのです。
ただ、私たち自身の力を顧みると、色んな修行がある中で念仏を選ぶ力はないでしょう。難しい修行をして煩悩を断ちきることができないからこそ念仏なのです。念仏以外に選べる力など私たちにはないのです。念仏こそが私たちが救われる唯一の行なのです。

元祖大師法然上人ご法語第十二章

原文

それ速(すみ)やかに生死(しょうじ)を離れんと思わば、二種の勝法(しょうぼう)の中(うち)に、しばらく聖道門(しょうどうもん)を閣(さしお)きて、選びて浄土門に入(い)れ。浄土門に入(い)らんと思わば正雑(しょうぞう)二行の中(うち)に、しばらく諸々の雑行(ぞうぎょう)を抛(なげす)てて、選びて正行(しょうぎょう)に帰(き)すべし。正行を修(しゅ)せんと思わば、正助(しょうじょ)二業(にごう)の中に、なお助業(じょごう)を傍(かたわ)らにして、選びて正定(しょうじょう)を専(もは)らにすべし。正定の業(ごう)というは、即ちこれ仏の御名(みな)を称(しょう)するなり。名(な)を称すれば必ず生まるることを得(う)。仏の本願によるが故に。

 

現代語訳

さて、速やかに迷いの境涯を離れたいと願うならば、二種の勝れた教えの中で、まずは聖道門をさしおいて、選んで浄土門に入りなさい。

浄土門に入ろうと願うならば、正行と雑行の二行の中では、まずはもろもろの雑行をなげうって、選んで正行を依りどころとしなさい。

正行を修めたいと思うならば、正業と助業との二業の中では、やはり助業を脇に置き、選んでひたすら正定業に励みなさい。正定業というのは、つまり阿弥陀仏の名号を称えることです。名号を称えれば、必ず(浄土に)生まれることができます。阿弥陀仏の本願によるからです。

(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会)

 

解説

法然上人は多くのお言葉を残されていますが、その大部分はお弟子さんが法然上人からお話を聞いて、それを記録されたものや手紙などです。著作はただ一つだけで、『選択本願念仏集』といいます。
選択は普通「せんたく」と読みますね。浄土真宗ではこれを「せんじゃく」と読みます。浄土宗では伝統的に「せんちゃく」と読み慣わしています。
選択の意味はせんたく、つまり選ぶなのですが、法然上人は特に仏さまが選んだもののみに選択という言葉を使っておられます。
阿弥陀さまは「我が名を呼ぶ者を必ず救う」と本願を建てて下さいました。座禅をする者を救うとおっしゃったのではありません。滝に打たれた者を救うとおっしゃったわけでもありません。千日回峰行を行った者を救うとおっしゃったのでもありません。ただ「我が名を呼ぶ者」つまり念仏を称える者を救うとおっしゃったのです。ということは、阿弥陀さまは他の行ではなく、念仏を「選択」されたということになります。
お釈迦さまは、「後の時代の者のために念仏を残せよ」と観無量寿経というお経の中でおっしゃっています。お釈迦さまの時代は宗教的に勝れた人が多かったのです。しかし、時代を経るに従って、科学は発達していくけれどもそれに反比例するかのように宗教的な能力は劣ってきました。お釈迦さまは多くの教えを説かれたのですが、時代が下がるとその教えを行う力を持っている人がいなくなってしまうということを先にご存じでした。ですから、後の人々のためには念仏を残してやれよとお弟子の阿難尊者という方に託されたのです。つまり、後の私たちのためにお釈迦さまは念仏を「選択」して下さったのです。
阿弥陀さま、お釈迦さま以外の仏さまはどうかと申しますと、阿弥陀経というお経の中で、「阿弥陀仏の念仏の教えは間違いないぞ、皆信じて往けよ」と念仏の教えの素晴らしさを証明して下さっています。つまり諸仏も念仏を「選択」して下さったのです。
さて、今日の御法語はその『選択本願念仏集』が第一章から第十六章まである中の第十六章の一部分です。第十六章は全体のまとめの部分です。
「選択」という言葉は仏の「選び」だと申しましたが、この御法語は数ある教えの中で私たちが選んでいくものについて書かれています。私たちの「選び」です。
では本文を読んでいきましょう。
「それ速やかに生死を離れんと思わば、二種の勝法の中にしばらく聖道門をさしおきて選びて浄土門に入れ。」
生死という言葉はイコール輪廻です。私たちは生まれ変わり死に変わりを繰り返しているといいます。多くの人が、輪廻というと人間に生まれ変わると思っていますが、殆どそんなことはないのです。私たちのような煩悩だらけの者が生まれる世界は地獄か餓鬼道か畜生道です。仮に人間に生まれたとしても人間もまた苦しみの世界です。命が尽きたらまた地獄か餓鬼道か畜生道へ堕ちるかもしれません。苦しみの世界を生まれ変わり死に変わりし続けているのが今の私たちです。そこから逃れ出るのが仏教の目的です。輪廻からの解脱です。輪廻しないようにすると言ってもいいでしょう。その方法に二つあるというのです、。
「速やかに輪廻の世界から離れようと思うならば、二つの勝れた方法がある内の聖道門を置いておいて、浄土門に入りましょう」ということです。
聖道門とは「自力」の教えです。自分の力で悟りを開くのです。難しい修行や学問をして、自分を磨き、修行して煩悩を断ち切るのです。それには自分が優れていなくてはなりません。かたや浄土門は、自分は優れていないけれども阿弥陀さまという優れた方がいる。だから阿弥陀さまにお任せして、阿弥陀さまに救っていただくという「他力」の教えです。
どちらも優れているけれども、自分自身の能力を鑑みた場合に「どうか?」ということです。先ほども申したように、お釈迦さまの時代から随分下った時代に生きる私たちの宗教的な能力は劣っています。煩悩を断ち切ることができる私でしょうか。難しい修行に耐えて覚りに至ることができる私でしょうか。
今の私たちは色んな教えがある中で「これにしようか、あれにしようか」と選べる立場ではありません。私たちができて、私たちが救われる教えは念仏しかないのです。
「浄土門に入らんと思わば正雑二行の中にしばらく諸々の雑行を投げ捨てて選びて正行に帰すべし」
「浄土門に入ろうというなら正行と雑行の二行がある中の雑行をやめて、正行を選びましょう。」
浄土門を二つに分けると正行と雑行の二つがあります。ここには書かれていませんが、選択集の別の章に正行に五つあることが明らかにされています。五種正行といいます。
一つは読誦正行です。浄土三部経を読むことです。浄土三部経とは、無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の三つです。浄土三部経には阿弥陀さま、極楽浄土、念仏のことが詳しく書かれています。それを読むのです。
二つ目は観察正行です。お仏壇は極楽浄土を象ったものです。お仏壇を見て、「阿弥陀さまの元でご先祖様も幸せに過ごしておられるんだなあ。極楽はきっと素晴らしいところなんだろうなあ。いつか命が尽きたら極楽へ往ってみたいものだなあ」と極楽を恋いこがれることを観察正行といいます。
三つ目は礼拝正行です。仏法僧の三宝(ここでは阿弥陀仏、浄土三部経、極楽の聖衆)に体で敬いを表すことです。お経を読んでいるときも頭を下げる箇所が何カ所もありますね。チベットのお坊さんが地面に頭をこすりつけて仏さまを敬っている姿をテレビなどでご覧になったことがあるかもしれません。浄土宗でもそのように五体頭地接足作礼をします。色んな礼拝がありますが、仏さまを敬えば自然と頭が下がりますし、体で敬いを表しておれば自然と敬いも出てくるというものです。敬っているけれども体はふんぞり返っているというのはあり得ない話です。電話をしていても相手が大事な人であれば、向こうからは見えないのに一所懸命頭を下げるはずです。それと同じように敬いは体が伴うのです。
四つ目は称名正行です。実際に南無阿弥陀仏と称えることです。
五つ目は讃歎供養正行です。阿弥陀様を讃えたり、阿弥陀様にお供えをすることです。
この五つの行、五種正行は極楽に近しい行ですので正行というのです。
正行の正は分解すると一と止になります。これは一つに止める、つまりそれ専門の行という意味があります。ここでは極楽往き専門の行を正行というのです。
この正行以外を雑行といいます。雑行といいますと、いかにも役に立たないように聞こえますが、そうではありません。極楽往き専門の行でないものを雑行というのです。
ですから般若心経を読むのは雑行です。般若心経を読んでも極楽へは往けません。あるいは西国霊場を巡ることも雑行です。座禅も雑行、千日回峰行も雑行、写経も雑行です。これについては後にもう一度申します。
「正行を修せんと思わば、正助二業の中に、尚助業を傍らにして選びて正定をもはらにすべし」
正行を更に二つに分けます。正定業と助業です。
「正行をしたいと思うならば、正定業と助業の二つがあるうちの助業をおいておいて、正定業をしなさい」
「正定の業というは、即ちこれ仏の御名を称するなり。名を称すれば必ず生まるることを得。仏の本願によるが故に」
「正定の業というのは、阿弥陀様の名前を称えることである。名前を称えれば必ず往生することができる。阿弥陀様の本願に随うのであるから」
阿弥陀様が「南無阿弥陀仏と称える者を必ず極楽浄土へ迎えとってやるぞ」とお約束くださった、それを本願といいます。阿弥陀様は「南無阿弥陀仏と称える者」を極楽へ迎えとると往って下さったのです。「般若心経を読む者」、「西国霊場を巡る者」、「座禅をする者」、「千日回峰行をする者」、「写経をする者」を極楽浄土へ迎えとるとはおっしゃっていないのです。
ですから私たちは往生を願って念仏を称えるのみです。それだけをやっていればよいのです。念仏は誰にでもできますし、その中には阿弥陀様が修行された一切の功徳が収まっているのですから、こんなに有り難いことはありません。ただ、行ずる側の私たちは弱いのです。簡単な行すら簡単にできません。
そこで助業が必要になってきます。助業とは念仏をしやすくするものです。決して念仏の功徳が足りないから補足するものではありません。
読誦正行をして、浄土三部経を読めば、極楽浄土、阿弥陀様、お念仏のことが詳しく記されています。それで「ああ、極楽とはこういうところか、阿弥陀様はこんなに有り難い方なのか、お念仏はこんなに尊いものなのか」と理解すれば、当然お念仏が称えやすくなります。
観察正行をして、極楽浄土を想像して恋い焦がれたならばお念仏が出てきます。
礼拝正行をして、阿弥陀様への敬いを体で表せばお念仏が出やすくなります。
讃嘆供養正行をして阿弥陀様を讃え「阿弥陀様お召し上がり下さい」とお供えをすれば当然お念仏が出るわけです。
このようにお念仏を出やすくする行いを助業といいます。
この五種正行は最も極楽、阿弥陀様、お念仏に近しいものですが、先ほど雑行として一度排除したものもお念仏のためになるならば助業となります。
般若心経を読むことも、読んで「このような真理に到達するための修行はとても私には覚束ない」と自覚してお念仏に向かうならば立派な助業です。
西国霊場を巡って「観音様は有り難いなあ。観音様にお会いするために極楽へ往きたいなあ」とお念仏を称えるならば助業となります。
更には歩く時に必ずお念仏を称えるという人は歩くことが念仏の助業となっています。料理するときに称える人は料理が念仏の助業となっています。お風呂に入ることも寝ころぶことも、あらゆることを念仏の助業にすれば、念仏は決して難しいものではなく、どんどん相続することができるのです。

元祖大師法然上人ご法語第十一章

原文

ただ心の善悪(ぜんなく)をも顧(かえり)みず、罪の軽(かろ)き重きをも沙汰(さた)せず、心に往生せんと思いて、口に南無阿弥陀仏と称(とな)えては、声に尽きて決定(けつじょう)往生の思いをなすべし。その決定心(けつじょうしん)によりて、即ち往生の業(ごう)は定まるなり。かく心得えねば往生は不定(ふじょう)なり。往生は不定と思えばやがて不定なり。一定(いちじょう)と思えば一定する事にて候うなり。されば詮(せん)は、深く信ずる心と申し候うは、南無阿弥陀仏と申せばその仏の誓いにていかなる身をも嫌わず、一定迎え給うぞと深く頼みて、いかなる咎(とが)をも顧みず、疑(うたご)う心の少しもなきを申し候うなり。

 

現代語訳

ただ心の善悪をも顧みず、罪の軽重をも問題とせず、心に「往生したい」と願って、口に「南無阿弥陀仏」と称えては、声にあわせて「必ず往生できる」という思いを抱きなさい。

その「必ず往生できる」という思いによって、たちまち念仏による往生が確かなものとなるのです。このように心得ないと、往生は不確かです。「往生は不確かだ」と思えば、そのまま不確かです。「確実だ」と思えば、確実なものとなるのです。

ですから結局は(この)深く信じる心というのは、「南無阿弥陀仏とお称えすれば、その阿弥陀仏の誓いによって、どのような身でも分け隔てなく、確実にお迎え下さるのだ」と、深く頼みとして、どのような(わが身の)罪も顧みず、疑う心が少しもないことを言うのであります。    『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊

 

解説

仏教の教えは「人生そう長くないのだから、やりたいことをし、おいしい物を食べて、会いたい人と会って、楽しく過ごすのが幸せだ。」という教えではありません。逆にそんなことをしていても決して幸せにはなりませんという教えだと言っても過言ではないでしょう。
まず自分を深く深く見つめましょうということを大切にします。
しかし自分を見つめると言ってもその見つめ方には色々とあります。
「私は素晴らしいのだ、本当は無限の可能性を持っているのにそれに気づいていないだけなんだ。」という見方もあります。最近の歌の歌詞や詩人の詩などにはこのような考え方が多いようです。他にもコマーシャルのコピー、それから新興宗教にもそのような説き方をするところが多くあります。
悲観的になって自暴自棄に陥っている人に対してはこう説くことも一つの手段でしょう。しかし最近は余りにこの価値観を広げすぎのような気がします。「自分は本当は素晴らしいのだ」と根拠のない自身を持ち、他人を見下す若者がいたり、「自分には無限の可能性があるのに今くすぶっているのは親の育て方が悪いのだ。社会が悪いのだ。」と他人のせいにするのです。
浄土宗で言う「自分を見つめる」というのはこれとは正反対です。自分の「愚かさ」を見つめるのです。煩悩によって正しい見方ができず、正しい行いができず、悪業を重ねている自分に気づくのです。その煩悩にまみれた私は自分の力ではどうにも救われがたい身であるということをしっかりと見つめるのです。そして、阿弥陀様にすがるより外に道はないと気づき、こんな煩悩だらけの私であるけれども阿弥陀様は間違いないなくお救いくださるということをしっかりと信じるのです。
これを踏まえて文章を見て参ります。
「ただ心の善悪をも顧みず、罪の軽き重きをも沙汰せず、心に往生せんと思いて、口に南無阿弥陀仏と称えては、声につきて決定往生の思いをなすべし。」
自分自身の心の中をしっかり見つめ、善い心なのか悪い心なのかを考えると、どう考えても悪い心ばかりの私であることに気づかされます。しかしそんな私を阿弥陀様は必ず救いとってくださるのです。ですから「ただ自分の心の善悪も顧みることなく、自分の罪が軽い重いということも考えることもなく、心に往生するのだと思って口に南無阿弥陀仏と称えるならば、その一声一声によって往生すること間違いなしという思いを持つべきだ。」
往生間違いなしと強く思うことを決定心(けつじょうしん)といいます。
「その決定心によりて即ち往生の業は定まるなり。かく心得ねば往生は不定なり。往生は不定と思えばやがて不定なり。一定と思えば一定することにて候うなり。」
「その決定心によって往生は定まるのですよ。このように心得なければ往生は定まりません。往生は定まらないと思えばはっきりと定まりません。間違いないと思えば間違いないということです。」
往生はできると信じて念仏を称えればできるし、できないと思えばできないのです。よく「往生なんて死んでみないと分からないよ。極楽なんて本当にあるのかね。誰も見て帰ってきた人なんていてないよ」という人がいますが、そういう人は往生できないと法然上人はおっしゃっています。極楽は信じていない人が往くのではありません。往きたい人が往くところなのです。
「されば詮は、深く信ずる心と申し候は、南無阿弥陀仏と申せばその仏の誓いにていかなる身をも嫌わず、一定迎え給うぞと深く頼みて、いかなる咎をも顧みず疑う心の少しもなきを申し候なり。」
「だから要するに深く信じる心というのは、南無阿弥陀仏と称えれば阿弥陀仏の誓いによっていかなる愚かな身であってもお嫌いにならず、必ず迎えとって下さると深くおすがりして、いかなる自分自身の罪科をも顧みず極楽往生を疑わないのを深く信じる心というのですよ。」
自分自身がどうしようも救われがたい身であることを認識して、阿弥陀様におすがりするのです。私自身は愚かであるけれども、阿弥陀様のお力は大きいのです。どんな愚かな身でも救いとって下さるのです。
このような喩えがあります。
太平洋の真ん中で泳いでいるとします。本人は太陽が燦々と照り、美しい海で泳いでいることに満足です。「いつまでもこうやって泳いでいたいなあ」と思っています。しかし阿弥陀様から見ればこんなに危なっかしいことはありません。「アメリカや日本まで自力で泳ぎ着ける者ならいいだろう。でもそんな力がある者がどこにいるのか。いつ鮫や鱶の餌食になるかもしれない、いつ足がつっておぼれるかもしれない、そうでなくても間もなく力尽きておぼれ死ぬこと間違いないではないか」とご心配下さって、お慈悲の船で助けに来て下さっています。そしてお念仏という名の浮き輪を放って、「つかまれよ、助けてやるから!」と呼びかけ続けて下さっているのです。しかし危険に気づかず、楽しんでいると思いこんでいる者にはそんな声は聞こえません。もし聞こえても「大きなお世話だ」とばかりに無視します。このままでは手遅れになります。そんな時にもし自分が危ういことに気づいたらすぐそこに浮き輪があります。もしおぼれかかっても、すぐそこに浮き輪があります。ただつかまればよいのです。浮き輪に捕まった瞬間「助かった!」と思います。実際にはまだ船にまで引き上げられていないのに、「助かることは間違いない!」と思うことができます。これが決定心です。実際にはまだ極楽へ往生はしていません。往生するのは臨終の時です。しかしお念仏を称えていると間違いなく阿弥陀様が極楽へ往生させて下さると深く信じておれば、実際にまだ往生していなくても、往生したも同然の気持ちになるのです。浮き輪を持っていても引き上げられるまでは何があるか分かりません。大きな波が来るかもしれません。大雨が降るかもしれません。しかし、しっかりと浮き輪を掴んでいたら、絶対に助かると信じるという心が大切なのです。それは浮き輪がない時と比べたら不安の度合いが全く違うでしょう。しかしそれでも疑う人はいるものです。「このロープ切れるんじゃないか?」そう思うと浮き輪に捕まっていても不安で仕方ありません。「間違いなく引き上げてもらえるんだ」としっかり信じなくてはなりません。お念仏を称えていても色々と悩みや苦しみは日々起こります。しかし、いつか必ず憧れの極楽へ往生できるとしっかりと信じるならば、強い心を持つことができるはずです。力強く生き生きと生きることができるはずです。     (高松市浄願寺上野忠昭上人考案「浮き輪の譬喩」)
「念仏は死んでからの教えだ、生きる者には役に立たない」と言う人がいますがそれは大きな間違いです。信じる者は強いのです。