成道山 法輪寺

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御法語

元祖大師法然上人御法語 後篇 第二十三章

(本文)

まめやかに往生の志ありて、弥陀の本願を疑わずして念仏を申さん人は、臨終の悪きことは大方は候うまじきなり。そのゆえは仏の来迎(らいこう)したもうことは、もとより行者の臨終正念の為にて候うなり。それを心得ぬ人は、皆我が臨終正念にて念仏申したらん時に、仏は迎え給うべきなりとのみ心得て候うは、仏の願をも信ぜず、経の文をも心得ぬ人にて候うなり。そのゆえは称讃(しょうさん)浄土経に曰く、仏慈悲を持て加え助けて心をして乱らしめ給わずと説かれて候らえば、ただの時によくよく申しおきたる念仏によりて臨終に必ず仏は来迎し給うべし。仏の来迎し給うを見奉りて、行者正念に住すと申す義にて候。しかるに先の念仏を空しく思いなして、よしなく臨終正念をのみ祈る人などの候うは、由々しき僻胤(へきいん)に至りたることにて候うなり。されば仏の本願を信ぜん人は、かねて臨終を疑う心あるべからずとこそ、おぼえ候え。ただ当時申さん念仏をば、いよいよ至心に申すべきにて候。

 

(現代語訳)

真実に往生の志があり、阿弥陀仏の本願を疑うことなく念仏を称える人に、臨終の心が乱れることは、まったくありえないことです。そのわけは、仏が来迎されることは、そもそも念仏者を臨終に正念とさせるためだからです。それを心得ていない人はみな、「自分が臨終に正念であった上で念仏を称える時のみ、仏はお迎えになるはずだ」とばかり考えていますが、これは、仏の本願も信じることなく、経典の文言も理解していない人であります。

そのわけは、『称讃浄土経』に、「阿弥陀仏は慈悲をもって〔臨終の人を〕助けて、その心が乱れないようになさる」と説かれていますので、普段よくよく称えておいた念仏によって、臨終に必ず仏は来迎されるのだからです。仏が来迎なさるのを見て、念仏者が正念に留まるという道理なのです。

ところが常日頃の念仏を無意味だと思いこんで、根拠もなく臨終の正念だけを祈る人などがありますが、これは大変な考え違いに陥っていることになります。ですから、仏の本願を信じる人は、常日頃から臨終〔の正念〕を疑う心があってはならないと思われます。ただ、その時その時に称える念仏を、ますます真心をこめて称えるべきなのです。

 

(解説)

今回は「来迎」のお話しです。
「来迎」といいますのは、お念仏を称える者は臨終の時に阿弥陀さまがたくさんの菩薩さま方を引き連れて迎えにお越し下さることです。
浄土真宗では「らいごう」と読みますが、浄土宗では濁らずに「らいこう」と読みます。

よくご年配の方が「まだお迎え来ませんわ」とか、「そろそろお迎えが来ますやろ」とおっしゃいます。
これは「お迎え」を「死ぬ」ことと同意に受け取っておられるのでしょう。
別に目くじらを立てる必要はないのですが、「お迎え」はお念仏称える者の元に現れるものです。
お念仏を称えない者には「お迎え」は来ません。

阿弥陀さまが、この世で苦しむ私達をご覧になって、「どうしたら救うことができるだろう」と悩まれた末に、「難しいことをさせてもできる者は少ないであろう。しかし私の名前を称えることならできる。頼む、我が名を呼んでくれ」と願って下さっているのです。「頼む、救ってやるから私の名を呼べよ」と言って下さっているのです。
誰でもできる行を用意して下さっているのに、お念仏も称えずにお迎えだけ求めるのは虫が良すぎる話しです。

「阿弥陀さまがお迎え下さる」などと言いますと、おとぎ話のように思われる方がいらっしゃいますが、そんなものではありません。
うちのお檀家さんの中でも来迎を体験して亡くなった方は何人もおられます。
「うちのおじいさんが死ぬ時、ああ、阿弥陀さん、こっちですこっちです。ああよかった。阿弥陀さん来てくれはった。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。って言って亡くなりましてん」などとおっしゃいます。

死ぬときには意識がない場合が多いので、実際に「阿弥陀さん来てくれはった」とまで言えないことが多いことでしょう。
しかし意識があろうとなかろうとお念仏を称える人のところに阿弥陀さまが直々にお迎え下さることは間違いのないことです。

臨終の時は不安だといいます。
「愛」という言葉は今は殆ど「ラブ」の意味で使われていますが、元々は仏教用語で「執着」の意味です。
臨終の時には三つの愛心、「三愛」という心が起こってくると言われています。
一つ目は「自体愛」といいまして、自分の体を離れたくないという心です。
二つ目は「境界愛」といいます。
自分の家族、自分の家、自分の自分の…という自分の物を失いたくないという心です。
三つ目は「当生愛」といいます。
自分はどこに生まれるのだろうという心、人間世界を離れたくないという心です。
今まで人生において、色々な経験をし、色々な知識を積んできたけれども、死んだ後どこへ行き、どうなるのかは経験ありません。
「自分は一体どうなるんやろう」「また人間に生まれ変わるのか、動物になるのか、地獄に行くのか」「もしかしたら何も無くなってしまうのか」…色々なことが頭を駆けめぐります。
でも分からないので不安になることでしょう。
そんな不安な時に日頃信仰している阿弥陀さまが目の前に現れて下さったら、どれほど心が安らぐことでしょう。
「ああよかった、極楽へ往ける」と心から安心できること間違いなしです。
「ああ、阿弥陀さん、こっちですこっちです。ああよかった。阿弥陀さん来てくれはった。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と言って亡くなったおじいさんの言葉は本当に実感だと思います。

阿弥陀さまが来て下さってこそ心が静かになり落ち着くのです。
心が静かになることを「正念」といいます。
日頃からお念仏を称えている者は臨終の時に阿弥陀さまがお越しになって、そのお姿を見て散り乱れる心が落ち着き「正念」になるのです。

この臨終時の「正念」について、昔から間違った受け取りをする人が多かったようです。
それは、「正念になったら阿弥陀さまが来迎して下さる」という勘違いです。
だから臨終の心散り乱れ、不安で仕方が亡い時に周りで「心を落ち着けなさい!来迎してもらえませんよ!」と騒ぎ立てたのです。
こんなことをいくらしてもダメです。
いくら心を落ち着けろと言われても落ち着くものではありません。

法然上人は「そうじゃないですよ。阿弥陀さまがお越しになるからこそ正念になるのですよ。それには普段からのお念仏が何よりも大切ですよ」とおっしゃるのです。
臨終正念のために阿弥陀さまはわざわざ迎えに来て下さいます。

普段の念仏を疎かにして、臨終正念だけを祈るのはとんでもないことです。
阿弥陀さまがお救い下さることを信じてお念仏称える者には、臨終正念は疑いのないことです。
だから今申す念仏を大事にしなさいと法然上人はお説き下さっているのです。

今日のご法語は割と長いご法語ですが、内容は今申し上げたところです。
臨終の時は非常に大事な時です。

私の先輩から聞いた話です。
先輩が毎月ある一人暮らしのおばあさんのところへお参りに行っていました。
ある日いつものように月参りに行き、インターホンを鳴らすのですが、おばあさんは出てこられない。
何度鳴らしても出て来られないので仕方なく帰ったのです。
翌月行きますとおばあさんはおらました。
「おばあちゃん、先月も来ましたけどお留守でしたね。どこかに行ってたんですか?」と先輩が尋ねますと、「ああ、先月来てくれはったんですか。それはすみませんでした。実は私先月死んでましてな」とおばあさんが言うのです。
「え?死んでた?どういうことですか?」と先輩が聞きますと、おばあさんはこんな話をしてくれたそうです。

おばあさんは病気で入院して病院のベットで寝ていたのです。
そんな時に親戚の人が何人か一緒に見舞いに来てくれました。
先に亡くなったご主人のご兄弟で、普段殆ど付き合いをしていない方々です。
たまに会ってもイヤなことを言われる、仲の悪い人達です。
そんな人達ですが、一人暮らしの自分が入院したと聞いてわざわざ来てくれた、ありがたいなとおばあさん思っていました。

そのままベッドで目を閉じて寝ていると、お医者さんがやって来て、体をあちこち触られて唐突に「ご臨終です」と言われたのです。
おばあさんびっくりして起きようと思っても体が動かないのです。
そんな時に、見舞いに来た親戚の人達は「ご臨終です」とお医者さんが言ったとたん、「しかしこのおばあさんは根性の悪いおばあさんやったなあ」と悪口を言い出したのです。そして遺産相続の話をし出したというのです。
おばあさん「えらいこっちゃ」と思っていると、その親戚の一人が「何かおばあさん動いたような気がするで。もう一回お医者さん呼んでこよう」と言って、お医者さんを呼んできておばあさんは蘇生したというのです。
このおばあさんそれから十年程生きたそうですが、その親戚の人とは一切付き合いを断ったといいます。
そんな時に悪口や遺産相続の話をされたら、もうそこからどれだけ都合の良いことを言われても信用できません。

この話を聞いて、自坊に帰ってから先代に話しますと、「よく似た話がご近所でもあった」と言います。
他にも枕経を終えて帰ってきたら「生き返りましたからもう結構です」と言われたなどということを聞いたことがあります。
死後24時間経たないと火葬できないという法律があるのも、こうやって生き返るケースがあるからなのです。

もちろんこれはしょっちゅうある話ではありません。
一度死んでその間の会話を聞いて、生き返ってきたということは稀でありましょう。
しかし、聞こえていてそのまま死んでいく人は多いと思います。
聴覚は最後まで残るといいます。
お医者さんも聴覚が最後まで残る可能性は十分にあるとおっしゃっています。
お腹の中の胎児は最初に耳が聞こえるようになるそうです。
最初に耳が聞こえるようになって、最後臨終とお医者さんに言われた後も耳が聞こえていると考えます。
だから昔から臨終の枕辺で悪いことを言ってはいけない、と言われるのです。

そこはやっぱりお念仏でお送りするべきでしょう。
これは普段から思っておかないとできません。
人が亡くなったら悲しいですし、どうしてよいか分からずにおろおろしてしまいます。
親戚に電話をし、葬儀屋さんに電話をし、お寺に電話をするなどバタバタします。
そういう段取りをすることももちろん必要ですが、お念仏でお送りするということを普段から心得ておったならば、段取りをする人を誰かに決めて、少なくとも一人が枕辺でお念仏をお称えすることができます。
最後に聞いた言葉が「葬儀屋さんに電話したか!」っていう怒鳴り声やったらイヤでしょう。やはりお念仏で送られたいものです。

それからもう一つ、亡くなる前に臨終行儀というものがあります。
突然死や事故死の場合はできませんが、「今晩がいよいよ山場」という場合ならば、いよいよの時は自分でお念仏を称えることができなくなります。
だから周りの人が手を握って、病院の場合は大きな声を出すと他の人の迷惑になりますので、耳元で小さな声で「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えます。
このときに、患者さんの吐く息に合わすのです。
「南無」「阿弥」「陀仏」と吐く息に合わせてお念仏を称えます。
吐く息に合わせるのは、患者さんの代わりに称えているということです。
これは大変なことです。
「今夜が山場」と言っても、今夜でないかもわかりませんし、時間もわからないわけですから。
交代で行えるならば行っていただきたいと思います。
もちろん普段のお念仏が最も大事で、普段からお念仏を称えていれば、臨終の時、称えることができなくなってもちゃんと阿弥陀さまがお迎え下さるのですが、できる状況ならばこういう臨終行儀もしていただきたいと思います。

亡くなってすぐの念仏も、臨終行儀も送る側の心得です。
普段から意識しておかないと絶対にいざというときにはパニックになります。

また、自分の最後のこともちゃんと元気なうちに家族の人に「こうやって欲しい」と伝えておくべきでしょう。
元気なうちにこういうことを言うと、「はいはい、分かったよ」と軽く流されてしまったり、「そんなこと考えたらあかん。えらい弱気になったなあ」などと息子さんや娘さんに言われてしまいがちです。
しかし根気よく何度も言っていると、「親父、お袋があれだけしつこく言ってたんやから、やってやるか」と思い出してくれるのではないでしょうか?
ウチのお檀家さんで、堺の泉北に住んでおられる方がいます。
80代のご夫婦です。毎年夏の棚行の時しか伺わないお家です。
ある夏もそのお家に伺いました。
いつも棚経の時は、そのご夫婦と嫁いだ娘さんがおられます。
その時のことです。

一年ぶりに伺いますと、奥さんの髪の毛がとても短くなっています。
「どうしはったんですか?」と私が聞きますと、「実は私ガンなんです。そのことでちょっと聞いていただきたいことがあるんですが、お勤めの後お時間いただけますか?」とおっしゃいます。もちろん「わかりました」とお答えし、お勤めの後お話を聞きました。
奥さんは「実は私は末期ガンで、あと数ヶ月の命と言われているんです。それで私自分でお葬式の段取りをしているんです。この辺りでは光明池に泉北メモリアルホールっていうところがあって近所の人は大抵そこでお葬式をしますので、私もそこに問い合わせて色々聞いているんです。こんな遠いところですけどおっさん私のお葬式に来てくれはりますか?」とおっしゃいますので、「もちろんですよ」とお答えしました。

そこからがこの奥さんの偉いところです。「おっさん、私お寺にも遠いからって言ってあんまり寄せてもらったことありませんし、不信心でした。今さら虫のええ話かも知れませんけど、これからの短い人生はどうやって過ごしたらいいんでしょうか?」とおっしゃいました。
私は「お念仏が一番ですよ。お念仏をお称えして最後までお過ごし下さい。ご病気でしんどいでしょうから、無理なく横になったままで称えられたらいいですよ。法然上人もいつでもどこでもどんなときでもとおっしゃっています。座ってても寝転がっていてもいいからとにかく極楽への往生を願ってお念仏をお称えして下さい。大きな声じゃなくてもいいです。小さな声でいいですから称えて過ごして下さい。それから、いよいよの時になったらご本人が称えれなくなりますから、臨終行儀というものをしていただきたいです」と娘さんに先ほど申し上げた臨終行儀のやり方をお伝えしました。
奥さんは「わかりました。これからの短い人生、今までの分を取り返す思いでお念仏をお称えします」とおっしゃり、娘さんも「わかりました」とおっしゃいました。

その2ヶ月後に奥さんは往生されました。やっぱりしっかりと最後までお念仏をお称えして過ごされたそうです。
娘さんもちゃんと臨終行儀をして送られたそうです。
ありがたいことです。

でもこのようなケースは本当に稀なことです。
死ぬ寸前にギリギリセーフでお念仏の教えに出会うなんていうのは滅多にないことです。だから今からお念仏なのです。
今が大事なのです。
今が臨終と心得て絶えずお念仏をお称えすることこそが大切なのです。

最後に私の先輩に教えていただいたことを申し上げます。
先輩が私に「お前、枕経の時どんな話をしてる?」って聞くのです。
私は「遺族の方に枕経の法要の内容を説明して、お念仏をお勧めする話をします」と答えました。
先輩は「お前は遺族の方に話をするんやな。僕は亡くなった人に話をするんや」と言うのです。
先輩は枕経に伺うと、亡き人に向かって「聞こえてますよね。いつも申し上げてきたことですが、いよいよご臨終の時ですからもう一度申し上げますね。阿弥陀さまが念仏を称える者は極楽浄土に迎え取るとお約束下さっています。だからそれを信じてご一緒にお念仏をお称えしましょう。私も称えますし、ご家族の皆さんもご一緒に称えて下さいますから、あなたも声には出せないでしょうがご一緒にお称え下さいね」と言ってお念仏を称えるのだそうです。これは聴覚が最後まで残るということが大前提で行っていることです。
このやり方は素晴らしいと思いまして、これを聞いてから私もこのやり方をするようになりました。
やっぱりお念仏でお送りしたいものです。

元祖大師法然上人御法語 後篇 第二十二章

(本文)

往生せさせおわしますまじきようにのみ、申し聞かせ参らする人々の候うらんこそ、返す返す浅ましく心苦しく候え。いかなる智者、めでたき人々仰せらるるとも、それに尚驚かせおわしまし候うぞ。各各の道にはめでたく尊(たと)き人なりとも、悟(さと)り異(こと)に行(ぎょう)異なる人の申し候うことは、往生浄土の為にはなかなか由々(ゆゆ)しき退縁(たいえん)悪知識(あくちしき)とも申しぬべきことどもにて候。ただ凡夫(ぼんぶ)の計らいをば聞き入れさせおわしまさで、一筋に仏の御誓いを頼み参らせおわしますべく候。

 

(現代語訳)

「往生などお出来になりません」とばかり、〔あなたに〕申し聞かせる人たちがおられるそうですが、本当に嘆かわしく気がかりなことです。どのような、学識のある人や立派な人々がおっしゃっても、そのことで決して同様なさってはなりません。それぞれの道では立派で尊敬すべき人であっても、解釈が異なり、修行が異なっている人の言われることは、極楽往生のためには、かえって大変な身を滅ぼす縁とも、道を誤らせるものとも申すべきでありましょう。

とにかく凡夫の考えをお聞き入れにならず、一途に仏のお誓いを頼みとなさいませ。

 

(解説)

法然上人の熱心な信者さんに正如房という方がおられました。

高貴な身分の方で、後白河天皇の娘ともいわれています。

よくお念仏をお称えになる方でした。

 

その正如房様がご病気になられ、もう先が長くないと自覚された。

それで最後一目法然上人にお会いして、お念仏のみ教えをお聞きしたいと、使いを出されるのです。

お使いが来た時、ちょうど法然上人は「別時」という、お堂に籠もって何日もお念仏を集中的に称える行に入っておられたのです。

普通なら、そんな高貴な身分の人が、しかもいよいよ臨終間際の時に最後一目会いたいとおっしゃったら飛んでいくことでしょう。

ところが法然上人はそうはなさらなかったのです。
代わりに長い長い丁寧な手紙を書かれました。

「あなたのご病気が重いとお聞きして、大変驚いております。そんな状態で私にお念仏のみ教えを聞きたいとおっしゃること、大変尊くありがたいことでございます。今お別時の行を行っておりますが、これを中断してそちらへ伺うべきなのかも知れません。しかし今面会してもかえってこの世に思いを残すだけでしょう」

今すでに正如房様は、先が長くないと覚悟しておられるのに、そこに面会に行きますと、かえって「死にたくない」という思いが強くなって苦しむだけになるでしょう。
だから法然上人は、「今あなたが臨終間際だとおっしゃるけれども、もしかしたら突然私が病気になり、先に死ぬかも知れないのですよ。この世はいつ死ぬかも予測できない無常の世界なのです。しかし前から言っているでしょう。お念仏を称える者は極楽浄土へ往生することができるのですよ。お念仏を称える者同士は必ず極楽浄土で再会することができるのですよ、。極楽で会いましょうよ」と励まされたのです。

正如房様が使いに渡された手紙には疑問が書かれていたようです。
病気になりますと、色んな人が色々教えてくれます。

クロレラがいいとか、アガリスクがいいとか、この病院がいいなどと、色々と教えて下さいます。

どの方も、良かれと思って言って下さるのですが、あまりに色々言われると困ってしまう時があります。

まだ健康法や治療法ならば順番に試すこともできますが、信仰のことになりますと、順番に試すことはできません。
正如房様の元にも病気と聞いて色々な人がお見舞いに来てくれたようです。

その人達が「念仏称えても往生なんてできない」とか「こちらの信仰の方がよい」などとおっしゃって、正如坊様は困ってしまうのです。

今まで繰り返し法然上人のみ教えを聞いて、念仏を称えれば極楽浄土へ往生できると信じて実践してきたが、来る人来る人が色んな信仰を押しつけて来るので、不安になってしまわれたのです。
「もしかしたら今まで信じてきた教えは間違っていたのかしら。聞き違えて私が勘違いしていたのかも知れない」
そう思って法然上人にお手紙を書かれたのです。

法然上人は懇切丁寧に長いご返事を書かれました。

今回の後編第22章はその長い手紙の一部分です。

「あなたがまるで往生できないかのように申し聞かす人々がおられるとのこと、返す返すも嘆かわしく心苦しいことです。どんなに賢い人や立派な人が仰ったことであっても、どうかそれにそのまま驚かされないで下さい。それぞれの道には秀でた尊い人であっても、悟り方向が違ったり、行う行が違う人が仰ることは、極楽浄土への往生のためにはかえってよろしくないことで、往生の道を妨げるものとも申すべきことです。ただ凡夫の計らいを聞き入れるのではなしに、一筋に阿弥陀様の誓いを頼りに極楽へ参らせていただくのですよ」ということであります。

よく病気になったり不幸なことが重なりますと、仏教系新宗教の人が来たり、キリスト教系新宗教の人が来たり、色んな怪しい信仰の人達が来るといいます。

普段ならそんな人が来ても気にせず、断ることができます。

しかし、イヤなことがやたらと重なるときもあるでしょう。

身近な人が次々に亡くなったり、思わぬ病気や事故に遭ったり、一所懸命頑張って働いているのに努力が実らずに他人の借金を背負わされたり、この世は色んなことがあります。

そんなとき、「なぜ私だけこんな目に遭わなくてはいけないの?」と思うかもしれません。

そこに「あなたの家の玄関の位置が悪いのです」とか、「お仏壇の方向が悪い」とか「墓石に傷が入っているのが悪い」とか「お念仏を称えていると地獄に堕ちる。南無妙法蓮華経と称えなさい」などと言われますとグラッとくるかもしれません。

「そうか、イヤなことが次々に起こるのはそのせいだったのか」と思ってしまっても不思議はありません。

自分の努力が報われずに不都合なことが続いて起こると、自分以外の何か他のところに原因があるのではないかと思えてくる。

「そうか、念仏を称えていたのが悪かったのか。お題目を称えなければ!」となってしまうのです。

人間とは本当に弱いものです。

また自分より賢い人、しっかりした人に言われるとつい弱気になってしまうこともあるでしょう。

お医者さん、弁護士さん、政治家等々。

そういう人が「あなた、本気でお念仏なんて信じているの?極楽なんてあるわけないだろう」と言われると、「アレ?今まで信じてきた信仰は間違っていたのかしら。こんな賢い人が言うのだから。私が信じていたものは幼稚なものかも知れない」と、グラつくのです。

正如房様もお念仏信仰で間違いないと思っていたのに、いよいよ死が近いという時になって、「念仏で往生なんてできないよ」と色々な人に言われて心が揺らいできたのです。

そこで法然上人に「今まで聞いてきた教えで間違いないですか?」と確認されたのです。

お念仏の教えはちゃんとお経に説かれている仏様の教えです。

賢いとか、偉いと言っても所詮凡夫。

凡夫の中で、凡夫の価値観で上下をつけているだけのこと。

仏さまでもない凡夫の言うこと聞く必要はありません。

極楽浄土は阿弥陀さまの国です。

極楽浄土へ行くには極楽の主の言う通りにしなくてはなりません。

阿弥陀さまは何とおっしゃっているか。

「我が名を呼べ。南無阿弥陀佛と称えよ。私が必ず極楽へ迎え取ってやるから」とおっしゃっているのです。

仏でも何でもない凡夫の言うことを聞くのではなく、仏様の言うとおりにするのです。
当たり前のことでありながら、フラフラとグラつく私達です。

注意しないといけませんね。

元祖大師法然上人御法語 後篇 第二十一章

(本文)

念仏して往生するに不足なしと言いて、悪業をも憚(はばか)らず行(ぎょう)ずべき慈悲をも行ぜず、念仏をも励まさざらんことは仏教の掟(おきて)に相違する也。例えば父母の慈悲は良き子をも悪しき子をも育(はぐく)めども、良き子をば喜び、悪しき子をば嘆くがごとし。仏は一切衆生を哀れみて、良きをも悪しきをも渡し給えども、善人を見ては喜び悪人を見ては悲しみ給える也。良き地(ぢ)に良き種を蒔(ま)かんがごとし。構えて善人にして、しかも念仏を修すべし。是を真実に仏教に順(したご)うものという也。

(現代語訳)

「念仏して往生できるのだからそれで充分だ」などと言って、悪業をもはばかることなく、もつべき慈悲の心をももたず、念仏にも励まないとすれば、仏教の掟に反しています。

たとえば父母の慈愛は、良い子も悪い子もいつくしみますが、良い子については喜び、悪い子については嘆くようなものです。仏はあらゆる衆生を哀れんで善人も悪人もお救いになりますが、善人を見ては喜び、悪人を見ては悲しまれるのです。

良い畑に良い種を蒔くようなものです。是非とも善人となり、その上で念仏を修めなさい。これを、真実に仏の教えに従う者というのであります。

(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊)

(解説)

法然上人の数多いお弟子の一人に、浄土真宗を開かれた親鸞聖人がおられます。
その親鸞聖人に有名な言葉があります。
「善人なおもて往生すべし。いわんや悪人をや」という言葉です。
日本史の教科書にも出てくる「悪人正機(あくにんしょうき)」と呼ばれる言葉です。
「善人でも往生するのだから、悪人が往生するのは当然だ」という意味です。
常識とは反対です。
実はこれと全く同じ言葉が、親鸞聖人のお師匠さまである、法然上人のお言葉として残っています。

ただ法然上人の場合は「罪人なおもて往生すべし、いわんや善人をや」という言葉、

「罪人でも往生するのだから当然善人も往生しますよ」という言葉も残されています。
こういう全く逆にとれる言葉を両方残されたことには理由があります。
法然上人は「対機説法」という、「相手に応じてその人に合うように法を説かれている」からなのです。
恐らく「親鸞聖人は自分は悪人である」という自覚を強く持っておられたので、

「悪人であるあなたこそが救われるんですよ」と法然上人は説かれたのでしょう。
それを聞いて親鸞聖人はきっと喜ばれたでしょう。
ですから親鸞聖人は、ことさらその「悪人正機」を強調されたのではないでしょうか。
「悪人正機」を強調することが良いのかどうなのかは、議論の分かれるところです。
少し間違えると、危険な方向にいく可能性があるからです。
法然上人のお弟子の中には「一念義」という、

「一遍のお念仏だけで往生できる」という考え方の人がいました。
「たった一遍の念仏でも阿弥陀さまはお救い下さる。

だから、たくさん称えるのは、阿弥陀さまを信じていない証拠だ」というのです。
また、「本願誇り」といいまして、「阿弥陀さまは、お念仏を称えるだけで救って下さるのだから、

いくら悪いことをしてもいいのだ、積極的に悪いことをする方が阿弥陀さまを信じていることになるのだ」

という考え方も出て参りました。
法然上人はこの「一念義」と「本願誇り」を強く戒めておられます。
「これは仏教じゃない」とまで言われました。
結局法然上人は晩年この「一念義」と「本願誇り」の弟子達が

勝手な解釈の教えを広めた責任をとられて流罪に遭われています。

この一念義や本願誇りを戒めたお言葉をいくつも残されておりますが、

今日のご法語もその一つです。
「念仏して往生するに不足なしと言いて、

悪業をも憚らず行ずべき慈悲をも行ぜず、念仏をも励まさざらんことは仏教の掟に相違するなり」
「お念仏を称えて往生することには、念仏以外に必要なことがない」

と言って…それは確かにそうなのです。
お念仏を称えて往生することに、他に何も加える必要はありません。
しかし、だからと言って「悪い行いも憚らないで、

やらなくてはならない慈悲を掛ける行いもせずに、またお念仏も励まない」

これはもう仏教じゃないのですよ、ということです。

「たとえば、両親の慈悲は良い子にも悪い子にも注がれるけれども、

良い子が育てば喜び、悪い子が育てば嘆くようなものですよ。

阿弥陀様はすべての人々を哀れんで、善い人も悪い人も往生させて下さるけれども、

善人を見ては喜び、悪人を見ては悲しみなさるでしょう。
それはまるで、良い土地に良い種を蒔けば良いように、

善人であって念仏を称える方が良いのですよ。

これが本当の仏教なのですよ」ということです。
「念仏を称えてるからいくら悪いことをしてもいいのだ」と言われると、

「それはいけない」と私たちは思いますね。
でも「浄土宗は念仏称えたら救われる教えだから、

何をしてもいい。だから楽でいいね」と聞くことがあります。
これは本願誇りと何ら変わりがありません。
私たち自身が本願誇りにならないように、

よくよく注意しなくてはなりません。

元祖大師法然上人御法語 後篇 第二十章

(本文)

ある時には世間の無常なることを思いてこの世のいくほどなきことを知れ。ある時には仏の本願を思いて必ず迎え給(たま)えと申せ。ある時には人身(にんじん)の受け難き理(ことわり)を思いてこの度空しく止(や)まんことを悲しめ。六道(ろくどう)を巡るに人身(にんじん)を得(う)ることは梵天(ぼんてん)より糸を下(くだ)して大海の底なる針の穴を通さんが如しといえり。ある時は遇い難き仏法に遇えり。この度出離(しゅっり)の業(ごう)を植えずば何時(いつ)をか期(ご)すべきと思うべきなり。一度悪道に堕(だ)しぬれば阿僧祇劫(あそうぎこう)をふれども三宝(さんぼう)の御名(みな)を聞かず。いかにいわんや深く信ずることを得んや。ある時には我が身の宿善を悦ぶべし。かしこきも卑しきも人多しと雖(いえど)も仏法を信じ浄土を願う者は稀(まれ)なり。信ずるまでこそ難からめ、謗(そし)り憎みて悪道の因をのみ造る、然(しか)るにこれを信じこれを貴(たと)びて仏を頼み往生を志すこれ偏(ひとえ)に宿善のしからしむるなり。ただ今生(こんじょう)の励みにあらず、往生すべき期(とき)のいたれるなりと頼もしく悦ぶべし。かようのことを折(おり)に順(したが)いことによりて思うべきなり。

 

(現代語訳)

ある時には、世間が無常であることを思って、この人生がさほど長くないことをわきまえなさい。

またある時には、阿弥陀仏の本願を思って、「必ず極楽へお迎えください」と口に出しなさい。

ある時には、人間としては生まれ難いという道理を思い、この人生がその甲斐もなく終わるかもしれないことを悲しみなさい。「六道を輪廻する中で、人の身を得ることは、梵天から糸を垂らして、大海の底に沈む針の穴を通すようなものだ」と言われています。

またある時には、「遇い難い仏教に遇うことができた。この生涯で輪廻を逃れるための修行を積まなければ、いつの日に期待できようか」と思うべきです。ひとたび悪道に墜ちてしまえば、阿僧祇劫という長い年月を経ても、仏・法・僧という三宝の名さえ聞くこともありません。ましてそれを深く信じることなどできましょうか。

ある時には、自分が前世で積んだ善業を喜びなさい。身分の高い人もそうでない人も多くいますが、仏の教えを信じて浄土を願う者はまれであります。信じることまでは難しいにしても、〔多くの人々は〕謗り憎んで悪道に墜ちる原因ばかり造っています。ところが〔あなたは〕、この教えを信じ、これを貴んで、阿弥陀仏を頼みとし、往生を志しておられます。これはひとえに、前世で積んだ善業のおかげであります。ただ今生での努力だけではありません。「往生する機会が巡って来たのだ」と頼もしく思ってお喜びください。このようなことを、折りにふれ、事に応じて思うべきです。(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊)

 

(解説)

仏教の基本に「輪廻」という思想があります。

まずはこの「輪廻」についてお話ししておきたいと思います。
我々は、数十年の一生を過ごすだけではなく、生まれ変わり死に変わりをくり返しているといいます。
しかも人間が人間に生まれ変わるとは限りません。
それどころか、人間に生まれること自体が相当に難しいことです。
我々は六つの世界を生まれ変わり死に変わりしているといいます。
六道といいます。

まず地獄です。
地獄は苦しみばかりの世界です。
苦しみしかない、つらいつらい世界です。

その上に餓鬼道があります。
餓鬼道にいる餓鬼は、いつも飢えに苦しんでいます。
いつもいつもお腹がぺこぺこに空いているといいます。
食べものを食べようとしますと、

その食べものがボッと火に変わってしまって食べられない。
いつも喉がカラカラに乾いているのに飲み物を飲むと

それが熱湯に変わって喉が焼けただれてしまいます。
いつも飢えているのに食べることも飲むこともできない世界です。

法輪寺では毎年8月19日に施餓鬼という法要をします。
あの法要は、その名の通り「餓鬼を施す」法要なのです。
先ほども申したように、餓鬼は自分の力で食べたり飲んだりすることができません。
だからみんなで法要をして、食べものを餓鬼が食べることができるようにして施すのです。

そして私達、皆様方が餓鬼に施した、その功徳を亡きご先祖に振り向けるのが施餓鬼法要です。

決してご先祖が餓鬼道で苦しんでいるということではなく、施餓鬼をして、

私達がいただいた功徳を亡き人に差し上げるのが施餓鬼法要の重要な意義です。

次に畜生です。
これは動物の世界です。
自分の身を守るためだけに明け暮れる世界です。
いつ他の動物に襲われるか分からない不安に毎日さらされている世界です。

その上が修羅です。
戦いに明け暮れる世界、殺し合いを続ける世界です。
この世界も相当に辛い世界です。

その上が人、人間の世界です。

その上に天という世界があります。
天と極楽は異なります。
天は幸せの多い世界ですが、必ず寿命があります。
生きている間幸せな分、死ぬときは辛いといいます。

人間でもいざ死が近づいて来ると、「死にたくない」という思いが強くなってくることでしょう。
天は人間と比べものにならない程幸せで、しかも寿命も長いので、

死ぬ時は「ここから離れたくない!」という強い執着が沸き、

人間と比べものにならない程辛い思いをするといいます。
そして、自分が死ぬということは誰もが死ぬということです。
天であっても愛する人と死に別れなくてはならないのです。
天の世界は生きている間、楽しいことばかりですから、

自分も死に、愛する人とも死に別れる時は余計に辛い思いが強くなるのです。

この六道、どの世界をとっても苦しみの世界です。
絶対の幸せの世界はありません。
この六つの世界を生まれ変わり死に変わりしているのが私達です。
これが六道輪廻です。
この六道輪廻の世界を「娑婆」とか、「忍土」といいます。

この娑婆から逃れ出るのが仏教の目的です。
「解脱」あるいは「出離」ともいいます。
苦しみの世界、娑婆世界から脱出するのです。

その方法に浄土宗からみて二種類あるといいます。
一つは自分で修行して、煩悩を無くして悟りを開き、自分の力で脱出する方法です。
もう一つは自分の力ではとても脱出することはできないが、

南無阿弥陀仏と称えて阿弥陀さまにお任せして、

阿弥陀さまに救い出してもらうという方法です。
阿弥陀さまの力で、脱出させてもらうのです。
もちろん浄土宗の教えは後者です。

「南無阿弥陀仏」と称えて、阿弥陀さまに救っていただく教えです。

前置きが長くなりましたが、これをふまえていただきまして本文に入って参ります。

まず、「ある時にはこの世が無常であると思い定めなさい」ということです。
「無常」といいますのは、「すべては変化する」ということです。
すべては変化し続け、形ある物は必ず壊れます。
生まれてきた者は一瞬一瞬に老いてゆき、必ず病になり、必ず死にます。
しかもいつ死ぬか分からないのです。

ですから「ある時には仏の本願を思いて必ず迎え給えと申せ」とありますように、

「いつ死ぬか分からないのだから、常にお念仏を称えなさいよ」と説かれます。
いつ死ぬかわからないのですから「年取ったら念仏称えよ」とか、

「死ぬ前になったら称えよ」というのは通用しません。

かと言って、いつも「明日死ぬかわからん、今日死ぬかわからん」などと思って生きていたら大変です。

ですからいつ死んでも極楽浄土へ往けるように、

いつもお念仏を称えることを勧めるのです。
極楽への往生が決まっていれば、いつ死を迎えても大丈夫です。
往生を確信して、力強く生きていくのです。

次には「人間として生まれることは難しい」と書かれています。
私達は人間に生まれることを当たり前のように思って生きていまが、とんでもないことです。

先ほど六道輪廻の話をしましたが、六道を均等に生まれ変わるわけではありません。
地獄の次は餓鬼道、そして畜生道と順番に上がっていくのではありません。

私達自身の行いによって、その行き先が決まるのです。
私達は自分の煩悩だらけの行いを見つめると、決して良い世界にはいけそうもありません。
地獄か、餓鬼道か、畜生か。
圧倒的に地獄や餓鬼道、畜生道へ行く可能性が高いと言えます。
人間や天に生まれることは、相当に難しいのです。

ここでは人間に生まれることがどれだけ難しいかを喩えを使って説いてくださっています。
天から糸を垂らして、海の底に沈んでいる針の穴にその糸が通るぐらい、

人間として生まれることは難しいというのです。
天まで行かなくても、上空200メートルのところから糸を垂らして、風に吹かれ、

ようやく海面についたらそこには波があり、

海流がある中を海の底まで沈んでいって、

たまたまそこにある針の穴に糸が通る、そんな確率です。
目の前の針の穴に糸を通すだけでも大変です。
30センチ上から糸を垂らして針の穴に糸を通そうとしても恐らく何時間かかってもできないでしょう。
それが天から糸を垂らして海底の針の穴に糸を通すのですから、ほぼ不可能だと言えます。
でも可能性0ではありません。
人間として生まれるのは、それほどに難しいという喩えです。

そして人間として生まれて更に仏教のみ教えと出会うことは本当に難しいといいます。
考えてみますと、隣近所を見回して、「仏教」という言葉を知っている人は大勢います。
「阿弥陀さま」、「念仏」、「極楽浄土」という言葉は殆どの人が知識として知っています。
でもその教えを信じている人がどれだけいるかとなりますと、殆どいなくなるのではないでしょうか。
せっかく人間として生まれてきているのに、そして今ようやく解脱するチャンスを得たのに、

今の機会を逃せば次にいつ解脱できるかわからないのに。

それに一度地獄や餓鬼道に落ちたら抜け出すのが大変です。
地獄は苦しみばかりの世界ですから、

苦しみ続ける中で善い行いはできません。
自分が苦しくてたまらない時に、人に施したりする余裕はないはずです。
人間でも、自分が苦しい時には他人のことを構っていられないことでしょう。

餓鬼道もお腹が減ってたまらんときに善い行いなんてできません。
動物もそうでしょう。
動物は自分の欲望を満たすことだけで精一杯です。
自ら善い行いはできません。

修羅も戦いに明け暮れている訳ですから、それどころではありません。
だから一度そういう世界に行きましたら、はい上がってくるのが大変です。
ここでは、永遠ではないけれども、永遠に近いほどの時間がかかると書かれています。

仏教の教えを学んでいても、ある程度修行が進んでいても、

解脱できずに次に何かに生まれ変わったら、前世の記憶が失われます。
「ここまでできたから、その続きを…」というわけにはいきません。

今こうして人間として生まれてきて、仏教のみ教えと出会い、

そのみ教えを信じることができるのは、

決してこのたび生まれてきた数十年の間に善い行いをし、

善いご縁に恵まれただけではないのです。

前世、前前世、ずっと昔から余程に善い行いをし、ようやく人間に生まれて、

ようやく仏教のみ教えに出会い、ようやくそのみ教えを信じることができたのです。
決して当たり前のことではありません。
ようやく極楽へ往生することができる舞台まで登って来たのです。
機は熟しました。
このチャンスを逃せば次にいつ解脱できるかわかりません。

だから最後の文章「かようのことを折りに順いことによりて思うべきなり」と説かれるのです。
いつ死ぬか分からない人生です。
人間として生まれてくることは本当に大変なこと、仏教と出会い、念仏と出会うことは大変なことなのだ。
それが今ようやく往生するチャンスが訪れてきたのだ。
今念仏せねば!ということを、折りにふれて思い出しなさいよ、と説かれるのです。

「凡夫」と言う言葉があります。
これは単に「平凡」という意味ではありません。
「輪廻する者」という意味です。

ですから、大学の先生も偉いお坊さんもみんな凡夫です。
その凡夫の特徴は、「忘れる」ということです。
凡夫は輪廻していますが、前世の記憶はすべて失われます。
だから同じ過ちを繰り返し、何度も何度も輪廻を繰り返すのです。

今の一生の間でも大切なことをたくさん忘れます。
どんなに恩のある人に「このご恩は一生忘れません!」と思っていても、

年月が経つと恩があることぐらいは覚えているけれども同じ思いは持続できません。
段々薄れていきます。

戦争の怖さを強く味わって、「戦争なんて嫌だ!」と誰もが思うのに、戦争は無くなりません。

それと同じように「お念仏の教えは有り難い!」とどんなに感動しても

日常生活を繰り返すうちにお念仏のことを忘れてしまうのです。

だから、折々に「これがラストチャンスなんだ!このチャンスを逃せば二度と往生するチャンスは巡ってこないかも知れない!」と

自分に言い聞かせてお念仏をお称えなさい

と法然上人はおっしゃるのです。

宝くじで一千万円当たって銀行にそれを取りに行くのを忘れる人は誰もいません。
でも輪廻の呪縛からようやく逃れて往生できるというのに、

お念仏を忘れる人は大勢います。
よくよく注意しなくてはならない、

とお互い肝に銘じましょう。

元祖大師法然上人御法語 後編 第十九章

(本文)

孝養(きょうよう)の心を持て、父母(ちちはは)を重くし思わん人は、まず阿弥陀仏(あみだほとけ)に預け参らすべし。我が身の人となりて、往生を願い念仏することは、一重(ひとえ)に我が父母(ちちはは)の養いたてたればこそあれ。我が念仏し候う功徳(くどく)を哀れみて、我が父母を極楽へ迎えさせおわしまして、罪をも滅しましませと思わば、必ず必ず迎え取らせおわしまさんずるなり。

 

(現代語訳)

孝行の心をもって、父母を大切に思う人は、まず阿弥陀仏にお任せするのがよいでしょう。「自分が一人前になって、往生を願い、念仏することは、、ひとえに父母が私を養育してくれたからこそなのです。私が念仏する功徳を心からお喜びになって、父母を極楽へとお迎え下さり、その罪を滅して下さい」と願うならば、必ず必ずご両親を迎え取って下さるでしょう。

(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布師会刊)

 

(解説)

今回の御法語は非常に短く、平易なわかりやすい文章です。
この御法語は、法然上人には珍しく、「孝養(きょうよう)」がテーマです。
孝養の下に父母と書いて、「きょうようぶも」と読みます。
普通の読み方ではこうようふぼですが、仏教の読み方ではきょうようぶもです。
いずれにしましても、意味はいわゆる親孝行のことです。

法然上人は阿弥陀さまのご恩については多く語られますが、親の恩について語られることはそう多くはありません。
我々のような者であっても南無阿弥陀仏と称えて阿弥陀さまにお任せしておれば、この苦しみ迷いの娑婆世界から絶対の幸せの世界である極楽浄土へと救い取って下さるご恩に酬いなくてはならない、ということです。
それとは異なり、今回は親の恩についてです。

読んで参ります。
「親孝行の心をもって、両親を大事に思う人は、まず両親を阿弥陀様にお預けする、阿弥陀さまにお任せするしてこのように考えてみるのです。私がこうやって人間として生まれ、往生を願ってお念仏を称えることができるのは、ひとえに両親が育ててくれたからこそのことなのだ。だから阿弥陀さま、どうぞ私がお念仏を称えた功徳にお慈悲を垂れ給い、両親を極楽へお迎えいただき両親が今まで重ねてきた罪も滅して下さいと願うのです。そうすれば阿弥陀さまは必ず両親を極楽へ迎え取って下さるでしょう」ということです。

大乗仏教には「回向(えこう)」という教えがあります。
回し向けると書いてえこうと読みますが、何を回し向けるのかというと、功徳を回し向けるのです。

ですからまず自分がお念仏をお称えして、阿弥陀さまから功徳をいただくことが大切です。何もしないで人任せにしているのを回向とは言いません。

ここでは、「自分はお念仏の教えと出会って、お念仏を称えるご縁に恵まれたから間違いなく往生させてもらえるだろう。でも両親はお念仏の教えも知らず、仏教の教えに出会うこともなく亡くなっていった。自分にとっては良い両親であったけれども、もしかしたら地獄や餓鬼道に墜ちているかもわからない。阿弥陀さま、どうか私同様両親も極楽へ往生させて下さい。阿弥陀さまに両親をお任せします」と心を運んでお念仏を称えるのです。

私はよくお通夜の時に「みなさん、亡き方を阿弥陀さまにお任せしてご一緒にお念仏を称えましょう。阿弥陀さま、○○さんをよろしくお願いしますという思いでお念仏をお称えして極楽へお送りいたしましょう」と申し上げます。
両親とは限りませんが、念仏信者はどなたをお送りする時も、このように回向します。

ここでは極楽へ往生していない人を「極楽へ往生させて下さい」と回向しますが、我々のご先祖はお念仏を称えてこられましたから、すでに極楽におられます。
ですから、極楽におられるのに「極楽へ往生させて下さい」と廻向する必要はありません。

我々が行っている法事や月参りは何のためにやっているのでしょうか。
極楽へ往生した人は、そこで修行なさいます。
阿弥陀さまの元で修行し、悟り開いて仏になるまで、阿弥陀さまにお育ていただくのです。このように仏になることを「成仏」と申します。

「往生」は極楽に生まれることです。
「往生」と「成仏」は混同して使われることがありますが、意味は異なります。
極楽浄土へ「往生」して、そこで修行して「成仏」するのです。

その極楽で修行なさっている方に、「私が積んだ僅かな功徳ですが、修行が一歩でも進むようにお使いください」と回向するのです。
私が積んだ功徳は少なくても、阿弥陀さまが介在してくださいますから、大きな功徳となります。
これを「追善回向(ついぜんえこう)」といいます。

往生を願う回向も往生した方の修行を応援する回向もどちらも大切です。
生きている間に親孝行することはもちろん大切ですが、生きている間にできることには限界があります。
所詮欲望を満たして差し上げることぐらいしかできません。

よく親を介護される方がおっしゃいます。
「尽くしてやりたいけど自分もしんどいからついつい腹を立ててしまうんです」
なかなか本当に良いことはできない私たちです。

亡くなってから「苦しいところにいるなら極楽へ往生してよ。極楽にいるなら早く仏になってね」と回向することは、この世で孝行するのに比較にならないほど大切な孝行です。

「孝行したい時に親はなし」といいますが、決してそんなことはありません。
亡くなってからも、いくらでも孝行することができるのです。