成道山 法輪寺

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御法語

元祖大師法然上人御法語第三十章NEW

(本文)

法蓮房(ほうれんぼう)申さく、古来の先徳(せんとく)みなその遺跡(ゆいせき)あり。しかるに、今精舎(しょうじゃ)一宇(いちう)も建立(こんりゅう)なし。ご入滅(にゅうめつ)の後(のち)、いずくをもてかご遺跡(ゆいせき)とすべきやと。上人(しょうにん)答え給わく、あとを一廟(いちびょう)にしむれば遺法(ゆいほう)遍(あまね)からず。予(わ)が遺跡(ゆいせき)は諸州(しょしゅう)に遍満(へんまん)すべし。ゆえ如何(いかん)となれば、念仏の興行(こうぎょう)は愚老(ぐろう)一期(いちご)の勧化(かんげ)なり。されば念仏を修(しゅ)せんところは貴賤(きせん)を論ぜず、海人(かいにん)漁人(ぎょにん)が苫屋(とまや)までも、皆これ予(わ)が遺跡(ゆいせき)なるべしとぞ仰(おお)せられける。

 

(現代語訳)

法蓮房信空が〔法然上人に〕申すことには、「古来の徳ある先人は、どなたにもその遺跡があります。ところが、今のところ〔上人には〕寺院の一つも建立されておりません。ご入滅の後には、どこをご遺跡とすべきでしょうか」と。

上人がお答えになるには、「遺跡を一つの廟堂に限ってしまうと〔私の〕遺す教えは行き渡りません。私の遺跡は諸国に広く行き渡った方がよいのです。なぜかといえば、念仏の盛行は私の生涯をかけた教化活動だからであります。それゆえ、念仏の声するところは、貴賤を問わず、漁師たちの質素な家までも、すべて私の遺跡とすべきです」と。

(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊)

 

(解説)

法然上人のお念仏のみ教えは、多くの方々に広がりました。
しかしそのことで旧来の仏教教団は危機感を持ち、また念仏者の中にも間違った教えを広める者が現れました。
法然上人はお弟子の不始末の責任をとるという形で、晩年には流罪、つまり島流しに遭われました。
法然上人は八十歳でご往生なさったのですが、流罪は七十五歳です。
今の七十五歳はお元気ですが、八百年前、平均寿命がもっと短いときです。
相当なご高齢でありました。

その老齢の身で四国は讃岐の国、今の香川県に流されます。
讃岐に向かう途中には兵庫県の高砂で漁師の夫妻にお念仏のみ教えを説かれました。
漁師の夫妻は「私たちは殺生を生業としています。そんな私たちは救われないのでしょうか?」と法然上人に尋ねます。
法然上人は「ただ往生を願って南無阿弥陀仏と称えよ。必ず救われるから」と諭されます。漁師の夫妻はよろこんで念仏に励んだといいます。

また室津では、遊女にお念仏のみ教えを説いておられます。
讃岐にはきっと多くの漁師やお百姓がいたことでしょう。
そういう人々にも「必ず南無阿弥陀仏と称える者は極楽へ救いとっていただけるのだよ」と説かれました。

讃岐におられたのはわずか9ヶ月ほどです。
そこから畿内に入ることは許されましたが、洛内に入ることは許されませんでした。
そこで、箕面の勝尾寺で四年間過ごされます。
勝尾寺は今でこそ車ですぐに行けますが、それでも奥深い山の中ということは分かります。ましてや八百年前のことですから、言わずもがなです。
遠く讃岐から勝尾寺に来られ、厳しい自然環境の中です。
老いたお体にはとても堪えたことでしょう。

ようやく帰洛が許されて京都に帰って来られました。
その土地が現在の知恩院の場所です。
もちろん今のような大きなものではなく、小さな庵でありました。

帰って来られたものの、長きにわたる過酷な生活がたたって、床につくことが多くなりました。
誰から見ても「そう長くはない」と見て取れる状況です。

法然上人には多くのお弟子がおられますが、その中でも特に年長の信空上人という方がおられました。
信空上人は、法然上人が比叡山で修行なさっているときから弟弟子でした。
法然上人が比叡山を下りて、浄土宗を開かれたときに一緒に山を下りて法然上人のお弟子になられたのです。
つまりは最も付き合いの長い、法然上人が最も信頼されているお弟子でありました。

信空上人は法然上人亡き後、間違いなく教団を引っ張っていかなくてはならない立場です。
そこで意を決して法然上人に問いを投げかけられました。
それがこのご法語です。

「法蓮房申さく、古来の先徳みなその遺跡あり」
「法蓮房信空上人がおっしゃいました。昔の偉いお坊さんにはみんな遺跡というものがあります。伝教大師には比叡山延暦寺という遺跡があります。弘法大師には高野山金剛峯寺という遺跡があります」

「しかるに今精舎一宇も建立なし。御入滅の後、いずくをもてか御遺跡とすべきやと」
「しかし今まで法然上人さまはお寺の一つも建ててらっしゃいません。上人が往生されて後、どこを遺跡とすればよろしいでしょうか?」

それに対して法然上人がお答えになりました。

「上人答え給わく、跡を一廟にしむれば遺法遍からず。わが遺跡は諸州に遍満すべし。故如何となれば、念仏の興行は愚老一期の勧化なり。されば念仏を修せんところは、貴賤を論ぜず、海人漁人が苫屋までも、みなこれわが遺跡なるべしとぞ仰せられける」
「跡を一カ所に決めてしまえば、教えが広まらないではないか。わたしの遺跡は全国各地に広まるべきだ。なぜならば、念仏のみ教えを広めることが私の一生涯かけての役割であった。だから、念仏の声するところは、貴賤を問わず、漁師の苫屋に至るまで、みな私の遺跡である、と仰った」

法然上人は晩年流罪に遭うまでは、殆ど京都におられました。
老若男女があとを絶たずにやって来ます。
ですから、流罪で地方に赴かれて、初めて田舎の人たちに教えを説かれたわけです。
そんな人たちに、「法然上人の遺跡は知恩院の地である」と言ってもとても来ることなどできません。
今の様な交通事情ではないのですから。
法然上人はきっと田舎の漁師やお百姓、遊女など、教えを説いた方々を思い浮かべられたことでしょう。
彼らは今、それぞれの場所でお念仏を称えている。
それこそが私の遺跡であるとお考えになったことと思います。

法然上人臨終の地、知恩院は今、浄土宗の総本山になっています。
また法然上人の足跡にあるお寺は二十五霊場と名付けられ、多くの信者がお参りに行きます。

それ自体は法然上人のご生涯に思いを馳せるために、必要なものでしょう。
しかし、そこでもしお念仏の声が一つも聞こえないというのであれば、それはご遺跡とは言い難いということになります。
お念仏の声が聞こえるところは、みなさんのお家であれ、法輪寺であれ、法然上人のご遺跡となるのです。

元祖大師法然上人御法語第二十九章

(本文)

まことしく念仏を行じてげにげにしき念仏者になりぬれば、よろずの人を見るに、皆我が心には劣りて浅ましく悪ければ、我が身の善きままに、我は由々(ゆゆ)しき念仏者にてあるものかな。誰々(たれたれ)にも勝れたりと思うなり。この心をばよくよく慎むべきことなり。

世も広く人も多ければ、山の奥、林の中に籠もり居て人にも知られぬ念仏者の貴くめでたきさすがに多くあるを、我が聞かず知らぬにてこそあれ。されば我ほどの念仏者よもあらじと思う僻事(ひがごと)なり。

この思いは大驕慢(だいきょうまん)にてあれば、即ち三心も隠るなり。

またそれを便りとして魔縁の来たりて往生を妨ぐるなり。これ我が身のいみじくて、罪業をも滅し極楽へも参ることならばこそあらめ。偏(ひとえ)に阿弥陀仏の願力(がんりき)にて煩悩(ぼんのう)をも除き、罪業(ぜいごう)をも消して、かたじけなく手ずから自ら極楽へ迎え取りて帰らせましますことなり。我が力にて往生することならばこそ、我賢しという慢心(まんしん)をば起こさめ。驕慢(きょうまん)の心だにも起こりぬれば、心行(しんぎょう)必ず誤る故に、立ち所に阿弥陀仏の願に背きぬるものにて、弥陀も諸仏も護念し給わず。さるままには悪鬼のためにも悩まさるるなり。返す返すも慎みて、驕慢(きょうまん)の心を起こすべからず。あなかしこ、あなかしこ。

 

 

(現代語訳)

まじめに念仏を行い、いかにもそれらしい念仏者になると、多くの人を見るにつけ、みな自分の心より劣り、あきれる程ひどいので、自分をよしとする思いにまかせて、「私はなんと立派な念仏者なのだろう。だれよりも上だ」と思うようになるのです。こうした心こそ、よくよく慎むべきなのです。

世間も広く、人も多いので、山の奥、林の中に隠れ住み、人にも知られていない念仏者で貴く素晴らしい方が、やはり多くいるのを、自分が聞かず、知らないだけのことなのです。

ですから「私ほどの念仏者はあるまい」と思うのは心得違いです。この思いは大変な思い上がりなので、つまりは三心も欠けることになるのです。またそれをよいことにして、悪魔が近づき、往生を妨げるのです。

この思い上がりも、自分が優れているために〔自力で〕罪業をも滅し、極楽にも往生できるというなら仕方ないかもしれませんが、ひとえに阿弥陀仏が、その本願の力によって〔念仏者の〕煩悩をも除き、罪業をも消して、もったいなくも自ら極楽へ迎え取って、お帰り下さるのです。

自分の力で往生するというならば、「私は勝れている」という慢心を起こしても仕方ないかもしれませんが、思い上がりの心が起こっただけで、心も行も必ず道を外れるので、たちまち阿弥陀仏の本願に背くことになり、阿弥陀仏も諸仏もお守り下さいません。そのままでは悪鬼にも悩まされるのです。

くれぐれも慎んで、思い上がりの心を起こしてはなりません。あなかしこ。あなかしこ。

 

 

(解説)

法然上人のご法語は、当然お念仏を勧めるものが多いのですが、今回のご法語は少し趣が違います。
お念仏を相当称えている人に対して「気をつけなくてはいけませんよ」と戒めておられるご法語です。
人間は絶えず人と比べて自分の位置を確認します。
初対面の人に対して、心の中では「私より年上かな」と思ったら敬語になり、「年下かな」と思えば少し偉そうになることもあるかもしれません。
誰を見ても誰と会っても絶えず自分より上か下かを考えて、自分の位置を定めるのです。普通の生活であれば、差し支えはないでしょう。
でもそれを仏の教えにまで持ち込むといけません。

お念仏を勧められて、最初は「ありがたいなあ」と思って称え出します。
そこからが問題です。
一所懸命称えている自分に気づいて、他人と比べるのです。
「あいつは俺より念仏が少ないなあ」と。
お念仏は阿弥陀さまと私の関係です。
他人と比べても仕方ありません。
救われがたい私を阿弥陀さまが救うと言って下さっているのに、人と比べて自分が偉くなっては何のことやらわからなくなります。
法然上人はそういう者を厳しく戒めておられます。

「まことしく念仏を行じて、げにげにしき念仏者になりぬれば、よろずの人を見るに、我が心には劣りて、浅ましく悪ければ我が身のよきままに我はゆゆしき念仏者にてあるものかな。誰々にも勝れたりと思うなり。この心をばよくよく慎むべきことなり」

「まじめにお念仏を称え、立派な念仏者になると、自分の他の多くの人をみて、みな自分の心より劣り、どうしようもなく悪くみえて、自分は良しとして、私は勝れた念仏者だなあ。他の誰よりも、あの人よりもこの人よりも勝れていると思う。こういう心こそよくよく慎むべきことですよ」

「世も広く人も多ければ、山の奥、林の中に籠もりいて、人にも知られぬ念仏者の、貴くめでたき、さすがに多くあるを、我が聞かず知らぬにてこそあれ」

「世間も広く人も多いので、山の奥林の中に籠もっていて、誰にも知られていない念仏者で貴くすばらしい方が多くいるのを自分が聞いたことがなく、知らないだけなのです」

「されば、我ほどの念仏者よもあらじと思う僻事なり」
「ですから、私ほどの念仏者はまさかいないと思うのはとんでもないことです」

「この思いは大驕慢にてあれば、即ち三心も欠くるなり」
「こういう思いはとんだ思い上がりなので、つまりは極楽へ往生するための心が欠けてしまいます」

お念仏は、ただ口に称えるだけではなく、本気で阿弥陀さまを信じて、本気で極楽往生を願って称えねばなりません。
それなのに「私は勝れた念仏者だなあ」などと思うのは、阿弥陀さまではなく自分を信じてしまっているわけです。
それではいけません。

「またそれを便りとして、魔縁の来たりて往生を妨ぐるなり」
「またそれをきっかけにして、悪い縁がやってきて、往生を妨げるのです」

魔縁について、最近大相撲などを見るにつけ思うところがあります。
相撲も一所懸命強くなりたいという一心で稽古をしている時には悪い縁はやって来ません。
しかし「俺はそこそこ強いなあ」と思って、他人と比べ出したら危ないです。
遊びを覚えてちょっと小遣い稼ぎをしようかと思い出すと危険です。
あっという間に魔縁がワッと集まってきます。
真面目にしていたときには寄りつかなかった悪い縁がドッとやってきます。

お念仏も同じです。
往生したいという一心でお念仏を称えていればよいものを、他人と比べ出したとたんに悪い縁が近づきます。
人の悪口を言う人が近づいてきたり、おべんちゃらを言う人が近づいてきて、結局はお念仏から離れてしまいます。
注意しなくてはなりません。

「これ我が身のいみじくて、罪業をも滅し、極楽へも参ることならばこそあらめ。ひとえに阿弥陀仏の願力にて煩悩をも除き、罪業をも消して、かたじけなく手ずから自ら極楽へ迎え取りて帰らせましますことなり」
「このような思い上がりも、自分の力で罪を消し、自分の力で極楽へ往くというのならば仕方のないことかもしれません。(しかしそうではなく)ひとえに阿弥陀さまの本願の力によって煩悩も除いていただき、罪も消していただき、もったいなくも自ら極楽へ迎え取ってお帰りになるのです」

「我が力にて往生することならばこそ、我賢しという慢心をば起こさめ。驕慢の心だにも起こりぬれば、心行必ず誤る故に、立ち所に阿弥陀仏の願に背きぬるものにて、弥陀も諸仏も護念し給わず」
「自分の力で往生するならば、私は勝れているという慢心を起こしても仕方がないのかも知れません。(しかしそうではないのだから)思い上がりの心が起こっただけで、極楽へ向かう心も行としてのお念仏も必ず道を外すことになるので、たちまち阿弥陀さまの本願に背くことになったら阿弥陀さまも他の仏さまも護りようがないでしょう」

「さるままには、悪鬼のためにも悩まさるるなり」
「そのままでは悪鬼に悩まされることになるでしょう」

「返す返すも慎みて、驕慢の心を起こすべからず。あなかしこ、あなかしこ」
「くれぐれも謹んで、思い上がりの心を起こしてはいけません。ああ恐れ多いことです」

そのそも「なむあみだぶつ」とは、「阿弥陀さま、お救い下さい、阿弥陀さま、助けてください!」という言葉です。
「助けてくれ!」という者が偉いはずがないですね。

阿弥陀さまは私たちが決して偉い者ではなく、救われがたい者であるから、わざわざお念仏をご用意くださったのです。
私たちが自分で苦しみから逃れることができるのであれば、お念仏なんて必要ないのです。自分で苦しみから逃れることなど到底できない我々であるから、阿弥陀さまは私たちに代わってご修行下さり、その修行の功徳をすべて南無阿弥陀仏の六文字に込めて下さったのです。

「私の名前なら称えることもできるであろう」とどんな力のない者でもできる行をご用意下さったのです。
それをお念仏の回数が多いだとか信心が深いなどと自惚れるなどというのはとんでもない誤りです。
この阿弥陀さまの力を他力といいます。
「私の力ではなく、阿弥陀仏の力でのみ救われる」というみ教えです。
この他力は、実は分かりやすいようで理解するのが難しい教えです。

大僧正と大学を出たての若い僧侶を比べたら、何となく大僧正のお念仏の方が貴いように思いませんか?
大僧正が称えても小僧が称えても救うのは阿弥陀仏ですから、違いなどあろうはずがありません。
確かに人徳も知識も人生経験も小僧と比べれば大僧正の方が勝れているのかも知れません。
しかし、ことお念仏に関しては人と比べて何にもなりません。
お念仏は阿弥陀さまと私一人の関係です。
この私が救われる唯一の教えであると受け止めて、決して自分に頼ることなく、阿弥陀さまの力、他力のみを信じてお念仏を称えるのです。

このご法語はお念仏をかなり称える人が陥りやすいところを法然上人がご注意下さっているわけですから、かなりレベルが高いのかも知れません。
ただ、わざわざこのようにおっしゃるということは、頻繁にこういう人がいたのでしょう。
私たちもよくよく注意せねばなりませんね。

元祖大師法然上人御法語第二十八章

(本文)

法爾(ほうに)の道理と云うことあり。炎は空に上り、水は下りさまに流る。菓子の中に酸きものあり、甘きものあり。これらはみな法爾(ほうに)の道理なり。

阿弥陀仏の本願は、名号をもて罪悪の衆生を導かんと誓い給いたれば、ただ一向に念仏だにも申せば、仏の来迎(らいこう)は法爾(ほうに)の道理にて疑いなし。

 

(現代語訳)

「動かしようのない自然の道理」ということがあります。炎は空に昇り、水は低い方に流れます。果物の中に酸いものもあれば、甘いものもあります。これらはみな「動かしようのない自然の道理」です。

阿弥陀仏の本願は「名号によって罪悪の衆生を救済しよう」と誓われたものですから、ただひたすら念仏さえ称えれば、阿弥陀仏のお迎えは「動かしようのない自然の道理」であって、疑いありません。(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊)

 

 

(解説)

今回の御法語は、いつもに比べて文章量がかなり少ないですが、この中で法然上人はとてもはっきりと断言なさっている、気持ちの良い御法語でもあります。
早速見て参りましょう。

法爾と申しますのは、「真理のまま」という意味です。
法然上人の「法然」という名もこれと同義語です。
これに世間的な意味と、「出世間(しゅっせけん)」、つまり仏教的な意味の二つがあります。
この御法語の前半は世間的な意味です。

「法爾の道理ということあり。炎は空に上り、水は下りさまに流る」
「ものには変わらぬ真理というものがある。たとえば炎は空に上るでしょう。水は高いところから低いところに流れていくでしょう」ということです。
当たり前の道理ですね。

「菓子の中に酸きものあり甘きものあり。これらはみな法爾の道理なり」
この時代に菓子といえば、果物を指します。
後に果物を乾燥させたり砂糖を塗すなどして現代にいう菓子に発展しましたが、中世に菓子というと果物を指します。
今でも果物のことを「水菓子」というでしょう。
「果物の中には酸っぱいものもあるし、甘いものもある。これらはすべて自然の道理である」
これらが世間的な法爾の道理です。
誰も疑わない当然の道理です。

後半は出世間的な道理です。
「阿弥陀仏の本願は、名号をもて罪悪の衆生を導かんと誓い給いたれば、ただ一向に念仏だにも申せば、仏の来迎は法爾の道理にて疑いなし」

「阿弥陀仏の本願」というのは、どの御法語にも出て参ります。
それは「わが名を呼ぶ者を一人残らず救いとってやるぞ」という阿弥陀さまの誓いです。
「阿弥陀さまの本願は、南無阿弥陀佛という六字の名号でもって罪深い人々を導いてやろうと阿弥陀さまご自身がお誓いくださったものであるから、ただひたすらお念仏を称えておれば、その者の臨終の時に阿弥陀さまご自身がお迎えくださり、極楽へ往生させていただけることは当然の法として疑いのないことなのである」ということです。

現代人はとかく「極楽なんてあるわけない」「極楽や阿弥陀さまなんて想像上のものだ」と言います。
信じる力が非常に乏しいのです。

かなり前になりますが、島田紳助さんがテレビに出ておられた時におっしゃっていました。彼は京都の大谷高校という真宗の学校の出身です。
ですから教師も僧侶が多いのです。
その学校の宗教の時間に先生が極楽の話をなさったそうです。
当時悪かった紳助さんは先生に「極楽なんてほんまにあんのか!?」と茶化しました。
すると先生は「極楽なんてない。極楽も地獄も私達の心の中にある。心の状態がいい時はそれが極楽である。悪いときにはそれが地獄となる。紳助、今のお前の心には極楽はない」とおっしゃったというのです。
それを紳助さんが語ったとき、テレビの出演者はこぞって、「深い話だなあ。
」「いい話だなあ」と感心していました。

「心の中に極楽がある」そういう説き方もないことはありません。
自分の心を見つめた時に、自分の心の善し悪しを見るために極楽や地獄に喩えるという宗派もあります。
しかし、浄土宗で説く極楽はそういうものではありません。

極楽というのは本当に西の彼方に、この世とは別にあり究極の楽を得る世界です。
そこに実際に阿弥陀仏という仏さまがおられて、今現在極楽で説法しておられます。
南無阿弥陀佛と称える者をいつも阿弥陀さまや先に往生された大切な方々が見守ってくださっています。
そしてお念仏を称えてきた者の臨終の時には阿弥陀さまが多くの菩薩さま方を引き連れて、迷わないように、不安のないように自ら迎えにお越しくださいます。
極楽へ往生したら、先に往生した方々と手に手を取り合って再会を喜び合い、共に仏になるための修行を楽しく行じることができます。

こう言うと、「荒唐無稽なことだ」などと言う方がいるかも知れません。
しかし、「心の中に極楽はあるのだ」と思っていても、本当に苦しいとき、悲しいとき、寂しいとき、ピンチの時には何の役にも立ちません。
「自分の心を極楽にするために、修行をして煩悩を滅する」という宗派の修行は、厳しく険しい道です。
そのように修行できる方はそうすればいいのです。

しかし大多数の人の日々の行いは、煩悩を滅するどころか、ほぼすべて「煩悩がリードしている行い」です。
そしてそのことに気づいても煩悩を滅することができない人々です。
老いに抗い、死に抗い、生に執着し、人間関係に悩み、愛する人を失って悲しみ、貪り、怒り、嫉妬し、自分だけが得するようにふるまってしまう私たちです。
そんな私たちが「心の中に極楽がある」と言われても、ほとんど気休めにしかならないでしょう。
本当に極楽があって、お念仏を称えていると苦しいときも悲しいときも阿弥陀さまが見守ってくださっていると感じる方がよほど力になります。
「念仏を称えていたら、必ず先立ったあの人にも会える」という教えがどれだけありがたいことでしょうか。

法然上人は「疑い」を一蹴なさいます。
「炎が空に上ることを疑う人がありますか?水が高いところから低いところへ流れることを疑う人がありますか?なのに念仏を称えれば極楽浄土へ往生できることをなぜ疑うのですか?念仏を称えれば往生できるというのは阿弥陀さまの本願ですよ。阿弥陀さまご自身が我が名を呼べよ、必ず救うから、とおっしゃっているのですよ。お釈迦さまもお経の中で阿弥陀さまを信じよとおっしゃっているのですよ。どこに疑う余地があるのですか?称えれば往生できるということは当たり前の道理ですよ」と。
尊くも力強いお言葉に励まされます。

 

元祖大師法然上人御法語第二十七章

(本文)

善導(ぜんどう)の三縁(さんねん)の中(うち)の親縁(しんねん)を釈し給(たも)うに、衆生(しゅじょう)仏(ほとけ)を礼(らい)すれば、仏これを見給(みたも)う。衆生仏を称(とな)うれば、仏これを聞き給う。衆生仏を念ずれば、仏も衆生を念じ給う。故(かるがゆえ)に阿弥陀仏の三業(さんごう)と行者(ぎょうじゃ)の三業と、かれこれ一つになりて、仏も衆生も親子の如(ごと)くなる故(ゆえ)に、親縁(しんねん)と名付くと候(そうら)いぬれば、御手(おんて)に数珠(じゅず)を持たせ給いて候わば、仏これを御覧候うべし。御心(おんこころ)に念仏申すぞかしと思(おぼ)し召(め)し候わば、仏も行者を念じ給うべし。されば、仏に見(まみ)え参らせ念ぜられ参らする御身(おんみ)にて渡らせ給い候わんずるなり。さは候へども、常に御舌(おんした)の働くべきにて候うなり。三業(さんごう)相応のためにて候うべし。三業とは、身(み)と口(くち)と意(こころ)とを申し候うなり。しかも仏の本願の称名(しょうみょう)なるが故に、声(こえ)を本体とは思(おぼ)し召(め)すべきにて候。さて我が耳に聞こゆる程申し候は、高声(こうしょう)の念仏の中(うち)にて候なり。

 

 

(現代語訳)

善導大師が三縁(さんねん)の中の親縁(しんねん)を解釈されたところに、「衆生が〔阿弥陀〕仏を礼拝すれば、仏はこれをごらんになる。衆生が仏〔の名号〕を称えれば、仏はこれをお聞きになる。衆生が仏を念ずれば、仏も衆生をお念じになる。それゆえ阿弥陀仏の三業(さんごう)と行者(ぎょうじゃ)の三業とが、それぞれに一致して、仏も衆生も親子のようになるので、親縁と名づける」とありますので、御手で数珠を繰っておられるならば、仏はこれをごらんになるでしょう。心に「念仏を称えるのだ」とお思いになれば、仏も行者もお念(おも)い下さるでしょう。

それゆえ仏にごらんいただき、お念(おも)いいただく身とおなりになるでしょう。

そうは申しましても、常に舌をはたらかさねばなりません。三業を一致させるためであります。三業とは身体と口と意(こころ)と〔の行為〕を申すのです。しかも〔阿弥陀〕仏の本願である称名念仏なのですから、声に出すことを根本とお思いになるべきであります。

さてその場合、自分の耳に聞こえる程度に称えれば、高声(こうしょう)の念仏のうちに入るのです。

 

 

(解説)

「三縁(さんえん・さんねん)」とは、浄土宗の高祖(こうそ)善導大師(ぜんどうだいし)が、「私たちと阿弥陀さまはどういう関係なのか」ということを三つに分けて説いて下さったものです。
一つ目は「親縁(しんえん・しんねん)」です。
阿弥陀さまと私たちはまるで親子のような関係なのだということで、親縁といいます。
二つ目は近縁(ごんえん・ごんねん)」です。
お念仏を称える者には、常に阿弥陀さまが寄り添って下さるということです。
目には見えませんが、お念仏を称えていると目の前に、すぐ近くに阿弥陀さまが居て下さるというのです。
だから近い縁と書いて近縁といいます。
三つ目は増上縁といいます。
お念仏を称える者の臨終の時に、私たちが犯してきた数え切れないほどの罪を滅して、必ず阿弥陀さまが多くの菩薩さまを引き連れてお迎えに来てくださり、そして極楽へ導いてくださいます。
これを増上縁といいます。
この御法語はその三縁の中の特に親縁についてお説き下さったものです。

私たちは毎日多くの行いをしています。
これを業(ごう)といいます。
業はどこで起こすかというと、体と口と心で起こします。
懺悔偈(さんげげ)には、「我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋痴 従身語意之所生 一切我今皆懺悔」とあります。
「私が昔から造ってきた数々の悪い行いは、皆貪瞋痴という煩悩によるものである。これらは、身語意から生じたものである。これらの罪をすべて懺悔いたします」ということです。
ここでいう身とは体です。
語とは言葉です。
意とは心です。
身口意(しんくい)ともいいます。
身業(しんごう)、口業(くごう)、意業(いごう)の三つを三業といいます。
私たちの三業をあみださまに向ければ、阿弥陀さまも三業で応えてくださるといいます。
本文を見て参りましょう。

「善導の三縁の中の親縁を釈し給うに、衆生仏を礼すれば、仏これを見給う。衆生仏を称うれば、仏これを聞き給う。衆生仏を念ずれば、仏も衆生を念じ給う」
「善導大師がお説き下さった三縁の内の親縁がどのように説かれているかというと、人々が阿弥陀さまに礼拝、体で敬いを表せば阿弥陀さまはこれを見て下さる」これは身業です。
「人々が念仏を称えれば阿弥陀さまはこれを聞いてくださる」これは口業です。
「人々が阿弥陀さまのことを思えば、阿弥陀さまも人々のことを思ってくださる」これは意業です。

「故に阿弥陀仏の三業と行者の三業とかれこれ一つになりて、仏も衆生も親子の如くなるゆえに、親縁と名付くと候いぬれば、御手に数珠を持たせ給いて候わば、仏これをご覧候うべし。御心に念仏申すぞかしと思し召し候わば、仏も行者を念じ給うべし」
「だから阿弥陀さまの三業と我々の三業とが一つになって、阿弥陀さまも私たちも親子のようになるから親縁と名付けるとおっしゃるのだから、手に数珠を持っておれば、阿弥陀さまはこれをご覧くださることでしょう。心にお念仏を申していると思っていると、阿弥陀さまもあなたを思ってくださることでしょう」
数珠はお念仏を数える道具です。
お念仏を数えなかったら、数珠を持っていても意味がありません。
ですから、数珠を持つときは必ずお念仏を称える時なのです。
そうやって数珠を繰っていれば、その行為を阿弥陀さまはご覧くださるのです。
そして阿弥陀さまを思えば阿弥陀さまもあなたを思ってくださいます。

「されば、仏に見え参らせ念ぜられ参らする御身にて渡らせ給い候わんずるなり」
「そんな風に阿弥陀さまにご覧いただき、思っていただくような御身でいらっしゃるのです」
私たちは普段煩悩のままに過ごしています。
好き勝手に過ごしていると言ってもいいでしょう。
先ほどの懺悔偈のように、数々の悪業を積み重ねている私たちです。
これも私と言えます。
しかし、阿弥陀さまに心を寄せれば、阿弥陀さまがご覧くださり、思ってくださるような私でもあるわけです。
これも私です。
同じ私でも随分違います。
あっちこっちとフラフラしている私であるけれど、阿弥陀さまに身と口と心を向けていけば、阿弥陀さまにも身と口と心を向けていただけるようにもなれます。
そんな私になりたいものです。

「さは候えども、常に御舌の働くべきにて候うなり。三業相応のためにて候うべし。三業とは、身と口と意とを申し候うなり」
「そうは言ってもやはり舌が動くべきです。三業が整うことが大切です。三業とは身と口と意です」
数珠を持ち、心に阿弥陀さまを思って、身業と意業が阿弥陀さまに向いても、やはり舌が動く、つまり声を出さねばなりません。

「しかも仏の本願の称名なるが故に、声を本体とは思し召すべきにて候」
「しかも阿弥陀さまの本願は称名であるから、声を出すのが本来です」
よく私は心の中でお念仏を称えていますとおっしゃる方がおられます。
しかし阿弥陀さまの本願は「名を称えよ」です。
「名を称えよ」ということは声を出すべきです。
心の中でお念仏を称えると言っても、一瞬しかできません。
続けることは大変に困難です。
しばらく心の中でお念仏を称えればわかります。
気がつけば全く違うことを考えている私たちです。阿弥陀さまはこのような私たち、心の弱い私たちをよくご存じです。
だから心で称えよとはおっしゃいません。
わが名を称えよなのです。声に出して称えていても心は相変わらず乱れます。
でも称えていると、また心が戻ってくる場所があります。
心の中で称えていれば、心が彷徨ったまま帰って来ることができません。
声を出してこそ戻って来ることができるのです。

「さて我が耳に聞こゆる程申し候うは、高声の念仏の中にて候うなり」
「さて、自分の耳に聞こえるほどの声で申す念仏は高声の念仏の内に入ります」
どの程度の声で称えればよいかというと、「我が耳に聞こえるほど」でじゅうぶんなのですということです。
みんなで称える時は大きな声で称えた方がよいでしょう。
その方がお互いの励みになります。しかし一人で称える時は、我が耳に聞こえるほどでじゅうぶんなのです。
これが日常的なお念仏です。「なむあみだぶ」と口ずさみつつ日常生活を送るのです。
しかし電車の中などでは、我が耳に聞こえるほどでも抵抗があるでしょう。
そんなとき、私は「舌が動く程度」に称えています。
隣の人は気づきません。
でも称えています。
心に思っているだけではありません。
必ず舌が動いています。
これは重要です。
舌が動いていないとやはり乱れます。
舌が動いていると、大きな声で称えている時と同じように、心が乱れてもまた「乱れていたな」と気づきます。
舌が動いていなければ、それさえも気づかないままになってしまいます。

声を出すこと自体が重要なことです。
嫌いな人のことをずっと「嫌いだ、嫌いだ」と言い続けると益々嫌いになります。
大嫌いな人のことも「好きだ、好きだ」と言っていると、少しはましになってくるようです。
少しぐらい嫌いな人なら「好きだ、好きだ」と言っている内に好きになるかも知れません。

夫婦でお互いの愚痴や悪口を他人に言っていると、憎しみ合うようになるといいます。
色々不満はあっても「好きだ、好きだ」と言っていれば、それなりに心が通じ合うとも言えるかも知れません。

ですから、常に「南無阿弥陀仏」と称えていれば、心はあっちに行ったりこっちに行ったりどうしようもない私ですが、また戻って来ることができます。
お念仏に引っ張られるのです。
声がリードして心がついて行くのです。
声を出すことが大切です。

元祖大師法然上人御法語第二十六章

(本文)

観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)に曰(いわ)く、一々の光明(こうみょう)遍(あまね)く十方(じっぽう)の世界を照らして、念仏の衆生を摂取(せっしゅ)して捨て給わず。これは光明ただ念仏の衆生を照らして、余の一切の行人(ぎょうにん)をば照らさずというなり。但し余の行(ぎょう)をしても極楽を願わば仏光照らして摂取(せっしゅ)し給うべし。いかがただ念仏の者ばかりを選びて照らし給えるや。善導和尚釈して曰く、弥陀の身色(しんじき)は金山(こんせん)の如し、相好(そうごう)の光明十方(じっぽう)を照らす、ただ念仏の者のみありて光摂(こうしょう)を蒙(こうむ)る、正に知るべし本願最も強きを。念仏はこれ弥陀の本願の行(ぎょう)なるが故に、成仏の光明返りて本地(ほんじ)の誓(願を照らし給うなり。余行(よぎょう)はこれ本願にあらざるが故に、弥陀の光明嫌いて照らし給わざるなり。今極楽を求めん人は本願の念仏を行(ぎょう)じて、摂取(せっしゅ)の光に照らされんと思(おぼ)し召(め)すべし。これにつけても念仏大切に候。よくよく申させ給うべし。

 

 

(現代語訳)

『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』には、「阿弥陀仏の一つ一つの光明は、遍く十方の世界を照らし、念仏を称える衆生を救い取って、捨てることがない」とあります。これは、光明が念仏を称える衆生だけを照らして、他の一切の行者を照らさないということです。

ただし、他の行を修めても極楽を願うならば、仏の光が照らして救済されてもよいはずです。どうして、ただ念仏する者だけを選んで、照らされるのでしょうか。

善導和尚は解釈して言われます。「阿弥陀仏の身体の色は黄金の山のようである。(一つ一つの)相好から放たれる光明はあらゆる方角の世界を照らす。ただ念仏を称える者だけが光明の救いをいただく。(阿弥陀仏の)本願のはたらきが最も強力だと理解すべきである」と。

念仏は阿弥陀仏の本願の行であるので、成仏された後の光明が、ひるがえって、成仏される以前の念仏往生の誓願を照らされるのです。他の行は本願ではないので、阿弥陀仏の光明は(これを)選び捨てて照らされないのです。

今、極楽を求める人は、本願の念仏を修めて、救いの光に照らされようとお思いになってください。このことからしても念仏は大切です。よくよくお称えになってください。

(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊)

 

(解説)

阿弥陀さまが「救ってやろう、救ってやろう」と願ってくださるみ心を「お慈悲」と申します。
そのお慈悲はよく光に譬えられます。
「光明」などといいます。
浄土宗の阿弥陀仏像は、後ろに舟形の光背が施されています。
この光背はお慈悲を表します。
罪の重い者は重い石を背負っているようなものだから、自分では向こう岸、つまり極楽になど行けないわけです。
しかし、阿弥陀さまの大きな慈悲の船に乗れば、どんな重い罪を背負った者でも必ず向こう岸、極楽浄土へと届けてくださるというのです。
舟形の光背はそのことを表します。
浄土真宗の阿弥陀仏像には光が四方八方に放たれていることを表す光背になっています。この浄土真宗の光背は光明を表します。
光明ですから、こちらもお慈悲を表現しているのです。
阿弥陀さまのお慈悲の光は常にあらゆるところを照らしてくださっているということです。
阿弥陀さまはいつもお慈悲の光を放って、「救ってやろう」と願ってくださっています。その中で「南無阿弥陀仏」と念仏を称える者を極楽へ迎え取ってくださるのです。
しかしこういう反論があるかも知れません。
「救ってやりたいと願うならば、念仏を称えようが称えまいが救ってやればいいじゃないか。なぜ念仏を称える者だけというような心の狭いことを言うのか」と。
仏教では因果の法則を説きます。
原因があって結果がある。
それも「自業自得」というように、自分がした行いが自分に返ってくるのです。
だから何もしない者には何も返ってはきません。
何もしない者を救うことは阿弥陀さまにもできません。
本当はそれぞれが善い行いを続ければよいのです。
そして難しい修行をして、功徳を積めばよいのです。
功徳を積んで覚りを開けばいいわけです。
しかしそれができない者ばかりだと阿弥陀さまは思われたのです。
「煩悩による行いばかりを繰り返す者は自業自得の道理によって、地獄や餓鬼に墜ちるしかないではないか。どうすればよいか。難しいことをせよと言っても無理であろう。でも私の名前ぐらいなら呼べるであろう。そうだ、私の名前に私が行った功徳を収め込んでやろう。そうすれば因果の道理を崩すことなく救うことができるぞ」
そして「我が名を称える者を極楽へ迎え取ってやろう」という「本願」を建ててくださったのです。
「南無阿弥陀仏と称える」という「因」を起こせば、本願によって「極楽へ往生する」という「果」が出るのです。
だから南無阿弥陀仏のお念仏は極楽へ往生するための専門の行です。
「往生行」といいます。方や座禅や瞑想、護摩を焚くなどの修行、殆どの修行は極楽へ往くための行ではありません。
これらの修行はこの世で覚りを開こうという修行です。
ですから目的が違うのです。
極楽へ往きたいならばお念仏でなくてはなりません。
この世で覚りを開こうというのなら、他の修行でなくてはなりません。
それぞれの行にはそれぞれの目的があります。
そういうことがこのご法語には説かれています。

「観無量寿経にいわく、一々の光明、遍く十方の世界を照らして念仏の衆生を摂取して捨て給わず」
観無量寿経とは浄土宗が大切にする三つのお経、浄土三部経の一つです。そこに記されている一文です。
日常勤行の中の摂益文です。
「光明遍照 十方世界念仏衆生 摂取不捨」です。
阿弥陀さまのお慈悲の光はあらゆるところを照らしてくださって、その中で念仏称える者を救いとって決して捨てられることがないという文です。

「これは光明ただ念仏の衆生を照らして余の一切の行人をば照らさずというなり」
これは阿弥陀さまのお慈悲の光は念仏称える者だけを照らして他の修行者を照らさないということです。

「但し余の行をしても、極楽を願わば、仏光照らして摂取し給うべし。いかが、ただ念仏の者ばかりを選びて照らし給えるや」
ただし他の行をしても極楽を願えばいいじゃないか、なぜ念仏の者だけが救われるんだ、という意味なのですが、不思議な文章です。
「どっちなんだ?」と言いたくなります。

私は以前からこの文章がよく分かりませんでした。
色んな方が訳されたものを見比べても、みんな悩んでおられたようで、バラバラです。
しかし数年前に仏教大学の先生に教えていただきました。
法然上人のご法語にはいくつかの種類があり、伝承によって同じものでも多少文章が異なるものがあります。
このご法語にも他の伝承があり、そこには「但し」の前に「世の人曰く」という言葉がありました。
これですっきりしました。
つまりこういうことです。
阿弥陀さまは念仏称える者だけを救いとってくださるのだけれど、世間では念仏以外の修行をしていても極楽に行きたいと願えば救ってくださるというではないか。
なぜ念仏者だけを選んで照らすというのか、ということです。

実は法然上人が浄土宗を開かれるまではどうすれば極楽へ往生できるのかがはっきりと示されていませんでした。
極楽へ往生したいと願っていればどんな修行をしていても救われると思っている人もいたんです。
しかし法然上人はお経の中に根拠を見つけられたのです。
本願です。
南無阿弥陀仏と称える者こそが往生できる。
ちゃんとお経に書いてあるではないか、ということです。

その問いに善導大師のお言葉を引用されて答えておられます。
「善導和尚釈して曰く、弥陀の身色は金山の如し、相好の光明十方を照らす。唯念仏の者のみありて光摂を蒙る。当に知るべし。本願最も強きを」
これは善導大師の『往生礼讃』の中の「三尊礼」にある一節です。
「善導大師が解釈しておっしゃるには、阿弥陀さまの体は金の山のようなものだ。お姿から光が十方を照らしてくださっている。ただ念仏を称える者だけが光を受けることができる。よく心得よ。本願は最も強いのである」ということです。

念仏を称える者が阿弥陀さまによって極楽へ迎え取っていただけるのは、阿弥陀さまの本願だからです。
念仏は阿弥陀さまのお名前を呼んでいるわけですが、本願がなければただ名前を呼んでいるというだけになります。
南無釈迦牟尼仏、南無観世音菩薩、南無大師遍照金剛など仏様や菩薩様、祖師様のお名前を呼ぶ、という行は色々あります。
でもそれは仏菩薩、祖師方を敬っているという意味であって、それだけで救われるというものではありません。
南無阿弥陀仏は阿弥陀さまご自身が、称えれば救うと約束してくださっているのですから、他のものとは全く異なるのです。

「念仏はこれ弥陀の本願の行なるがゆえに、成仏の光明かえりて本地の誓願を照らし給うなり」
「念仏は阿弥陀さまの本願の行であるから、仏となられた阿弥陀さまが照らす光は返って、昔阿弥陀さまが建てた本願を信じて念仏を称える者を照らしてくださるのである」

「余行はこれ本願にあらざるがゆえに、弥陀の光明嫌いて照らし給わざるなり」
「念仏以外の行は本願ではないから、本願ではないから阿弥陀さまは避けて照らされることがないのである」

「今極楽を求めん人は、本願の念仏を行じて、摂取の光に照らされんと思し召すべし」
「今極楽往生を願う者は、阿弥陀さまの本願である念仏を行じて、救いの光に照らされたいと思うべきである」

「これにつけても念仏大切に候。よくよく申させ給うべし」
「これにつけても念仏は大切です。しっかりお称えしなさいよ」

阪急電車に乗るのに「JRの切符が1万円分あるから乗せろ!」と言っても乗ることはできません。
阪急電車に乗ろうとすれば阪急電車の切符を買わなくてはいけません。
いくら1万円分だと言ってもだめです。
それと同じように、極楽へ往生したいならば南無阿弥陀仏のお念仏なのです。
もちろん他の行もお釈迦様が説かれたものですから、大きな功徳はあります。
でも往生することはできません。
「往生したいならば何を為すべきか」なのです。