成道山 法輪寺

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御法語

元祖大師法然上人御法語 後編 第十八章

(本文)

十重(じゅうじゅう)を持(たも)ちて十念を称えよ。四十八軽(きょう)を守りて四十八願を頼むは心に深く冀(こいねご)う所なり。おおよそいずれの行(ぎょう)を専(もは)らにすとも、心に戒行(かいぎょう)を持(たも)ちて浮嚢(ふのう)を守るが如くにし、身(み)の威儀に油鉢(ゆはつ)を傾(かたぶ)けずば行(ぎょう)として成就せずということなし。願として円満せずということなし。しかるを我ら或いは四重を犯し、或いは十悪を行ず。彼も犯しこれも行ず。一人(いちにん)として真(まこと)の戒行を具(ぐ)したる者はなし。諸悪莫作(しょあくまくさ)、諸善奉行(しょぜんぶぎょう)は三世(さんぜ)の諸仏の通戒なり。善を修(しゅ)する者は善趣(ぜんしゅ)の報を得(え)、悪を行(ぎょう)ずる者は悪道の果を感ずという、この因果(いんが)の道理を聞けども聞かざるがごとし。初めていうに能(あた)わず。然(しか)れども分(ぶん)に順(したが)いて悪業(あくごう)を留(とど)めよ。縁に触れて念仏を行じ往生を期(ご)すべし。

 

(現代語訳)

十重禁戒を保って十念を称えなさい。四十八軽戒を守って、四十八願を頼みとすることは、心に深く願うところです。

およそどのような修行に専心するにしても、心に戒の行を保つには、〔水の中で〕浮き袋を手放さないかのようにし、身の振る舞い〔を正す〕には、油で満ちた鉢を傾けないほどの注意を払うようにします。

そうすれば、いかなる行も成就しないことはなく、いかなる願も叶わないことはありません。

けれども我々は、あるときには四重罪を犯し、またあるときには十悪を行います。あれも犯し、これも行います。誰一人、真に戒の行を保つ者はありません。

「諸の悪を作すこと莫れ、諸の善を奉行せよ」とは、過去・現在・未来の三世のすべての仏が共通してお教えになる戒であります。「善を修める者は善趣の報いを得、悪を犯す者は悪道の果を受ける」という、この因果の道理を聞いても、まるで聞いていないかのようであります。それは改めて言うまでもないことです。

けれども、出来る範囲で悪業をとどめなさい。折りにふれて、念仏を修め、往生を願いなさい。

 

(解説)

 

仏教には「戒」というものがあります。
「仏教徒としての習慣」という意味です。
その戒をお授けした方につくお名前が戒名です。

法輪寺では20年に一回「授戒会」という、戒をお授けする作法を行っています。
そのように、本来生きている間に授戒会を受けて、戒名をいただいておくべきです。
キリスト教では洗礼を受けると、クリスチャンネームというものがつきます。
それと同じように、仏教徒としてのお名前を「戒名」と呼ぶのです。

しかし、生前に授戒会を受けることができない人がほとんどでしょう。
ですから枕経の時に、授戒をごく簡略にした作法を行って、お戒名をお授けしているのが現状です。

戒の基本的なものはお釈迦さまが定めてくださいました。
お釈迦さまはお坊さん用の戒と、一般の方用の戒に分けられました。
お坊さん用の戒はたくさんあるのですが、一般の方用の戒は5つだけ定められました。
五戒といいいます。

一つ目は、自分が生きるため以外の殺生を避け、むしろあらゆる生き物を慈しみ大切にしなさい、といいます。
二つ目、人の物を盗まず、むしろあらゆる物を自分の物と同様に大切にしましょう。
三つ目、嘘をつくことをやめ、むしろ誠実に生きていきましょう。
四つ目、夫婦間以外の淫らな行為、不倫などはやめ、むしろ男女互いに敬い大事にしましょう。
そして五つ目、自分を見失うほどにお酒を飲んではいけませんよ。という5つです。

戒というものには色々あり、宗派によって異なります。
浄土宗では法然上人が天台宗、比叡山で授戒を受けておられますので、戒に関しては天台宗と全く同じ戒を受け継いでいます。
そして、一般の方にもお坊さんと同じ戒をお授けしています。

浄土宗の戒は十重四十八軽戒といいます。
一行目の頭に「十重」とあります。
そして一行目の真ん中に「四十八軽」とあります。
「十重四十八軽戒」です。
つまり、十の重い戒と、四十八の軽い戒があるわけです。

浄土宗の教えは「極楽浄土への往生を願って南無阿弥陀仏と称える者は阿弥陀さまのお導きによって極楽浄土へ迎え取っていただける」という教えです。
ですから極悪人でも往生することができる、と説かれます。
ただ、誰でも彼でも往生できるわけではもちろんありません。
「私は今まで繰り返し悪いことをしてきた。本当ならば地獄に行っても仕方ない。でも阿弥陀さまはこんな私でもお救い下さるという。阿弥陀さま、どうかお助け下さい」と心からお念仏をお称えする人は往生できると説きます。

それを自分の都合のよいように、誤解をする人がでてきました。
「いくら悪いことをしてもいいんだ。最後に南無阿弥陀仏って称えればいいんだから」という人が出てきました。

更には「戒を守って念仏を称えるのは阿弥陀さまの力を信じていない証拠だ。阿弥陀さまはどんな者でもお救い下さるのだから、積極的に悪いことをしたったらいいのだ。それが阿弥陀さまを信じているということだ」という人まででてきました。

そうすると当然他の宗派の人たちから非難を受けることになります。そしてその矛先は法然上人に向いていきます。

そこで法然上人は「浄土宗の教えはそういうものではありませんよ。これが正しい浄土宗の教えなんですよ」と比叡山にお手紙を出されます。
それを「登山状」といいまして、その一部が今回ご紹介する、御法語後編第十八章なのです。

一つ一つの語句が難しいので、内容をかいつまんで申し上げることに致します。
「まず仏教には戒というものがあり、浄土宗も決して例外ではないのだ。できるならば、戒を守り通してお念仏を称えるにこしたことはない。戒をしっかり守って正しく修行すれば、どんな行でもどんな願でも成就するのだ。しかし私達は戒をしっかりと守りきれない存在ではありませんか」というのです。

仏教では「体の行い」「口の行い」「心の行い」の三つを同じようにみます。
つまり、ナイフを持って人を殺すことと、「お前なんか死んでしまえ」と口で言うこと、それから心の中で「あんな人死んでしまえばいい」と思うことは同じ「殺生」という行為なのです。
私達は「心で思うだけなら罪がない」と思いますがそうではありません。
そういう厳密な意味で戒を守ることは非常に難しいんです。

法然上人も一生涯戒を守り、周りの人たちからは「法然上人はきっちり戒を守る方だ」と尊敬されていました。
しかしご本人はご自分の心の中をジッとご覧になって、「とても戒を守りきれない」と自覚なさってたのです。
「お釈迦さまの時代にはすぐれた指導者がおられたから、しっかり戒を守る人も多くいた。しかし、今の時代(つまり鎌倉時代)に本当の意味で戒を守れる人なんているのか、誰もいないじゃないか。しかし仏教ではそもそも、悪い行いをやめましょう、善い行いをしましょう。それが仏教なんだ、と昔から言われている。それがすべての仏さまに共通する教えである。善い行いをする人は善いところに生まれ、悪い行いをする人は命が尽きたら悪いところに生まれる。こういう因果の道理は誰もが知っているが、実際にできなければ意味がないではないか。善い行いをしようにもできない、悪い行いしかできなければどうしようもないではないか。しかし自分の分相応に悪い行いをやめていきましょう。そして縁に触れてお念仏を称えていきましょうよ。」とおっしゃるのです。

つまり、「どうせ戒なんて守れない。善い行いなんてできないのだから、戒なんて無視すればいい」というのではないのです。

「私は戒なんて守れない」、でも自分の分相応に守ろうとするのです。
守ろうとしても実際には守りきれないかもしれません。
そこで「普通なら戒の一つも守れない、救われようのない私を阿弥陀さまはお救い下さる。どうぞお救い下さい、南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏にすがればよいのです。

「いくら悪いことをしてもいい」というのと、「したくはないけれども悪いことをしてしまう」というのでは大きく違うのです。

ただ、「いくら悪いことしてもいい」というのは行き過ぎです。
私たちはそういう人がいたら、「それは救われないよ」と思ってしまいます。
しかしよく考えてみると、これは現在の我々がやっていることではないでしょうか。

「ウチの宗派は念仏を称えておけばいいらしい。だから楽なんですよ。何してもいいんです。念仏を称えるだけだから」などと言っているのはこれと同じです。
戒なんて無視してしまっています。

私なども妻帯していますし、肉も魚も食べます。お酒も多少飲みます。それでも念仏で救われることが当たり前だと思っていたならば、この人たちと同じです。

本当は守らなければならない戒であるが、世間や周りのこと、そして誘惑に勝てずに悪い行いをしてしまう。
でも阿弥陀さまがお救い下さるのだ」とその有り難さを再確認すべきです。
この御法語を改めてじっくり読んでゾッとしました。
「これは私に説かれた教えだ」と。

元祖大師法然上人御法語 後篇 第十七章

(本文)

百萬遍のこと。仏の願(がん)にては候わねども、小阿弥陀経にもしは一日もしは二日乃至七日念仏申す人、極楽に生(しょう)ずると説かれて候えば、七日念仏申すべきにて候。その七日のほどの数は百萬遍に当たり候うよし、人師(にんじ)釈(しゃく)して候えば百萬遍は七日申すべきにて候えども、耐(た)え候わざらん人は、八日九日などにも申され候えかし。さればとて百萬遍申さざらん人の生まるまじきにては候わず。一念十念にても生まれ候うなり。一念十念にても生まれ候うほどの念仏と思い候う嬉しさに、百萬遍の功徳を重ぬるにて候うなり。

 

(現代語訳)

百万遍について。

阿弥陀仏の本願にはありませんが、『阿弥陀経』に、「もしくは一日、もしくは二日、あるいは七日まで、念仏を称える人は極楽に生まれる」と説かれていますので、七日間念仏を称えるべきです。

その七日ほども〔念仏の〕数が百万遍に相当すると、ある高僧は解釈しておられます。ですから、百万遍は七日で称えるべきですが、それが出来ない人は、八日や九日などでもお称えになって下さい。

だからといって、百万遍の念仏を称えない人は往生できない、というわけではありません。一念や十念でも生まれるのです。一念や十念でも生まれるほどの念仏だと思ううれしさに、〔おのずと〕百万遍念仏の功徳を重ねることになるのです。

 

(解説)

「百万遍念仏」という信仰があります。
中国でできた、お念仏の数量信仰です。
つまりたくさんお念仏を称えればそれだけ功徳が増す、というもので、「百万遍もの数の念仏を称えれば間違いないだろう」というわけです。
それが日本にも入ってきて広まりました。
法然上人の周りにも、実際に百万遍念仏を行う人がおられたようで、法然上人も百万遍念仏について言及なさっています。

「百万遍のこと、仏の願にては候わねども」とあります。
仏の願ではないのですね。

仏とはここではもちろん阿弥陀さまのことです。
阿弥陀さまの願は四十八ありまして、その中でも第十八願には「南無阿弥陀仏と称える者を極楽浄土に迎え取ろう」と誓って下さっています。
つまり「百万遍念仏を称えないと極楽には迎え取らない」とはおっしゃってません。
だから「仏の願にては候わねども」とおっしゃるのです。

「小阿弥陀経にもしは一日、もしは二日、乃至七日念仏申す人、極楽に生ずると説かれて候えば、七日念仏申すべきにて候」とあります。
小阿弥陀経といいますのは、いわゆる『阿弥陀経』のことです。
そこに「一日乃至七日念仏を申す人は極楽に往生する」と記されています。
もちろんお念仏というのは毎日、そして一生涯称えていくものですが、毎日お念仏を称えていますと私達には怠け心が出て参ります。
だんだん有り難味がなくなってくる、やる気が起こらなくなってくる。
そういうときに集中的にお念仏をお称えするのです。
これを「別時」といいます。
七日の別時、即ち七日間びっしりお念仏を称えた、その数が丁度百万遍に当たるというのです。
だから百万遍念仏は七日間で称えるというのが本義だけれども、七日で称えきれなければ八日、九日とかけて称えてもいいですよというのです。
実際には七日間で百万遍称えるのは難しいです。
一日に十四万遍以上称えないといけないですから相当に難しいことです。
法然上人でも一日に大体六、七万遍ですから、相当な数です。
寝てる暇も殆どないぐらいでしょう。
だから七日間で無理ならば、八日、九日と日延べしても構いませんというのです。

「しかし、百万遍称えないと往生できないのではないのですよ」とおっしゃっています。
「一遍、十遍の念仏でもちゃんと往生できますよ。一遍、十遍の念仏でも往生できる、その嬉しさに思わず百万遍という数が積もり、その功徳も重なっていくのですよ」とおっしゃるのです。
中国から百万遍という、「数」のみが伝わってきましたので「百万遍念仏しないと往生できない」と思う人が多かっのでしょう。
そこで法然上人は「違いますよ。一遍、十遍の念仏でもちゃんと往生できますよ」とお説きくださいました。

しかし根拠がないからといって百万遍念仏を否定するようなこともなさいません。
昔の人が「たった一遍、十遍のお念仏でさえも往生させていただける。何と有り難いことだ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、その信仰の結果百万遍という数になったのですから、それはそれで真似をしたらいいのですよ、と考えておられたようです。

元祖大師法然上人御法語 後篇 第十六章

(本文)

問う。念仏せんには必ず念珠(ねんじゅ)を持たずとも苦しかるまじく候うか。

答う。必ず念珠を持つべきなり。世間の唄(うた)を唄い、舞(まい)を舞うすらその拍子(ひょうし)に従うなり。念珠を博士(はかせ)にて舌と手とを動かすなり。ただし無明(むみょう)を断ぜざらんものは妄念(もうねん)起こるべし。世間の客と主(あるじ)とのごとし。念珠を手にとる時は妄念の数をとらんとは約束せず。念仏の数とらんとて、念仏の主をすえつる上は、念仏は主、妄念は客なり。さればとて、心の妄念を許されたるは過分(かぶん)の恩なり。それにあまさえ口に様々の雑言(ぞうごん)をして念珠を繰りこしなどすること、由々(ゆゆ)しき僻事(ひがごと)なり。

 

(現代語訳)

問い。念仏するには必ずしも数珠を持たなくても、差しつかえないでしょうか。

答え。必ず数珠を持つべきです。世間で、歌を歌い、舞を舞う時でさえその拍子に従います。〔まして念仏するには〕数珠をたよりにして舌と手とを動かす〔べきな〕のです。

ただし、無知の煩悩を断っていたい者には、迷いの心が起こるに違いありません。〔迷いの心と念仏との関係は、〕世間でいう客人と主人の関係のようなものです。数珠を繰るときは、「迷いの心の数を数えよう」と誓いはしません。「念仏の数を数えよう」と念仏を主人と決めた以上は、念仏が主人であり、迷いの心は客人に過ぎません。

とはいえ、心の迷いを許されていることは〔阿弥陀仏からの〕過分の恩であります。それなのに、あろうことか様々な悪口を言いながら数珠を繰るなどは大変な過ちであります。

『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊

 

(解説)

今回の御法語は問答形式になっておりまして、どなたかが法然上人にお尋ねになり、それに法然上人がお答えになるという形です。
質問の内容は、「お念仏を称えるのに、必ずしも数珠を持たなくてもよろしいですか」ということです。

教義的には、阿弥陀さまは「南無阿弥陀仏と称える者を極楽に迎え取る」と言って下さったわけであって、別に「数珠を持って念仏を称える者を」と限定されてはいないですから、「必ずしも数珠は持たなくてもいいですよ」となるはずです。
ところが法然上人のお答えはそうではありません。
「必ず念珠を持つべきなり」つまり「必ず数珠を持たないといけない」とおっしゃるのです。

このお答えを、どうしてかなあと思って考えました。
数珠というのは、お念仏を数える道具です。
「南無阿弥陀仏」と一遍称える毎に、一つ数珠の珠をを繰っていきます。

「必ず念珠を持つべきなり。世間の唄を唄い、舞を舞うすらその拍子にしたごうなり。念珠をはかせにて舌と手とを動かすなり」
「必ず念珠を持つべきですよ。世間の唄を唄ったり、舞を舞うのでもその拍子というものがあるんだ。数珠を博士にして…」
博士というのは邦楽の音符のことです。

「舌と手とを動かすなり」。
お念仏を称えて数珠を繰ってリズムをとるのです。
リズムをとってお念仏を称えますと称えやすくなるのです。

「但し無明を断ぜざらん者は妄念起こるべし。世間の客と主とのごとし」
但しお念仏を称えていても、悟りを開いていない人(私達のことですね)には、余計なことが次から次に浮かんできます。
お念仏に集中しようにも、「ああお腹減ってきたなあ。今日の晩ご飯何にしよう。そういえば、親戚の聡子ちゃんどうしてるんやろ。あの子頭よかったなあ。息子さんもいい大学行ったって言うてたわ。お医者さんになるって。そうや、明日病院行く日や。忘れてたわ」などというように。
心ここにあらずです。

法然上人は「世間の客と主とのごとし」だとおっしゃるのですが、ちょっと意味がわかりにくいと思います。
読み進めると分かってきますので、そのまま進みます。

「数珠を手に取るときは妄念の数を数えているんじゃないんだ。お念仏を数えているんだ。ということは、数珠を繰っている時は念仏が主、妄念が客なんだ」ということなのです。

「しかし、心の妄念をお許し下さっているのは身に余るご恩なんですよ」
これについてエピソードがあります。
ある時法然上人の元に明遍僧都という方が訪ねて来られました。
明遍僧都は非常に有名な高野山の修行者です。
その明遍僧都が戸を開けるや否や、「法然上人に聞きたいことがあります。私はお念仏を一所懸命称えておるけれども、どうしても心が散り乱れる。これでは往生できませんか?」という質問であります。
明遍僧都ほどの修行者であっても心が散り乱れるというのです。
法然上人は「いやいや。妄念が起こるのは誰にでもあることです。私達には目や耳や鼻がある。それと同じように妄念も生まれもって備わっているんですよ。妄念を無くせということは、目や耳や鼻を取れと言われているようなもので、私達には相当に難しいことですよ。しかし、阿弥陀さまは極楽への往生を願い、念仏を称える者は目や耳や鼻が付いた、そのまますくい取って下さいます。だから妄念があるなら妄念があるまま、阿弥陀さまはお救い下さるのです。何も心配はいりませんよ」とお答えになったのです。
明遍僧都は「そうですか!これで安心しました!」と喜んで帰られたとお伝記には記されています。
この逸話で妄念については語り尽くしたと思います。
本当に身に余るご恩ですね。

ただし、最後に少し釘を刺されています。
「身に余るご恩をいただいておきながら、その上口にいらんことをベラベラ喋って、形だけ信仰深そうに数珠を繰っているようではいけませんよ」とおっしゃっています。
我々は「妄念があっても救ってもらえる」と言われると、何をしてもOKだと勘違いしてしまいます。
大事なことは、何はともあれ往生を願って阿弥陀さまにお任せしてお念仏をお称えすることです。
そうする者は、妄念があっても救う、と言って下さっているのです。
それに甘えて、「もう救われた」と思って念仏も称えずに、形だけ信仰深そうに数珠を繰って、ベラベラ余計なことばかりしゃべっていたらいけませんよ、ということなのです。当たり前のことですが、やりそうですよね。
法然上人は私たちのことをよく分かって下さってるのです。

つまりは、「念仏を中心にしていきなさいよ」ということです。
数珠を持つ時は、お念仏を数える時です。
ですから数珠を持つ時は、お念仏が中心です。
「数珠なんて別に持たなくてもいい」と言いますと、結局お念仏も称えないようになりがちです。
しっかりと数珠を持ってお念仏を称え、その数を数えて、またそれを励みにしてお念仏を称えていくことは大切です。

元祖大師法然上人御法語 後篇 第十五章

(本文)

毎日の所作に、六万十万の数遍(すへん)を念珠(ねんじゅ)を繰りて申し候(そうら)わんと二万三万を念珠を確かに一つずつ申し候わんといずれかよく候べき。答う。凡夫(ぼんぶ)のならい、二万三万をあつとも、如法にはかないがたからん。ただ数遍の多からんにはすぐべからず。名号を相続せんためなり。必ずしも数を要とするにはあらず、ただ常に念仏せんがためなり。数を定めぬは懈怠(けだい)の因縁なれば、数遍を勧むるにて候。

 

(現代語訳)

〔問い〕毎日の勤めにおいて、六万遍、十万遍の念仏を、数珠を〔おおまかに〕繰って称えるのと、二万遍、三万遍の念仏を数珠で確実に一つずつ称えるのとでは、どちらがよいのでしょうか。

答え。凡夫の常として、二万遍、三万遍を〔日課に〕割り当てたとしても、仏の教えに適うことは難しいでしょう。とにかく念仏の数が多いのに越したことはありません。名号を称え続けるためです。必ずしも数そのものが重要なのではありません。ただ常に念仏するためです。念仏の数を定めないのは怠け心のもとになるので、数を決めた念仏をお勧めするのです。

 

(解説)

今回のご法語は問答形式になっていまして、どなたかが質問され、それに法然上人がお答えになっておられます。
「毎日お念仏を称えるのに、6万、10万という数を荒っぽく称えるのと、2万、3万という数をしっかり数珠を繰ってお念仏を数えながら称えるのとどちらがよろしいですか?」という質問です。
我々が聞きそうな質問なのかもしれません。
ただ、2万、3万と6万、10万とを比べてるのですから、相当な念仏者です。
かなり高レベルの話だといえます。

そもそも数珠というものは、お念仏を数える道具なのです。
2万、3万のお念仏を丁寧に数珠を繰って称えるのと、雑に6万、10万を称えるのとどちらが良いですか?ということなのです。

普通の感覚から言いますと、「6万、10万っていう数を雑に称えるよりも、多少減っても2万、3万なんやから、それを丁寧に称える方が良いのでは?」と思いませんか?
しかし答えは反対なのです。

「私達凡夫というのは、たとえ2万、3万であってもきっちりと身と心を整えて称えることなんかできないでしょう。だから数が多い方が良いのですよ」という理屈です。
そして「それは数が多い方がお念仏が続くからだ」とも書かれています。
相続といいますのは、継続することです。
多ければ多いほど、間無くお念仏を称えることができるのですから、多く称えなさいよ、ということです。
「必ずしも数多ければいいというものではありませんが、常に念仏をするだめには多い方がお念仏を続けることができるでしょう。
数を定めないのは怠けの原因になるから、数を定めることを勧めているのですよ」と書かれています。

数を数えるってことは非常に励みになります。
よく万歩計を持って歩いている人がいるでしょう。
「今日は5千歩歩いた、明日はもっと歩こう」と。
それと同じように、お念仏も「今日は千遍称えた、明日は2千遍称えよう」となります。お念仏は称えれば称えるほど、また称えたくなるものです。

今回の御法語には「日課念仏」という題がついています。
日課ですから、一日何遍称えるということを定めるのです。
数を定めないと、体調や気分によって称えない日が出てきて、しまいには全く称えなくなってしまうのが私達の常です。
ですから仏さまの前で「私は一日千遍称えます」という風に誓うのです。
五重相伝や授戒会を受けた方は毎日何遍称えるということをすでに誓います。
たとえば1日に3百遍としますと、称える時間はあっという間です。
5分~10分もあればできます。

形だけではなしに、実行していただきたいと思います。
そのように日課を定めることが、常に念仏を称えることにつながるのです。

元祖大師法然上人御法語 後篇 第十四章

(本文)

問う。信心のようは承りぬ。行(ぎょう)の次第、いかが候うべき。

答う。四修(ししゅ)をこそ、本(ほん)とすることにて候え。一つには長時修(じょうじしゅ)、乃至四つには無余修(むよしゅ)なり。一つには長時修というは、善導(ぜんどう)は命の終わるを期(ご)として誓って中止せざれという。二つに恭敬修(くぎょうしゅ)というは、極楽の仏法僧宝(ぶっぽうそうぼう)において、常に憶念(おくねん)して尊重(そんじゅう)をなすなり。三つに無間修(むけんじゅ)というは、要決に曰く常に念仏して往生の心をなせ。一切の時において心に常に思い、たくむべし。四つに無余修というは、要決にいわく、専ら極楽を求めて弥陀を礼念するなり。ただ諸余(しょよ)の行業(ぎょうごう)を雑起(ぞうき)せざれ。所作(しょささ)の業(ごう)は日別に念仏すべし。

 

(現代語訳)

問い。

信心のありようはお伺いいたしました。行のはこびはどのようであるべきでしょうか。

答え。

四修を基本とするのです。第一の長時修から、第四の無余修までです。

第一の長時修というのは、善導大師は「命が終わる時までを期限とし、誓って中止しないように」とおっしゃいました。

第二に恭敬修というのは、極楽の仏・法・僧の三宝を常に心にかけ、尊び重んじるのです。

第三に無間修というのは、『西方要決』によれば、「常に念仏して、往生したいという思いを抱け。どんなときでも〔それを〕心にいつも思い定めよ」とあります。

第四に無余修というのは、『西方要決』によれば、「ただひたすら極楽を求めて阿弥陀仏を礼拝し、心にかけるのである。他の様々な修行を交えてはならない。なすべき勤めとしては、日々に念仏することである」とあります。

(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊)

 

(解説)

「お念仏を称えましょう」「とにかくお念仏を称えましょう」と言いますが、何でもかんでも称えればそれでいい、というわけではありません。
「100円あげるから称えてごらん」と子どもに言い、「じゃあ南無阿弥陀仏」と称えてそれで往生できますよ、というわけではもちろんありません。
やはり心、すなわち「信心」が必要です。
お念仏を称える者の信心とは、「極楽へ往生したい」と願い、「必ず阿弥陀様が救ってくださる」と深く信じるということです。
この信心なしにただ南無阿弥陀仏と称えているだけでは極楽往生はできません。
いや、この心なしで南無阿弥陀仏と称えること自体が矛盾していますので、称えることはできないでしょう。

このご法語は問答形式になっています。
お弟子さんが法然上人に質問をし、それに法然上人がお答えになってるものです。
恐らくこの問答の前に、信心に関する問答があったのでしょう。

「問う。信心の様は承りぬ。行の次第、いかが候うべき」
「質問します。信心のことはよくわかりました。極楽往生を願って阿弥陀様を深く信じるのですね。では、行としてのお念仏は具体的にどのように称えていけばよろしいのでしょうか?」という質問です。

「答う。四修をこそ本とすることにて候え。一つには長時修、乃至四つには無余修なり」「答えましょう。四修が基本ですよ。第一の長時修から第四の無余修までです」

「一つに長時修というは、善導は命の終わるを期として誓って中止せざれという」
「一つ目の長時修というのは、善導大師がおっしゃるには死ぬまで続けるということです。

お念仏のみ教えを知って、「そうか、有り難いな。では称えましょう」と言って千遍お念仏を称えたとします。
「これだけ称えたからもう大丈夫。一生分称えました」というようなものではありません。
お念仏のみ教えと出会ったその時から命終わるまで、ずっと称え続けるのです。
40歳でお念仏と出会った人が80歳まで生きるとしたら40年間、60歳で出会ったら20年間、70歳なら10年間称えることができます。
さらには臨終間際でお念仏と出会ってたった10遍しか称えることができなかくてもいいのです。
お念仏との出会いから死ぬときまでです。
たとえ途中で一旦称えることができなくなったとしても、また再開した時から死ぬときまで称えればよいのです。
これが長時修です。

「二つに恭敬修というは、極楽の佛・法・僧宝において、常に臆念して尊重をなすなり」
「二つ目の恭敬修は、極楽の佛・法・僧に常に思いを寄せ、大切にすることです」

恭敬修は、恭しく敬うと書きますように、敬って大切にすることをいいます。
何を大切にするのかというと、極楽の佛・法・僧です。
佛・法・僧を三宝といいます。
お釈迦様の時代から、佛教徒になりたいという人がお釈迦様の元にやってきたら、まず「佛・法・僧を敬いますか?」「はい、敬います」というところから入りました。
佛教徒の基本です。
佛はお釈迦様、法はお釈迦様が説かれた八万四千のみ教え、僧は佛教教団を構成する人々です。
佛教のみ教えを信じる者同士がお互いに敬い合うということです。
いつもお勤めの最初に香偈を称えた後、三宝礼というものを称えますね。
三宝礼はこの「佛・法・僧の三宝を私は敬います」ということを言葉と身体で表現したものです。
このご法語では「極楽の佛・法・僧宝」とあります。
極楽の佛は阿弥陀様です。
極楽の法は極楽へ往生するための法ですから、お念仏のみ教え。極楽の僧は極楽におられる菩薩様です。
観音菩薩、勢至菩薩をはじめ、多くの菩薩様がおられます。
菩薩様の中にはみなさんのご先祖様、みなさんの大切なあの方もこの方もおられます。
極楽へ往生した方は、みんな仏様になるために楽しく修行に励まれます。
仏様になるために修行する方を菩薩といいます。
ですから極楽の僧にはお仏壇にお祀りしているお位牌のあの方も含まれます。
その極楽の佛である阿弥陀様に思いを寄せ、お念仏に思いを寄せ、極楽におられる方々に思いを寄せるのです。
「極楽はよいところなんだろうなあ。阿弥陀様がおられてみんな仲良く過ごしておられるんだろうなあ。あの人も極楽で幸せに過ごしているんだろうなあ。また会いたいなあ。お念仏を称えていたらいつか極楽で会えるなあ」と思いを寄せ、そして敬うのです。
身近なところで言いますと、お仏壇を大切にする、仏具を大切にするということも大事です。
仏様を敬う方がお仏壇や仏具を粗末に扱うということはあり得ません。
法が記されたお経の本も大切にしなければなりません。
あるお檀家さんは、夏場蚊が飛んできて、思わずお経の本で「パチン」と殺してしまわれました。
さすがに私も「それはいかんでしょう」と注意しました。
「すみません。」と反省されましたが、これはいけません。
また、法事の際に私はお経の本を施主さんにお渡しして、「みなさんに配ってください」と言います。
ときどき乱暴な方もにます。
「いくで。ホイッ、ホイッ」と畳の上を滑らせるようにお経の本を投げる方がおられます。今まで何人もおられました。
子どもではありませんので、叱るわけにもいかず、いつも心で嘆いています。
お経の本は雑誌ではありません。
私たちの命の行き先と善きところへ行く方法が説かれた大切な大切なものです。
注意しなくてはなりません。

僧はお仏壇のお位牌です。
仏様同様お水やご飯をお供えし、旅先でおみやげを買ってはお供えし、その方が目の前におられるかの如く話しかけるのです。
その方が最も喜ばれるお念仏を称えるのです。
これが恭敬修です。

「三つに無間修というは、要訣に曰く、常に念仏して往生の心をなせ。一切の時に於いて、心に常に思い巧むべし」
「第三の無間修とは、『西方要訣』によれば、常に念仏して往生したいという思いを抱きなさい、どんなときもそれを心に思い定めなさい、とあります。」

無間修は、お念仏を忘れないように続けることです。
「ゴルフを続けていますか?」と尋ねると、「続けていますよ」と答える。
ゴルフを続けている方も24時間ずっとゴルフをしているわけではありません。
たとえ月に一度でも「続けていますよ。」と答えるはずです。
やめてしまわずに定期的に続けているわけです。
「今日は七回忌ですな。お念仏を称えるのは三回忌以来ですわ」というのは続けているのではないですね。
七回忌まですっかり忘れていたわけですから。
お念仏の場合は月一度を続けているとは言い難いでしょう。
「月参りの時に毎回称えています」という方は、私が月参りに伺わなくなったらやめてしまいますね。
月参りに行った時に想い出して称えているにすぎません。
やはりお念仏は最低毎日称えるべきでしょう。
毎日一遍でもいいのかというと、一遍でも構いません。
しかし数が多ければ多いほど続きやすいと言えます。
お念仏を続けるために最も効果的なのは、数を定めることです。
一日に100遍、300遍と数を定めて称えていきますと、癖付きます。
歯を磨くことは習慣付いていなければ相当な手間なはずです。
洗面所まで行って3分、5分と毎日朝夕磨かなくてはならないのですから。
でも習慣付くと磨かないと気持ち悪くて仕方ないでしょう。
お念仏も習慣付くと、毎日の定めた数を称えていないと気持ち悪くなります。
そうなるとしめたものです。有り難いことにお念仏はお仏壇の前だけでなく、どこでも称えることができますから、忙しくてもできるのです。
私はいつも「歩きながらでもできますし、お風呂に入っていてもできますし、洗い物をしていてもできますし、車を運転していてもできますよ。」と申します。
有る方が、「お風呂に入ってやってみたけど難しい」とおっしゃるので、「なぜ難しいのですか?お湯に浸かっている間に称えればいいではないですか。」と言いますと、「私は浴槽で腹ばいになって体操しているんです。体操しながらお念仏は難しいです。」とおっしゃいました。大きな身体のその方が腹ばいになるほどの浴槽ですから、相当大きいのでしょう。その方にはお風呂の中でなく、違う方法を色々試すことをお勧めしました。自分の生活の中で、やりやすい方法をお試しください。
そうやってお念仏が身につきますと、心を極楽へ向けやすくなります。今まで法事の時ぐらいしか向かなかった心が日々向くようになります。
お念仏と信心は凧とたこ糸の関係に似ています。凧が信心、凧糸がお念仏とします。凧は遠く離れることもありますし、風に揺られてフラフラすることもあります。信心は深まるときもあれば、薄らぐこともあるでしょう。でも凧糸をしっかり持っていれば、またちゃんと凧は風に乗ります。お念仏を称え続けていれば、信心はふらついても無くなりません。また取り戻すことができます。
お念仏が無くてはならないと感じるようになることでしょう。

「四つに無余修というは、要訣に曰く、専ら極楽を求めて弥陀を礼念するなり。ただ諸余の行業を雑起せざれ。所作の業は日別に念仏すべし。」
「第四の無余修というのは、『西方要訣』によれば、ただひたすら極楽を求めて阿弥陀様に礼拝し、思いを寄せるのである、他の修行を交えてはならない、毎日の行は念仏を称えることである、とあります。」

無余修は「私の信仰は阿弥陀様一筋。求めるのは極楽への往生一筋。行はお念仏一筋。」ということです。
他にも多くの宗教や宗派があります。どれもぞんざいに扱う必要はありません。どれも尊いと思っておればよいのです。しかし、自分の信仰としてあっちもこっちもとフラフラしているとどっちつかずの信仰になり、結局臨終の時に迷います。自分のピンチの時に役に立たない信仰しか育ちません。
どの教えも尊いけれども、私の信仰は阿弥陀様であり、求めるところは極楽浄土、行はお念仏、と定めることが必要です。
もちろん知り合いの結婚式のために教会へ行っても結構です。賛美歌を歌いましょうと言われれば歌えばいい。初詣に家族で神社に行くことも結構です。柏手を打てばいい。でも自分が信じる道、求める道、行ずる道は一本である、と明確に定めておく。
これが無余修です。

この四修の説明をある94歳のおばあちゃんに言いましたら、「こんな言葉は知らんかったけど、こんなん当たり前ですやん」とおっしゃり、感動しました。
これは念仏を日々称えてお念仏を生きる糧にしている人からすれば当たり前のことです。何の苦労もいりません。
しかし、まだ信心もない人に言うと「難しいなあ」となることでしょう。
「信心の様は承りぬ」という方に説かれたものだというのはそういうことなのでしょう。
しかし苦から逃れたい人、往生を目指す人には必要不可欠の大切だということは間違いありません。