成道山 法輪寺

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御法語

元祖大師法然上人ご法語 前篇 第八章

原文

浄土一宗(いっしゅう)の諸宗(しょしゅう)に超え、念仏一行(いちぎょう)の諸行(しょぎょう)に勝(すぐ)れたりということは、万機(ばんき)を摂する方(かた)をいうなり。理観り(かん)、菩提心(ぼだいしん)、読誦(どくじゅ)大乗(だいじょう)、真言(しんごん)、止観(しかん)等、いずれも仏法の疎(おろ)かにましますにはあらず。みな生死(しょうじ)滅度(めつど)の法なれども、末代になりぬれば、力及ばず。行者の不法なるによりて、機が及ばぬなり。時をいえば末法(まっぽう)万年(まんねん)の後(のち)、人寿(にんじゅ)十歳につづまり、罪をいえば十悪(じゅうあく)五逆(ごぎゃく)の罪人なり。老少男女(ろうしょうなんにょ)の輩(ともがら)、一念十念のたぐいに至るまで、みなこれ摂取不捨(せっしゅふしゃ)の誓いにこもれるなり。この故に諸宗に超え諸行に勝れたりとは申すなり。

 

現代語訳

浄土一宗が他の諸宗に勝り、念仏一行が他の様々な修行より優れているということは、あらゆる衆生を救う点を言うのであります。
真理を対象とする観法、覚りを求める心、大乗経典の読誦、真言、止観など、どの修行も仏の教えとして不十分であるというわけではありません。みな迷いの境涯を離れて覚りを得るための教えではありますが、末法になったので、力が及ばず、修行者が教えに背いてしまうことで、能力が追いつかないのです。
時代についていえば、末法の一万年が過ぎた後、人間の寿命が十歳に縮まり、罪についていえば、十悪や五逆を犯す罪人であります。(しかしそんな)老若男女の人々で、一念や十念しか称えない人たちに至るまで、みな「救い取って捨てない」という誓いの対象に含まれるのです。
こういうわけで、(浄土宗は)他の諸宗に勝り、(念仏は)他の様々な修行より優れていると言うのであります。

 

解説

仏教には無常という教えがあります。あらゆるものは移り変わる。普遍のものは何一つとしてない。生きとし生けるものはいつか必ず死ぬ。それもいつ死ぬか分からない。形あるものはすべて壊れる。栄えるものがずっと栄え続けることはない。どんなに栄えたものでも必ずいつか滅びる。これが無常です。
仏教の教え、法は真理です。真理は無常ではありません。いつの時代もどんな状況でも誰にでも当てはまるのが真理です。時代によって変わるものを真理とはいいません。
ただ、仏教教団はいつか滅びます。僧侶も信者もいつかいなくなって、法はあっても誰も法を知る人がなくなる時が来るといいます。「仏教だけが不変で栄え続けるんだ」とはなりません。
仏教教団にとって、最もよい時代は今から2500年前、お釈迦様がおられたときです。仏さまが目の前で教えを説いて下さるわけですから、そんなにありがたいことはありません。お釈迦様のおられた時には「教え(教」)、「修行(行)」、「悟り(証)」の三拍子が揃っていました。お釈迦様がお亡くなりになってからも500年はその余力でよい時代が続くといいます。この時代を「正法の時代」といいます。
500年過ぎますと、正法の時代が終わり、「像法の時代」がやってきます。「像」は「似る」という意味があります。正法の時代に似ているが、少し劣った時代です。「教」、「行」はありますが、「証」がない時代です。像法の時代は1000年続きます。
像法の時代が終わりますと、「末法」の時代がやってきます。「教」はあるが、「行」も「証」もない時代です。この時代が1万年続きます。その後仏教が滅びるのです。「法滅」の時代といいます。日本では平安時代に末法に入り、まだ1万年経っていませんから、今現在まだ末法の時代です。 お念仏のみ教えはこの末法以降の者を救う為に説かれた教えです。これを踏まえて文章をみていきましょう。
「浄土一宗の諸宗に越え、念仏一行の諸行に勝れたりという事は、万機を摂する方をいうなり。」「浄土宗が他の宗派を越え、念仏が他の修行よりも勝れているのは、すべての者が救われるという点である」ということです。「万機」の「機」は「素質」とか「能力」という意味です。「万機」ですから、「ありとあらゆる者」という意味です。優れた者だけを救うのではないということです。世の中には色んな能力の人がいますが、「南無阿弥陀仏」と称える者はどんな者でも救って下さるのです。
だからといって、他の宗派がダメで浄土宗だけが勝れていると言っている訳ではありません。次にそのことが書かれています。
「理観・菩提心・読誦大乗・真言・止観等」これは浄土宗以外の宗派がする修行を並べているのです。「どれもお釈迦様が説かれた仏教であるから、つまらない教えだということではない」ということです。
「どの教えも迷いを離れ、悟りを求める教えであるが、末法の時代になったならば、人々の力が及ばないんだ。修行する者が法に背くし、人々の教えを受け止める能力ではこれらの修行についていけない。今の時代を見てみると、末法が一万年を過ぎると人の寿命は十歳に縮まり、人殺し、盗人、親殺しの罪人ばかりになってしまう」今の時代は平均寿命80何歳と言われますが、末法が過ぎて法滅の時代になると、寿命は十歳になり、悪人だらけになるというのです。
よく「昔からとんでもない事件はあったけど、今のように頻繁にはなかった」ということを聞きますが、どんどん法滅に向かって進んでいる最中なのです。どんどん時代が悪くなっていることを実感します。
「そんな時代にお念仏は、老いも若きも男も女も、わずか一遍や十遍の念仏しかできずに亡くなっていった人でさえも皆阿弥陀仏の誓いにすべての功徳が籠もっているので救われる。だからあらゆる宗派を越え、あらゆる行よりも勝れた教えなのだ」ということです。
お釈迦様は人それぞれに合う教えを説かれました。どの教えにも「対象」があります。お念仏は末法以降の人のために説かれた教えです。後の人々は難しい修行などできなくなるだろうということで、お釈迦様は「後の人のために阿弥陀様のお念仏の教えをしっかりと伝えていけよ」と説かれたのです。
阿弥陀様は「後の者は難しい修行などできないが、我が名を呼ぶことならできるだろう」とお念仏をご用意くださいました。劣った者ができる行だからといって、劣った行ではありません。劣った者が救われるためには勝れた功徳が具わっていなくてはなりません。阿弥陀様はお念仏にご自身が修行された功徳すべてを収め込んでくださいました。本来自分で修行しなくてはならないところですが、阿弥陀様が「難しい修行などできないであろう、我が名を呼べよ、私が救ってやろう」とお念仏をご用意くださったのです。
お念仏以外の他の行も確かにお釈迦様が説かれた教えですから、正しいことは間違いありません。そしてまたそれらすべて優れた教えなのです。しかし、教えは尊くても行う側が劣っていてはどうにもなりません。
たとえば、どれだけ便利な機能を備えたコンピューターがあっても、使う能力がない者にとれば何の役にも立ちません。それと同じように、「人々にできる教え」でなくてはなりません。
お念仏は末法の時代を生きる私達のために説かれた教えです。私達はすでに、色んな教えを選ぶ力はありません。どれも末法の者のために説かれた教えではないからです。唯一お念仏だけが我々にできる行です。唯一私達が救われる行なのです。

 

元祖大師法然上人ご法語 前篇 第七章

原文

六方(ろっぽう)恒沙(ごうじゃ)の諸仏(しょぶつ)、舌をのべて三千世界に覆(おお)いて、専(もは)らただ弥陀(みだ)の名号(みょうごう)を称(とな)えて往生すというは、これ真実なりと証誠(しょうじょう)し給(たも)うなり。これ又念仏は弥陀の本願なるが故に、六方恒沙の諸仏これを証誠し給う。余(よ)の行(ぎょう)は本願にあらざるが故に、六方恒沙の諸仏、証誠し給わず。これにつけても、よくよくお念仏候うて、弥陀の本願、釈迦の付属(ふぞく)、六(ろっ)方の諸仏の護念(ごねん)を深く被(こうぶ)らせ給うべし。弥陀の本願、釈迦の付属、六方の諸仏の護念、一々に虚(むな)しからず。この故に、念仏の行は諸行に勝(すぐ)れたるなり。

 

現代語訳

六方世界の諸仏が、舌をのばして三千世界を覆い、「〈専ら阿弥陀仏の名号のみを称えて往生する〉という教えは、真実である」と証言なさるのです。これも念仏が阿弥陀仏の本願であるので、六方世界の数限りない諸仏がこれを真実であると証言なさいます。念仏以外の行は本願ではないので、六方世界の無数の諸仏が、真実であるとは証言なさいません。
このことからしても、しっかりとお念仏なさって、阿弥陀仏の本願、釈尊の付属、六方世界の諸仏の守護を、深くお受けになって下さい。
阿弥陀仏の本願、釈尊の付属、六方世界の諸仏の守護は、それぞれに、みな実のあるものなのです。それゆえ念仏の行は、他の様々な修行より勝っているのです。

 

解説

浄土三部経の一つ、阿弥陀経というお経をご存知でしょうか?お年忌法要の時にはいつもお読みしております。
阿弥陀経は前半と後半で内容が二つに分かれています。前半は主に極楽の様子が描かれています。「ここから西に向かって十万億という距離を過ぎたところに一つの世界がある。それを極楽という。そこには阿弥陀仏という仏様がおられて、今現在も説法して下さっている。その国の人々には苦しみがなく、幸せばかりの世界であるから極楽というのだ。」そして極楽の美しい様子が縷々描かれています。「その幸せばかりの極楽浄土へ往くには、お念仏を称え続けることだ。必ず命が尽きる時に阿弥陀様が多くの菩薩様方を引き連れて迎えに来て下さるのだ。」と説かれています。
後半はあらゆるところにおられる仏様方がみんな、阿弥陀様が説かれるお念仏のみ教えは間違いない教えだと証明なさり、阿弥陀様を讃え、念仏を称える者を護って下さるのだと説かれています。
仏様は阿弥陀様だけではありません。数え切れないほど多くの仏様がおられます。阿弥陀経では六方の仏様が出て参ります。東南西北下上の仏様です。お経には十方とか六方という方角がよく出てきますが、十方は八方+上下、六方は四方+上下です。いずれにしても「あらゆるところ」を意味します。その六方の仏様方がみんな舌を出して念仏を称える者が極楽へ往生することを間違いないと証明して下さっているのです。
私たちの感覚では舌を出すのは嘘をついたり、人を馬鹿にするときの仕草ですが、昔のインドでは「私が言っていることは間違いないです」と証明するときに舌を出したといいます。「もし私が言っていることが嘘であったならば、今出している舌を二度と口の中にしまいません。舌が爛れて腐ってしまっても構いません。」という誓いなのです。
この話をしていると、ある方が「嘘をついたら閻魔様に舌を抜かれるというのはここからきているんですか?」と仰いました。恐らくその通りでしょう。「私が嘘をついていたらこの舌が無くなっても構わない。」という誓いなのですから。
以上のことを踏まえて本文を見て参ります。
「六方恒沙の諸仏」とあります。六方は四方+上下だと申しました。恒沙は「ガンジス川の砂」という意味です。阿弥陀経では恒河沙とあります。仏教はインドの北部で広まりました。インド北部には母なる川、ガンジス川が流れています。誰もがガンジス川を知っています。「ガンジス川の砂ほどの」というと、数え切れないものという意味です。「星の数ほど」ということです。
「あらゆるところにおられる数え切れないほど多くの仏様方が、舌をのばして三千世界という我々の住む世界の10億倍の大きさの世界を覆い尽くして、専らただ阿弥陀様の名を称えて極楽へ往生することは真実であると証明なさっています。これは阿弥陀様の本願であるから六方恒沙の諸仏は証明して下さるのです」ということです。
阿弥陀様が、念仏を称える者をすべて救うと約束して下さっているのが本願です。阿弥陀様が「救う」と言っておられるのだから間違いないのだということです。
そして「お念仏以外の行は本願ではないから六方恒沙の仏様方は証明なさらないのだ」とあります。六方の仏様がみんな間違いないと証明なさるようなお経は唯一阿弥陀経だけです。「阿弥陀様の誓いなのだから、間違いないのだ。」と他の多くの仏様方もみんなおっしゃっているのです。
「これにつけてもよくよくお念仏を称えて、阿弥陀様の本願、お釈迦様の付属、六方の諸仏の護念を深くいただかれるがよろしい。」
「付属」といいますのは、教えをしっかりと伝えることをいいます。お釈迦様は同じく浄土三部経の一つ、『観無量寿経』の最後の部分で、お弟子の阿難尊者に阿弥陀様の名前をしっかりと後まで伝えていけよとわざわざおっしゃっているのです。それが「付属」です。
「護念」といいますのはお護りのことです。ただ単に病気や災難から守って下さるのではありません。仏様からご覧になれば、私達にとって極楽へ往くことが最も幸せだとお考えです。極楽へ往くには私達は往生を願ってお念仏を称えねばなりません。ですからお念仏を称える者を、益々お念仏が称えることができるようにお護り下さるのです。それが「護念」です。
「阿弥陀様の本願」、「お釈迦様の付属」、「六方の諸仏の護念」はどれ一ついい加減なものはありません。ですからお念仏の行は他に多くの行がある中でも勝れた行なのです。
「弥陀、釈迦、諸仏」です。阿弥陀様が本願を建てて、「念仏を称える者を必ず極楽に迎えとろう」と約束して下さり、お釈迦様が「後の人々にお念仏のみ教えを伝えていけよ」と付属なさり、六方の諸仏が「念仏を称える者を護ってやるぞ」と言って下さっているのです。
このようにすべての仏様から太鼓判を押されている行は唯一お念仏だけです。
阿弥陀経の最後に「お念仏の行は信じがたい法であるぞ」と説かれています。それは私達がいかに疑り深いかということです。せっかく救ってやると阿弥陀様がおっしゃりお釈迦様が後押しして下さっているのに、「お念仏で本当に救われるのか」、「極楽なんて本当にあるのか」、「阿弥陀様なんて本当にいるのか」などと自分の知識や経験にないものを疑い、信じることができないという私達ではありませんか。そんな私達のために六方の諸仏がくどいほどに「阿弥陀様の教えは間違いない」と仰っているのです。この仏様もあの仏様もその仏様もどの仏様もみんな「阿弥陀様の教えは間違いない」と証明して下さっているのです。微に入り細に至るまで私達を信じせしめようとご苦労下さっているのですね。

元祖大師法然上人ご法語 前篇 第六章

原文

酬因感果(しゅういんかんか)の理(ことわり)を大慈大悲(だいじだいひ)の御心(みこころ)の内に思惟(しゆい)して、年序(ねんじょ)そらに積もりて星霜(せいそう)五劫(ごこう)に及べり。しかるに善巧(ぜんぎょう)方便を巡らして思惟(しゆい)し給えり。しかも、我別願をもて浄土に居(こ)して、薄地底下(はくじていげ)の衆生を引導すべし。その衆生の業力(ごうりき)によりて、生まるるといわば、難(かた)かるべし。我(われ)須(すべから)く衆生のために、永劫(ようごう)の修行を送り、僧祇(そうぎ)の苦行を巡らして、万行万善(まんぎょうまんぜん)の果徳(かとく)円満し、自覚覚他(じかくかくた)の覚行窮満(かくぎょうぐうまん)して、その成就せんところの万徳無漏(まんとくむろ)の一切の功徳をもて、我が名号(みょうごう)として衆生に称えしめん。衆生もしこれにおいて、信をいたして称念(しょうねん)せば、我が願に応えて生まるることを得(う)べし。

 

現代語訳

法蔵菩薩は、修行という原因に応じてその報いたえられるというすじみちを、(衆生のために)大慈大悲の御心でお考えになるうち、年数はいつしか積み重なり、歳月は五劫に及びました。それでも巧みな手立てをあれこれとお考えになりました。
その上に、「私は特別の願を立てて浄土に住まいし、仏道修行の低い位にある衆生を導き入れよう。その衆生自身の修行の力で浄土に生まれるという(すじみち)であれば、それは難しいだろう。
私は是非とも衆生のために、限りなく長い修行生活を送り、果てしなく長い難行を重ねて、多くの修行と多くの善行の結果としての徳をも円かに満たし、自らも覚り他者をも覚らせるという覚りへの修行をも窮め、そのことで具わった、煩悩のけがれのない無数の功徳を、すべて私の名号にこめて、衆生に称えさせよう。衆生がもしこれを深く信じて称名念仏するならば、私の願に応じて、(間違いなく)生まれることができるであろう」(とお考えになったのです。)

 

解説

仏教とキリスト教は大きく違うところがいくつかあります。その一つは、キリスト教の神様は最初から神様という存在ですが、仏教の仏様は最初から仏ではないということが挙げられます。仏様はみんな修行して、悟りを開いて初めて仏になられます。ご本尊の阿弥陀さまも最初から仏ではありませんでした。阿弥陀さまの修行中のお名前を法蔵菩薩様といいます。
法蔵菩薩様は、すべての者を救いたいと願われました。しかしすべての者を救うことは大変なことです。仏教には因果応報の道理というものがあります。
因果応報とは「原因があって結果がある」ということです。善い行いをすれば結果として楽がもたらされます。悪い行いをすれば苦しみがもたらされます。それも自業自得といって、自分の行いの結果は必ず自分に返ってきます。
法蔵菩薩様は「すべての者を救いたいけれども、どう見ても殆どの人たちは善い行いなどできないではないか、悪い行いばかりしているではないか」と考え込んでしまわれます。悪い行いをする者を善い方向へ導くことは因果応報の道理に背きます。
法蔵菩薩様は悩みに悩まれます。その悩まれる時間は五劫といわれます。劫というのは時間の単位です。お経にはこのように記されています。
大きな岩があるとします。百年に一度天から天女が降りてきて、羽衣で岩をスッと人撫でします。そうすると理屈上、目に見えないような僅かではありますが、岩が削れます。それを百年に一度繰り返し、徐々に岩が削れて無くなってもまだ一劫は終わらないとお経に説明されています。
寿限無という落語をご存じでしょうか。「寿限無寿限無五劫の擦り切れ」という五劫はこの法蔵菩薩様が悩まれた時間からきています。「子供が生まれたので名前を付けて下さい」と裏長屋の長者さんに頼んだところ、それでは「寿(ことぶき)限りなし」という意味で寿限無とつけようと言われます。「もっとめでたい名前はないですか」と言いますと、「では五劫の擦り切れと付けましょう」となり、天女の説明がなされます。五劫というのはとてつもない時間であるから、これを名前にすればさぞ長命に育つであろうというお話しです。この法蔵菩薩様が悩まれた時間からきているのです。今は多く裏長屋の長者さんに命名を頼んだことになっていますが、浄土宗のお寺の住職に頼んだ、というのが古い形なのだそうです。
黒谷金戒光明寺には五劫思惟像というお像があります。笑福亭鶴瓶さんが昔アフロヘアーをされていましたね。あのような大きな頭をしておられます。あのお像を見ますと多くの方が笑うのですが、実はあれは救われがたい者達を救うにはどうしたらよいかと悩んで悩んで悩み尽くして、頭がパンパンに腫れ上がったお姿なのです。とても笑うことなどできません。逆に言えば、私たちはそこまで悩んでいただかなければ救われない存在であることに気づかされるのです。では本文に入ります。
「酬因感果の理を大慈大悲の御心のうちに思惟して、年序空に積もりて星霜五劫に及べり。」酬因感果とは因果応報のことです。「法蔵菩薩様は、因果応報の道理からすると善い行いができない人々を救うことができないではないか、どうすれば救うことができるであろうと大いなる慈悲でもってお考え下さっているうちに、年月はいたずらに流れ、気が付けば五劫という時間が経っていた」ということです。
「善巧方便」とは、「善い方へ導く手だて」という意味です。「善い方向に導く手だてを駆使して、このように考えられた。私は別願を建てて浄土をつくって、修行の覚束ない、覚りに至る能力のない人々を救うのだ。しかし、その人々の行いによって往生することは難しいであろう。だから私は人々のために永遠ともいえる永い間修行をし、気が遠くなるほどの長い間苦行を積んで、すべての行、すべての善の功徳を成就させ、自ら悟り、他も悟らせる道を究めたならば、この身に具わった功徳すべてを一切漏らすことなく、私の名前に込めて、人々に称えさせよう。もし人々が信を持って我が名を称えるならば、私の誓いによって往生することができるであろう。」と法然上人が阿弥陀さまの立場に立ってお書き下さったものです。
本来私たちは自分が修行をしなくてはならないのです。しかし、阿弥陀さまは「とても修行についていける者などいないではないか」と考えられました。因果応報の道理からすると、自分が修行しなくては自分に善い結果をもたらすことなどできません。そこで五劫もの間考えに考えて「では私が代わって修行しよう」と永遠に近い長い間修行して下さったのです。そして私たちは悪い行いばかりを繰り返しますから、自分が結果として苦を受けなくてはならないところを、法蔵菩薩様が代わって苦しみを受けて下さったのです。そしてご修行下さったとてつもない功徳をご自分の為に使われるのではなく、この私たちの為にすべて使って下さったのです。功徳すべてを「南無阿弥陀仏」のたった六文字の中に収め込んで下さったのです。そして、「難しい修行はできないかも知れないが、私の名前を称えるぐらいならできるであろう。この名前に功徳すべてを収め込んだから、頼む、称えてくれ。お願いだから称えておくれ。」と言って下さっているのです。
ここまでお膳立てをして下さっているのです。後は信じて称えるのみです。
「お念仏いうても難しいですわ。なかなかねえ。」なんてことは口が裂けても言えないのです。
お念仏自体は簡単です。しかし続けることは確かに難しいです。でも法蔵菩薩様が、阿弥陀様がここまでして下さっているんだと思えば、続ける努力や工夫ぐらいはこちらがしなくてはならないと思いませんか。

 

元祖大師法然上人ご法語 前編 第五章

(本文)

本願というは、阿弥陀仏のいまだ仏にならせ給わざりし昔、法蔵菩薩と申しし古(いにしえ)、仏の国土を清め、衆生を成就せんがために、世自在王如来(せじざいおうにょらい)と申す仏の御前(みまえ)にして四十八願(しじゅうはちがん)を起こし給いしその中(うち)に、一切衆生の往生のために一つの願を起こし給えり。これを念仏往生の本願と申すなり。すなわち無量寿経の上巻に曰く、設(も)し我(われ)仏(ほとけ)を得(え)たらんに、十方の衆生、至心(ししん)に信楽(しんぎょう)して、我が国に生(しょう)ぜんと欲して、乃至十念せんに、若し生(しょう)ぜずば正覚(しょうがく)を取らじと。善導和尚(ぜんどうかしょう)、この願を釈して宣(のたま)わく、若し我(われ)成仏せんに、十方の衆生、我が名号を称すること、下(しも)十声(じっしょう)に至るまで、若し生(しょう)ぜずば正覚(しょうがく)を取らじ。彼(か)の仏(ほとけ)、今現(げん)に世(よ)に在(ましま)して成仏し給えり。正(まさ)に知るべし。本誓(ほんぜい)の重願(じゅうがん)虚(むな)しからざることを。衆生称念すれば必ず往生を得(う)と。念仏というは、仏の法身(ほっしん)を憶念(おくねん)するにもあらず、仏(ほとけ)の相好(そうごう)を観念するにもあらず、ただ心をいたして、専(もは)ら阿弥陀仏の名号を称念する、これを念仏とは申すなり。故に称我名号(しょうがみょうごう)というなり。念仏の外(ほか)の一切の行は、これ弥陀の本願にあらざるが故に、たとえめでたき行なりといえども、念仏には及ばざるなり。大方(おおかた)、その国に生まれんと思わん者は、その仏の誓いに従うべきなり。されば、弥陀の浄土に生まれんと思わん者は、弥陀の誓願に従うべきなり。

 

(現代語訳)

本願というのは、阿弥陀仏がまだ成仏しておられなかった昔、法蔵菩薩と呼ばれた遠い過去世、仏の国土を浄め、衆生を救うために、世自在王如来という仏の御前で四十八願を起こされたその中で、すべての衆生の往生のために、ある一つの願を起こされました。これを念仏往生の本願と申します。
つまり、『無量寿経』の上巻には「もし私、法蔵菩薩が仏の位を得たとして、十方の衆生が、誠を尽くして信じ願い、私の国に生まれたいと望んで、わずか十遍でも念じて、もし生まれないならば、私は覚りを開かないであろう」とあります。
善導和尚はこの願を解釈して「もし私が成仏するとして、十方の衆生のうち、私の名号を称えることがわずか十声の者まで、もし生まれないならば、覚りを開かないであろう、と法蔵菩薩はお誓いになった。その阿弥陀仏は、今現在、極楽世界にあって仏と成っておられる。まさに知るべきである。阿弥陀仏がかつて誓われた大切な願は、虚しいものではない。衆生が称名念仏するならば、必ず往生することができる」とおっしゃっています。
念仏というのは、真理そのものとしての仏を思い念ずるのでもなく、仏の身体の特徴をありありと想い画くのでもありません。ただ心を尽くしてひたすら阿弥陀仏の名号を声に出して称える、これを念仏と申すのです。だからこを善導和尚は、「我が名号を称すること」と解釈されたのです。
念仏以外の一切の行は、阿弥陀仏の本願の行ではないので、たとえ立派な修行であっても、念仏には及ばないのです。
おおよそ、仏の国に生まれたいと願う者は、その国の仏の近いに随うべきです。それゆえ、阿弥陀仏の浄土に生まれたいと願う者は、阿弥陀仏の誓願に随うべきであります。

 

(解説)

キリスト教と仏教の違いはたくさんあります。キリスト教の神は天地創造の神です。この大地も草木も動物も私たち人間もすべて神が創ったといいます。仏教では仏様が天地を創ったとは説きません。この世の真理を悟った方が仏様です。またキリスト教の神には誰もなれませんが、仏教ではすべての者が「仏になる可能性」を持っているといいます。これは大きな違いです。そして、キリスト教の神は最初から神様ですが、仏様は最初から仏であったわけではありません。どの仏様もみんな修行して悟りを開いて仏になられました。 浄土宗のご本尊である阿弥陀如来様も最初から仏ではなく、法蔵菩薩という菩薩様でした。菩薩というのは「仏になるための修行をしている方」をいいます。観音菩薩様や地蔵菩薩様は、いつでも仏になる力をお持ちですが、敢えて私たちに近い存在でいるために菩薩の位で止まって下さっているといわれています。菩薩には上から下まで修行の段階がありますが、「仏になるための修行をしている方」を総じて菩薩といいます。
法蔵菩薩様には世自在王如来というお師匠様がおられます。如来ですから仏様です。法蔵菩薩様は世自在王如来様の前で「すべての者を救いたい」と告白なさいます。世自在王如来様は「すべての者を救いたいと言うが、一部の者を救うだけでも困難なのだよ。すべての者を救うことは非常に難しい。」とおっしゃいます。しかしそれでも法蔵菩薩様は「すべての者を救いたいのです。」と固い決意でおっしゃいます。「そのまで言うのなら…」と世自在王如来様は法蔵菩薩様に色んな仏様の浄土を見せられます。
浄土というのは極楽だけではありません。阿弥陀様以外にも多くの仏様がおられます。無数の仏様がおられ、その仏様お一方につき一つの浄土があります。極楽浄土は阿弥陀様の浄土です。薬師如来様には瑠璃光浄土という浄土があり、釈迦如来様には無勝荘厳浄土という浄土があります。
世自在王如来様は法蔵菩薩様に、その無数にある浄土をお見せになります。法蔵菩薩様は多くの浄土をつぶさにご覧になり、それぞれの浄土のよいところを選び取られます。そして「理想の浄土を造りたい」と考えられます。
法蔵菩薩様は四十八の誓いを建てられて「私が仏になったならばこういう浄土を造りたい。こういう者を救いとりたい。救いとった者にはこうしてやりたい。もしそれができなければ私は仏になりません。」と誓われました。四十八願です。ここから柔道の四十八手や相撲の四十八手などという言葉が生まれます。この四十八願の第十八番目にこの理想の浄土に迎えとる手段を挙げておられます。第十八願のことを「念仏往生の願」といいます。「もし私が仏になったならば、我が名を呼ぶ者を救いとってやろう。」という願です。歌舞伎の十八番やカラオケの得意な曲を十八番と言いますのは、この法蔵菩薩の十八願が語源なのです。
この四十八願のことを「本願」」といいます。「本願」は「元の願、昔の願」という意味です。「阿弥陀仏が昔、まだ法蔵菩薩であったときに建てた願」という意味で本願といいます。よく「本願とは根本的な願である」と言う方がおられますが、本来の意味は違います。四十八願のことを本願と言い、その中の中心が第十八願ですから、第十八願のことを「王本願」と呼びます。しかし、「本願」と言う場合、「第十八願」のことを指して言うことが多くあります。

ところで皆さんはこの「法蔵菩薩」のお話をそのまま信じることができますか?
現代人は昔の人に比べて宗教的な素養が豊かでないと言われています。浄土宗の根幹であるにもかかわらず、「阿弥陀仏が過去に法蔵菩薩と呼ばれていてその法蔵菩薩が修行して覚りを開いて阿弥陀仏になった」といういわゆる「法蔵因位の話」をすると、不思議な顔をされ、「これは3千年ぐらい前の話ですか?」とか「これは物語でしょうか?」などとおっしゃり、そのまま受け止めることができない方もおられます。
お釈迦さまの話は比較的受け入れられやすいようです。実際にインドに歴史上存在した方ですから、それはわかるのですね。
そのお釈迦さまが説かれた教えが「お経」として現代に受け継がれています。「お経」はお釈迦様が一人一人の能力や素質、人柄などと考慮して「人に合わせて」説かれたものです。これを「対機説法」といいます。
Aさんの素質や能力、性格を見てお釈迦様が「あなたはこういう修行をしなさい」と言われ、Aさんは「お釈迦様がおっしゃることだからこの修行をしていたらいつか覚れるのだ」と信じて修行すると多く覚ったわけです。もちろん「お釈迦様がそうおっしゃるけれど、信じられないからしない」という人はダメです。「お釈迦様を信じて実行する人」が導かれてゆくのです。
同じようにBさんにはBさんに合う教え、CさんにはCさんに合う教えを説いていかれます。しかし、Aさんが覚るのをみて、TさんがAさんと同じ修行をしても必ずしも覚ることはできないかもしれません。素質や能力、人柄が異なるからです。
お釈迦さまのお弟子に周利槃特(しゅりはんどく)という方がおられました。彼は生来物覚えが悪く、一緒に仏門に入った兄からは「お前は修行に向いていないよ。早い内に辞めた方がいい」と言われて落ち込んでいました。お釈迦様は落ち込んでいる周利槃特に声をかけ、「お前にはお前のよさがある。お前は何事も真面目にするのがよい。お前はひたすら塵を”払い垢を落とす”と言いながら掃除をしなさい」とホウキを与えます。周利槃特は「お釈迦様の言うとおり」その修行をひたすら続けてやがて覚ったのです。しかしかといって「掃除をすれば覚ることができる」ということではありません。周利槃特だからその修行が合ったのです。
そのようにして多くの教えは生まれました。その中で我々のお念仏の教えは「未来の凡夫」を対象に説かれました。お釈迦様の時代の方は宗教的な素養が豊かであったので、高度な修行もできましたが、時代が下るにつれて人々の宗教的素養が貧しくなっていきます。ですから、「昔の人と同じ修行では後の時代の煩悩だらけの凡夫は救われない」とお釈迦様がお考えくださり、「遙か西の彼方に極楽という世界がある。そこに阿弥陀仏という仏がおられて我が名を呼べば救うとおっしゃっている。阿弥陀仏は昔法蔵と名乗っておられて・・・」と説かれました。「これをこのまま信じよ。そして南無阿弥陀仏と称えよ」と示してくださっているのです。
それなのに信じることができず、こんなに容易いお念仏すらできなければ救われようがないのです。
あるところに大きな屋敷がありました。そこには三人の幼い息子がいました。三人兄弟はとても仲がよくて、毎日楽しく遊びました。
ある日、三人は遊んでいるとその遊びに夢中になり、はしゃぎます。「ちょっと出かけるよ」と父親が声をかけても聞こえません。父親は「仕方のない息子達だ」と思いましたが急いでいたのでそのまま出てきました。
仕事を終えて帰ると、何と屋敷から火の手が上がっています。しかし息子達はそれにも気づかず、はしゃいで遊んでいます。「おーい、出てこいよ!」と大きな声で叫ぶのですが、はしゃぎすぎて気づきません。「火事だ!」と言ったら気づくでしょうが、間違えて火の元に逃げてしまって余計に危険な目に遭うかも知れません。
父親は一計を案じて「お前達が前から欲しがっていた自転車を買ってきてやったぞ!外に置いているから見においで!」というや否や、子どもたち三人は「え?今お父さん自転車買ってやった、って言っていなかった?わーい!」と喜んで玄関から飛び出して、無事に救われたのでした。
この息子達が救われるには、「実際に自転車があるのかどうか」は関係ありません。自転車がなくても飛び出したわけです。
もし「お父さんは自転車を買ってやったと言うけれど、それは嘘だと思うよ」などと言ってお父さんが言うことを疑ったならば、彼らは助からなかったことでしょう。
同じようにお釈迦様が「阿弥陀さまを信じていけよ」と教えを説いてくださっているのに「法蔵菩薩が修行して覚りを開いた、なんて信じられないよ」となると救われようがない、ということになります。
誤解なきように言っておきますが、「極楽は本当はない」と言っているのではありません。しかし、我々の力では今見ることはできませんから、お釈迦さまの言葉を信じて念仏を称えるしかないのです。「見ないと信じられない」と言っていると、間に合わないかもしれません。
さて、一行目から読んで参ります。
本願というのは阿弥陀様がまだ仏になられていない昔、法蔵菩薩と名乗っておられた古のこと、仏の国を清めて人々を救いとるために、世自在王如来という仏様の前で四十八願を起こされたその中に、すべての人々の往生のために一つの願を起こされた。これを念仏往生の本願という。ここからが第十八願です。無量寿経の上巻には「もし私が仏になったならば、あらゆるところにいる人々が心を込めて私を信じ、私の国に生まれたいと願って十念して、もし往生できなければ私は仏になりません。」と誓われました。
この「十念」には色んな解釈があります。「十念」と言いますと、私たちは「十遍南無阿弥陀仏と念仏を称える」と思っていますが、そもそも「念仏」には色んな種類があるのです。後に「法身を憶念する」と出てきますが、「教えそのものを念じる」ことも念仏です。後には「仏の相好を観念する」と出てきますが、「仏様の姿を瞑想によって心に映し出す」ことも念仏です。これを善導大師様が解釈してくださいました。
善導大師様がこの願を釈しておっしゃるには、「もし私が仏になったならば、あらゆるところにいる人々が私の名を声に出して称えること、十声に至るまで、もしそうした者が往生できなければ私は仏になりません。その仏様はすでに仏になっておられるのです。よく知っておきなさい。本願はすべて成就されたのだ。人々は声に出して念仏を称えれば必ず往生するのだ。」と。
法蔵菩薩様は四十八願で、「こうこうこういうことがしたい。これができなかったら仏になりません!」と誓われて、すでに仏になっておられるわけです。四十八願が成就できていなかったら仏にはなれないのです。だから阿弥陀様の名を呼ぶ者はすべて往生できるのです。
先ほど申し上げたことですが、本文にはこのようにあります。
念仏というのは仏の法身を憶念するのではない。仏の姿を観る念仏でもない。ただ心を込めて専ら阿弥陀様の名を声に出して称える、これを念仏という。だから善導大師も「称我名号」とおっしゃったのだ。念仏の外のすべての行は、阿弥陀様の本願ではないから、たとえどんなに立派な行であっても往生するには念仏に及ばない。大方その国に生まれたいと思う者は、その仏の近いに随うべきである。そうであるから、弥陀の浄土に生まれたいと思う者は、弥陀の誓いに随うべきである。
阿弥陀様はすべての者を救いたいと願って極楽を造ってくださいました。その極楽に迎えとる方法が難しければすべてを救いとることはできません。「私の名前なら呼ぶことができるであろう」とお念仏をご用意くださいました。その「南無阿弥陀仏」という六文字に、法蔵菩薩様がご修行くださった功徳すべてを収め込んでくださったのです。本来私たちは自分で修行を積んで、自分で悟りを開かなくてはならないところ、私たちに代わって阿弥陀様がご修行くださったのです。だから私たちは念仏を称えるだけで往生できるのです。本来私たちは自分が行ったことは自分で責任を負わなくてはなりません。自業自得の法則です。私たちが自分の行いを見つめたとき、地獄や餓鬼道に往くような行いしか積んでいないのに極楽へ往くことができるのは、法蔵菩薩様が私たちに代わって先に苦を受けてくださったからなのです。
極楽へ往くには極楽へ往くための行があります。お念仏を声に出して称えるのです。お念仏は往生専門の行、往生行です。他の色んな修行はこの世で悟りを開くための行です。往生するための行ではありません。極楽へ往生するにはお念仏です。
阪急電車に乗るには阪急電車の切符が必要です。JRの切符を5万円分持っていても役に立ちません。極楽へ往くには極楽往きの行、お念仏が必要なのです。

同様に「私は何十年も座禅をしてきました」と言われても「極楽に往くにはお念仏を称えましょう。阿弥陀さまの本願ですから」と言わねばなりません。

元祖大師法然上人ご法語 前編 第四章

原文

念仏往生の誓願は、平等の慈悲に住(じゅう)して発(お)こし給いたることなれば、人を嫌うことは候わぬなり。仏の御心は、慈悲をもて躰(たい)とすることにて候うなり。されば、観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)には、仏心(ぶっしん)というは大慈悲これなりと説かれて候う。善導和尚(かしょう)この文(もん)を受けて、この平等の慈悲を持てば普(あまね)く一切を接すと、釈し給えり。一切の言(ごん)広くして、漏るる人候うべからず。されば、念仏往生の願はこれ弥陀如来の本地(ほんじ)の誓願なり。余(よ)の種々(しゅじゅ)の行は本地の誓いにあらず。釈迦も世に出(い)で給うことは、弥陀の本願を説かんと思(おぼ)し召す御心にて候らえども、衆生の機縁に随い給う日は、余の種々の行をも説き給うは、これ随機の法なり。仏の自らの御心の底には候わず。されば、念仏は弥陀にも利生(りしょう)の本願、釈迦にも出世の本懐(ほんがい)なり。余の種々の行には似ず候うなり。

 

現代語訳(『法然上人のおことば』総本山知恩院布教師会発行より)

念仏往生の誓願は、平等の慈悲に立って起こされたものですから、人を分け隔てすることはありません。仏の御心は慈悲そのものであります。だからこそ『観無量寿経』には、「仏の心とは、大慈悲に他ならない」と説かれているのです。
善導和尚はこの一文を受けて、「(阿弥陀仏は)この平等の慈悲によって、あまねく一切(の衆生)を救い取る」と解釈しておられます。「一切」という言葉(の意味)は広いので、もれ落ちる人のいるはずはありません。ですから念仏往生の願は、阿弥陀仏が菩薩であった時の願なのです。念仏以外の様々な修行は、その時の誓いではありません。
釈尊が、この世にお出ましになったのも、阿弥陀仏の本願を説こうとお考えになった御心からでありますが、衆生の能力や状況に合わせられた折には、念仏以外の様々な修行をもお説きになられました。これは(あくまでも)聞き手に応じて説かれた教えであります。釈尊ご自身の御心の奥底から出たものではありません。
ですから、念仏は、阿弥陀仏にとっても衆生に利益を与えるための本願であり、釈尊にとっても世にお出ましになった本意であります。その他の様々な修行とは異なるのです。

 

解説

法然上人のお弟子に津の戸三郎為守という方がおられます。この御法語は法然上人が津の戸三郎様に送られた手紙の一部です。
津の戸三郎様は鎌倉幕府の御家人、つまり武士です。奈良の東大寺が源平の争いの際に平重衡公によって焼き討ちされました。その再建に法然上人のお念仏信仰の同志であります俊乗房重源(しゅうじょうぼうちょうげん)上人が勧進役(寄付集め等の重要な役割)としてご尽力なさいました。いよいよ東大寺再建、大仏様の開眼法要ということで、鎌倉からも多くの武士がやってきました。津の戸三郎様もその中のお一人でした。
奈良までやってきたのだから、名高い法然上人を訪ねようと思って京都へ向かい、お念仏のみ教えと出会われます。お伝記には「合戦の罪を懺悔して」と記されています。嫌でも戦をしなくてはならない武士の身です。殺生をせざるを得ないのです。それを「仕方がない」と開き直らないのがありがたいと思います。「恐ろしいことをしている」という自覚を持っておられたわけです。当時多くの武士達が津の戸三郎様と同様、自らの罪を恐れて法然上人の元に集まってこられました。
当時の武士は江戸時代と違い、必ずしも身分が高いと一般には認識されていなかったようです。また、学問ができる武士というのはごく一部であり、殆どの武士には教養がありませんでした。そして武士自身がそのことを自覚し、コンプレックスを持っていたようです。
津の戸三郎様は法然上人から直接にお念仏の尊いみ教えを聞き、「この私が救われるのか!」と喜んで関東へ帰られました。
関東で念仏を称えていますと、よからぬ噂が聞こえてきました。「津の戸三郎は無教養な人間だから、法然上人も念仏を称えるだけで救われるというような簡単な教えを説かれたのだ。教養がある人にはもっと深い教えを説かれるのだ。」というのです。
このように言われますと、人によると腹を立てることもあるでしょう。しかし津の戸三郎様は真面目な方です。「もしかしたらそうかも知れない。」と思われました。
法然上人に「こんなことを言われたのですが本当でしょうか?」とお手紙をしたためて尋ねられました。そのご返事は御法語後編三十一章に記されています。
法然上人は津の戸三郎様に「そのような不信の者の言うことに惑わされず、しっかりと信心を持ちなさいよ。」と励まされました。津の戸三郎様はその励ましによって今まで以上にお念仏に励まれるようになりました。
一途にお念仏を称えておりますと、段々仲間が増えてきました。初めは一人であったのに、三十人の仲間ができたと法然上人にご報告なさいました。何ともけなげではありませんか。法然上人もご自分のこと以上に喜ばれ、讃えられます。そのご返事の一部が今日の御法語です。
「念仏往生の誓願は、平等の慈悲に住して起こし給いたることなれば、人を嫌うことは候わぬなり。」念仏往生の誓願といいますのは本願です。「阿弥陀さまの本願は平等の慈悲によって起こして下さったものでありますから、人を選びません。」
私たちの世界は平等、平等と言いながら、決して平等ではありません。一人一人性格も能力も考え方も違うということを知りながら、違いを見つけて上下、勝ち負け、損得、好き嫌いをいうのです。違いを見つけては区別をし、差別をするのです。これでは差別や争い、憎しみはなくなりません。
そもそも私たちは「自分のため」だけに生きています。「いやいや、私は自分の家族のために生きているのです」という方もおられるでしょう。しかしそれは「我が家族」です。
あくまで「自分」「我が」という「枠」の中に取り込んでしまいます。
「我が子」を完全に囲い、他人の子とは明らかに区別します。そして「我が子」を自分の思い通りにしようとコントロールします。しかもやっかいなことに、自分ではそんなつもりは微塵もなく、「あの子のため」だと思っています。
場合によっては大人になってから精神的に辛い日々が続き、その原因を探ったら自分の母親のエゴであった、ということもかなりあるといいます。しかし「あの優しかった母親が原因のはずがない」と本人も思い、もちろん母や「ウチの子のために」と思っていますから、自分が原因だとは気づきにくいというのです。
もちろん子にとって親は「我が親」です。他の大人には丁寧に接しても、「我が親」は自分の「枠」の中にいますから、多少暴言を吐いても許されます。そうやってお互いを傷つけ合うのです。
「私は家族も大事ですが、会社がよくなるようにと思って日々頑張っています」という方もおられるでしょう。しかしそれも「我が社」です。会社や母校の評価が自分のアイデンティティーになります。母校を馬鹿にされたら自分が馬鹿にされたように感じるのは、学校をも自分の中に取り込んでしまうからです。
「外国が日本のことをないがしろにするのは許せない!」という「愛国心」も同じです。
「我が国」です。
「愛」という言葉は仏教用語では「執着」を意味します。「執着」は「煩悩」です。我々の苦しみの原因です。
「我が」という「枠」は即ち「煩悩」なのです。その「枠」を取り去った状態を「無我」といい、仏様は「無我の境地」にて判断されますが、私たちにはそれは殆ど不可能です。
ですから阿弥陀さまは「こちらの方が仏教のことをよく学んでいるから救おう」とはおっしゃいません。「こちらの方があの人より善人だから救おう」ともおっしゃいません。 普通「善人が救われる」というのが私たちの常識なのかも知れませんが、それも阿弥陀さまからご覧になれば、私たちの違いはドングリの背比べです。「善人悪人、勝った負けたというけれど、どちらも凡夫。自分の力で悟ることができない凡夫ではないか」
阿弥陀さまは「自分の好み」「縁のある者だけ」という有縁の慈悲ではなく、無縁の大慈悲によって本願を建ててくださいました。
善悪や勝ち負けではなく、「ただ我が名を呼べ」とおっしゃっています。我が名を呼ぶ者を必ず極楽へ迎えとってやるぞ。」阿弥陀さまのお慈悲は私たちの優しさとは次元が違うのです。すべてを救いとる平等のお慈悲なのです。

「仏の御心は慈悲をもて体とすることにて候なり。」「仏様の御心はお慈悲を根本とするのである。」
「されば観無量寿経には仏心というは大慈悲これなりと説かれて候。」「だから観無量寿経には仏の心は大慈悲であると説かれている。」
「善導和尚この文を受けて、この平等の慈悲をもては遍く一切を摂すと釈し給えり。」「善導大師様はこの一文を受けて、この平等の慈悲をもって、遍くすべて一切を救って下さるのだと釈して下さっています。
「一切の言広くして、漏るる人候べからず。」「一切という言葉の意味は広い。だから漏れる人はいない。」一部を一切とはいいません。80%を一切ともいいません。100%を一切というのであります。だから漏れる人がいないのです。
「されば、念仏往生の願はこれ弥陀如来の本地の誓願なり。余の種々の行は本地の誓いにあらず。」「だから、念仏往生の願は阿弥陀さまの本願なのである。他の修行は本願ではないのだ。」と書かれています。
仏教を大きく二つに分けて、この世で自分の力によって悟りを開く教えと、阿弥陀さまの力で救われていく教えの二つがあります。お念仏はもちろん後者です。座禅、護摩を焚く、千日回峰など色んな修行がありますが、どれもこの世で悟りを開く為の修行です。念仏は阿弥陀さまが、この世で悟りを開くことなどできない私たちをみて、極楽という絶対の楽土(らくど)をおつくり下さり、我が名を呼ぶ者を極楽に迎えとるとお約束下さったのです。それが本願です。極楽へ往くにはお念仏なのです。他の修行も尊い修行でありますが、極楽へ迎えとるという本願ではないのです。
「釈迦も世に出で給うことは、弥陀の本願を説かんと思し召す御心にて候えども、衆生の機縁に随い給う日は、余の種々の行をも説き給うは、これ随機の法なり。」「お釈迦様がこの世にお出まし下さったのは、阿弥陀さまの本願を説こうという御心であった。しかし、人々の素質や能力、仏法と出会う縁もまちまちであるから、それに合わせて色んな修行方法を説かれたのである。これは人々の教えを受ける能力に合わせた教えなのです。」
お釈迦様は、人に合わせて教えを説かれました。お医者様が患者の病状に合わせて薬を処方されるように、人それぞれの性格や能力に合わせて、「あなたはこういう修行をしなさい。」と説かれました。ですから八万四千と言われるほどの教えがあり、多くのお経があるのです。これを対機説法(たいきせっぽう)といいます。この御法語で随機(ずいき)の法と書かれているのがこれに当たります。
しかし、それはあくまでその人に合わせた修行方法であり、万人に通じるものではありません。念仏が唯一、万人に通じる教えなのです。
お釈迦様の時代は宗教的な能力に優れた人たちが多くいました。そして何よりお釈迦様ご本人がおられるので、人に合わせて教えることがでいました。しかし、時代が下りますと人々の能力も衰え、優れた教えや修行があっても人々がそれについていけなくなってしまいます。念仏はそのような後の人々を救うために説かれた教えです。能力の劣った者の為に説かれた教えが能力の劣った者にしか通用しないかというと、決してそうではありません。すべての者を網羅する教えなのです。
お釈迦様もすべての者を救いたいと思っておられます。ですから、お釈迦様も念仏を説きたいと思ってこの世にお出まし下さったのです。
「仏の自らの御心には候わず。」「色んな修行を説いたけれども、それはお釈迦様が本当に説きたかったものではないのである。」
「されば、念仏は弥陀にも利生の本願、釈迦にも出世の本懐なり。余の種々の行には似ず候なり。」「念仏は阿弥陀さまにとってはすべての人々を救う為の本願であり、お釈迦様にとってはこの世にお出まし下さった目的である。他の修行とは異なります。」
こう言いますと、我田引水のように思われるかも知れません。しかしそうではありません。
法然上人は絶えず「自分にとって合うか」ということに視点をおかれます。他の修行もお釈迦様が説かれた教えですから、尊く有り難いのです。でも自分に合うかということです。法然上人ご自身が修行を重ねた上で「私にはとてもできない。私に合う教えは念仏しかない。皆さんはどうですか?」ということなのです。