成道山 法輪寺

〒661-0035 兵庫県尼崎市武庫之荘4-4-10
お問合せ:06-6431-2695
FAX:06-6431-2796
E-mail:

御法語

元祖大師法然上人御法語 後篇 第十三章

(本文)

一々の願の終わりに、もし爾(しか)らずば正覚(しょうがく)を取らじと誓い給(たま)えり。しかるに阿弥陀仏、仏になり給いてよりこのかた、すでに十劫(じっこう)を経(へ)給えり。正に知るべし、誓願虚(むな)しからず。しかれば、衆生(しゅじょう)の称念(しょうねん)する者、一人も虚しからず、往生することを得(う)。もししからずば、誰(たれ)か仏になり給える事を信ずべき。三宝(さんぼう)滅尽(めつじん)の時なりと言えども、一念すれば尚往生す。五逆深重(じんじゅう)の人なりと言えども、十念すれば往生す。いかに況(いわん)や三宝の世に生まれて五逆を造らざる我ら、弥陀の名号を称えんに往生疑うべからず。今、この願に遇える事、実にこれおぼろげの縁にあらず。よくよく悦(よろこ)び思(おぼ)し召(め)すべし。たとひ又、遇うといえども、もし信ぜざれば遇わざるがごとし。今深くこの願を信ぜさせ給えり。往生疑い思し召すべからず。必ず必ず二心(ふたごころ)なく、よくよくお念仏候(そうろう)て、このたび生死(しょうじ)を離れ、極楽に生まれさせ給うべし。

 

(現代語訳)

〔阿弥陀仏が四十八の誓願を立てられたとき、〕それぞれの願の最後に「もし、この〔願いの〕通りにならなければ、〔私は〕正しい覚りを開くことはない」と誓われました。そして、阿弥陀仏は仏となられてから、すでに十劫という長い年月を過ごしておられます。まさしく知らねばなりません、誓願は空言(そらごと)ではないのです。ですから念仏を称える人々は、一人残らず往生することができます。もしそうでなければ、〔阿弥陀仏が〕仏になられたことを誰が信じられるでしょうか。

仏・法・僧の三宝がことごとく滅びてしまった時代でさえ、一度でも念仏すれば往生します。五逆という深くて重い罪を犯した人でさえ、十遍念仏すれば往生します。まして仏・法・僧の三宝がなお残る時代に生まれ、五逆の罪を犯していない私たちが、阿弥陀仏の名号を称えれば往生することを疑ってはなりません。

今この阿弥陀仏の本願に出逢えたことは、本当に並大抵の因縁ではありません。よくよくお喜びなさいませ。たとえまた、本願に出逢えたとしても、もし信じないならば、出逢わないのと同じことです。〔あなたは〕今、深くこの願を信じておられます。ご自身の往生をお疑いになってはなりません。必ず必ず二心なく、よくよくお念仏なさり、この生涯を限りに迷いの境涯を離れ、極楽にお生まれ下さいませ。

 

(解説)

みなさんは阿弥陀さまのプロフィールをご存じでしょうか?
私たち浄土宗の者のご本尊は阿弥陀さまですから、阿弥陀さまのことについては知っておく必要があります。
阿弥陀さまも最初から仏さまだったのではありません。
厳しい修行の末覚りを開き、阿弥陀仏という仏になられたのです。
ですから当然覚りを開く前は阿弥陀仏ではありませんでした。
仏になるために厳しい修行をなさる方を菩薩と申します。
観音菩薩さまや勢至菩薩さま、地蔵菩薩さまなどは有名ですが、いずれの菩薩さまもまだ仏にはなっておられません。
阿弥陀さまも修業時代は「法蔵菩薩」というお名前でした。
法蔵菩薩さまは修行を始めるにあたって、すべての者を救いたいという思いのもと、四十八の誓いを建てられました。
その一々には「もし私が仏になったならば、○○をしよう。もしそれができないならば私は仏にはならない!」という強い決意が示されています。
政治家の公約に似ていますが、政治家の公約は守られないことも多くあります。
しかし菩薩の誓いに「それができないならば私は仏にならない」とあれば、できなかったら仏になれないのです。
これから修行をしようという時に強い決意をしてから修行に入るのです。

法蔵菩薩さまは「もし仏になったならばこんな世界を造ろう」、「その世界はこんな世界にしよう」、「その世界にはこんな者を招こう」と細かく設定されます。
これを「仏が昔仏になる前の菩薩時代に建てた願」という意味で本願と申します。
「かつての願」だから「本願」なのです。

京都には浄土真宗の本山で本願寺というお寺があります。
本願寺の「本願」という言葉は、この仏がかつて誓った願のことです。
相撲の技が四十八手あるとか、柔道の四十八手などというのは四十八願からきています。

四十八の阿弥陀様の本願の第十八番目の願を念仏往生の願といいます。
「もし私が仏になったならば、私が造った世界に来たいと願い、私を信じて私の名前を呼ぶ者をその世界に迎え取ろう。それができないならば私は仏にならない」という誓いです。
この十八という数字は後に歌舞伎の十八番の数字の由来となり、カラオケの得意曲を十八番と呼ぶようになります。
法蔵菩薩さまは本願を建てた後、長い間厳しい修行に耐えてとうとう仏になられました。
それが阿弥陀仏です。
「もし○○ができければ仏にならない」と誓われているのにちゃんと仏になられたとお経には記されています。
ということはすべての本願は達成されたということを示します。
阿弥陀仏が「私の名前を呼ぶならば私の世界に迎えとろう」とおっしゃるのですから、私たちは阿弥陀様の名前を呼べばいいのです。それが「南無阿弥陀仏」です。「南無」は「助け給え」ですから、「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀様助け給え」を意味します。

 

以上を踏まえて本文を見てまいります。
「一々の願の終わりに、「もし爾らずば正覚をとらじ」と誓い給えり。」
「四十八の本願の一々の願の終わりに、もしできなければ仏にならない、と誓っておられる」

「然るに阿弥陀仏、仏になり給いてよりこのかた、すでに十劫を経給えり」
「しかし阿弥陀さまは仏になってからすでに途方もない長い時間が経っている」
つまりもうとっくに仏になられたということになります。

「当に知るべし、誓願虚しからず」
「阿弥陀仏の四十八の誓いの言葉はそら言ではありません」

「然れば衆生の称念する者、一人も虚しからず往生することを得」
「だから衆生の中で南無阿弥陀仏と称える者は一人残らず往生することができる」

「もし一人でも往生したいと願って南無阿弥陀仏と称えているのに一人でも往生できない者があれば、阿弥陀仏がほとけになられたこと自体を疑わねばなりません」

「三宝滅尽の時なりといえども、一念すればなお往生す」
次にその阿弥陀様の本願がどれぐらいの未来まで効力を発揮できるかについて説かれています。
「仏教が滅びた後でも念仏を称えれば往生できる」と説かれます。

遠く未来まで念仏を称える者は救われることが約束されています。
これは無量寿経というお経に記されていることです。

「五逆深重の人なりといえども、十念すれば往生す」
次は、悪人でも救うというけれども、どれぐらいの悪人を救うかが説かれています。
親を殺すなどの極悪な行いを五逆といい、仏教では五逆の罪人は地獄の中でも無間地獄という最悪の地獄に堕ちて永く苦しむとされます。
しかし、「五逆の罪人でも臨終間際に念仏との縁を得て念仏を称えるならば救われる」といいます。
これは観無量寿経というお経に記されています。

「いかに況んや三宝の世に生まれて五逆を造らざる我ら、弥陀の名号を称えんに、往生疑うべからず」

仏教が滅びた後の者でも念仏を称えれば往生できるのに、「私たちはまだ仏教がある時代に生まれているじゃないか。」
そして五逆という最悪の罪人でも救われるというけれども、「私たちは罪深いといっても五逆を造るほどの悪人ではないではないか」

だから「お念仏を称えて極楽へ往生することには疑う余地はない」のです。

「今この願に遇えることは、実にこれおぼろげの縁にあらず。よくよく悦び思し召すべし」

私たちは仏教と出会い、念仏の教えと出会ったことを偶然だと思い、当たり前に思っていますが、無量寿経にはこの縁がいかに大変なことなのかが説かれます。仏教と出会うことができる人というのは、全く記憶にはないけれども前世に相当な善いことをしたというのです。生まれ変わり死に変わりする中で、全く覚えていないけれどもかなりの善いことをしたのだと書かれています。
更に念仏の教えを信じる人はどういう人かというと、前世のどこかで仏様と逢ったことがある人なのだそうです。
私はこのように説かれていることに気づいたとき、鳥肌が立ちました。
仏さまと逢った覚えはないけれども、今阿弥陀さまを信じ、お念仏を称えることができるのは前世のどこかで仏さまと逢ったことが縁となって繋がっているというのです。
しかしよくよく考えてみると、その仏さまと逢った時に仏さまの説かれる教えに従っておれば、とっくに覚りを開くなり極楽へ往生していたはずです。
しかし未だに迷いの世界である人間に生まれているということは、仏さまと逢ったにも関わらずそのみ教えを信じることができなかったということです。
なんということでしょう。
かつて仏と逢うまでの強烈な縁にありながら背いた私ですが、そこからコツコツと善い行いを積み重ねて今またお念仏の教えと出会ったのです。
今度こそ信じて称えなければなりません。もう二度と同じ失敗をくり返してはなりません。

「たといまた遇うといえども、もし信ぜざれば遇わざるがごとし。」
「たとえお念仏の教えと遇っても、信じていなければ遇っていないのと同じことだ」

仏教という言葉やお念仏という言葉は日本全国多くの人が知っています。
知恩院に観光で来られる方もたくさんいます。
でもだからといって、仏教のみ教えを信じお念仏のみ教えを信じているかといえば、そういう人は極稀でしょう。
法然上人は別のご法語で「称えていなければ信じていないのと同じである」ともおっしゃっています。
とても厳しいようですが、よく考えてみますと当たり前のことです。

「今深くこの願を信ぜさせ給えり。往生疑い思し召すべからず」
「今あなたは深くこのお念仏の教え、本願を信じていますね。極楽への往生を疑ってはなりません」

「必ず必ず二心なく、よくよくお念仏候うて、このたび生死を離れ、極楽に生まれさせ給うべし」
「どうかあちこちの信仰に振り回されることなくしっかりとお念仏を称えて、このたびこそは迷いの世界を離れて極楽浄土へ往生させていただきましょう」

信仰がある程度進むと、かえって迷うこともあるやもしれません。他の信仰も有り難く感じることもあるかもしれません。しかしそのようにフラフラしていてはどっちつかず
で結局迷い、逆戻りする因となります。
だから「二心なく」なのです。
お念仏のみ教え一筋にいきましょうねと法然上人はお説きくださっているのです。

元祖大師法然上人御法語 後篇 第十二章

(本文)

昔の太子は万里の波を凌ぎて、竜王の如意宝珠(にょいほうじゅ)を得給えり。今の我らは二河(にが)の水火を分けて弥陀本願の宝珠を得たり。彼は竜神の悔いしがために奪われ、これは異学異見のために奪わる。彼は貝の殻をもて大海を汲みしかば、六欲四禅(ろくよくしぜん)の諸天来たりて同じく汲みき。これは信の手をもて疑謗(ぎぼう)の難を汲まば、六方恒沙(ろっぽうごうじゃ)の諸仏来たりて汲みし給うべし。

 

(現代語訳)

その昔、〔印度の波羅奈国の〕大施太子は、遙か遠い波路をくぐり抜け、龍王が持つ、あらゆる願いがかなう宝玉を手にしましたが、今の私たちは〔貪りと憎しみという〕水火の二河に分け入り、阿弥陀仏の本願という宝玉を得たのです。

龍王の宝玉は、龍神たちが惜しんだために奪い返されましたが、本願という宝玉は、学説や見解の異なる者によって奪われるのです。

太子が貝殻で大海の水を汲み干そうとしたところ、六欲、四禅の神々が来て、ともに水を汲み出しました。

私たちが信心の手で〔他宗の人の〕疑いや謗りという困難を汲み出すならば、六方の、ガンジス河の砂の数ほどの諸仏が来て、味方して下さるでしょう。(総本山知恩院布教師会刊『法然上人のお言葉』)

 

(解説)

この御法語は、二つのお話を比較しながら説かれたもので、その二つの話を知らないと何のことやらさっぱり分からないでしょう。
ですから前提となる二つのお話をまずご紹介いたします。

一つ目は『賢愚経』というお経にあるお話です。
昔インドの波羅奈国という国に大施太子という方がおられました。
大施太子は自ら治める国にいる貧しい人々に財産からずっと施しを与えていました。
しかし財産はどんどん減っていくけれども貧しい人々は減っていきません。
どうすればよいか考えていると、竜宮の如意宝珠のことを知ります。
海底にある竜宮に竜王がおり、その髻に如意宝珠という立派な美しい玉が飾られている。その如意宝珠を手に入れれば金銀財宝は思いのままに手に入るといいます。
如意宝珠があれば貧しい人々を救うことができると、大施太子は勇んで海の中に入り、竜宮へ行きます。
竜宮で竜王と面会し、如意宝珠を譲ってくれと懇願します。
竜宮は大施太子の志にいたく感動して、如意宝珠を譲ってくれることになりました。
竜王は帰りの道中に危険があってはいけないと竜神を大施太子のお供につけてくれました。
ところが竜神達は大施太子のようなどこの馬の骨かもわからない者に竜宮の宝である如意宝珠を持って行かれることをよしとしませんでした。
そこで大施太子を騙して、「竜宮の宝である如意宝珠をもう見ることができないので、最後一目見せてください」と太子に頼み、太子が差し出したとたん、竜神達は如意宝珠を奪って逃げていきました。
大施太子は慌てて追いかけますが、追いつきません。
困り果てた大施太子は竜神達に言います。
「如意宝珠を返さないというならば、貝殻でもって海の水を汲み尽くしてしまうぞ」と。「そんなことができるものか。一生掛かってもできるわけがない」と竜神達は笑います。大施太子は「一生掛かってできなければ、何度生まれ変わっても汲み尽くしてみせる。
そして貧しい人々を救うのだ」と一人で水を汲み始めます。
ところがそこに天の神々が大施太子の志に感激して降りてきました。
無数の神々が同じく貝の殻でもって海水を汲み始めたところ、みるみる海水は減っていき、とうとう竜宮の甍が見えてきました。
竜神達は慌てて、奪った如意宝珠を大施太子に返します。
その如意宝珠の力で、大施太子は多くの貧しい人々を救ったというお話です。

もう一つは二河白道という譬え話です。
浄土宗の高祖、唐の善導大師が私たちが極楽浄土への往生を願う心を細く白い道に譬えてくださいました。

旅人が一人行く当てもなく暗い霧の中を彷徨っていました。
そこに盗賊が現れ、旅人は逃げます。
さらに猛獣たちが襲いかかります。
旅人は必死で西へ西へと逃げます。

ようやく盗賊や猛獣から離れたと思ったその時、突然目の前に大きな河が現れます。
北は逆巻く水の河、南は燃えたぎる火の河です。
河は南北に際限なく続いています。
後ろからは盗賊や猛獣が迫ってきます。

しかし前の河をよく見ると、火の河と水の河の間に一本の細い道が見えます。
わずか四・五寸といいますから、12センチ~15センチの細い細い道です。

川の幅は約百歩(ぶ)。
善導大師の時代一歩は今の約1.56メートルですから、百歩は約156メートルです。
道の細さを考えると、相当遠く感じる距離でしょう。

その道を水が洗い、火が被るのです。
そんな状況では、道があるといってもとても向こう岸まで渡りきることができそうにありません。

旅人はどうするか。
前に進むも立ち止まるも後ろに戻るもすべて死が待っています。
当に万事休すの状態です。

そこに向こう岸から声が聞こえます。
「大丈夫だ、渡って来いよ。必ず渡りきることができるであろう」

後ろからも声が聞こえます。
「向こう岸からの声を信じて渡れよ。大丈夫だから。必ず助かるから」

その声を頼りに旅人は一歩一歩白道を渡ります。
しかし何歩か歩いた時に後ろから別の声が聞こえます。
「そんな道渡ったら危ないぞ。戻ってこいよ」

旅人は迷います。
「そうだな。とても渡りきることなんてできないな。後ろから声をかけてくれている人は良さそうな人だな。助けてくれるかも知れない」

そこにまた前から先ほどの声が聞こえます。
「大丈夫だ。必ず渡れるから。大丈夫だ。大丈夫だ」
そして後ろからも先ほどと同じ励ましの声が聞こえます。
「向こう岸の声を信じて行けよ。大丈夫だ。大丈夫だ」
旅人は再び意を決して向こう岸に向かい、無事に渡って平和に暮らしました。

この譬えを「二河白道の譬え」と申します。
これは譬喩ですから、譬えているものを説明する必要があります。
まず旅人は私たち。暗い霧は私たちの自分ばかりを生かそう、生かそうという自分中心の心です。
そんな煩悩の中で人生に迷っている私たちです。

そこに現れた盗賊は私たちの感覚器官です。
目に見るものによって、食欲や性欲が湧いてくる。
聞くことによって人を偏見の目で見たり、憎しみを抱いたりします。
臭うことによって、必要以上に食欲が増し、際限がないのです。
味わうことによってまた欲しくなってしまう。
そして一瞬一瞬考えることはろくなことがありません。
そういった観覚器官によって煩悩は更に膨らんでいきます。

猛獣は私たちの疑い心や高慢な心です。
正しい教えを受けても信じようとせず、また自分を上にして教えを判定しようとする、救われがたい心です。

突然目の前に現れた河。
水の河は私たちの貪りの心を表します。
欲しい物が手に入ってもまた次の物が欲しくなる。

火の河は瞋りの心です。
自分の思い通りにならないと腹を立てる私たちの怒りの心。

間の白道は極楽へ往きたいという心。
極楽往生を願う心です。
それはとてもか細い心です。
貪りの水に流され、瞋りの火に燃やされそうな弱い心です。

ただ、たった一人きりで渡るのではありません。
たった一人であったならば渡りきることはできないでしょう。
向こう岸からの声があります。
後ろからの励ましの声があります。
向こう岸から「来いよ」と言ってくれる声は阿弥陀さまの声です。
後ろから「行けよ」と言ってくださる声はお釈迦さまの声です。
また後ろから聞こえる「帰ってこいよ」の声は他の信仰の人です。
せっかく極楽へ往生しようと思っているのに、それを邪魔する誘惑です。

しかし前からの「来い」と後ろからの「往け」の声に励まされてお念仏を称えて往けば、間違いなく向こう岸、西方極楽浄土へ往生し、先に往生した方々と手に手を取り合って再会し、幸せに過ごすことができるのです。

以上が二河白道の譬えの意味するところです。
大施太子の話と二河白道の話をまずご紹介しました。
これでようやく御法語に入ることができます。

「昔の太子は、万里の波を凌ぎて竜王の如意宝珠を得給えり」
「大施太子は、遙か遠い波をくぐり抜けて竜王が持つ如意宝珠を手に入れた」

「今の我らは二河の水火を分けて弥陀本願の宝珠を得たり」
「今の私たちは水と火の二つの河を分け入って、弥陀本願の宝珠を手に入れた」

「彼は竜神の悔いしがために奪われ、此は異学異見のために奪わる」
「如意宝珠は竜神達が悔しがったために奪われたが、弥陀本願は違った考え方や信仰の人によって奪われる。」

「彼は貝の殻をもて大海を汲みしかば、六欲四禅の諸天、来たりて同じく汲みき。」
「大施太子が貝の殻でもって海の水を汲もうとしたら、天の神々が降りてきて一緒に水を汲み出した」

「此は信の手をもて疑謗の難を汲まば、六方恒沙の諸仏来たりて与し給うべし」
「私たちが信心の手で、違う見解や違う信仰の人達からの疑いや謗りを汲むなら、東西南北上下、つまりあらゆるところの、ガンジス川の砂の数ほどたくさんの仏様方がやってきて、疑いを晴らしてくださるだろう」

私たちは今まで自分の経験と自分の考えだけで生きてきました。
しかし今お念仏のみ教えと出会いました。
「そうか、ありがたいな」と思って一歩二歩と進もうとします。
そうしますと素直な心で歩みますから、あらゆることを素直に聞こうとします。そこに声が聞こえる。
後ろからの誘惑の声です。
「帰ってこいよ。危ないぞ」この声はお念仏と異なった信仰の人の声です。
「極楽なんて本当にあると思ってるの?あるはずないじゃないか」という無神論の人もそこに含まれるでしょう。
「念仏なんて称えると地獄に堕ちるぞ」という新宗教の人の声もそうです。
もしかしたら一人一人の声を聞けばそれなりに納得できるのかも知れません。
でも私たちは今お念仏の教えを漸く信じて一歩二歩と進み始めたところです。
一一の話を聞いて、「なるほど。一理あるな」などと納得していると、一歩も進めません。

前からは「来い」と阿弥陀様が言って下さっているんです。
後ろからはお釈迦様が「往け」と言って下さっています。
誘惑の声は所詮人間の声、凡夫の声です。
「来い」と「往け」は凡夫の声ではありません。
仏の声です。

お念仏を称えていても貪りや瞋りの煩悩は湧いてきます。
疑いの心も出てくるでしょう。
しかし「仏様が示してくださり、間違いないと言って下さっている教えなんだ」と信じ、そのことのみを信じて往くのです。
これが二河白道の譬えです。

まずは自分から進んで疑いを晴らそうとしなくてはなりません。
自分から疑いの心を大きくしたり、人からの心ない言葉に惑わされていてはなりません。そのためには何よりもお念仏を続けることです。
疑いが湧いてこようが、人から何を言われようがお念仏を続けることです。
阿弥陀さまが、お釈迦さまが、あらゆる諸仏がみんな力を貸してくださって、苦しみ多き娑婆世界にあっては間違った道に進まないようにお守りくださり、幸せをつかめるように導いてくださるのです。

元祖大師法然上人御法語 後篇 第十一章

(本文)

廻向発願心(えこうほつがんしん)というは、過去及び今生(こんじょう)の身口意業(しんくいごう)に修(しゅ)するところの、一切の善根(ぜんごん)を真実の心をもて、極楽に廻向(えこう)して、往生を欣求(ごんぐ)するなり。これを廻向発願心と名付く。この三心(さんじん)を具(ぐ)しぬれば、必ず往生するなり。

 

(現代語訳)

廻向発願心というのは、過去世およびこの生涯において、身・口・意の行為を通して積んだすべての善根を、真実の心をもって、極楽〔往生のため〕に振り向け、往生を願い求めることです。これを廻向発願心と名づけます。この〔至誠心・深心・廻向発願心の〕三つの心を具えたならば、必ず往生するのです。

 

(解説)

今回は「廻向発願心」がテーマです。廻向発願心というのは、「とにかく極楽へ往きたい!」と強く願う心です。

私は法話の際、聴衆によくこのように尋ねます。
「みなさん、極楽へ往きたいですか?」
そして「今すぐにでも極楽へ往きたい人!」と尋ねますと、みなさん笑いつつも誰も手を挙げません。
「10年後ぐらいに極楽へ往きたい人!」と尋ねますと、年配の方が苦笑しながらパラパラと手を挙げられます。
「いつか分からないけれども、自分の臨終の時には極楽へ往きたい人!」と尋ねますと、大方の人が手を挙げられます。

「地獄へ行きたいですか?極楽へ往きたいですか?」と尋ねますと、「そりゃどちらかというと極楽へ往きたいです」とおっしゃいます。
しかし、「極楽へ往きたいとか往きたくないとか、考えたことはないです」というのが正直なところでしょう。

極楽は願って行くところです。
仏教では基本的に「この世は苦である」と説きます。
この世は萎んでいく世界です。
こどもの頃は「プロ野球選手になりたい!」とか「アイドルになりたい!」などと自分の能力や適性と関係なく夢を持ちました。
「大人になれば何か良いことがあるんだろうなあ」と思います。
しかし成長するにしたがって、夢は身の丈に合ったものになってきます。
私が今「プロ野球選手になりたいんです!」と言っていたら、誰にも相手にされないでしょう。
夢は段々ささやかなものになります。
そしてある程度の年齢になると、老いを意識します。
老いを実感し、死を意識し出します。
これを正面からジッと見つめると、「この世は苦である」というのは紛れもない事実として受け止めることができるでしょう。

しかし、人は「この世は苦である」とは認めたくありません。
だから生きていればよいことがあるかのように、自分を騙します。
「この世は苦である」などと言うと世間では嫌われます。

仏教では、真正面から人生を見つめると苦と認めざるを得ないと説きます。
そして、「苦である」と気づいた人のために苦から逃れるための修行方法を説くのです。ただ、苦から逃れるには能力が必要です。
それなのに能力がある人は殆どいません。
阿弥陀さまはそんな状態の私たちを哀れみ給い、極楽浄土をおつくりくださいました。
「まずは極楽へ迎え入れよう。極楽へ迎え入れるのに難しい行を用意しても誰も来れまい。しかし私の名なら呼ぶことができるであろう。わが名に私が修行した功徳すべてを収め込んでおこう。極楽への往生を願い、わが名を呼ぶものは私が自ら救いにいこう」とお誓いくださいました。
ですから、極楽へ往くには「極楽へ往きたい!」と願うことが大前提なのです。

極楽へ往きたくない人には念仏も苦痛となるでしょう。
しかし極楽へ往きたい人にとっては、これほど容易い方法で苦しみの世界から逃れることができるなら、こんなに有り難いことはありません。

人は必ず死を迎えます。ですが、その先のことは考えません。
だから「極楽へ往きたいとか往きたくないなど考えたことがない」と言うのです。

私たちはただただ日常のことを考えます。
「今日の晩ご飯は何を食べよう」
「明日はお医者さんへ行く日だ」
「来月は法事だな」
「来年は年男だ」
「10年後には元気で暮らせているだろうか」
「コロッと逝きたいものだ」
などと人生の間のことを日々考えています。

人生には先輩が多くいますから、何となく自分の行く末を予測できます。
でも、先輩達を見ていると、どうも先行きは暗い。
あまりこの先に幸せは期待できない。
だから目線を反らしていこう。
趣味を持ち、生きがいを見つけよう。
とはいえ生きがいも一生できるものはありません。
いずれ身体が弱れば、生きがいが生きがいでなくなります。

この世の行く先を想像すると、悲しく暗くなるしかありません。
でもお念仏を称える者は必ず死んだ先には極楽浄土があります。
これを想像することには価値があります。
「極楽ってどんなところだろう」と日々想像します。
身体が不調の時は何もする気が起こりません。
元気な時には苦にならないことが、不調の時には苦になります。
極楽へ往生したら、誰もが金剛力士の如き健康体なります。
だから何をするにも苦になりません。
極楽ではこの世のように寒くなったり暑くなったりしません。
いつも適温です。
いつもお気に入りの服を着て過ごすことができます。
そして憎い人がいない。
私の醜い憎む心も無くしてもらえます。

私は毎晩寝る前に漠然とこういった極楽の様子を想像します。
そして「いつか往きたいなあ」と思います。

ベッドで寝転んでからまず極楽を想像し、妻や子ども達を想います。
家族の健康を願うのは当然だと思いますが、しかしもし何かがあって先立つようなことがあっても、「阿弥陀さま、この子を極楽浄土へ迎えとってください」と願って十遍念仏を称えます。

社会に出ていますと、嫌でも辛いことや悲しいことに悩まされます。
どんな嫌なことがあっても「高々数十年の人生。これを乗り切ったらあの楽しい極楽へ往生できる」と思って過ごすことができるかもしれません。

「極楽へ往きたい」というと、世間の人は「何と悲観的な」と笑います。
しかし、この世のことしか想像しない方が余程悲観的です。
萎むしかない未来なのですから。

死ぬことを考えるというより、新たな生まれ変わりを喜ぶのです。
「往生」は「往き生まれる」ということです。
苦しみのこの世を捨てた後は、幸せばかりの世界に新たに生まれ変わらせていただくのです。

学生時代はテストが憂鬱の種でした。
でも期末テストの後は楽しい夏休みがあると思うと何とか乗り切れたものです。
辛く悲しいことも多い人生ですが、念仏を称えて過ごせば間違いなくあの幸せばかりの極楽へ往くことができます。
それを夢見ることができれば力強くこの世を歩むことができるでしょう。

この廻向発願心は、「とにかく極楽へ往きたい!」と強く願う心であると先に申しました。
廻向とは普通、私たちがお経やお念仏を称えて、その功徳を亡き人に回し向けることをいいます。
回向にはもう一種類あります。

例えば私が道を歩いていると、お年寄りが大きな荷物を持っておられるとします。
私はその荷物を持ってあげます。これは一般的に「善いこと」ですね。
私は別に極楽へ往きたいからこの「善いこと」をしたわけではありません。
お年寄りをお助けするためにしたまでです。
私たちは生涯の間、多少なりとも善いこともするでしょう。
殆どの行いが悪い行いであるのは認めざるを得ませんが、少しは善いこともします。
前世でも多少は善いことをしたことがあるでしょう。
そういった功徳を全部かき集めてきて、「この功徳全部使って極楽へ往生させてください!」と願う心が廻向発願心です。
へそくりを部屋のあちこちから出してきて欲しい物を買うように。
ですから「とにかく極楽へ往きたい!」と強く願う心だと申し上げたのです。

本文は短い御法語ですので、一通り読んでみましょう。
「廻向発願心というは、過去及び今生の、身口意業に修する所の一切の善根を、真実の心をもて極楽に廻向して、往生を欣求するなり。これを廻向発願心と名付く。この三心を具しぬれば、必ず往生するなり」

「過去とは前世。今生は生まれてから今まで。その間に身と口と心で行ったすべての善い行いを、誠の心でもって極楽に回向して往生を願う。これが廻向発願心というのだ。こういった心を持てば、あとは念仏を称えるだけで往生できるのである」

極楽なんて往きたくない!と言われたらなすすべはありませんが、もし「極楽へ往きたい」と願う心が必要だということを知らなかったというのであれば、是非今日からでもその心を育ててください。
まずは極楽を想像するのを日課とすること、これをお勧めします。

元祖大師法然上人御法語 後篇 第十章

(本文)

初めには我が身の程を信じ、後には仏の願を信ずるなり。その故は、もし初めの信心をあげずして、後の信心を釈し給わば、諸々の往生を願わん人、たとえ本願の名号をば称(とな)うとも、自ら心に貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)の煩悩をも起こし、身に十悪破戒等の罪悪をも作りたる事あらば、みだりに自身を軽しめて身の程を省みて、本願を疑い候わまし。今この本願に、十声(じっしょう)一声(いっしょう)までに往生すというは、おぼろげの人にはあらじなぞと覚え候わまし。しかるを善導(ぜんどう)和尚(かしょう)、未来の衆生のこの疑いを起こさん事をかがみて、この二つの信をあげて、我らが未だ煩悩をも断ぜず、罪業をも作る凡夫なれども、深く弥陀の本願を信じて念仏すれば、一声に至るまで決定(けつじょう)して往生するよしを釈し給えるこの釈の、ことに心に染みて、いみじく覚え候うなり。

 

(現代語訳)

〔善導大師の深心の解釈についていえば、〕まず初めにわが身のほどを信じ、後に阿弥陀仏の本願を信じるのです。

そのわけは、もし初めの信心を挙げることなしに、後の信心だけを解釈されたならば、往生を願うひとびとは、たとえ本願の念仏を称えても、自らの心に貪りや憎しみの煩悩をも起こし、身に十悪・破戒などの罪悪をも犯すことがあれば、むやみに自分を卑下して、身のほどを省みて、〔逆に〕本願を疑うことになるでありましょう。〔つまり〕「今この阿弥陀仏の本願の中に〈十声一声でさえ念仏すれば往生する〉とあるのは、並の人のことを指して言っているのではないだろう」などと思うかもしれないからです。

ところが善導和尚は、将来の人々がこのような疑いを起こすであろうことを見通して、この二つの信心を挙げて、「私たちはいまだに煩悩をも断たず、罪業をも犯す凡夫ではあるけれども、深く阿弥陀仏の本願を信じて念仏すれば、一声の念仏によってさえ必ず往生する」という旨を解釈されました。この解釈は、とりわけ心に響いて貴く感じるのであります。

 

(解説)

お念仏を称えることが大事であるのは当然ですが、「信じる心」なしでは成り立ちません。
念仏を称える者が、必ず具えておかなくてはならない三つの心を三心といい、その三心の要が深心です。
深心とは「深く信じる心」を意味し、その「深く信じる心」とはどういうことかを善導大師がご説明くださっているものを、法然上人がご紹介くださっているのが今日の御法語です。

仏教には八万四千ともいわれるほど多岐にわたった教えがあります。
お釈迦さまは「対機説法」という手法をもって教えを説かれました。
それは、一人一人の弟子や信者に、その人の能力に合わせて教えを説く、というものです。
ですからお釈迦さまがおられるときならば、お釈迦さまに私たちの能力をみていただき、私たちに合った教えを説いてくださったことでしょう。
しかし今私たちは自分で自分に合う教えを見つけなくてはなりません。
これはとても難しいことです。
自分に合った教えを見つけるためには、自分の今の位置、能力を自分で見きわめなくてはなりません。

ここに地図があるとします。
地図を見て目的地に行こうとしても、現在地がわからなければ地図は役に立ちません。
それと同じように、私たちはまず自分の位置を知る必要があります。

受験生が志望校を決めるとき、自分の実力とかけ離れた自己評価をしたら、とんでもないことになります。
学力がないのに「自分にはここしかない!」と東大を受験してもそれは無茶というものでしょう。
自分の学力の範囲内で志望校を決めなくてはなりません。

お釈迦さまは後の世の人はみんな宗教的な能力が衰えてとんでもない時代がくるということを知っておられました。
そういう後の世の人のために、「阿弥陀さまのお念仏の教え」を残してくださいました。
その自分の能力を見きわめて、自分大身の丈、身の程を確認してからお念仏の教えに入っていくことが重要であるというのが最初の一文です。

「初めには我が身の程を信じ、後には仏の願を信ずるなり」
初めの信と後の信があります。
初めの信は自分の身の程を信じる、後の信は仏の願を信じる。
そういう二段階が必要であるというのです。

我が身の程とはどういうものかというと、悩み苦しみに遭っても自分の力では根本的に解決することができない私である。
苦しみの原因は煩悩であると教えてもらっても、煩悩を無くすことなんてできない。
生きているだけで罪を作ってしまう。
前世、前前世、ずっとずっと昔から、記憶にない昔から罪を作り続け、同じ過ちばかりをくり返してそれが原因で未だに迷いの世界を彷徨っている。
この命が尽きてもまた苦しみの世界を経巡るしかない、どうしようも救われがたい私である、これが「我が身の程」です。
これをしっかり認識して信じよというのです。
その上で、その「自分の力でどうにもならない私」を阿弥陀さまが救ってやろうと言ってくださっているのです。
この「我が身の程」が救いの対象であるということです。
まず我が身の程を信じて、その後に仏の願を信じるという二段階を説かれるのです。

次になぜそういう二段階が必要なのかが記されています。
「その故は、もし初めの信心を挙げずして後の信心を釈し給わば、もろもろの往生を願わん人、たとい本願の名号をば称うとも、自ら心に貪欲、瞋恚の煩悩をも起こし、身に十悪、破戒等の罪悪をも造りたる事あらば、妄りに自信を軽しめて、身の程を顧みて、本願を疑い候わまし」

「なぜ信心に二段階が必要なのかというと、もし初めの信(我が身の程を信じる)を挙げずに、後の信(仏の願を信じる、つまり南無阿弥陀仏と称えれば必ず救われるということ)だけであったならば、往生したいと思って念仏を称えていても、そのうちに自分の心に物を欲しがる欲ばりの心や腹立ちの心が出てきたり、罪を犯して日々過ごしていることに気づいたときに、私は念仏を称えていても醜い心を起こしてしまうから念仏では救われないとみやみに自分を卑下して、身の程を顧みて、逆に本願を疑ってしまうことになるでしょう」

「今この本願に十声一声までに往生すというは、おぼろげの人にはあらじなどと覚え候わまし」
「つまり今この本願の中で阿弥陀さまはたとえ十返や一返という数の少ない念仏の者でも救うぞと言ってくださっているというのは普通の人のことではないだろう、余程難しい修行を経てきた人が最後に十返、一返の念仏を称えて救われるんだろう、私たちが対象ではない、などと思ってしまうからです」

法然上人がお出ましになるより前は、人々は「極楽へ往きたいのはやまやまだけれども、私なんて極楽へ往けるはずがない。生きるために殺生をしたり嘘をついて日々罪作りなことばかりしているし、煩悩を無くせばいいと言われても到底そんなこともできない。難しい修行も学問もできない私は地獄へ行くしかない」と思っていました。
そこに法然上人がお出ましになって、「南無阿弥陀仏と称えれば極楽へ往生できますよ」といきなり言っても人は耳を貸しません。
「そんな簡単なことで往生できたら世話はない」と思ってしまいます。

譬えるなら重い病気の人があちこちの病院を訪ね、名医と言われる人がいればそういう先生に診てもらうけれども、どの先生にも匙を投げられたとします。
それで家で落ち込んでいたらインターフォンが鳴って薬の行商人が来て、「この薬で治りますよ」と言われても信じるでしょうか?
「私は名医と言われる名医に見捨てられた者だ。一流の医者でも治せない病気だというのに、そんな薬ごときで治るはずがない!」となるのがオチです。
しかし、行商人が「こうこうこういう病状の人の為にこの薬は開発されました。こういう病気の人こそがこの薬で救われるのです」と効能を説明する前に「どんな病気の人にこの薬は効くのか」「あなたの病気に効く薬なのですよ」ということをはっきりさせれば聞く耳を持つでしょう。

それと同様に、まず先に「私は自分の力では到底救われない愚かな凡夫である」と我が身の程を信じて、そういう者を救うために阿弥陀さまは本願を建ててくださって南無阿弥陀仏と称える者を救うと言ってくださっているんですよ、という二段階が必要なのです。

「しかるを善導和尚、未来の衆生のこの疑いを起こさんことを鑑みて、この二つの信を挙げて、我らが未だ煩悩をも断ぜず、罪業をも造る凡夫なれども、深く弥陀の本願を信じて念仏すれば、一声に至るまで、決定して往生するよしを釈し給えるこの釈の、殊に心に染みて、いみじく覚え候うなり」
「ところが善導大師は、未来の人達がこういった疑いを起こすであろうことを先に考えておいてくださって、こう二つの信を挙げて、私たちは未だに煩悩を断つことができず、罪を造ってしまう凡夫であるけれども、深く阿弥陀さまの本願を信じて念仏すれば、一声の念仏でさえも間違いなく往生する、という旨の解釈をしてくださっています。この解釈はとりわけ心に響いて尊く感じるのです」と法然上人が善導大師のお言葉を讃えてくださっています。

「十返、一返の念仏でも救われる」というのは臨終間際でお念仏と出会った人でも、ということです。
あなたが四十歳なら、今お念仏と出会って百歳まで生きるとすれば、六十年間お念仏を称えることができます。
六十歳の人がお念仏と出会って百歳まで生きたら四十年間、八十歳なら二十年間です。私の三分の一ですね。必然的に数は少なくなりますし、称える期間は短くなります。
もし臨終間際でお念仏と出会ったら、十返や一返しか称えられずに命が尽きるかも知れません。
もしそんな場合でも必ず救われますよ、ということです。
決して今私がお念仏と出会って、十返お念仏を称え、「あとは一生称えなくていい」というものではありません。

往生したいならば、お念仏と信心が必要だと申しました。お念仏がなければ信心はグラグラになります。
人間は弱いもので、信心なんてものは波があります。
「ありがたいなあ」と思っているときがあっても持続しません。
すぐに忘れてしまいます。
そしてその信心は放っておいたら糸の切れた凧のようにどこかへ飛んでいってしまいます。
信心を持続させるには念仏が必要不可欠です。
凧が飛んでいってしまわないようにお念仏の糸をしっかり持っていなくてはなりません。
毎日お念仏を称えていても信心には波があります。
ありがたさが薄れていてもお念仏を称えることによって、波があってもどこかへ行ってしまうことはありません。
ですから最初は多少無理をしてでもお念仏を癖づけることが大切です。
そうすれば信心と念仏がそろいます。
我が身の程を信じて、そんな私でも救われるんだと信じてお念仏を称えて参りましょう。

元祖大師法然上人御法語 後篇 第九章

(本文)

至誠心(しじょうしん)というは、大師釈して宣(のたま)わく、至(し)というは真(しん)也。誠(じょう)というは実(じつ)なりと言えり。ただ真実心を至誠心と善導は仰(おお)せられたるなり。真実というは、諸々の虚仮(こけ)の心の無きをいうなり。虚仮というは、貪瞋(とんじん)等の煩悩をおこして、正念(しょうねん)を失うを虚仮心と釈するなり。すべて諸々の煩悩の起こることは源、貪瞋を母として出生(しゅっしょう)するなり。貪というについて、喜足小欲(きそくしょうよく)の貪あり、不喜足大欲(ふきそくだいよく)の貪あり。今浄土宗に制するところは、不喜足大欲の貪煩悩なり。まず行者、かようの道理を心得て念仏すべきなり。これが真実の念仏にてあるなり。喜足小欲の貪は、苦しからず。瞋煩悩も敬上慈下(きょうじょうじげ)の心を破らずして、道理を心得んほどなり。痴煩悩というは、愚かなる心なり。この心を賢くなすべきなり。まず生死(しょうじ)を厭(いと)い、浄土を願いて往生を大事と営みて、諸々の家業(かごう)を事とせざれば、痴煩悩なきなり。少々の痴は、往生の障りにはならず。これほどに心得つれば、貪瞋等の虚仮の心は失せて、真実心は易く起こるなり。これを浄土の菩提心というなり。詮(せん)ずるところ、生死の報を軽(かろ)しめ、念仏の一行を励むがゆえに、真実心とはいうなり。

 

(現代語訳)

至誠心については、善導大師が解釈して、「〈至〉というのは〈真〉である。〈誠〉というのは〈実〉である」と言われています。真実心こそが至誠心である、と大師はおっしゃったのです。

「真実」というのは、さまざまな嘘偽りの心がないことをいいます。「嘘偽り」というのは、貪りや憎しみなどの煩悩を起こして、正しい念いを失うことであり、それを「嘘偽りの心」と解釈するのです。

およそ、どのような煩悩も、もともとは貪りと憎しみと〔愚痴と〕を母として生まれ出るのです。

さて、貪りということについては、つつましい貪りもあり、強欲な貪りもあります。いまこの浄土宗で禁じるのは、強欲な貪りの煩悩です。念仏者はまずこのような道理をわきまえて念仏すべきです。これが真実の念仏というものです。つつましければ貪りもさしさわりはありません。

憎しみの煩悩にしても、目上の人を敬い、目下の人をいたわる心を失わずに、道理をわきまえる程度です。

愚痴の煩悩とは、愚かな心のことです。この心を賢くしなければなりません。まずこの迷いの境涯を厭い、浄土を欣って、往生こそが大事だと思いながら〔念仏に〕励み、さまざまな世間の家業のほうを大事だと思わないなら、愚痴の煩悩は無いに等しいのです。少々の愚かさは往生の妨げにはなりません。

この程度に理解しさえすれば、貪り、憎しみなどの「嘘偽りの心」は消え失せて、真実の心は容易に起こるのです。これを浄土宗の「菩提心」と言います。

要するに、俗世間での報いを重視せず、念仏の一行に励むので、真実心と言うのです。

 

(解説)

「念仏をただ称えればよい」といいますが、本当にただ称えればよいのでしょうか?
人によれば、「宝くじが当たりますように」「孫が合格しますように」などと人を差しおいて自分が得をすることを願うこともあるでしょう。
また「病気にもなり、老いてゆき、死を迎えるということは、誰にも避けられない」ことをしっかり見据えよという仏教の教えなのに、「病気が治りますように」「長生きしますように」などと教えに反することを願い求める人もいるでしょう。
あるいは「あの憎たらしい人がうまくいきませんように」などと人の不幸を願ったり、人の死を願うなどという恐ろしいことをさえも、あるかもしれません。
お念仏を称えてこのようなことを願うというのはよいのでしょうか?

阿弥陀さまがこの世は苦しい世界であるから、苦しみのない極楽浄土をお造りくださり、そこに迎えとるための行として「わが名を呼べよ」とお示しくださったのが「お念仏」です。ですからこちらは極楽へ往きたいと願い、南無阿弥陀佛と称えれば、必ず阿弥陀さまがお救いくださるということを深く信じて称えるのです。
ただ称えればよいというけれども、往生を願って、阿弥陀さまを信じる心が必要です。
そしてそれが本気でなくてはなりません。

本気でないお念仏とは、嫌々人に称えさせられたり、形だけ人に合わせて称えるお念仏などです。
法事やお葬式で形だけお念仏を称えても、「本気」だとは言えません。
本気で阿弥陀さまを信じ、本気で極楽へ往きたいと願う心、その「本気の心」を至誠心といいます。
この御法語はその至誠心について書かれたものです。

「至誠心というは、大師釈して宣わく、至というは真なり。誠というは実なりといえり。ただ真実心を至誠心と善導は仰せられたるなり」
「至誠心とは、善導大師は、至は真、誠は実であるから真実心のことを至誠心というとおっしゃっている」

では真実とは何かというのが次に示されています。
「真実というは、諸々の虚仮の心のなきをいうなり」
「真実というのは嘘偽りのないことをいうのだ」
これも漠然としていますが、要は先ほど書いた「本気の心」なんです。
本気で信じ、本気で願う心です。

法然上人は「どんなに罪深い者でも救いを求めて南無阿弥陀佛と称えるならば、阿弥陀さまが救ってくださるのですよ」とお説きくださいました。
その教えを聴いて、「それならどんなに悪いことをしてもいいのだ」「罪深い者も救うと阿弥陀さまがおっしゃているのに、悪いことをしないというのは阿弥陀さまを信じ切れていないことになる。積極的に悪いことをしよう」という者が現れました。
これを造悪無碍(ぞうあくむげ)といいます。

こういう人達が多くいたことで、旧仏教からの批判が段々大きくなり、ついには法然上人はその責任を取る形で四国へ流罪にまでなりました。

法然上人のみ教えの大きな特長の一つに、「煩悩がある者も念仏を称えれば救われる」ということが挙げられます。
普通仏教は、「私たちの苦しみの原因は煩悩であるから、その煩悩を断ちきるために修行をしなくてはならない」といいます。
しかしお念仏のみ教えは、煩悩があっても、その身そのままで救われるといいます。
それは「私は自分の力でとても煩悩を断ちきることなんかできません。そんな私を阿弥陀さまが救ってくださるのですか。なんと有り難いことでしょう」ということです。

でも造悪無碍の人達は「煩悩があっても救われなら、どれだけ煩悩の限りを尽くしてもよいのだな」と理解しました。
法然上人はお弟子や信者の中に造悪無碍の者が出たことを歎き、「そういう教えではないぞ」と戒められました。
この御法語はその戒めの文章の一部分でもあります。

この至誠心を起こすための前提に、「煩悩を野放しにしていては至誠心は起こらない」ということがあります。
それを次に説いてくださっています。

「虚仮というは、貪瞋等の煩悩を起こして、正念を失うを虚仮心と釈するなり」
「虚仮というのは、貪りや憎しみなどの煩悩を起こして、正気を失い、判断が効かなくなってしまうことを虚仮心というのだ」

「すべて諸々の煩悩の起こることは、源、貪瞋を母として出生するなり」
「すべてどんな煩悩も元々は貪りと怒りを母として生まれてくるものである」

代表的な煩悩に貪瞋痴があります。
三毒の煩悩といいます。

貪は貪りの心です。
欲しい、欲しいというものが手に入ってもまだまだ欲しくなる心です。
いわゆる欲です。
これは誰にでもある心です。

しかし、この心を野放しにしていると、収拾がつかなくなります。
法然上人は貪について、野放しにすることを戒めておられます。

「貪というについて、喜足小欲の貪あり、不喜足大欲の貪あり」
「貪には二種類あって、喜足小欲の貪と、不喜足大欲の貪がある」

喜足小欲とは読んで字の如く、小さな欲で足るを喜ぶことです。
決して贅沢はできないけれども、慎ましい生活だけれども、こうやって阿弥陀さまにお念仏を称えさせていただけるというので十分だ、十分に有り難いことだ、と喜ぶのが喜足小欲です。

対して不喜足大欲とは、これも読んで字の如く大きな欲を持っていつまでも満足しないということです。
まだまだ、まだまだとかき集めるのです。

「今浄土宗に制するところは、不喜足大欲の貪煩悩なり。まず行者、かようの道理を心得て念仏すべきなり。これが真実の念仏にてあるなり。喜足小欲の貪は苦しからず」
「今浄土宗で禁じるのは、強欲な貪りの煩悩です。まず念仏者はこのような道理をわきまえて念仏すべきです。これが真実の念仏です。喜足小欲の貪は問題ありません」

資本主義は常に右肩上がりを目指すのが基本です。
去年より今年、今年より来年とずっと成長し続けなくてはならないといいます。
それが今完全に頭打ちをしています。
縮小を考えなくていけないとも言われます。
資本主義の行き着くところは不喜足大欲です。
強欲資本主義等という言葉もあります。

「瞋煩悩も、敬上慈下の心を破らずして道理を心得んほどなり」
「瞋煩悩も敬上慈下の心を失わずに道理をわきまえるほどなら問題はありません」

敬上慈下とは、目上を敬い目下を慈しむことです。
いわゆる常識なのですが、カッとなったら「上も下もあるものか!」となるのが私たちです。
普段は押さえることができても、条件さえ整えばいつでも爆発するのです。

貪も瞋も人を見ているときはわかります。
あの人は不喜足大欲だな、敬上慈下の心を破ってしまっているなと。
しかし自分自身も危ういのです。

今、もし少しだけ悪いことをすれば、10億円が手に入るとしたらどうでしょう?
そんな可能性がないから「いや、私は大丈夫」と言えますし、新聞で不正をする人を裁くことができますが、本当に目の前にちらつかされたらするのではないでしょうか。

怒りにしても、今腹が立つ相手がいなければ「自分は大丈夫」と思ってしまいますが、決して大丈夫な私たちではありません。
今よい縁に恵まれているだけです。
悪い縁が来たらすぐに悪い方へ飛び込んでしまう程度の私であるという自覚が必要です。

この貪と瞋には更に大元の痴という煩悩があります。
「痴煩悩というは、愚かなる心なり。この心を賢くなすべきなり」
「痴の煩悩とは愚かな心をいいます。この心を賢くしなくてはいけません」

愚かな心というのは漠然としていますが、根本的な存在欲をいいます。
自分を生かそう、生かそうとする心です。
いわゆるエゴです。

自分を生かそう生かそうとするから必要以上に物を取り込み貪ります。
自分を生かそう生かそうとするから自分の思い通りにいかないと腹を立てるのです。
貪は取り込もう、取り込もうとする心、瞋は排除しよう、排除しようという心です。
正反対のようですが、根は同じです。
生存欲からくるのです。

人間には生存欲があるから、何よりも無視されるのが一番辛いといいます。
自分の存在を認めてもらえない、誰にも相手にされないのが最も人を苦しめます。
これは存在欲があるからです。

この根本的な存在欲を痴といい、道理に明るくないから無明ともいいます。
これほどやっかいなものはありません。
そして決して無くすことはできません。
でも大丈夫ですよと法然上人はおっしゃいます。

「まず生死を厭い、浄土を欣いて往生を大事と営みて、諸々の家業を事とせざれば、痴煩悩なきなり。少々の痴は往生の障りにはならず」
「まずこの迷いの世界を厭い、極楽へ往きたいと願って、往生こそが大事だと思いながらお念仏に励み、世間のことよりも極楽へ往生することが大事だと思えるならば、痴煩悩がないのも同じです。少々の痴があっても往生の妨げにはなりません」

煩悩を野放しにしていると、お念仏は出ません。
欲に心を奪われている時にはお念仏を称えません。
なぜなら、極楽へ往きたいどころか、この世での価値だけにしか心を向けることができない状態が不喜足大欲の状態だからです。

また、腹が立って腹が立ってどうしようもない時は極楽へも阿弥陀さまへもお念仏へも心が向きません。
そういう状態では阿弥陀さまも救いようがありません。
ですから、極楽、阿弥陀さま、お念仏に向くことができるかどうかが大きな基準となります。

「これほどに心得つれば、貪瞋等の虚仮の心は失せて、真実心は易く起こるなり。これを浄土の菩提心というなり」
「このように心得ていれば、貪、瞋などの虚仮の心は消え失せて、真実心は簡単に起こります。これが浄土宗の菩提心です」

菩提心とは覚りを目指す心です。
極楽、阿弥陀さま、お念仏に心を向けることができる程度ならば何の問題もないということです。

「詮ずるところ、生死の報を軽しめ、念仏の一行を励むが故に、真実心とはいうなり。」
「要するに、俗世間での幸不幸や利害損得に振り回されず、お念仏一筋に励むので、真実心と言うのです」

この世は色んなことがあります。
でも南無阿弥陀佛と称えておれば必ず命尽きた後に、煩いのない、苦しみのない、辛いことのない極楽浄土へ往けるのです。
この世では辛いことも悲しいこともあるけれども、こうしてお念仏を称えていたらいつかあの極楽浄土へ往生できる、ということを力に生きることができるならば、その心が即ち真実心、至誠心なのです。