成道山 法輪寺

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御法語

元祖大師法然上人御法語 後編 第十九章

(本文)

孝養(きょうよう)の心を持て、父母(ちちはは)を重くし思わん人は、まず阿弥陀仏(あみだほとけ)に預け参らすべし。我が身の人となりて、往生を願い念仏することは、一重(ひとえ)に我が父母(ちちはは)の養いたてたればこそあれ。我が念仏し候う功徳(くどく)を哀れみて、我が父母を極楽へ迎えさせおわしまして、罪をも滅しましませと思わば、必ず必ず迎え取らせおわしまさんずるなり。

 

(現代語訳)

孝行の心をもって、父母を大切に思う人は、まず阿弥陀仏にお任せするのがよいでしょう。「自分が一人前になって、往生を願い、念仏することは、、ひとえに父母が私を養育してくれたからこそなのです。私が念仏する功徳を心からお喜びになって、父母を極楽へとお迎え下さり、その罪を滅して下さい」と願うならば、必ず必ずご両親を迎え取って下さるでしょう。

(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布師会刊)

 

(解説)

今回の御法語は非常に短く、平易なわかりやすい文章です。
この御法語は、法然上人には珍しく、「孝養(きょうよう)」がテーマです。
孝養の下に父母と書いて、「きょうようぶも」と読みます。
普通の読み方ではこうようふぼですが、仏教の読み方ではきょうようぶもです。
いずれにしましても、意味はいわゆる親孝行のことです。

法然上人は阿弥陀さまのご恩については多く語られますが、親の恩について語られることはそう多くはありません。
我々のような者であっても南無阿弥陀仏と称えて阿弥陀さまにお任せしておれば、この苦しみ迷いの娑婆世界から絶対の幸せの世界である極楽浄土へと救い取って下さるご恩に酬いなくてはならない、ということです。
それとは異なり、今回は親の恩についてです。

読んで参ります。
「親孝行の心をもって、両親を大事に思う人は、まず両親を阿弥陀様にお預けする、阿弥陀さまにお任せするしてこのように考えてみるのです。私がこうやって人間として生まれ、往生を願ってお念仏を称えることができるのは、ひとえに両親が育ててくれたからこそのことなのだ。だから阿弥陀さま、どうぞ私がお念仏を称えた功徳にお慈悲を垂れ給い、両親を極楽へお迎えいただき両親が今まで重ねてきた罪も滅して下さいと願うのです。そうすれば阿弥陀さまは必ず両親を極楽へ迎え取って下さるでしょう」ということです。

大乗仏教には「回向(えこう)」という教えがあります。
回し向けると書いてえこうと読みますが、何を回し向けるのかというと、功徳を回し向けるのです。

ですからまず自分がお念仏をお称えして、阿弥陀さまから功徳をいただくことが大切です。何もしないで人任せにしているのを回向とは言いません。

ここでは、「自分はお念仏の教えと出会って、お念仏を称えるご縁に恵まれたから間違いなく往生させてもらえるだろう。でも両親はお念仏の教えも知らず、仏教の教えに出会うこともなく亡くなっていった。自分にとっては良い両親であったけれども、もしかしたら地獄や餓鬼道に墜ちているかもわからない。阿弥陀さま、どうか私同様両親も極楽へ往生させて下さい。阿弥陀さまに両親をお任せします」と心を運んでお念仏を称えるのです。

私はよくお通夜の時に「みなさん、亡き方を阿弥陀さまにお任せしてご一緒にお念仏を称えましょう。阿弥陀さま、○○さんをよろしくお願いしますという思いでお念仏をお称えして極楽へお送りいたしましょう」と申し上げます。
両親とは限りませんが、念仏信者はどなたをお送りする時も、このように回向します。

ここでは極楽へ往生していない人を「極楽へ往生させて下さい」と回向しますが、我々のご先祖はお念仏を称えてこられましたから、すでに極楽におられます。
ですから、極楽におられるのに「極楽へ往生させて下さい」と廻向する必要はありません。

我々が行っている法事や月参りは何のためにやっているのでしょうか。
極楽へ往生した人は、そこで修行なさいます。
阿弥陀さまの元で修行し、悟り開いて仏になるまで、阿弥陀さまにお育ていただくのです。このように仏になることを「成仏」と申します。

「往生」は極楽に生まれることです。
「往生」と「成仏」は混同して使われることがありますが、意味は異なります。
極楽浄土へ「往生」して、そこで修行して「成仏」するのです。

その極楽で修行なさっている方に、「私が積んだ僅かな功徳ですが、修行が一歩でも進むようにお使いください」と回向するのです。
私が積んだ功徳は少なくても、阿弥陀さまが介在してくださいますから、大きな功徳となります。
これを「追善回向(ついぜんえこう)」といいます。

往生を願う回向も往生した方の修行を応援する回向もどちらも大切です。
生きている間に親孝行することはもちろん大切ですが、生きている間にできることには限界があります。
所詮欲望を満たして差し上げることぐらいしかできません。

よく親を介護される方がおっしゃいます。
「尽くしてやりたいけど自分もしんどいからついつい腹を立ててしまうんです」
なかなか本当に良いことはできない私たちです。

亡くなってから「苦しいところにいるなら極楽へ往生してよ。極楽にいるなら早く仏になってね」と回向することは、この世で孝行するのに比較にならないほど大切な孝行です。

「孝行したい時に親はなし」といいますが、決してそんなことはありません。
亡くなってからも、いくらでも孝行することができるのです。

 

元祖大師法然上人御法語 後編 第十八章

(本文)

十重(じゅうじゅう)を持(たも)ちて十念を称えよ。四十八軽(きょう)を守りて四十八願を頼むは心に深く冀(こいねご)う所なり。おおよそいずれの行(ぎょう)を専(もは)らにすとも、心に戒行(かいぎょう)を持(たも)ちて浮嚢(ふのう)を守るが如くにし、身(み)の威儀に油鉢(ゆはつ)を傾(かたぶ)けずば行(ぎょう)として成就せずということなし。願として円満せずということなし。しかるを我ら或いは四重を犯し、或いは十悪を行ず。彼も犯しこれも行ず。一人(いちにん)として真(まこと)の戒行を具(ぐ)したる者はなし。諸悪莫作(しょあくまくさ)、諸善奉行(しょぜんぶぎょう)は三世(さんぜ)の諸仏の通戒なり。善を修(しゅ)する者は善趣(ぜんしゅ)の報を得(え)、悪を行(ぎょう)ずる者は悪道の果を感ずという、この因果(いんが)の道理を聞けども聞かざるがごとし。初めていうに能(あた)わず。然(しか)れども分(ぶん)に順(したが)いて悪業(あくごう)を留(とど)めよ。縁に触れて念仏を行じ往生を期(ご)すべし。

 

(現代語訳)

十重禁戒を保って十念を称えなさい。四十八軽戒を守って、四十八願を頼みとすることは、心に深く願うところです。

およそどのような修行に専心するにしても、心に戒の行を保つには、〔水の中で〕浮き袋を手放さないかのようにし、身の振る舞い〔を正す〕には、油で満ちた鉢を傾けないほどの注意を払うようにします。

そうすれば、いかなる行も成就しないことはなく、いかなる願も叶わないことはありません。

けれども我々は、あるときには四重罪を犯し、またあるときには十悪を行います。あれも犯し、これも行います。誰一人、真に戒の行を保つ者はありません。

「諸の悪を作すこと莫れ、諸の善を奉行せよ」とは、過去・現在・未来の三世のすべての仏が共通してお教えになる戒であります。「善を修める者は善趣の報いを得、悪を犯す者は悪道の果を受ける」という、この因果の道理を聞いても、まるで聞いていないかのようであります。それは改めて言うまでもないことです。

けれども、出来る範囲で悪業をとどめなさい。折りにふれて、念仏を修め、往生を願いなさい。

 

(解説)

 

仏教には「戒」というものがあります。
「仏教徒としての習慣」という意味です。
その戒をお授けした方につくお名前が戒名です。

法輪寺では20年に一回「授戒会」という、戒をお授けする作法を行っています。
そのように、本来生きている間に授戒会を受けて、戒名をいただいておくべきです。
キリスト教では洗礼を受けると、クリスチャンネームというものがつきます。
それと同じように、仏教徒としてのお名前を「戒名」と呼ぶのです。

しかし、生前に授戒会を受けることができない人がほとんどでしょう。
ですから枕経の時に、授戒をごく簡略にした作法を行って、お戒名をお授けしているのが現状です。

戒の基本的なものはお釈迦さまが定めてくださいました。
お釈迦さまはお坊さん用の戒と、一般の方用の戒に分けられました。
お坊さん用の戒はたくさんあるのですが、一般の方用の戒は5つだけ定められました。
五戒といいいます。

一つ目は、自分が生きるため以外の殺生を避け、むしろあらゆる生き物を慈しみ大切にしなさい、といいます。
二つ目、人の物を盗まず、むしろあらゆる物を自分の物と同様に大切にしましょう。
三つ目、嘘をつくことをやめ、むしろ誠実に生きていきましょう。
四つ目、夫婦間以外の淫らな行為、不倫などはやめ、むしろ男女互いに敬い大事にしましょう。
そして五つ目、自分を見失うほどにお酒を飲んではいけませんよ。という5つです。

戒というものには色々あり、宗派によって異なります。
浄土宗では法然上人が天台宗、比叡山で授戒を受けておられますので、戒に関しては天台宗と全く同じ戒を受け継いでいます。
そして、一般の方にもお坊さんと同じ戒をお授けしています。

浄土宗の戒は十重四十八軽戒といいます。
一行目の頭に「十重」とあります。
そして一行目の真ん中に「四十八軽」とあります。
「十重四十八軽戒」です。
つまり、十の重い戒と、四十八の軽い戒があるわけです。

浄土宗の教えは「極楽浄土への往生を願って南無阿弥陀仏と称える者は阿弥陀さまのお導きによって極楽浄土へ迎え取っていただける」という教えです。
ですから極悪人でも往生することができる、と説かれます。
ただ、誰でも彼でも往生できるわけではもちろんありません。
「私は今まで繰り返し悪いことをしてきた。本当ならば地獄に行っても仕方ない。でも阿弥陀さまはこんな私でもお救い下さるという。阿弥陀さま、どうかお助け下さい」と心からお念仏をお称えする人は往生できると説きます。

それを自分の都合のよいように、誤解をする人がでてきました。
「いくら悪いことをしてもいいんだ。最後に南無阿弥陀仏って称えればいいんだから」という人が出てきました。

更には「戒を守って念仏を称えるのは阿弥陀さまの力を信じていない証拠だ。阿弥陀さまはどんな者でもお救い下さるのだから、積極的に悪いことをしたったらいいのだ。それが阿弥陀さまを信じているということだ」という人まででてきました。

そうすると当然他の宗派の人たちから非難を受けることになります。そしてその矛先は法然上人に向いていきます。

そこで法然上人は「浄土宗の教えはそういうものではありませんよ。これが正しい浄土宗の教えなんですよ」と比叡山にお手紙を出されます。
それを「登山状」といいまして、その一部が今回ご紹介する、御法語後編第十八章なのです。

一つ一つの語句が難しいので、内容をかいつまんで申し上げることに致します。
「まず仏教には戒というものがあり、浄土宗も決して例外ではないのだ。できるならば、戒を守り通してお念仏を称えるにこしたことはない。戒をしっかり守って正しく修行すれば、どんな行でもどんな願でも成就するのだ。しかし私達は戒をしっかりと守りきれない存在ではありませんか」というのです。

仏教では「体の行い」「口の行い」「心の行い」の三つを同じようにみます。
つまり、ナイフを持って人を殺すことと、「お前なんか死んでしまえ」と口で言うこと、それから心の中で「あんな人死んでしまえばいい」と思うことは同じ「殺生」という行為なのです。
私達は「心で思うだけなら罪がない」と思いますがそうではありません。
そういう厳密な意味で戒を守ることは非常に難しいんです。

法然上人も一生涯戒を守り、周りの人たちからは「法然上人はきっちり戒を守る方だ」と尊敬されていました。
しかしご本人はご自分の心の中をジッとご覧になって、「とても戒を守りきれない」と自覚なさってたのです。
「お釈迦さまの時代にはすぐれた指導者がおられたから、しっかり戒を守る人も多くいた。しかし、今の時代(つまり鎌倉時代)に本当の意味で戒を守れる人なんているのか、誰もいないじゃないか。しかし仏教ではそもそも、悪い行いをやめましょう、善い行いをしましょう。それが仏教なんだ、と昔から言われている。それがすべての仏さまに共通する教えである。善い行いをする人は善いところに生まれ、悪い行いをする人は命が尽きたら悪いところに生まれる。こういう因果の道理は誰もが知っているが、実際にできなければ意味がないではないか。善い行いをしようにもできない、悪い行いしかできなければどうしようもないではないか。しかし自分の分相応に悪い行いをやめていきましょう。そして縁に触れてお念仏を称えていきましょうよ。」とおっしゃるのです。

つまり、「どうせ戒なんて守れない。善い行いなんてできないのだから、戒なんて無視すればいい」というのではないのです。

「私は戒なんて守れない」、でも自分の分相応に守ろうとするのです。
守ろうとしても実際には守りきれないかもしれません。
そこで「普通なら戒の一つも守れない、救われようのない私を阿弥陀さまはお救い下さる。どうぞお救い下さい、南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏にすがればよいのです。

「いくら悪いことをしてもいい」というのと、「したくはないけれども悪いことをしてしまう」というのでは大きく違うのです。

ただ、「いくら悪いことしてもいい」というのは行き過ぎです。
私たちはそういう人がいたら、「それは救われないよ」と思ってしまいます。
しかしよく考えてみると、これは現在の我々がやっていることではないでしょうか。

「ウチの宗派は念仏を称えておけばいいらしい。だから楽なんですよ。何してもいいんです。念仏を称えるだけだから」などと言っているのはこれと同じです。
戒なんて無視してしまっています。

私なども妻帯していますし、肉も魚も食べます。お酒も多少飲みます。それでも念仏で救われることが当たり前だと思っていたならば、この人たちと同じです。

本当は守らなければならない戒であるが、世間や周りのこと、そして誘惑に勝てずに悪い行いをしてしまう。
でも阿弥陀さまがお救い下さるのだ」とその有り難さを再確認すべきです。
この御法語を改めてじっくり読んでゾッとしました。
「これは私に説かれた教えだ」と。

元祖大師法然上人御法語 後篇 第十七章

(本文)

百萬遍のこと。仏の願(がん)にては候わねども、小阿弥陀経にもしは一日もしは二日乃至七日念仏申す人、極楽に生(しょう)ずると説かれて候えば、七日念仏申すべきにて候。その七日のほどの数は百萬遍に当たり候うよし、人師(にんじ)釈(しゃく)して候えば百萬遍は七日申すべきにて候えども、耐(た)え候わざらん人は、八日九日などにも申され候えかし。さればとて百萬遍申さざらん人の生まるまじきにては候わず。一念十念にても生まれ候うなり。一念十念にても生まれ候うほどの念仏と思い候う嬉しさに、百萬遍の功徳を重ぬるにて候うなり。

 

(現代語訳)

百万遍について。

阿弥陀仏の本願にはありませんが、『阿弥陀経』に、「もしくは一日、もしくは二日、あるいは七日まで、念仏を称える人は極楽に生まれる」と説かれていますので、七日間念仏を称えるべきです。

その七日ほども〔念仏の〕数が百万遍に相当すると、ある高僧は解釈しておられます。ですから、百万遍は七日で称えるべきですが、それが出来ない人は、八日や九日などでもお称えになって下さい。

だからといって、百万遍の念仏を称えない人は往生できない、というわけではありません。一念や十念でも生まれるのです。一念や十念でも生まれるほどの念仏だと思ううれしさに、〔おのずと〕百万遍念仏の功徳を重ねることになるのです。

 

(解説)

「百万遍念仏」という信仰があります。
中国でできた、お念仏の数量信仰です。
つまりたくさんお念仏を称えればそれだけ功徳が増す、というもので、「百万遍もの数の念仏を称えれば間違いないだろう」というわけです。
それが日本にも入ってきて広まりました。
法然上人の周りにも、実際に百万遍念仏を行う人がおられたようで、法然上人も百万遍念仏について言及なさっています。

「百万遍のこと、仏の願にては候わねども」とあります。
仏の願ではないのですね。

仏とはここではもちろん阿弥陀さまのことです。
阿弥陀さまの願は四十八ありまして、その中でも第十八願には「南無阿弥陀仏と称える者を極楽浄土に迎え取ろう」と誓って下さっています。
つまり「百万遍念仏を称えないと極楽には迎え取らない」とはおっしゃってません。
だから「仏の願にては候わねども」とおっしゃるのです。

「小阿弥陀経にもしは一日、もしは二日、乃至七日念仏申す人、極楽に生ずると説かれて候えば、七日念仏申すべきにて候」とあります。
小阿弥陀経といいますのは、いわゆる『阿弥陀経』のことです。
そこに「一日乃至七日念仏を申す人は極楽に往生する」と記されています。
もちろんお念仏というのは毎日、そして一生涯称えていくものですが、毎日お念仏を称えていますと私達には怠け心が出て参ります。
だんだん有り難味がなくなってくる、やる気が起こらなくなってくる。
そういうときに集中的にお念仏をお称えするのです。
これを「別時」といいます。
七日の別時、即ち七日間びっしりお念仏を称えた、その数が丁度百万遍に当たるというのです。
だから百万遍念仏は七日間で称えるというのが本義だけれども、七日で称えきれなければ八日、九日とかけて称えてもいいですよというのです。
実際には七日間で百万遍称えるのは難しいです。
一日に十四万遍以上称えないといけないですから相当に難しいことです。
法然上人でも一日に大体六、七万遍ですから、相当な数です。
寝てる暇も殆どないぐらいでしょう。
だから七日間で無理ならば、八日、九日と日延べしても構いませんというのです。

「しかし、百万遍称えないと往生できないのではないのですよ」とおっしゃっています。
「一遍、十遍の念仏でもちゃんと往生できますよ。一遍、十遍の念仏でも往生できる、その嬉しさに思わず百万遍という数が積もり、その功徳も重なっていくのですよ」とおっしゃるのです。
中国から百万遍という、「数」のみが伝わってきましたので「百万遍念仏しないと往生できない」と思う人が多かっのでしょう。
そこで法然上人は「違いますよ。一遍、十遍の念仏でもちゃんと往生できますよ」とお説きくださいました。

しかし根拠がないからといって百万遍念仏を否定するようなこともなさいません。
昔の人が「たった一遍、十遍のお念仏でさえも往生させていただける。何と有り難いことだ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、その信仰の結果百万遍という数になったのですから、それはそれで真似をしたらいいのですよ、と考えておられたようです。

元祖大師法然上人御法語 後篇 第十六章

(本文)

問う。念仏せんには必ず念珠(ねんじゅ)を持たずとも苦しかるまじく候うか。

答う。必ず念珠を持つべきなり。世間の唄(うた)を唄い、舞(まい)を舞うすらその拍子(ひょうし)に従うなり。念珠を博士(はかせ)にて舌と手とを動かすなり。ただし無明(むみょう)を断ぜざらんものは妄念(もうねん)起こるべし。世間の客と主(あるじ)とのごとし。念珠を手にとる時は妄念の数をとらんとは約束せず。念仏の数とらんとて、念仏の主をすえつる上は、念仏は主、妄念は客なり。さればとて、心の妄念を許されたるは過分(かぶん)の恩なり。それにあまさえ口に様々の雑言(ぞうごん)をして念珠を繰りこしなどすること、由々(ゆゆ)しき僻事(ひがごと)なり。

 

(現代語訳)

問い。念仏するには必ずしも数珠を持たなくても、差しつかえないでしょうか。

答え。必ず数珠を持つべきです。世間で、歌を歌い、舞を舞う時でさえその拍子に従います。〔まして念仏するには〕数珠をたよりにして舌と手とを動かす〔べきな〕のです。

ただし、無知の煩悩を断っていたい者には、迷いの心が起こるに違いありません。〔迷いの心と念仏との関係は、〕世間でいう客人と主人の関係のようなものです。数珠を繰るときは、「迷いの心の数を数えよう」と誓いはしません。「念仏の数を数えよう」と念仏を主人と決めた以上は、念仏が主人であり、迷いの心は客人に過ぎません。

とはいえ、心の迷いを許されていることは〔阿弥陀仏からの〕過分の恩であります。それなのに、あろうことか様々な悪口を言いながら数珠を繰るなどは大変な過ちであります。

『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊

 

(解説)

今回の御法語は問答形式になっておりまして、どなたかが法然上人にお尋ねになり、それに法然上人がお答えになるという形です。
質問の内容は、「お念仏を称えるのに、必ずしも数珠を持たなくてもよろしいですか」ということです。

教義的には、阿弥陀さまは「南無阿弥陀仏と称える者を極楽に迎え取る」と言って下さったわけであって、別に「数珠を持って念仏を称える者を」と限定されてはいないですから、「必ずしも数珠は持たなくてもいいですよ」となるはずです。
ところが法然上人のお答えはそうではありません。
「必ず念珠を持つべきなり」つまり「必ず数珠を持たないといけない」とおっしゃるのです。

このお答えを、どうしてかなあと思って考えました。
数珠というのは、お念仏を数える道具です。
「南無阿弥陀仏」と一遍称える毎に、一つ数珠の珠をを繰っていきます。

「必ず念珠を持つべきなり。世間の唄を唄い、舞を舞うすらその拍子にしたごうなり。念珠をはかせにて舌と手とを動かすなり」
「必ず念珠を持つべきですよ。世間の唄を唄ったり、舞を舞うのでもその拍子というものがあるんだ。数珠を博士にして…」
博士というのは邦楽の音符のことです。

「舌と手とを動かすなり」。
お念仏を称えて数珠を繰ってリズムをとるのです。
リズムをとってお念仏を称えますと称えやすくなるのです。

「但し無明を断ぜざらん者は妄念起こるべし。世間の客と主とのごとし」
但しお念仏を称えていても、悟りを開いていない人(私達のことですね)には、余計なことが次から次に浮かんできます。
お念仏に集中しようにも、「ああお腹減ってきたなあ。今日の晩ご飯何にしよう。そういえば、親戚の聡子ちゃんどうしてるんやろ。あの子頭よかったなあ。息子さんもいい大学行ったって言うてたわ。お医者さんになるって。そうや、明日病院行く日や。忘れてたわ」などというように。
心ここにあらずです。

法然上人は「世間の客と主とのごとし」だとおっしゃるのですが、ちょっと意味がわかりにくいと思います。
読み進めると分かってきますので、そのまま進みます。

「数珠を手に取るときは妄念の数を数えているんじゃないんだ。お念仏を数えているんだ。ということは、数珠を繰っている時は念仏が主、妄念が客なんだ」ということなのです。

「しかし、心の妄念をお許し下さっているのは身に余るご恩なんですよ」
これについてエピソードがあります。
ある時法然上人の元に明遍僧都という方が訪ねて来られました。
明遍僧都は非常に有名な高野山の修行者です。
その明遍僧都が戸を開けるや否や、「法然上人に聞きたいことがあります。私はお念仏を一所懸命称えておるけれども、どうしても心が散り乱れる。これでは往生できませんか?」という質問であります。
明遍僧都ほどの修行者であっても心が散り乱れるというのです。
法然上人は「いやいや。妄念が起こるのは誰にでもあることです。私達には目や耳や鼻がある。それと同じように妄念も生まれもって備わっているんですよ。妄念を無くせということは、目や耳や鼻を取れと言われているようなもので、私達には相当に難しいことですよ。しかし、阿弥陀さまは極楽への往生を願い、念仏を称える者は目や耳や鼻が付いた、そのまますくい取って下さいます。だから妄念があるなら妄念があるまま、阿弥陀さまはお救い下さるのです。何も心配はいりませんよ」とお答えになったのです。
明遍僧都は「そうですか!これで安心しました!」と喜んで帰られたとお伝記には記されています。
この逸話で妄念については語り尽くしたと思います。
本当に身に余るご恩ですね。

ただし、最後に少し釘を刺されています。
「身に余るご恩をいただいておきながら、その上口にいらんことをベラベラ喋って、形だけ信仰深そうに数珠を繰っているようではいけませんよ」とおっしゃっています。
我々は「妄念があっても救ってもらえる」と言われると、何をしてもOKだと勘違いしてしまいます。
大事なことは、何はともあれ往生を願って阿弥陀さまにお任せしてお念仏をお称えすることです。
そうする者は、妄念があっても救う、と言って下さっているのです。
それに甘えて、「もう救われた」と思って念仏も称えずに、形だけ信仰深そうに数珠を繰って、ベラベラ余計なことばかりしゃべっていたらいけませんよ、ということなのです。当たり前のことですが、やりそうですよね。
法然上人は私たちのことをよく分かって下さってるのです。

つまりは、「念仏を中心にしていきなさいよ」ということです。
数珠を持つ時は、お念仏を数える時です。
ですから数珠を持つ時は、お念仏が中心です。
「数珠なんて別に持たなくてもいい」と言いますと、結局お念仏も称えないようになりがちです。
しっかりと数珠を持ってお念仏を称え、その数を数えて、またそれを励みにしてお念仏を称えていくことは大切です。

元祖大師法然上人御法語 後篇 第十五章

(本文)

毎日の所作に、六万十万の数遍(すへん)を念珠(ねんじゅ)を繰りて申し候(そうら)わんと二万三万を念珠を確かに一つずつ申し候わんといずれかよく候べき。答う。凡夫(ぼんぶ)のならい、二万三万をあつとも、如法にはかないがたからん。ただ数遍の多からんにはすぐべからず。名号を相続せんためなり。必ずしも数を要とするにはあらず、ただ常に念仏せんがためなり。数を定めぬは懈怠(けだい)の因縁なれば、数遍を勧むるにて候。

 

(現代語訳)

〔問い〕毎日の勤めにおいて、六万遍、十万遍の念仏を、数珠を〔おおまかに〕繰って称えるのと、二万遍、三万遍の念仏を数珠で確実に一つずつ称えるのとでは、どちらがよいのでしょうか。

答え。凡夫の常として、二万遍、三万遍を〔日課に〕割り当てたとしても、仏の教えに適うことは難しいでしょう。とにかく念仏の数が多いのに越したことはありません。名号を称え続けるためです。必ずしも数そのものが重要なのではありません。ただ常に念仏するためです。念仏の数を定めないのは怠け心のもとになるので、数を決めた念仏をお勧めするのです。

 

(解説)

今回のご法語は問答形式になっていまして、どなたかが質問され、それに法然上人がお答えになっておられます。
「毎日お念仏を称えるのに、6万、10万という数を荒っぽく称えるのと、2万、3万という数をしっかり数珠を繰ってお念仏を数えながら称えるのとどちらがよろしいですか?」という質問です。
我々が聞きそうな質問なのかもしれません。
ただ、2万、3万と6万、10万とを比べてるのですから、相当な念仏者です。
かなり高レベルの話だといえます。

そもそも数珠というものは、お念仏を数える道具なのです。
2万、3万のお念仏を丁寧に数珠を繰って称えるのと、雑に6万、10万を称えるのとどちらが良いですか?ということなのです。

普通の感覚から言いますと、「6万、10万っていう数を雑に称えるよりも、多少減っても2万、3万なんやから、それを丁寧に称える方が良いのでは?」と思いませんか?
しかし答えは反対なのです。

「私達凡夫というのは、たとえ2万、3万であってもきっちりと身と心を整えて称えることなんかできないでしょう。だから数が多い方が良いのですよ」という理屈です。
そして「それは数が多い方がお念仏が続くからだ」とも書かれています。
相続といいますのは、継続することです。
多ければ多いほど、間無くお念仏を称えることができるのですから、多く称えなさいよ、ということです。
「必ずしも数多ければいいというものではありませんが、常に念仏をするだめには多い方がお念仏を続けることができるでしょう。
数を定めないのは怠けの原因になるから、数を定めることを勧めているのですよ」と書かれています。

数を数えるってことは非常に励みになります。
よく万歩計を持って歩いている人がいるでしょう。
「今日は5千歩歩いた、明日はもっと歩こう」と。
それと同じように、お念仏も「今日は千遍称えた、明日は2千遍称えよう」となります。お念仏は称えれば称えるほど、また称えたくなるものです。

今回の御法語には「日課念仏」という題がついています。
日課ですから、一日何遍称えるということを定めるのです。
数を定めないと、体調や気分によって称えない日が出てきて、しまいには全く称えなくなってしまうのが私達の常です。
ですから仏さまの前で「私は一日千遍称えます」という風に誓うのです。
五重相伝や授戒会を受けた方は毎日何遍称えるということをすでに誓います。
たとえば1日に3百遍としますと、称える時間はあっという間です。
5分~10分もあればできます。

形だけではなしに、実行していただきたいと思います。
そのように日課を定めることが、常に念仏を称えることにつながるのです。