成道山 法輪寺

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御法語

元祖大師法然上人御法語 後篇第六章

(本文)

釈迦如来(にょらい)、この経(きょう)の中(うち)に、定散(じょうさん)の諸々(もろもろ)の行(ぎょう)を説き終わりて後に、正しく阿難(あなん)に付属(ふぞく)し給(たも)う時には、上(かみ)に説くところの散善(さんぜん)の三福(さんぷく)業(ごう)、定善(じょうぜん)の十三観をば付属せずして、ただ念仏の一行(いちぎょう)を付属し給えり。経(きょう)に曰(いわ)く、仏(ほとけ)阿難(あなん)に告げ給わく、汝(なんじ)よくこの語を持(たも)て、この語を持(たも)てとは即ちこれ無量寿仏の名(みな)を持(たも)てとなり。善導和尚(ぜんどうかしょう)この文(もん)を釈して曰(のたまわ)く、仏(ほとけ)阿難に告げ給わく、汝よくこの語を持てより已下(いげ)は、正しく弥陀の名号を付属して遐代(かだい)に流通(るづう)し給うことを明かす。上来(じょうらい)定散(じょうさん)両門の益(やく)を説くといえども、仏の本願に望むれば、意(こころ)衆生(しゅじょう)をして、一向(いっこう)に専(もっぱ)ら弥陀仏(みだぶつ)の名を称(しょう)せしむるにあり。この定散の諸々の行は弥陀の本願にあらざるがゆえに、釈迦如来の往生の行を付属し給うに、の定善散善をば付属せずして、念仏はこれ弥陀の本願なるがゆえに、正しく選びて本願の行を付属し給えるなり。今、釈迦の教えに随(したが)いて往生を求むるもの、属の念仏を修(しゅ)して、釈迦の御心に叶(かの)うべし。これにつけても又よくよくお念仏候(そうろう)て、仏の付属に叶わせ給うべし。

 

(現代語訳)

釈尊は、『観無量寿経』の中で〔極楽往生のための修行として、精神を統一して行う〕定善と〔通常の心のままで行う〕散善との、様々な行を説き終わった後、まさしく弟子阿難に教えを託される段になると、それまでに述べられた、散善の功徳ある三種の行いや、定善の十三種の観想を託されずに、ただ念仏の一行のみを託されました。

『観無量寿経』には「釈尊は阿難に告げられた。〈汝はこの語をよく保て。この語を保てとは、無量寿仏の名号を保てということである〉」とあります。

善導和尚はこの経文を解釈して「〈釈尊は阿難に告げられた。汝はこの語をよく保て〉以下の語は、まさしく〔釈尊が〕阿弥陀仏の名号を〔阿難に〕託し、それを遙か後の世にまで広く伝えようとされていることを表している。この、名号を託する段に至るまで、定善・散善の二種の修行の利益を説いてこられたが、阿弥陀仏の本願に照らせば、釈尊の意図は、人々にひたすら阿弥陀仏の名号を称えさせることにある」と述べておられます。

この定善・散善の様々な行は、阿弥陀仏の本願ではないから、釈尊が往生の行を託される際には、念仏以外の定善・散善を託されず、念仏は阿弥陀仏の本願であるから、まさしく選んで、本願の行である念仏を託されたのです。

今、釈尊の教えに従って往生を求める人は、釈尊が阿難に託された念仏を修めて、釈尊のご意志に従うのがよいでしょう。このことからしてもまた、よくよくお念仏をなさり、釈尊が〔念仏を〕託された御心に添うようになさって下さい。(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊)

 

(解説)

お釈迦さまはたくさんのお経を説かれました。
その数は五千巻余りといいます。
それらは、お釈迦さまが色んな立場や能力の方に合わせて説かれたものです。
たくさんあるお経の中に、念仏について説かれたものがいくつかあります。
その中で特に法然上人が、「この三つ」と定めてくださったお経があります。
無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経という三つのお経で、これを浄土三部経といいます。

これらのお経の中には阿弥陀さまが登場します。
お経はお釈迦さまがお弟子や信者に向かって説かれた教えを、「お釈迦さまがこのようにおっしゃいました」というように遺されたものです。

浄土三部経では、お釈迦さまが「阿弥陀仏という仏さまがおられてね」と阿弥陀さまや極楽浄土のことを説いてくださっています。
私たちは直接阿弥陀さまが説かれた教えを知ることはできません。
お経を通して、即ちお釈迦さまを通してこそ阿弥陀さまを知ることができるのです。

さて、無量寿経というお経について申し上げます。
無量寿経は非常に長いお経です。
ですから色んなことが書かれているのですが、中でも大切なのは、「念仏の根拠」が説かれていることです。
阿弥陀さまが「我が名を呼ぶ者を救うぞ。南無阿弥陀仏と称える者を私が作った幸せの国、極楽浄土へ迎え取ってやるぞ」とお約束くださっています。
そのお約束を「本願」といいます。

阿弥陀さまは数ある修行方法の中で、「極楽浄土へ往生するためにはこれだ」と念仏を選んでくださいました。
その念仏の根拠である本願が説かれているのが無量寿経です。

観無量寿経は「無量寿仏」を「観る」お経です。
無量寿仏とは阿弥陀仏のことです。
つまり阿弥陀さまや阿弥陀さまがおられる極楽を観るためのお経なのです。

我々苦しみの多いこの世で過ごす者が、阿弥陀さまと生きながらにしてお会いできたり、極楽を観ることができたら、こんなにホッとすることはありません。
それは瞑想によって実現するといいます。
その瞑想の方法を順を追って説かれているのが観無量寿経です。
この瞑想を「心が定まった善」という意味で定善(じょうぜん)といいます。

観無量寿経では定善を十三種類説かれたのちに、「心が散り乱れた者でもできる善」という意味の散善(さんぜん)を説きます。
散善には三種類説かれています。

しかしながら、定善はもちろん、散善も大変難しい修行です。
昔の修行者は、今と比べてとてつもなく高いレベルの能力を持っておられました。
ですから定善や散善というような難しい修行も可能でした。
ところが今の我々は能力が低いので、定善や散善はとてもとてもできそうもありません。

お釈迦さまは後の時代の者は能力が衰えることをご存じでしたから、定善や散善のみ教えを後に残してもついていけないことをすでに分かっておられたのです。
ですから観無量寿経の中で定善と散善に殆どを費やしているにも関わらず、最後の最後で「後の者には念仏を残せよ」とお弟子の阿難尊者に説かれます。
観無量寿経は俗に「大逆転のお経」とも言われます。
難しい定善と散善を延々説いてきたのに、最後に「南無阿弥陀仏を残せ」とおっしゃるのですから。
お釈迦さまは「定善や散善を残しても後の者は実行することはできまい。」とお考えくださったのです。
そしてお念仏を説き、託されたわけです。
これを「付属(ふぞく)」といいます。

以上を踏まえて本文を読んで参ります。
「釈迦如来、この経の中に、定散のもろもろの行を説き終わりて後に、正しく阿難に付属し給う時には、上に説くところの散善の三福業、定善の十三観をば付属せずして、ただ念仏の一行を付属し給えり」

「この経」とは「観無量寿経」のことです。
「お釈迦さまはこの観無量寿経の中で定善、散善のさまざまな行を説き終わった後に、正しくお弟子の阿難尊者に教えを託そうという時には、今まで説いてきた散善の三福や定善の十三観を託さずに、ただ念仏の一行のみを託されました。

「経に曰く、仏阿難に告げ給わく、汝よくこの語を持て、この語を持てとは、即ちこれ無量寿仏の名を持てとなり」
「観無量寿経の最後のところに、お釈迦様は阿難尊者におっしゃいました。汝よ、この言葉をしっかりと伝えていけよ。この言葉とは無量寿仏、即ち阿弥陀仏の名前であるぞ」

「善導和尚、この文を釈して宣わく、仏阿難に告げ給わく、汝よくこの語を持てより已下は、正しく弥陀の名号を付属して、遐代に流通し給うことを明かす。上来定散両門の益を説くといえども、仏の本願に望むれば、意衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称せしむるにあり」

「善導大師はこのお経の文を解釈して、仏阿難に告げ給わく、汝よくこの語を持て、以下は、正しくお釈迦様が阿弥陀様の名前を阿難尊者に託して、後の世にまで広めようとなさっていることを明らかにしている。ここまで定善と散善の功徳を説いてこられたが、阿弥陀さまの本願を鑑みれば、お釈迦さまの意図は、人々にひたすら念仏を称えさせようというところにある」

「この定散のもろもろの行は、弥陀の本願にあらざるが故に、釈迦如来の往生の行を付属し給うに、余の定善、散善をば付属せずして、念仏はこれ弥陀の本願なるが故に、正しく選びて本願の行を付属し給えるなり」

「この定散のさまざまな行は、阿弥陀様の本願ではないので、お釈迦様が極楽往生のための行を託されるときには、念仏以外の定善や散善を託さずに、念仏は阿弥陀様の本願であるから、正しく選んで本願の行を託されたのである」

「今、釈迦の教えに随いて往生を求むる者、付属の念仏を修して釈迦の御心に適うべし」

「今お釈迦様の教えに随って極楽へ往生したいと願う者は、お釈迦様が阿難尊者に託された念仏を実践して、お釈迦様の御心に叶うべきでしょう。」

「これにつけても又よくよくお念仏候うて、仏の付属に適わせ給うべし」

「このことからしても、またしっかりとお念仏を称えてお釈迦様が託された御心に添うようになさいませ」

阿弥陀さまは数ある修行方法の中から、「どれも後の世の者には難しいであろう。しかし私の名前なら呼べるであろう。私の名前に私が修行したすべての功徳を収め込もう。だから我が名を称えよ」と念仏を選ばれました。
座禅する者を極楽に迎え取るともおっしゃらず、滝に打たれたものを救うともおっしゃらず、念仏称える者を救うとおっしゃったのです。阿弥陀さまが「これだ」と選らんでくださった行がお念仏です。

また、お釈迦さまも後の世の者には念仏しかない、と選んで阿難尊者に託されました。
法然上人は、お釈迦様が後の世の者の為に念仏の行を選ばれたのは、阿弥陀様の本願だからであると説かれています。
阿弥陀さまが選ばれ、お釈迦さまが選ばれた行なのです。

よく「念仏は法然上人が選ばれた行である」という人がいますが、実はそうではありません。
阿弥陀さまが、お釈迦さまが、さらには「阿弥陀経」では諸仏も念仏を勧めておられます。お念仏、すべての仏さまがあらゆる修行方法の中から、私たちのために先に選んでくださり、「極楽へ往生したいならばこれをせよ」とお示しくださったものなのです。