成道山 法輪寺

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御法語

元祖大師法然上人御法語 後篇 第二十八章

(本文)

このたび輪廻(りんね)のきずなを離るること、念仏に過ぎたることはあるべからず。この書き置きたるものを見て、謗(そし)り謗(ぼう)ぜん輩(ともがら)も、必ず九品(くほん)の台(うてな)に縁を結び、互いに順逆の縁 虚(むな)しからずして、一仏(いちぶつ)浄土の友たらん。そもそも、機を言えば五逆重罪を選ばず、女人(にょにん)闡提(せんだい)をも捨てず。行(ぎょう)を言えば、一念十念をも捨てず。これによりて五障三従(ごしょうさんじゅう)を恨むべからず、この願を頼みこの行(ぎょう)を励むべきなり。念仏の力にあらずば、善人なお生まれ難し。いわんや悪人をや。五念に五障を消し三念に三従を滅して、一念に臨終の来迎(らいこう)をこうぶらんと、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に名号を称(とな)うべし。時処諸縁(じしょしょえん)にこの願を頼むべし。あなかしこ、あなかしこ。

 

(現代語訳)

この生涯を限りに輪廻の絆を離れるには、念仏に勝る方法があるはずはありません。ここに私が書き残したものを見て謗り、非難する者も、必ず浄土の九品の蓮の台に縁を結び、信仰の同じ者も異なる者も互いに縁が実って、同じ阿弥陀仏の浄土の友となるでしょう。

そもそも救われる人はといえば、五逆重罪の悪人をも分け隔てせず、女人や一闡提を捨てることもありません。行はといえば、わずか一声十声の念仏によるのです。ですから、五障・三従の身を恨みに思うべきではありません。この〔念仏往生の〕本願を頼みとし、この念仏の行に励むべきです。

念仏の力によらなければ、善人ですら往生は難しいのです。悪人はいうまでもありません。「五遍の念仏で五障を消し、三遍の念仏で三従を滅ぼして、いっぺんの念仏で臨終の来迎を蒙りたいものだ」と、立ち居起き伏しに、阿弥陀仏の名号をお称えください。いかなる時・場所・場面でも、この本願を頼みとなさってください。あなかしこ。あなかしこ。

(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊)

 

(解説)

私達のように、素直にお念仏のみ教えをいただく、そういうご縁を「順縁」といいます。
逆に「念仏なんて嫌いだ」「念仏なんて信じられない」と言っていたのに、それがきっかけとなって、念仏信仰に入る、そういうご縁を逆縁といいます。
正しい法を謗ることは「謗法罪(ぼうほうざい)」といって、重い罪です。
しかし、お念仏のみ教えは非常に間口の広い教えで、そういう者でも念仏信仰に入ったならば、救われると説かれるのです。
更には極悪人でも救われるといいます。
もちろんそのままではいけません。
心から今までの罪を悔いて、本気で救いを求め、念仏を称えるならば救われるのです。

そして、こういうことを申しますと、現代では違和感がありますが、「女性も救われる」と書かれています。
今でこそ男女平等が当たり前ですが、この時代は男尊女卑、いやそれ以上です。
女性は救われないかのように言われていました。
ここにあります五障三従という言葉がそれを明らかにしています。
五障といいますのは、女性がなれない五つを指します。

一つは仏になれないといいます。
もちろんお釈迦さまのお弟子には女性もたくさんおられましたし、その方々も悟っておられますから、仏になれるのです。
しかし、法然上人の時代、この当時は仏になれないと言われていたのです。
そして、理想の王様にはなれない、梵天にはなれない、帝釈天にはなれない、魔王になれない、この五つが五障です。
仏の世界、世俗の世界、宇宙、天界、悪魔の世界、どれをとっても極めることができないのが女性なのだということです。

三従といいますのは儒教の考え方で、家にあっては親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従うという三つです。
今でも「老いては子に従え」などとおっしゃる方がありますが、元々は女性のみに使った言葉です。
失礼な話です。
現代に五障三従などという言葉は通用しませんが、鎌倉時代には女性達は自分たちが五障三従の身であるということを深く自覚していたのです。

そこで法然上人は、「阿弥陀さまは南無阿弥陀仏と称える者を救うとおっしゃっているのです。男は救うけれども女は救わないなどとは決して仰っていないのです。五障三従などということを気にする必要はありません。ただ南無阿弥陀仏と称えて阿弥陀さまにお任せしなさい」とおっしゃったのです。
これには当時の女性達、涙を流して喜ばれたことだと思います。

このようなことをふまえまして、最初から読んで参りたいと思います。
「このたび輪廻の絆を離るること、念仏に過ぎたることあるべからず」
仏教が生まれたインドでは、私たちは生まれ変わり死に変わりを繰り返すと考えます。
仏教もそれを前提としています。
数十年の人生が終わったら、それで終わりではなく、必ず何かに生まれ変わります。
これを輪廻といいます。

今人間として生きていますが、手放しで人生すべて幸せ、とは言い難いのではないでしょうか。
どちらかといいますと、苦しみの方が多いのではないでしょうか。
生まれてきたら一瞬一瞬に老いてゆき、いつか必ず病になり、そして必ず死を迎えます。
また、自分だけが死ぬのではなく、愛する人も命が尽きるときが来ます。
愛する人と必ず別れなくてはなりません。
逆に大嫌いな人とも会わなくてはならない、人間関係の苦しみにも多く遭います。
これも辛いことです。
人を憎むというのは本当に苦しいものです。

そして欲しい物が手に入らないのもこの人生です。
だれも老いたくないのに老いるのです。
病になりたい人なんて誰もいないのにみんな病になるのです。
みんな死にたくないのに必ず間違いなく皆死ぬのです。

この世界が嫌だと言って、自ら命を絶つ方もおられます。
しかしそれで終わりではありません。
これですべて終わるのでしたら、苦しい人にとれば、それも救いなのかも知れません。
でも先ほども申しましたように、何かに生まれ変わるのです。
しかも人間はまだましな方です。
私たちの生まれ変わる先は、行いによって決まるのですが、私達の行いは煩悩による行いばかりです。
人間に生まれ変わるどころか地獄や餓鬼道に生まれ変わるかも知れません。
もし地獄に生まれたら、地獄は苦しみばかりの世界ですから、そこでは善い行いをすることが非常に難しいのです。
善い行いができなければ、地獄から抜け出すことはできません。
餓鬼道に生まれたら、餓鬼道は飢えに苦しみ続ける世界ですから、ここでも善い行いをするのは難しいでしょう。
お腹が減って仕方がない、その時に人のために善い行いをする余裕はないのです。
こういう世界を経巡り続けているのが私たちです。輪廻し続けているのです。

この輪廻の世界から抜け出すのが仏教の目的です。
このご法語のお言葉で言いますと、輪廻の絆を離るる、これが仏教の目的なのです。
お釈迦さまは、この輪廻の絆を離れる方法をたくさん説いて下さったのですが、その一つ一つがとても困難です。
私たちのような難しい修行ができない者、心散り乱れる者、煩悩を断ち切ることができない者には、いくら尊い教えであっても、それらは絵に描いた餅のようなものです。
このような私たちにはお念仏以上に有り難い教えはないのです。
私たちには念仏がぴったりなのです。
それが「このたび輪廻の絆を離るること、念仏に過ぎたることあるべからず」というお言葉です。

「この書き置きたるものを見て、謗り謗ぜん輩も、必ず九品の台に縁を結び、互いに順逆の縁むなしからずして、一仏浄土の友たらん」
「この書き置きたるもの」といいますのは、この文章のことです。
本当はもっと前後に文章があります。
これは一部抜粋しているのです。
このお念仏について書かれたものを見て、悪く言う人達も、何らかのご縁をきっかけにして、極楽とのご縁を結ぶ、つまりお念仏を称えるようになったならば、順縁であろうが逆縁であろうがそういうご縁もすべて成就して、同じ仏の浄土、阿弥陀様の極楽浄土の友になることができるのです、ということです。

「そもそも機をいえば、五逆重罪を選ばず、女人闡提をも捨てず」
機といいますのは、素質とか能力という意味です。器という字の方が意味が明瞭になるかも知れません。
私達たち自分の素質とか能力をみてみると、先ほども申しましたように、救われがたい身なのです。
煩悩多き、愚かな私であります。
それを自覚することは大切なのですが、仏さまからご覧になって、極楽浄土へ迎え取るのにどのような素質能力が必要か。
どのような器の者を救って下さるのかと申しますと、どんな者でもお救い下さるのです。素質や能力は関係ないのです。

ここでは、五逆の者でも救われると書いてあります。
五逆といいますの、親殺し、坊さん殺し、仏教教団破壊、仏様に怪我をさせるといったとんでもない罪です。
それだけで地獄行きなのですが、そういう者でも、その罪を心から悔いて、本気で救いを求めて念仏を称えるならば、阿弥陀さまはお救い下さるのです。
そして当時救われないと言われていた女性も救われますよと書かれています。

「行をいえば一念十念をも捨てず」
法を謗る者、五逆の者、救われないと世間で言われている女性、そういった人たちが救われるというならば、どんなに難しい修行をせよというのかといいますと、一遍や十遍の念仏でも救われると書かれています。
もちろん一遍や十遍称えれば後は必要がないというわけではありません。法然上人のお言葉には一遍、十遍の念仏で往生できるとたびたび出て参りますが、これは最低限ということであります。ご縁が無く、一遍、十遍しか称えることができなかった人でも往生できるという意味です。

具体的にいいますと、臨終間際までお念仏の教えを知らなかったけれども、臨終の枕辺で信仰の篤い人から念仏の教えを聞き、「そんなありがたい教えがあるのか」と知り、「南無阿弥陀仏」と称えた瞬間に死んでしまった、それでも往生できるということであります。私達はご縁があってまだまだお念仏することができるのですから、たくさん称える方がよいのです。一遍の念仏でも往生すると深く信じて、たくさん称えましょうというのが浄土宗のお念仏です。

「これによりて五障三従を恨むべからず、この願を頼み、この行を励むべきなり」
先ほど申し上げました五障三従であります。
「私はなぜ女の身に生まれてきたのか。五障三従の我が身が恨めしい」と嘆く必要はないということです。
ただ阿弥陀さまの本願を信じて念仏に励むべきですよと仰るのです。

「念仏の力にあらずば、善人なお生まれ難し。いわんや悪人をや」
念仏の力でなかったら、善人だって往生することは難しいでしょう。
ましてや我々のような悪人は当然往生し難いでしょう。
念仏だからこそ私たちは往生することができるのですよということです。

「五念に五障を消し、三念に三従を滅して、一念に臨終の来迎をこうぶらんと、行住坐臥に名号を称うべし。時処所縁にこの願を頼むべし。あなかしこ、あなかしこ」
五念といいますのは、五遍の念仏、三念といいますのは三遍の念仏です。
五遍の念仏で五障が消え、三遍の念仏で三従が消えると書かれていますが、これは語呂合わせです。
実際には五障も三従も関係ないということです。
「あなたは五障だ三従だと言って気にしているけれども、そんなもの関係ないですよ。五遍三遍の念仏で消えてしまいますよ」というほどの意味です。
「一遍の念仏でも阿弥陀さまがお迎え下さると信じて、行住坐臥に念仏を称えましょう。いつでもどこでもどんな時でも阿弥陀様の本願を頼りにしましょう。ああ恐れ多いことですね」ということです。

結局、念仏を謗る者も、五逆の者も、女性もみんな救われますよ、ということです。
私たちは勝手に、男や女や、金持ちや貧しいや、家柄が良いや悪いや、頭が良い悪いやと言って違いを見つけて、区別、差別します。
でも阿弥陀さまからご覧になれば、どれもドングリの背比べなのです。
「賢い、金持ちだと言っている者は自分の力で輪廻の絆を断つことができるか、できないであろう。皆煩悩多き、悟りとは程遠い者ばかりではないか。自分の力に頼ることなく、私を信じて念仏を称えよ」と言って下さっています。
すべての者をお救い下さるのが、阿弥陀さまなのです。