成道山 法輪寺

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御法語

元祖大師法然上人御法語 後篇 第七章

(本文)

浄土宗の意(こころ)、善導の御釈(おんしゃく)には、往生の行(ぎょう)に大いに分かちて二つとす。一つには正行(しょうぎょう)、二つには雑行(ぞうぎょう)なり。初めに正行というは、是に数多(あまた)の行あり。初めに読誦(どくじゅ)正行というは、これは無量寿経、観経(かんぎょう)、阿弥陀経等の三部経を読誦するなり。次に観察(かんざつ)正行というは、これはかの国の依正(えしょう)二報(にほう)のありさまを観(かん)ずるなり。次に礼拝(らいはい)正行というは、これは阿弥陀ほとけを礼拝するなり。次に称名(しょうみょう)正行というは、南無阿弥陀仏と称(とな)うるなり。次に讃嘆(さんだん)供養正行というは、これは阿弥陀仏を讃嘆し、奉るなり。これをさして、五種の正行と名付く。讃嘆と供養とを二つの行とする時は、六種の正行とも申すなり。この正行につきて、ふさねて二つとす。一つには、一心に専ら弥陀の名号を称え奉りて、立居起臥(たちいおきふし)、昼夜に忘るることなく念々に捨てざる、是を正定(しょうじょう)の業(ごう)と名付く。かの仏の本願に順ずるが故にと申して念仏をもて、正しく定めたる往生の業と立て候。もし礼誦(らいじゅ)等によるをば、名付けて助業とすと申して、念仏の他の礼拝、読誦、讃嘆供養などをば、助くる業と申して候うなり。さてこの正定業と助業とを除きて、そのほかの諸々の業をば、みな雑行と名付く。

 

(現代語訳)

浄土宗の教えについて、善導大師の解釈を見ると、〔極楽〕浄土に往生するための行には大きく分けて二つがあります。一つには正行、二つには雑行です。

初めに、正行についていうと、これには数多くの行があります。

第一に読誦正行というのは、『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』という三部の経典を読誦することです。

第二に観察正行というのは、極楽の国土と、そこにおられる阿弥陀仏や菩薩衆のありさまを想い画くことです。

第三に礼拝正行というのは、阿弥陀仏を礼拝することです。

第四に称名正行というのは、「南無阿弥陀仏」と称えることです。

第五に讃嘆供養正行というのは、阿弥陀仏を誉め讃えることです。

これらを指して五種の正行と名づけます。讃歎と供養とを二つの行とするときは、六種の正行とも申します。

これらの正行について〔善導大師〕は、まとめて二つとします。第一に、「一心にただひたすら阿弥陀仏の名号を称え、立ち居起き臥し、昼も夜も忘れることなく、一瞬たりともやめない、これを〈正定業〉と名づける。〔これは〕かの阿弥陀仏の本願の意に添うものだからである」といって、称名念仏を「まさしく定まった往生の行」と位置づけます。

〔第二には、〕「もし〔念仏以外の〕礼拝、読誦等によるならば、名づけて助業とする」といって、念仏以外の、礼拝・読誦・讃歎供養などを、その念仏を助ける行と申します。

さて、この正定業と助業とを除いてその他の様々な行は、みな雑行と名づけます。(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊)

 

(解説)

お念仏というのは極めて簡単な行です。
「極楽へ往きたい」と願う人にとれば、これほど簡単な行はありません。
阿弥陀さまの名前を呼ぶだけですから。
しかし「極楽へなんか往きたくない」という人にとってはどれだけ簡単であっても、面倒くさいことでしょう。
極楽は往きたい人が必ず往けるところです。
往きたい人はお念仏を称えればよいだけです。

ただ、「極楽へ往きたい」と思ってもその気持ちを持続するのはそれほど容易いことではありません。
人間というのは弱いもので、「極楽へ往きたい」と思っても時が経つにつれて段々その気持ちが薄らいでくるものです。
煩悩が邪魔をするのです。

そもそも普段から私たちはずっと阿弥陀さまや極楽浄土に心を向けているわけではありませんね。
こうしてお仏壇に向かっているときは阿弥陀さまや極楽浄土、ご先祖さまに心が向くことでしょう。
でも部屋を出た瞬間に「はい、ここからは日常生活」という風にスイッチを切り替えてしまうものです。
それが普通でしょう。
それでもずっと「極楽へ往きたい」と願う気持ちを維持できれば問題はありません。
しかし、そのぐらいの信心というのは実は危ういものです。
何か大きなことが起こるとすぐにぐらつきます。

例えば近くで巨大地震が起こったら、その程度の人は「自分が生きることがまず大事」と仏さまのことはそっちのけになってしまいます。
先の東日本大震災では瓦礫の中から一生懸命お家の仏さまやお位牌を探す人もいたと聞きます。
そういう人は普段からしっかりとした信仰を保っている人です。
でも殆どの方の場合はそうではならず、仏さまのこともすっかり忘れてしまうということになりかねません。
そういう弱い私たちですから、できるだけ日常生活から阿弥陀さまや極楽浄土に向くような生き方をお勧めするのです。

その阿弥陀さまや極楽浄土に近しい行のことを正行と申します。
反対に阿弥陀さまや極楽浄土に近しくない行のことを雑行と申します。
正行と言いますと「正しい行」、雑行は「間違った行」のように聞こえますが、そうではありません。

仏道修行の目的は「苦しみから抜け出すこと」です。
その方法をお釈迦さまが、こちらの能力に合わせてたくさんご用意くださっています。
その中には、直接「覚り」という頂点を目指す修行と、一度極楽浄土に往生してから「覚り」に至ろうという修行の二つがあります。

お念仏の教えはまず極楽浄土に往生しようという教えです。
極楽浄土に往生しようというならば、「南無阿弥陀佛」と称えるお念仏が最も勝れています。
その他のいかなる修行よりも圧倒的に勝れています。
お念仏を申すこと、そして極楽浄土とそこの主である阿弥陀さまに近しい行が正行です。

他の方法でも極楽浄土に往けないことはありませんが、遠回りです。
極楽浄土に往生しようというならば、遠回りをする必要はありません。

正行には五つあります。
五種正行といいます。

この御法語は、五種正行について説かれた御法語です。

「浄土宗の意、善導の御釈には、往生の行に大いに分かちて二つとす。一つには正行、二つには雑行なり」
「浄土宗の教えについて、善導大師の釈には、極楽浄土へ往生するための行を大きく分けて二つある。一つは正行、二つ目は雑行である、と説かれている」

「初めに正行というは、これに数多の行あり」
「初めに正行についていうと、これにはたくさんの行がある」

五種類あるわけです。
五種正行です。

「初めに読誦正行というは、これは無量寿経・観経・阿弥陀経等の三部経を読誦するなり」「一つ目は読誦正行です。これは無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経の三つ、浄土三部経を読誦することです」

「読誦」の「読」は文字を見て読むことです。
「誦」は文字を暗唱することです。
「読誦」とは、お経の本を見て読んだり、見ずに読むこと、つまりお経を読むことです。

しかしお経ならどんなお経でもいいかというと、そうではありません。
無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経です。
この三つを浄土三部経といいます。
この三つのお経には、阿弥陀さまや極楽浄土、お念仏のことが詳しく説かれています。

お釈迦さまは五千巻余りのお経を説かれました。
その中で阿弥陀さまのこと、極楽浄土のことなどが説かれているお経がいくつかあります。
更にその中から特に阿弥陀さまや極楽浄土のことをたっぷりと説いてあるお経を法然上人が示してくださいました。
それが浄土三部経です。

この浄土三部経を読むことが読誦正行です。
ですから、これ以外のお経を読むことは雑行となります。
よく読まれる般若心経や法華経などを読むのは読誦雑行となります。

もちろん般若心経や法華経を読むこと自体は悪いことではありません。
どれもお釈迦さまが説かれた尊い教えです。
間違っているはずがありません。

しかし、今は極楽浄土の方を向きたいのです。
そうなると般若心経や法華経を読むことは遠回りになります。
ですから極楽へ往生したい者には浄土三部経を読むことをお勧めするのです。

「次に観察正行というは、これは彼の国の依正二報のありさまを観ずるなり」
「二つ目は観察正行という。これは極楽浄土のありさまと、阿弥陀さまや菩薩方のありさまを思い描くことである」

二つ目が観察正行です。
極楽浄土や阿弥陀さまのことを想像するのです。
「極楽ってどんなところだろう?綺麗な花が咲き乱れて、美しい鳥がさえずり、丁度良い気温が保たれていてとても快適なところなんだろうなあ。そこに嫌な人や憎い人は一人もいなくて、大好きな人や尊敬する人に囲まれて穏やかに和やかに暮らすことができるんだろうなあ。極楽に往けば先に往生したあの人ともこの人とも会えるなあ。そして何と言っても阿弥陀さまと会えるんだ。阿弥陀さまってどんな方だろう。きっとお優しい方で、こんな私を包み込んでくださるような方なんだろうなあ」と想像するのです。

先ほど「極楽浄土へ往きたいと願ってお念仏を称える者が極楽浄土へ往生できる」と申しました。
だから極楽浄土へ往きたいと願うことが大切です。

一方今の私たちの頭の中はこの世の損得のことばかりです。
好き嫌いのことばかりです。
勝ち負けのことばかりです。
それでは極楽浄土へ往きたいという心は育ちません。

ですから極楽や阿弥陀さまのことを想像することをお勧めくださっているのです。
この世で生きていれば、辛いことや悲しいことがあります。
対して極楽は最高に幸せなところです。
それを想像して、極楽への思いを育てるのです。
これが観察正行です。

「次に礼拝正行というは、これは阿弥陀仏を礼拝するなり」
「三つ目は礼拝正行という。これは阿弥陀さまを礼拝することである」

三つ目が礼拝正行です。
礼拝をキリスト教では「れいはい」と読みます。
仏教では「らいはい」です。

阿弥陀さまに体で敬いを表すことを礼拝といいます。
合掌して頭を下げるのも礼拝です。
最上級の礼拝は、立ち上がって阿弥陀さまを拝み、地面にひれ伏して両手を広げます。
五体投地接足作礼といいます。

両手を広げるのは、両掌の上に阿弥陀さまのおみ足をいただくためです。
両掌の上に阿弥陀さまに乗っていただくのです。

インドでは敬いを表すのに相手の足を触ります。
足は地面を踏みますから、最も汚れるところです。
対して手は食事をするところ、特にインドでは直接手で食べますから、一番綺麗にしておくべきところです。
自分が一番綺麗にしておきたい手で、相手の一番汚れた足を触るということは、相手の全人格を受け入れ、敬うということなのです。

数年前、インドに行きました。
その時に物乞いの女の子が私に近づいてきて、足を触ろうとしてきました。
私は知らないものですから、何をされるのかと思って避けました。
するとガイドさんが教えてくれました。
「あれはあなたを敬っている、ということで礼拝の原型なんですよ」と。
このようにインドでは足を触って敬いを表すのです。

「心の中ではちゃんと敬っているのだから、体で表現しなくてもよい」と仰る方がおられるかも知れません。
しかし、敬っておれば自然と体も敬いを表そうとします。
後輩と電話をしていても頭は下がりませんが、先輩と話す時は相手には見えないのに「どうも、どうも」と頭を下げていませんか?
また体で敬いを表すことによって、敬いの心も養われるという両面があります。
これが礼拝正行です。

「次に称名正行というは、南無阿弥陀佛と称うるなり」
「四つ目が称名正行である。これは南無阿弥陀佛と称えることである」

もちろんこの四つ目の称名正行が中心です。
これについては後に申します。

「次に讃嘆供養正行というは、これは阿弥陀仏を讃嘆したてまつるなり」
「五つ目は讃嘆供養正行という。これは阿弥陀さまを誉め讃え、供養することである」

讃嘆というのは誉め讃えることです。
「阿弥陀さまという方は素晴らしい方です」と誉め讃えます。
また、ご詠歌は讃嘆しているのです。
キリスト教には賛美歌というのがあります。
あれは神様を讃えているわけです。
仏教ではご詠歌によって仏さまを讃えます。

また礼讃というのがあります。
よく法事などで「三尊礼」というのを読みます。
「弥陀身色如金山」、つまり「阿弥陀さまの体は金の山のようだ。」と阿弥陀さまを讃えています。

供養はお供えをすることです。
お仏壇に果物やお饅頭を置いているわけではありませんね。
保管しているわけでも隠しているのでもありません。
「お供え」しているのです。
お仏壇におられる阿弥陀さまやご先祖さまに「どうぞ」とお供えしているのです。

お仏壇は極楽浄土を表します。
そこにおられる阿弥陀さまやご先祖さまに「どうぞ」とお供えすることによって、極楽浄土や阿弥陀さまに思いを寄せているわけです。

「供養」とは「供物養心」の略です。
お供えをして心を養っているのです。
極楽浄土や阿弥陀さまに向かう心を養っているのです。

浄土真宗ではお膳をお供えしないそうです。
これは「阿弥陀さまだけ、お念仏だけであるから他のものには向かない」ということのようです。
しかし浄土宗ではお供えをして阿弥陀さまや極楽浄土へ向かう心を養うのです。
これは大きく違うところです。

「これを指して五種の正行と名付く。讃嘆と供養とを二つの行とするときは、六種の正行とも申すなり」
「この五つを五種正行という。讃嘆と供養とを二つに分けるならば、六種正行ともいう」

普通は五種正行といいます。
この五種正行をまとめた場合、大きく二つに分けることができます。

「この正行につきて、総ねて二つとす」
「この正行をまとめて二つに分ける」

「一つには一心に専ら弥陀の名号を称えたてまつりて、立居起臥、昼夜に忘るることなく、念々に捨てざる、これを正定の業と名付く。彼の仏の本願に順ずるが故に、と申して念仏をもて、正しく定めたる往生の業と立て候」
「一つには、一心にただひたすら阿弥陀さまのお名前を称え、いつでもどこでも、昼も夜も忘れずにずっとお念仏を続けることを正定の業と名付ける。これが阿弥陀さまの本願であるから、と善導大師はおっしゃって、称名念仏を極楽往きが正しく定まった行いと位置づけてくださっている」

この善導大師のお言葉を「浄土宗開宗の文」といいます。
この一文によって法然上人は浄土宗を開かれました。
南無阿弥陀佛とただひたすら称える、この一行こそが極楽往きの王道である、なぜならそれは極楽の主である阿弥陀さまが「わが名を称えよ。称える者を救うぞ」と先にお誓いくださっているからなのです。
ですから、称名正行を正定の業と位置づけます。

「もし礼誦等によるをば、名付けて助業とすと申して、念仏の外の礼拝・読誦・讃嘆供養などをば、彼の念仏を助くる業と申して候うなり」
「他の礼拝や読誦などのことを、助業と名付けると善導大師はおっしゃって、念仏以外の礼拝、読誦、讃嘆供養などを正定の業である称名正行を助ける業、つまり助業という」

五種正行の内、中心は正定業である称名正行です。
称名正行は唯一、これをするだけで極楽浄土へ往ける行です。
南無阿弥陀佛と称えれば必ず極楽へ往けます。
だからこれだけをしていればいいのです。

極端に言うと、極楽へ往きたいと思って南無阿弥陀佛と称えていればいいのですから、お仏壇も仏像もお位牌も要らないのかもしれません。
でもお仏壇がなければとてもお念仏がしにくいでしょう。

お仏壇の前でこそお経を称えますし、お仏壇を拝んで極楽を想像します。
阿弥陀さまのお像があり、その元でご修行される、先に往生された方々を表すお位牌があります。
それを拝んで極楽や阿弥陀さまに心を向けるのです。
阿弥陀仏像に礼拝し、讃嘆し、お供えをするのです。

この読誦や観察、礼拝、讃嘆供養をすることによって、お念仏がとても称えやすくなります。
そういうものを助業といいます。

「さてこの正定業と助業とを除きて、その外のもろもろの業をば、みな雑行と名付く」「さて、この正定業と助業とを除く、他のの行はみんな雑行と名付ける」

法然上人は、まずはこの五つを正行とし、それ以外を雑行となさいます。
ただし、他にもお念仏を称えるのに役立つものを助業として拾います。

例えば、歩くことは極楽とも阿弥陀さまとも関係ありません。
しかし、私は歩くとき「南無阿弥陀佛」と小さな声で称えながら歩きます。
そうすると歩くことがお念仏の助業になります。

ある人はお風呂に入って湯船に浸かるのに百辺お念仏を称えてから出る、といいます。
その人にとってはお風呂に入ることがお念仏の助業になっています。

ある人は洗い物をしながらお念仏を称えます。
「以前は洗い物は面倒だと思っていましたが、今はお念仏を称える大切な時間なんです」とおっしゃいます。
この人にとっては洗い物がお念仏の助業となっているわけです。

このようにあらゆるものをお念仏の助業にすれば、日常をお念仏のスイッチを切り替える必要がありません。
お念仏生活の中の日常になります。

お念仏を称える工夫をして、お念仏が癖付けば苦労なく続けることができるようになります。
お念仏を続ける道筋、お念仏が身につく道筋をお示しくださっているのが、五種正行なのです