成道山 法輪寺

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御法語

元祖大師法然上人御法語 後篇 第八章

(本文)

それ浄土に往生せんと思わば、心(しん)と行(ぎょう)との二つ相応(そうおう)すべきなり。かるがゆえに、善導(ぜんどう)の釈に、但しその行のみあるは、行(ぎょう)即ち一人にして、また至る所なし。ただその願のみあるは、願すなわちむなしくして、また至るところなし。必ず願と行と相い助けて、なすところ皆(みな)剋(こく)すと言えり。およそ、往生のみに限らず、聖道門(しょうどうもん)の得道(とくどう)を求めんにも、心と行とを具すべしと言えり。発心(ほっしん)修行と名付くるこれなり。今この浄土宗に善導のごときは、安心(あんじん)起行と名付けたり。

 

(現代語訳)

さて、浄土に往生しようと思うならば、心と行との二つが一致していなければなりません。ですから、善導大師の解釈に、「ただその行だけがあるというのも、行が孤立して、行き着く先がない。ただその願いだけがあるというのも、願いが虚しいものとなって、やはり行き着く先がない。必ず願と行とが互いに助け合うときに、目的はみな達成される」と言われています。

およそ極楽往生に限らず、聖道門の覚りを求めるときにも、心と行とを〔ともに〕具えるべきであるといわれています。「発心と修行」というのがそれです。今、この浄土宗では、たとえば善導大師は、「安心と起行」と名づけています。

 

(解説)

私たちが目的地に行く場合、「行こう」という気持ちがあって、体が動いてはじめて行くことができます。
どちらが欠けても行くことはできません。
行こうという気持ちがあっても体が動かなければ行くことはできませんし、また体がいくら元気でも行く気が起こらなければ行くことはできません。
どちらが欠けても目的地へ行くことは叶いません。

どちらが欠けてもいけないということは世の中にはいくらでもあります。
車のエンジンとタイヤのどちらが大切ですか?と聞かれたら困りますよね。
エンジンが無くてもタイヤが無くても車は動きません。

同じようにお念仏も「称える声」と、極楽へ往きたいと「願う心」がそろわなくてはいけません。
そのどちらがかけても極楽へ往生することはできない、と法然上人はお説きくださっています。

「それ浄土に往生せんと欲わば、心と行との二つ、相応すべきなり」
「極楽浄土に往生したいと思うならば、往生したいと願う心と行としての念仏が一致していなくてはならない」

「かるが故に善導の釈に、但しその行のみあるは、行すなわち一人にしてまた至るところなし」

「善導大師の解釈によると、ただその行だけが孤立してしまって行き先がなくなってしまう」

「但しその願のみあるは、願すなわち虚しくして、また至るところなし」

「但しその願いだけがあるとしても、お念仏が無ければ願いが虚しいものになってしまってやはり行き場を失ってしまう」

「必ず願と行と相助けて、なすところみな剋すといえり」
「必ず願と行とがお互い助け合って、目的は達成される、とおっしゃっている」

「およそ往生のみに限らず、聖道門の得道を求めんにも心と行とを具すべしといえり」
浄土宗からみて、仏教を大きく二つに分けることができます。
まず生きている間に一所懸命修行をして、覚りをめざす道です。
これを「聖道門(しょうどうもん)」といいます。
その一方で、「とても今のままでは到底覚りをめざしても至ることはできない」という者を、阿弥陀仏という仏さまが「私の名前を呼んでごらん。必ず極楽浄土に迎え取ってやるから」と言ってくださっています。
極楽浄土へ往生したならば、必ず阿弥陀さまによって、私たちが仏になるまで育て上げていただけます。
その極楽へ往くにはただ阿弥陀さまの名前を称えるだけです。
それが南無阿弥陀仏のお念仏です。
直接覚りを目指すのではなく、まず極楽浄土への往生を目指すのです。
この道を「浄土門(じょうどもん)」といいます。
ここでいう「往生」というのはこの浄土門を指します。
「浄土門の往生の教えに限らず、聖道門の覚りを求めるときにも、心と行とを共に具えるべきであると言われている」

「発心修行と名付くるこれなり」
「聖道門ではこの心と行を発心と修行と名付けられている」
「発心」とは「必ず覚りを開くぞ」という強い思いです。
修行は宗派によって様々あります。
「覚りを開くぞ」という思いを持って、修行をするわけです。
どちらが欠けても覚りは達成できません。

「今この浄土宗に善導のごときは、安心・起行と名付けたり」
「今この浄土宗では善導大師が心と行を安心と起行と名付けてくださっている」
安心(あんじん)とは「心の置き所」です。
「阿弥陀さまを信じて極楽浄土へ往生したいと願う心」です。
起行(きぎょう)は南無阿弥陀仏と称えること。
どちらが欠けても「極楽往生」の目的は達成できません。

ところでみなさんは極楽浄土へ往生したいと思われますか?
もし「別に往生なんてしたくない」というのであれば、今まで申し上げたことは徒労に終わってしまいます。

みなさんは極楽浄土を想像することはありますか?
日常のことは色々と想像するでしょう。
今日の段取りであるとか、おかずを何にしようとか。
あるいは今から数年後にはどうなっているだろう、もしかしたら病気になって一人で倒れているのではないか、この先どうしよう、と先を想像して不安に思うということもあるかも知れません。

それなのに、いつか必ずやってくる死、その先に往くべきところのことは考えたことがないというのは如何なものでしょうか。
たまには極楽浄土のことを想像してみるとよいのではないでしょうか。

お経には「極楽には綺麗な花が咲き乱れて、美しい鳥がさえずっている」と記されています。
それは抜群の環境を示してくださっているのでしょう。
私たちの心がゆったりできる、美しいところなのでしょう。

また池に入ると丁度良い温度になるといいます。
この世は暑いや寒い、湿気が多いや何だかんだと不平不満を言いますが、極楽はそんな憂いが全くないところなのでしょう。

そして極楽には嫌いな人が一人もいないのです。
大好きな、尊敬する人ばかりに囲まれます。
極楽へ往って会う人はみんないい人ばかりです。
だから私も穏やかになれます。

極楽へ往く時に、このやっかいな腹立ちの心や欲張りの心を綺麗に取り除いてくださるのです。
極楽へ往くと私自身が「いい人」にならせてもらえます。

そして極楽へ往くと「先に往生したあの人」と必ず逢えるといいます。
そして再会を喜び合うことができます。
そういう人たちに囲まれて、楽しくなごやかに穏やかに過ごすことができるところです。

そして「阿弥陀さまってどんな方なんだろう?それはそれは優しい方なんだろうな」と想像するのです。
時々こういった想像を働かせてみるのがよいのではないでしょうか。

この世は、生きていれば必ず萎んでいく世界です。
それを「萎みたくない、このままでいたい」ともがくのですが、それを避けることはできません。
しかし、お念仏を称える者には、萎んだその先に必ず極楽浄土があります。
その極楽浄土を恋い焦がれてお念仏を称えて過ごすのです。
そういう生き方をしていく、これが信仰の強さでしょう。

グラグラの信仰ではいざというときに役に立ちません。
「いざというとき」は誰にでも訪れます。
体を壊したり、最愛のひとと別れねばならないときも来るかも知れません。
そのいざというときに、しっかりとした信仰があれば、きっと強いことでしょう。
その為にも「信」、「心」を育て「お念仏を称える」生き方を進めて参りましょう。