成道山 法輪寺

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御法語

元祖大師法然上人御法語 後篇 第二十四章

(本文)

五逆罪(ごぎゃくざい)と申して現身(うつしみ)に父を殺し母を殺し、悪心をもて仏身(ぶっしん)を損(そこ)ない、諸宗を破りかくの如く重き罪を作りて、一念懺悔(さんげ)の心も無からん、其(そ)の罪によりて無間(むけん)地獄に落ちて、多くの劫(こう)を送りて苦を受くべからん者、終わりの時に善知識の勧めによりて、南無阿弥陀仏と十声(とこえ)称(とな)うるに、一声(ひとこえ)に各々八十億劫が間生死(しょうじ)に巡るべき罪を滅して、往生すと説かれて候うめれば、さほどの罪人だにもただ十声一声の念仏して、往生はし候え。誠に仏の本願の力ならでは、いかでかさること候うべきと覚え候。

(現代語訳)

〔『観無量寿経』には、〕「五逆罪といって、この生涯で父を殺し、母を殺し、〔覚りを開いた仏弟子を殺し、〕悪意をもって仏の身体を傷つけ、諸宗の和を乱すという、このような重い罪を犯しながら、少しの懺悔の心もなく、その罪によって無間地獄に墜ちて、非常に長い間、苦を受けるはずの者が、命の終わる時に、善知識の勧めによって、南無阿弥陀仏と十声称えると、一声ごとに八十億劫もの長い間、迷いの境涯を輪廻する原因となる罪を滅して往生する」と説かれていますので、「それほどの在任でさえも、ただ十声一声の念仏で往生することが出来る。本当に阿弥陀仏の本願〔の力〕によるのでなければ、どうしてこのようなことがあり得ようか」と思われます。

 

(解説)

私達が善悪の判断をする基準に法律があります。
しかし法律は時代によって中身が変わります。
そしてその法律を変えるものは私達の価値観です。
価値観もまた時代によってころころと変わります。

例えばたばこです。
20年ほど前まではたばこを吸う人は堂々と吸っていました。
しかし今はどうでしょうか。
たばこを堂々と吸っているだけで「ひどい!あの人堂々とたばこ吸ってる!」と言って、たばこを吸うだけでまるで悪人のような扱いを受けてしまいます。
今たばこを吸う人が肩身の狭い立場に追い込まれているのを見ますと「気の毒に」と同情してしまいます。
同じ「たばこを吸う」という行為でありながら、時代によって扱いが変わるわけです。

平和な時代の価値観と戦時中の価値観では大いに異なるでしょう。
平和な世の中で、3人、4人の人を殺めたらほぼ死刑になることでしょう。
実際に死刑にならなくても判決上はほぼ死刑です。
しかし、戦争中に敵兵を100人殺したら英雄になれるのです。
これはおかしなことです。
同じ殺人です。
殺人は絶対悪だと思いますが、戦争中に敵兵を殺すことは善になるのです。

このように時代や状況によって善悪が変わるのはなぜでしょう。
それはとりもなおさず私達には善悪の判断を下す力がないということではないでしょうか。

仏教では良い行いをすれば良い結果が出る、悪い行いをすれば悪い結果が出ると教えられます。
因果応報といいます。
すべて自分の行いは自分に返ってきます。
自業自得といいます。業は行いの意味です。
それはこの世だけでなく、前世、前前世、ずっと昔から生まれ変わり死に変わりしてきた中の結果が今出ていると考えます。
良い行いをすれば良いところに生まれ変わり、悪い行いをすれば悪いところに生まれ変わるのです。
良い行いをしていれば天や人間に生まれ、悪い行いをしていれば地獄や餓鬼道、畜生道に生まれ変わります。
しかし、それが分かっても、私達には善悪の判断がつかないわけですからどうしようもありません。
そこで仏教では「これはやってはいけません」という教えを説きます。

その中でも最も悪い行いを五逆といいます。
それが今日のテーマです。
五逆というだけあって五つあります。
「これをやったら必ず地獄行き」という行いです。

まず父親殺し、母親殺しです。
両親がいなければ自分もいません。
ですから他人を殺すよりも罪が重いのです。
今の日本では親殺しよりも他人殺しの方が罪は重いのですが、宗教的には逆です。
大恩ある両親を殺すことは即地獄行きです。

それから悟りを開いた人を殺す、仏教教団を仲違いさせたり教団を破壊することが五逆に含まれます。
悟りをひらいた人を「阿羅漢」といいます。
阿羅漢を殺したり、仏教教団を壊すということは正しい教えが広がることを邪魔することになりますから罪が重いのです。
仏教教団が無くなってしまうと、誰も善悪の判断がつかなくなって、悪いことばかりがはびこる世の中になってしまうのです。

そしてもう一つは「仏さまから血を流させる」ことです。
今は無仏の時代と言われています。
お釈迦さまが涅槃に入られてから、五十六億七千万年後に弥勒仏という仏さまがこの世に現れて下さるまでの間、仏はいないのです。
ですから実際直接仏さまに傷を付けて血を流させるようなことはありません。
しかし、仏さまを軽んじたり、仏像を粗末にすることもこれに繋がってきますので、注意しなくてはなりません。

ここには、その五逆罪を犯して、ちょっとの反省もない人は、その罪によって無間地獄におちて、気が遠くなるほどの長い間苦しみ続けなくてはならないと書かれています。
無間地獄というのは、間がないと書くように、間無く苦しみ続けるところです。
地獄の中でも最悪の地獄です。
五逆罪を犯した者は無間地獄に堕ちて苦しみ続けるのです。
ところが、そんな者であっても、臨終の時に仏教のことをよく知る人に出会って念佛を勧められて、称えたならば救われると『観無量寿経』に説かれているのです。
五逆を行うような人は、お念仏と出会う機会がありません。
その中でお念仏と出会って「あなたは散々悪いことをしてきた。五逆の罪を犯してきた。今までそれを反省することもなかった。でもこのまま死んだらあんたは地獄行きである。地獄行き間違いなしだ。でもお念仏を称えるだけで救って下さるのだ。阿弥陀さまにお任せして南無阿弥陀仏と称える者をすべて救うと言って下さっているのだ」ということを聞いて、「ああ、私は散々悪いことをしてきたけれどもどうぞお許し下さい。こんな私をお救い下さい」と阿弥陀さまにおすがりして念仏を称えるならば救われるのです。
阿弥陀さまの本願の力だからこそ救われるのです。
自分の力ならば到底救われようがないけれども、阿弥陀さまの力だから可能なのです。
そのことが一番最後に記されています。

「まことに仏の本願の力ならでは、いかでかさること候べきと覚え候」
自業自得が基本です。
自分の力ならば地獄へ行くしかないはずの者が、阿弥陀さまの力によって初めて救われるのです。

これに関しまして注意すべきことが2点あります。
まず、「親殺しをした者でも救われるんだったらどんな悪事を働いたっていいではないか」ということではありません。
積極的に悪いことをする者はダメです。
「悪いことをしてしまった、でも阿弥陀様お救い下さい。もう二度と致しません」という思いで本気で阿弥陀さまにすがって念仏を称える者は救われるのです。
これは大きな違いです。

もう一つは、このように五逆の話しなどをしますと、最近父親殺しや母親殺しをしたり、子殺し、兄弟殺し、友人殺しなどが後を絶たないものですから、「こういう人が五逆なのだな。こういう人が地獄に行くのだな」と思いがちです。
しかし、先ほども申し上げたように、仏教では自業自得を説きますから、他人のことをとやかく言っても自分には何のプラスにもなりません。
他人のことを「あんな人地獄に堕ちて当然」と思うことは私達にとって決して良い業ではないのです。
それよりも、悪いことをする人を見て、自分はどうかと考える方が大事です。

自業自得の「業」というのは「行い」であると先ほども申しました。
「業」には、「体で行う業」と「言葉で行う業」と、「心で行う業」があります。
「身口意の三業」と申します。
体で、口で、心で一瞬一瞬に様々な業を重ねている私達です。
体では決して人殺しなどはしないけれども、口で心ではどうか。
人の死を願うようなことをしていないか。
「あんな人死んでしまったらいい」と考えることは立派な殺人なのです。
「そんなこと言ったら生きていけない」などと開き直ったところで、業は業ですから結果地獄に墜ちるのです。
このように考えると、「私が五逆だ」と考えるべきです。

この御法語も、他人事として見ていたらなんてことない、「親殺しの人でも念仏で救われる」というだけですが、その五逆は正しく私なのです。
「私のことを説いて下さっている」ととらえて初めてありがたくいただけるのではないでしょうか。

先日この話をある方にしていますと、その方が突然泣き出されました。
六十代の女性です。
その方はつい先日お母さまを亡くされて、そのお葬式から法輪寺とご縁ができ、私がお葬式に伺いました。
お参りの人数は少ないけれども来られた方みんなが大きな声でお念仏をお称え下さり、本当にありがたいお葬式でした。
お葬式が終わって、納棺の際にもお参りの方みんなが涙を流し、一人一人が故人の顔を撫でてお別れを悲しんでおられたのです。
「よっぽど良い人だったのだろう」と思いました。
その方の五七日の時に、仏教のお話をしていると突然泣き出されたのです。
私は驚いて、「どうなさったんですか?」と聞きましたところ、こんな話をして下さいました。
「母はとても良い母でした。優しい母でした。しかし晩年認知症になり、病気にもなって最後は寝たきりでした。私も六十代です。仕事もしていますし、看病するのが本当に辛かったのです。だから看病しながらも心の中では早く逝って欲しいと何度願ったことかわかりません。私が五逆です」と仰いました。
「いやいや、そんなことないですよ」と言うのは簡単ですが、そんなその場だけの慰めを言っても仕方ありません。
私は「仏教の教えに照らし合わせると、五逆に当たることでしょう。私もあなたの立場なら、同じことを考えたと思います。しかし、そんな五逆の私達を救うと仰ったのが阿弥陀さまなのですよ」と申しましたらその女性はとても喜んで下さいました。

私達は自分が五逆とはなかなか思えないけれども、縁があったら簡単に五逆の罪人になるのです。
両親が元気な時には決して「早く死んで欲しい」などとは思いませんが、この方と同じような状況になったら、同じ事を思うかもしれません。
殺人犯をみて、今その行動が理解できなくても、もしその犯人と同じような環境に生まれ育って、同じ目に遭ったならば同じように人殺しをしているかもしれません。
縁が訪れたらどんな悪い行いをするか分からないのが私達です。
この御法語は私達自身のことを説いて下さった御法語です。
そう考えると益々ありがたく受け取ることができるのです。