成道山 法輪寺

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御法語

元祖大師法然上人御法語第十八章

(原文)

現世(げんぜ)を過(す)ぐべきようは、念仏の申されん方(かた)によりて過(す)ぐべし。念仏の障(さわ)りになりぬべからんことをば厭(いと)い捨(す)つべし。一所(いっしょ)にて申(もう)されずば修行(しゅぎょう)して申すべし。修行(しゅぎょう)して申されずば一所(いっしょ)に住(じゅう)して申すべし。聖(ひじり)て申されずば在家(ぜいけ)になりて申すべし。在家(ざいけ)にて申されずば遁世(とんせ)して申すべし。一人籠(こ)もり居て申されずば同行(どうぎょう)と共行(ぐうぎょう)して申すべし。共行(ぐうぎょう)して申されずば一人籠(こ)もり居て申すべし。衣食(えじき)かなわずして申されずば他人に助けられて申すべし。他人の助けにて申されずば自力にて申すべし。妻子も従類(じゅうるい)も自身助けられて念仏申さんためなり。念仏の障(さわ)りになるべくば、ゆめゆめ持つべからず。所知所領(しょちしょりょう)も念仏の助業(じょごう)ならば大切なり。妨げにならば持つべからず。総じてこれを言わば、自身安穏(あんのん)にして念仏往生を遂(と)げんがためには、何事も皆念仏の助業(じょごう)なり。三途(さんず)に還(かえ)るべきことをする身をだにも捨(す)て難(がた)ければ、顧(かえり)み育(はぐく)むぞかし。まして往生すべき念仏申さん身をば、いかにも育みもてなすべし。念仏の助業(じょごう)ならずして、今生(こんじょう)のために身を貪求(とんぐ)するは、三悪道(さんなくどう)の業(ごう)となる。往生極楽のために身を貪求(とんぐ)するは、往生の助業(じょごう)となるなり。

 

(現代語訳)

この世の過ごし方は、念仏を称えやすいようにして過ごすべきです。念仏の妨げになることは厭い捨てるべきです。
同じ場所に留まって称えることができなければ、行脚して称えなさい。行脚して称えることができなければ、同じ場所に留まって称えなさい。出家して称えることができなければ、在家者となって称えなさい。在家者として称えることができなければ、出家して称えなさい。
一人こもって称えることができなければ、仲間と共に称えなさい。(仲間と)共に称えることができなければ、一人こもって称えなさい。生計が立たないために称えることができなければ、他人に支えられて称えなさい。他人に支えられて称えることができなければ、自活して称えなさい。
妻子も一族や家来も、自分が支えられて念仏を称えるためです。念仏の障害になるならば、決して持つべきではありません。領地も、念仏の助けとなるならば大切です。妨げになるならば、持つべきではありません。
これをまとめて言うならば、自身が平穏無事で、念仏による往生を遂げるためには、何事もすべて念仏の助けであります。
たとえ三悪道に舞い戻らねばならない悪業を犯す身であっても、捨てがたいので、心にかけて、守り養うのです。ましてや、往生が叶う念仏を称える身なのですから、ぜひとも守り養い、大切にすべきであります。
念仏の助けとすることなく、この世を楽しむために我が身を愛することは、三悪道へ墜ちる行為となります。極楽往生のために自身を愛することは、往生の助けとなるのです。

 

(解説)

法然上人にはたくさんのお弟子さんがおられましたが、
その中に禅勝房(ぜんしょうぼう)という方がおられました。

禅勝房様は元々天台宗のお坊さんで、
ながらく学問や仏道修行を積んでこられました。
しかし学問をすればするほどに、
修行をすればするほどにご自身の器が
「とても天台の教えについていけない」
と考えるようになられました。

そこで禅勝房様は今まで積んできた学問も修行も
すべて捨てて法然上人のお念仏の教えに入られました。

法然上人のお念仏の教えは
「自分自身の器をしっかり見つめ、
難しい修行や学問で救われない自分であると正面から見つめて、
自分の力ではなく阿弥陀様の力で救われていく」
という教えです。

法然上人の門下に入ってからの禅勝房様は、
ひたすらお念仏一行に打ち込まれました。
門下の中でも特に
「信心の堅い禅勝房」
と言われるようにまでなりました。

この禅勝房様が法然上人に色々と質問をされ、
法然上人が丁寧にお答えになるという問答が今に伝えられています。
このご法語はその一つです。
このご法語は法然上人がお答えになった部分のみですが、
禅勝房様のご質問は次のようなものです。

「南無阿弥陀仏と称えれば極楽浄土へ往生できるということはよくわかりました。
その上で私達は臨終の時まではどのように過ごせばよろしいでしょうか?」
それに対するお答えが本文です。

「現世を過ぐべきようは念仏の申されん方によりて過ぐべし。
念仏の障りにならんことをば厭い捨つべし」

「この世を過ごすには念仏を申しやすいようにして過ごしなさい。
念仏の邪魔になることを止めてしまいなさい」
ということです。

これは一見なんでもないようですが、
真剣に考えると非常に厳しいお言葉です。
私達は「念仏を申しやすいように」と思ってしていることが
どれほどあるでしょうか?
お仏壇をお祀りすることと、お墓参りをすること、
お寺の法要にお参りなさることぐらいではないでしょうか。

逆に「これを止めればもう少しお念仏を称えることができる」
ということはたくさんあるのではないでしょうか。
ですから、このお言葉を真剣に受け止めると
私達の生活自体を見直さなくてはならないということになります。

これは禅勝房という信心が堅いことで名高いお弟子に対して
おっしゃったお言葉ですので、特に厳しいのでしょう。
これを私達がどのように受け止めていくかを考えねばなりません。

「一所にて申されずば修行して申すべし。修行して申されずば一所に住して申すべし」

「一カ所に定住してお念仏を申すことができなければ、あちこちを旅してお念仏を申しなさい」

昔の坊さんは定住する人と旅する人がおりました。
どちらがよいというわけではないけれども、
お念仏を申しやすいかどうかという価値観で選びなさいということです。

「聖て申されずば在家になりて申すべし。在家にて申されずば遁世して申すべし。」

「坊さんになっているのにお念仏を申すことができないならば、坊さんを辞めて在家になって申しなさい。
在家であって申すことができないならば、坊さんになって申しなさい」

必ずしも坊さんになった方がお念仏を申しやすいとは限らないのです。
在家であった方が申しやすかったらそうすればいいということです。

「一人籠もり居て申されずば同行と共行して申すべし。共行して申されずば一人籠もり居て申すべし。」
「一人っきりで念仏を申すことができないならば、仲間と集まって申しなさい。
仲間と集まって申すことができないならば、一人で申しなさい。」

法輪寺では年に二度念仏会を行っています。
大抵の人にとっては一人でお念仏を申すよりも仲間と集まって申す方がやりやすいと思います。
念仏会はそのために行っています。

しかし特にお念仏を申し慣れている方の中には、一人で申す方がよいという方もおられます。
他人と一緒だと気が散る、他人のペースに惑わされるとやりにくいという方も少なからずおられます。
そういう方は一人で申せばいいのです。
一人でも仲間と一緒でも「お念仏を申しやすい方」を選びなさいということです。

「衣食かなわずして申されずば他人に助けられて申すべし。他人に助けられて申されずば自力にて申すべし。」

「生計が立てられないからお念仏どころではないと言うならば、他人に生活の援助をしてもらって申しなさい。
他人の援助を受けていると気が引けて申しにくいというのであれば、自分の力で生計を立てて申しなさい。」

「念仏念仏と言うけれど、生活もできないのに念仏どころではない!」という人がいても、「それなら人に援助してもらってでも念仏はできるぞ」ということです。

念仏はどんな場合でもできるのです。
極楽へ往生するということの大切さをしっかりと認識できれば、この世を生きるよりも大切なことだということが理解できるでしょう。
しかし厳しいですね。
次は益々厳しいです。

「妻子も従類も自身助けられて念仏申さんためなり。念仏の障りになるべくばゆめゆめ持つべからず」

「妻子も親戚も自分自身がそういう方々に助けられて念仏申してこそありがたいのですよ。もし念仏の邪魔になるのでしたら必要ないのです」

非常に厳しいですね。
結婚さえもお念仏を申しやすいかどうかという基準で決めなさいということです。
私は結婚前からこのご法語を知っていましたので、少なからず考えました。
普通に考えると結婚すると自分の時間は少なくなりますので、念仏も減ってしまうのではないかと思いました。
でも縁が深かったので結婚しました。
結婚したからにはお念仏が減ったというわけにはいきませんので、益々称えるようになりました。
結果的に私にとっては結婚した方がお念仏を申しやすかったということになります。

「総じてこれを言わば自身安穏にして念仏往生を遂げんがためには、何事もみな念仏の助業なり」

「まとめてこれを言うならば、自分自身が安らかに念仏を申して往生を遂げるためにはすべてをお念仏の助けとすべきですよ」

助業とはお念仏を申しやすいようにする行いをいいます。
例えばお経を読むこともそれだけでは大した功徳はありませんが、
お経の中にお念仏を称えれば必ず往生できるということが
しっかりと記されていますので、お経を読むとお念仏を称えやすくなります。

また、お供え物などもただ黙って供えるだけでは功徳はありません。
「阿弥陀様、ご先祖様どうぞ」という思いでお供えし、「いつか極楽へ往生したいものだ」と思いを馳せてお念仏を称えてこそ大切なこととなるのです。

私は歩いているときにも歩くリズムでお念仏を称えています。
ということは私にとりましては歩くことがお念仏の助けとなるのです。
お檀家さんの中にお念仏を称えつつ洗い物をしていますという方もおられます。
その方にとりましては洗い物がお念仏の助けとなります。
お念仏を称えつつお風呂に入るという方にとりましては
お風呂に入ることがお念仏の助けとなるのです。

「三途に還るべきことをする身をだにも捨て難ければ顧みはぐくむぞかし。
まして往生すべき念仏申さん身をば、いかにもはぐくみもてなすべし」

三途とは地獄、餓鬼、畜生の三つを言います。
三途の川と言いますが、あれは地獄、餓鬼、畜生行きの川です。

お葬式に行きますと、葬儀屋さんのアナウンスで「享年○才をもちまして極楽浄土へとお還りになりました」というのをお聞きになったことがあるかも知れません。

しかしこれは言葉としてはおかしいのです。
なぜなら、私達は極楽から来たわけではありません。
極楽から来て極楽へ還るのであれば、お念仏など必要ないではありませんか。

「お念仏がなければ極楽へなど到底行くことができない私」であるということを忘れてはなりません。
お念仏を称えて、「このたび初めてようやく極楽へ往生するチャンスを得た」私達です。

「極楽へ還るどころか三途に還るしかないようなことばかりしかしていないではないか」という法然上人のご指摘です。

「三途に還るようなことばかりをしているこんな我が身でも決して要らないわけではなく、捨てがたいものだから大事にするであろう。
ましてやこれから往生しようとお念仏を称える身であるならば、益々大事にしなさいよ」ということです。

「念仏の助業ならずして今生のために身を貪求するは三悪道の業となる。
往生極楽のために自身を貪求するは往生の助業となるなり」

「念仏の助けにもならないのにこの世を生きるためだけに自分自身を大事にするのは所詮地獄、餓鬼、畜生行きの行いを重ねているだけですよ。
でも往生極楽のために自分自身を大切にするのは往生の助けとなるのですよ。」
という内容です。

これは禅勝房様に宛てられたもので、非常に厳しいことが書かれています。
だからと言って、「こりゃ無理だ」と言ってしまうのは少し違うような気がします。

「これほどに法然上人が重ねて勧めて下さっているのに、自分はできていないなあ」ということをやはり自覚すべきだと思います。
これは私にとっては座右の言葉というべきで、
いつもこのご法語を思い出して、
「お念仏中心の生活になっていないなあ」と反省しています。
どうかみなさんも進むべき方向を示唆して下さっていると
ご理解いただきたいと思います。

実際に法然上人から直接お言葉を授かった禅勝房様は、
これを真摯に受け止めて
「自分にとっては坊さんを辞めた方がお念仏が称え易いと考えられ、
故郷の静岡に帰って大工をしながらお念仏を称えておられました。
法然上人の滅後15年ほど経った時に、法然上人の有力なお弟子の一人、
隆寛律師という方がご自身のお弟子を連れて、
静岡辺りを通られました。
そこで「この辺りに禅勝房様がおられるはずだ。
久しぶりにお会いして法然上人の思い出話などもしたいものだ。」
と思われ、訪ねて行かれました。

「この辺りに法然上人のお弟子で禅勝房という方がおられるはずなのですが…」とあちこちで尋ねても「そんな人は知らんなあ」というご返事です。
おかしいと思っていると、
「そんな偉い人は知らないが、大工の禅勝という取るに足りない者ならいるぞ。」と言うことを聞きます。
隆寛律師は念のためにその大工の禅勝さんへ手紙を書かれます。
それをご覧になった禅勝房様は喜んで隆寛律師の元へ飛んできました。
お二人は懐かしい法然上人の思い出話を堪能されました。

周りの人たちは今まで半ば馬鹿にしていた禅勝房様が
法然上人のお弟子であったことを知って驚きます。

隆寛律師は「禅勝房さん、あなたはお念仏が申しやすくなるように、坊さんを辞めて大工さんになられたのでしょう。
でも法然上人はおっしゃっていましたよ。
禅勝房さんは人々に教えを広めるべき人だと」
隆寛律師に説得され、禅勝房様は再び僧侶となられました。

隆寛律師のお弟子は別れ際に、
「禅勝房様、私にもお言葉を頂戴しとうございます。」と頼みました。
禅勝房様はしばらくお考えになり、
「お念仏が癖づくように工夫することが大切ですよ。」
とおっしゃったといいます。
正にこのご法語の内容ですね。

お念仏は「南無阿弥陀仏」と称えるだけですから、
やる気さえあれば誰でもできます。
でも続けることは非常に難しいのです。
ですから色々と工夫して癖づけるのです。
癖づけば何ということもなく称えることができるでしょう。
有り難いお示しです。