成道山 法輪寺

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御法語

元祖大師法然上人御法語 後篇 第十七章

(本文)

百萬遍のこと。仏の願(がん)にては候わねども、小阿弥陀経にもしは一日もしは二日乃至七日念仏申す人、極楽に生(しょう)ずると説かれて候えば、七日念仏申すべきにて候。その七日のほどの数は百萬遍に当たり候うよし、人師(にんじ)釈(しゃく)して候えば百萬遍は七日申すべきにて候えども、耐(た)え候わざらん人は、八日九日などにも申され候えかし。さればとて百萬遍申さざらん人の生まるまじきにては候わず。一念十念にても生まれ候うなり。一念十念にても生まれ候うほどの念仏と思い候う嬉しさに、百萬遍の功徳を重ぬるにて候うなり。

 

(現代語訳)

百万遍について。

阿弥陀仏の本願にはありませんが、『阿弥陀経』に、「もしくは一日、もしくは二日、あるいは七日まで、念仏を称える人は極楽に生まれる」と説かれていますので、七日間念仏を称えるべきです。

その七日ほども〔念仏の〕数が百万遍に相当すると、ある高僧は解釈しておられます。ですから、百万遍は七日で称えるべきですが、それが出来ない人は、八日や九日などでもお称えになって下さい。

だからといって、百万遍の念仏を称えない人は往生できない、というわけではありません。一念や十念でも生まれるのです。一念や十念でも生まれるほどの念仏だと思ううれしさに、〔おのずと〕百万遍念仏の功徳を重ねることになるのです。

 

(解説)

「百万遍念仏」という信仰があります。
中国でできた、お念仏の数量信仰です。
つまりたくさんお念仏を称えればそれだけ功徳が増す、というもので、「百万遍もの数の念仏を称えれば間違いないだろう」というわけです。
それが日本にも入ってきて広まりました。
法然上人の周りにも、実際に百万遍念仏を行う人がおられたようで、法然上人も百万遍念仏について言及なさっています。

「百万遍のこと、仏の願にては候わねども」とあります。
仏の願ではないのですね。

仏とはここではもちろん阿弥陀さまのことです。
阿弥陀さまの願は四十八ありまして、その中でも第十八願には「南無阿弥陀仏と称える者を極楽浄土に迎え取ろう」と誓って下さっています。
つまり「百万遍念仏を称えないと極楽には迎え取らない」とはおっしゃってません。
だから「仏の願にては候わねども」とおっしゃるのです。

「小阿弥陀経にもしは一日、もしは二日、乃至七日念仏申す人、極楽に生ずると説かれて候えば、七日念仏申すべきにて候」とあります。
小阿弥陀経といいますのは、いわゆる『阿弥陀経』のことです。
そこに「一日乃至七日念仏を申す人は極楽に往生する」と記されています。
もちろんお念仏というのは毎日、そして一生涯称えていくものですが、毎日お念仏を称えていますと私達には怠け心が出て参ります。
だんだん有り難味がなくなってくる、やる気が起こらなくなってくる。
そういうときに集中的にお念仏をお称えするのです。
これを「別時」といいます。
七日の別時、即ち七日間びっしりお念仏を称えた、その数が丁度百万遍に当たるというのです。
だから百万遍念仏は七日間で称えるというのが本義だけれども、七日で称えきれなければ八日、九日とかけて称えてもいいですよというのです。
実際には七日間で百万遍称えるのは難しいです。
一日に十四万遍以上称えないといけないですから相当に難しいことです。
法然上人でも一日に大体六、七万遍ですから、相当な数です。
寝てる暇も殆どないぐらいでしょう。
だから七日間で無理ならば、八日、九日と日延べしても構いませんというのです。

「しかし、百万遍称えないと往生できないのではないのですよ」とおっしゃっています。
「一遍、十遍の念仏でもちゃんと往生できますよ。一遍、十遍の念仏でも往生できる、その嬉しさに思わず百万遍という数が積もり、その功徳も重なっていくのですよ」とおっしゃるのです。
中国から百万遍という、「数」のみが伝わってきましたので「百万遍念仏しないと往生できない」と思う人が多かっのでしょう。
そこで法然上人は「違いますよ。一遍、十遍の念仏でもちゃんと往生できますよ」とお説きくださいました。

しかし根拠がないからといって百万遍念仏を否定するようなこともなさいません。
昔の人が「たった一遍、十遍のお念仏でさえも往生させていただける。何と有り難いことだ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、その信仰の結果百万遍という数になったのですから、それはそれで真似をしたらいいのですよ、と考えておられたようです。