成道山 法輪寺

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御法語

後篇第十四章 四修

(本文)

問う。信心のようは承りぬ。行(ぎょう)の次第、いかが候うべき。

答う。四修(ししゅ)をこそ、本(ほん)とすることにて候え。一つには長時修(じょうじしゅ)、乃至四つには無余修(むよしゅ)なり。一つには長時修というは、善導(ぜんどう)は命の終わるを期(ご)として誓って中止せざれという。二つに恭敬修(くぎょうしゅ)というは、極楽の仏法僧宝(ぶっぽうそうぼう)において、常に憶念(おくねん)して尊重(そんじゅう)をなすなり。三つに無間修(むけんじゅ)というは、要決に曰く常に念仏して往生の心をなせ。一切の時において心に常に思い、たくむべし。四つに無余修というは、要決にいわく、専ら極楽を求めて弥陀を礼念するなり。ただ諸余(しょよ)の行業(ぎょうごう)を雑起(ぞうき)せざれ。所作(しょささ)の業(ごう)は日別に念仏すべし。

 

(現代語訳)

問い。

信心のありようはお伺いいたしました。行のはこびはどのようであるべきでしょうか。

答え。

四修を基本とするのです。第一の長時修から、第四の無余修までです。

第一の長時修というのは、善導大師は「命が終わる時までを期限とし、誓って中止しないように」とおっしゃいました。

第二に恭敬修というのは、極楽の仏・法・僧の三宝を常に心にかけ、尊び重んじるのです。

第三に無間修というのは、『西方要決』によれば、「常に念仏して、往生したいという思いを抱け。どんなときでも〔それを〕心にいつも思い定めよ」とあります。

第四に無余修というのは、『西方要決』によれば、「ただひたすら極楽を求めて阿弥陀仏を礼拝し、心にかけるのである。他の様々な修行を交えてはならない。なすべき勤めとしては、日々に念仏することである」とあります。

(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊)

 

(解説)

「お念仏を称えましょう」「とにかくお念仏を称えましょう」と言いますが、何でもかんでも称えればそれでいい、というわけではありません。
「100円あげるから称えてごらん」と子どもに言い、「じゃあ南無阿弥陀仏」と称えてそれで往生できますよ、というわけではもちろんありません。
やはり心、すなわち「信心」が必要です。
お念仏を称える者の信心とは、「極楽へ往生したい」と願い、「必ず阿弥陀様が救ってくださる」と深く信じるということです。
この信心なしにただ南無阿弥陀仏と称えているだけでは極楽往生はできません。
いや、この心なしで南無阿弥陀仏と称えること自体が矛盾していますので、称えることはできないでしょう。

このご法語は問答形式になっています。
お弟子さんが法然上人に質問をし、それに法然上人がお答えになってるものです。
恐らくこの問答の前に、信心に関する問答があったのでしょう。

「問う。信心の様は承りぬ。行の次第、いかが候うべき」
「質問します。信心のことはよくわかりました。極楽往生を願って阿弥陀様を深く信じるのですね。では、行としてのお念仏は具体的にどのように称えていけばよろしいのでしょうか?」という質問です。

「答う。四修をこそ本とすることにて候え。一つには長時修、乃至四つには無余修なり」「答えましょう。四修が基本ですよ。第一の長時修から第四の無余修までです」

「一つに長時修というは、善導は命の終わるを期として誓って中止せざれという」
「一つ目の長時修というのは、善導大師がおっしゃるには死ぬまで続けるということです。

お念仏のみ教えを知って、「そうか、有り難いな。では称えましょう」と言って千遍お念仏を称えたとします。
「これだけ称えたからもう大丈夫。一生分称えました」というようなものではありません。
お念仏のみ教えと出会ったその時から命終わるまで、ずっと称え続けるのです。
40歳でお念仏と出会った人が80歳まで生きるとしたら40年間、60歳で出会ったら20年間、70歳なら10年間称えることができます。
さらには臨終間際でお念仏と出会ってたった10遍しか称えることができなかくてもいいのです。
お念仏との出会いから死ぬときまでです。
たとえ途中で一旦称えることができなくなったとしても、また再開した時から死ぬときまで称えればよいのです。
これが長時修です。

「二つに恭敬修というは、極楽の佛・法・僧宝において、常に臆念して尊重をなすなり」
「二つ目の恭敬修は、極楽の佛・法・僧に常に思いを寄せ、大切にすることです」

恭敬修は、恭しく敬うと書きますように、敬って大切にすることをいいます。
何を大切にするのかというと、極楽の佛・法・僧です。
佛・法・僧を三宝といいます。
お釈迦様の時代から、佛教徒になりたいという人がお釈迦様の元にやってきたら、まず「佛・法・僧を敬いますか?」「はい、敬います」というところから入りました。
佛教徒の基本です。
佛はお釈迦様、法はお釈迦様が説かれた八万四千のみ教え、僧は佛教教団を構成する人々です。
佛教のみ教えを信じる者同士がお互いに敬い合うということです。
いつもお勤めの最初に香偈を称えた後、三宝礼というものを称えますね。
三宝礼はこの「佛・法・僧の三宝を私は敬います」ということを言葉と身体で表現したものです。
このご法語では「極楽の佛・法・僧宝」とあります。
極楽の佛は阿弥陀様です。
極楽の法は極楽へ往生するための法ですから、お念仏のみ教え。極楽の僧は極楽におられる菩薩様です。
観音菩薩、勢至菩薩をはじめ、多くの菩薩様がおられます。
菩薩様の中にはみなさんのご先祖様、みなさんの大切なあの方もこの方もおられます。
極楽へ往生した方は、みんな仏様になるために楽しく修行に励まれます。
仏様になるために修行する方を菩薩といいます。
ですから極楽の僧にはお仏壇にお祀りしているお位牌のあの方も含まれます。
その極楽の佛である阿弥陀様に思いを寄せ、お念仏に思いを寄せ、極楽におられる方々に思いを寄せるのです。
「極楽はよいところなんだろうなあ。阿弥陀様がおられてみんな仲良く過ごしておられるんだろうなあ。あの人も極楽で幸せに過ごしているんだろうなあ。また会いたいなあ。お念仏を称えていたらいつか極楽で会えるなあ」と思いを寄せ、そして敬うのです。
身近なところで言いますと、お仏壇を大切にする、仏具を大切にするということも大事です。
仏様を敬う方がお仏壇や仏具を粗末に扱うということはあり得ません。
法が記されたお経の本も大切にしなければなりません。
あるお檀家さんは、夏場蚊が飛んできて、思わずお経の本で「パチン」と殺してしまわれました。
さすがに私も「それはいかんでしょう」と注意しました。
「すみません。」と反省されましたが、これはいけません。
また、法事の際に私はお経の本を施主さんにお渡しして、「みなさんに配ってください」と言います。
ときどき乱暴な方もにます。
「いくで。ホイッ、ホイッ」と畳の上を滑らせるようにお経の本を投げる方がおられます。今まで何人もおられました。
子どもではありませんので、叱るわけにもいかず、いつも心で嘆いています。
お経の本は雑誌ではありません。
私たちの命の行き先と善きところへ行く方法が説かれた大切な大切なものです。
注意しなくてはなりません。

僧はお仏壇のお位牌です。
仏様同様お水やご飯をお供えし、旅先でおみやげを買ってはお供えし、その方が目の前におられるかの如く話しかけるのです。
その方が最も喜ばれるお念仏を称えるのです。
これが恭敬修です。

「三つに無間修というは、要訣に曰く、常に念仏して往生の心をなせ。一切の時に於いて、心に常に思い巧むべし」
「第三の無間修とは、『西方要訣』によれば、常に念仏して往生したいという思いを抱きなさい、どんなときもそれを心に思い定めなさい、とあります。」

無間修は、お念仏を忘れないように続けることです。
「ゴルフを続けていますか?」と尋ねると、「続けていますよ」と答える。
ゴルフを続けている方も24時間ずっとゴルフをしているわけではありません。
たとえ月に一度でも「続けていますよ。」と答えるはずです。
やめてしまわずに定期的に続けているわけです。
「今日は七回忌ですな。お念仏を称えるのは三回忌以来ですわ」というのは続けているのではないですね。
七回忌まですっかり忘れていたわけですから。
お念仏の場合は月一度を続けているとは言い難いでしょう。
「月参りの時に毎回称えています」という方は、私が月参りに伺わなくなったらやめてしまいますね。
月参りに行った時に想い出して称えているにすぎません。
やはりお念仏は最低毎日称えるべきでしょう。
毎日一遍でもいいのかというと、一遍でも構いません。
しかし数が多ければ多いほど続きやすいと言えます。
お念仏を続けるために最も効果的なのは、数を定めることです。
一日に100遍、300遍と数を定めて称えていきますと、癖付きます。
歯を磨くことは習慣付いていなければ相当な手間なはずです。
洗面所まで行って3分、5分と毎日朝夕磨かなくてはならないのですから。
でも習慣付くと磨かないと気持ち悪くて仕方ないでしょう。
お念仏も習慣付くと、毎日の定めた数を称えていないと気持ち悪くなります。
そうなるとしめたものです。有り難いことにお念仏はお仏壇の前だけでなく、どこでも称えることができますから、忙しくてもできるのです。
私はいつも「歩きながらでもできますし、お風呂に入っていてもできますし、洗い物をしていてもできますし、車を運転していてもできますよ。」と申します。
有る方が、「お風呂に入ってやってみたけど難しい」とおっしゃるので、「なぜ難しいのですか?お湯に浸かっている間に称えればいいではないですか。」と言いますと、「私は浴槽で腹ばいになって体操しているんです。体操しながらお念仏は難しいです。」とおっしゃいました。大きな身体のその方が腹ばいになるほどの浴槽ですから、相当大きいのでしょう。その方にはお風呂の中でなく、違う方法を色々試すことをお勧めしました。自分の生活の中で、やりやすい方法をお試しください。
そうやってお念仏が身につきますと、心を極楽へ向けやすくなります。今まで法事の時ぐらいしか向かなかった心が日々向くようになります。
お念仏と信心は凧とたこ糸の関係に似ています。凧が信心、凧糸がお念仏とします。凧は遠く離れることもありますし、風に揺られてフラフラすることもあります。信心は深まるときもあれば、薄らぐこともあるでしょう。でも凧糸をしっかり持っていれば、またちゃんと凧は風に乗ります。お念仏を称え続けていれば、信心はふらついても無くなりません。また取り戻すことができます。
お念仏が無くてはならないと感じるようになることでしょう。

「四つに無余修というは、要訣に曰く、専ら極楽を求めて弥陀を礼念するなり。ただ諸余の行業を雑起せざれ。所作の業は日別に念仏すべし。」
「第四の無余修というのは、『西方要訣』によれば、ただひたすら極楽を求めて阿弥陀様に礼拝し、思いを寄せるのである、他の修行を交えてはならない、毎日の行は念仏を称えることである、とあります。」

無余修は「私の信仰は阿弥陀様一筋。求めるのは極楽への往生一筋。行はお念仏一筋。」ということです。
他にも多くの宗教や宗派があります。どれもぞんざいに扱う必要はありません。どれも尊いと思っておればよいのです。しかし、自分の信仰としてあっちもこっちもとフラフラしているとどっちつかずの信仰になり、結局臨終の時に迷います。自分のピンチの時に役に立たない信仰しか育ちません。
どの教えも尊いけれども、私の信仰は阿弥陀様であり、求めるところは極楽浄土、行はお念仏、と定めることが必要です。
もちろん知り合いの結婚式のために教会へ行っても結構です。賛美歌を歌いましょうと言われれば歌えばいい。初詣に家族で神社に行くことも結構です。柏手を打てばいい。でも自分が信じる道、求める道、行ずる道は一本である、と明確に定めておく。
これが無余修です。

この四修の説明をある94歳のおばあちゃんに言いましたら、「こんな言葉は知らんかったけど、こんなん当たり前ですやん」とおっしゃり、感動しました。
これは念仏を日々称えてお念仏を生きる糧にしている人からすれば当たり前のことです。何の苦労もいりません。
しかし、まだ信心もない人に言うと「難しいなあ」となることでしょう。
「信心の様は承りぬ」という方に説かれたものだというのはそういうことなのでしょう。
しかし苦から逃れたい人、往生を目指す人には必要不可欠の大切だということは間違いありません。