後篇第十六章 念珠
(本文)
問う。念仏せんには必ず念珠(ねんじゅ)を持たずとも苦しかるまじく候うか。
答う。必ず念珠を持つべきなり。世間の唄(うた)を唄い、舞(まい)を舞うすらその拍子(ひょうし)に従うなり。念珠を博士(はかせ)にて舌と手とを動かすなり。ただし無明(むみょう)を断ぜざらんものは妄念(もうねん)起こるべし。世間の客と主(あるじ)とのごとし。念珠を手にとる時は妄念の数をとらんとは約束せず。念仏の数とらんとて、念仏の主をすえつる上は、念仏は主、妄念は客なり。さればとて、心の妄念を許されたるは過分(かぶん)の恩なり。それにあまさえ口に様々の雑言(ぞうごん)をして念珠を繰りこしなどすること、由々(ゆゆ)しき僻事(ひがごと)なり。
(現代語訳)
問い。念仏するには必ずしも数珠を持たなくても、差しつかえないでしょうか。
答え。必ず数珠を持つべきです。世間で、歌を歌い、舞を舞う時でさえその拍子に従います。〔まして念仏するには〕数珠をたよりにして舌と手とを動かす〔べきな〕のです。
ただし、無知の煩悩を断っていたい者には、迷いの心が起こるに違いありません。〔迷いの心と念仏との関係は、〕世間でいう客人と主人の関係のようなものです。数珠を繰るときは、「迷いの心の数を数えよう」と誓いはしません。「念仏の数を数えよう」と念仏を主人と決めた以上は、念仏が主人であり、迷いの心は客人に過ぎません。
とはいえ、心の迷いを許されていることは〔阿弥陀仏からの〕過分の恩であります。それなのに、あろうことか様々な悪口を言いながら数珠を繰るなどは大変な過ちであります。
『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊
(解説)
今回の御法語は問答形式になっておりまして、どなたかが法然上人にお尋ねになり、それに法然上人がお答えになるという形です。
質問の内容は、「お念仏を称えるのに、必ずしも数珠を持たなくてもよろしいですか」ということです。
教義的には、阿弥陀さまは「南無阿弥陀仏と称える者を極楽に迎え取る」と言って下さったわけであって、別に「数珠を持って念仏を称える者を」と限定されてはいないですから、「必ずしも数珠は持たなくてもいいですよ」となるはずです。
ところが法然上人のお答えはそうではありません。
「必ず念珠を持つべきなり」つまり「必ず数珠を持たないといけない」とおっしゃるのです。
このお答えを、どうしてかなあと思って考えました。
数珠というのは、お念仏を数える道具です。
「南無阿弥陀仏」と一遍称える毎に、一つ数珠の珠をを繰っていきます。
「必ず念珠を持つべきなり。世間の唄を唄い、舞を舞うすらその拍子にしたごうなり。念珠をはかせにて舌と手とを動かすなり」
「必ず念珠を持つべきですよ。世間の唄を唄ったり、舞を舞うのでもその拍子というものがあるんだ。数珠を博士にして…」
博士というのは邦楽の音符のことです。
「舌と手とを動かすなり」。
お念仏を称えて数珠を繰ってリズムをとるのです。
リズムをとってお念仏を称えますと称えやすくなるのです。
「但し無明を断ぜざらん者は妄念起こるべし。世間の客と主とのごとし」
但しお念仏を称えていても、悟りを開いていない人(私達のことですね)には、余計なことが次から次に浮かんできます。
お念仏に集中しようにも、「ああお腹減ってきたなあ。今日の晩ご飯何にしよう。そういえば、親戚の聡子ちゃんどうしてるんやろ。あの子頭よかったなあ。息子さんもいい大学行ったって言うてたわ。お医者さんになるって。そうや、明日病院行く日や。忘れてたわ」などというように。
心ここにあらずです。
法然上人は「世間の客と主とのごとし」だとおっしゃるのですが、ちょっと意味がわかりにくいと思います。
読み進めると分かってきますので、そのまま進みます。
「数珠を手に取るときは妄念の数を数えているんじゃないんだ。お念仏を数えているんだ。ということは、数珠を繰っている時は念仏が主、妄念が客なんだ」ということなのです。
「しかし、心の妄念をお許し下さっているのは身に余るご恩なんですよ」
これについてエピソードがあります。
ある時法然上人の元に明遍僧都という方が訪ねて来られました。
明遍僧都は非常に有名な高野山の修行者です。
その明遍僧都が戸を開けるや否や、「法然上人に聞きたいことがあります。私はお念仏を一所懸命称えておるけれども、どうしても心が散り乱れる。これでは往生できませんか?」という質問であります。
明遍僧都ほどの修行者であっても心が散り乱れるというのです。
法然上人は「いやいや。妄念が起こるのは誰にでもあることです。私達には目や耳や鼻がある。それと同じように妄念も生まれもって備わっているんですよ。妄念を無くせということは、目や耳や鼻を取れと言われているようなもので、私達には相当に難しいことですよ。しかし、阿弥陀さまは極楽への往生を願い、念仏を称える者は目や耳や鼻が付いた、そのまますくい取って下さいます。だから妄念があるなら妄念があるまま、阿弥陀さまはお救い下さるのです。何も心配はいりませんよ」とお答えになったのです。
明遍僧都は「そうですか!これで安心しました!」と喜んで帰られたとお伝記には記されています。
この逸話で妄念については語り尽くしたと思います。
本当に身に余るご恩ですね。
ただし、最後に少し釘を刺されています。
「身に余るご恩をいただいておきながら、その上口にいらんことをベラベラ喋って、形だけ信仰深そうに数珠を繰っているようではいけませんよ」とおっしゃっています。
我々は「妄念があっても救ってもらえる」と言われると、何をしてもOKだと勘違いしてしまいます。
大事なことは、何はともあれ往生を願って阿弥陀さまにお任せしてお念仏をお称えすることです。
そうする者は、妄念があっても救う、と言って下さっているのです。
それに甘えて、「もう救われた」と思って念仏も称えずに、形だけ信仰深そうに数珠を繰って、ベラベラ余計なことばかりしゃべっていたらいけませんよ、ということなのです。当たり前のことですが、やりそうですよね。
法然上人は私たちのことをよく分かって下さってるのです。
つまりは、「念仏を中心にしていきなさいよ」ということです。
数珠を持つ時は、お念仏を数える時です。
ですから数珠を持つ時は、お念仏が中心です。
「数珠なんて別に持たなくてもいい」と言いますと、結局お念仏も称えないようになりがちです。
しっかりと数珠を持ってお念仏を称え、その数を数えて、またそれを励みにしてお念仏を称えていくことは大切です。