後篇第十八章 深信因果
(本文)
十重(じゅうじゅう)を持(たも)ちて十念を称えよ。四十八軽(きょう)を守りて四十八願を頼むは心に深く冀(こいねご)う所なり。おおよそいずれの行(ぎょう)を専(もは)らにすとも、心に戒行(かいぎょう)を持(たも)ちて浮嚢(ふのう)を守るが如くにし、身(み)の威儀に油鉢(ゆはつ)を傾(かたぶ)けずば行(ぎょう)として成就せずということなし。願として円満せずということなし。しかるを我ら或いは四重を犯し、或いは十悪を行ず。彼も犯しこれも行ず。一人(いちにん)として真(まこと)の戒行を具(ぐ)したる者はなし。諸悪莫作(しょあくまくさ)、諸善奉行(しょぜんぶぎょう)は三世(さんぜ)の諸仏の通戒なり。善を修(しゅ)する者は善趣(ぜんしゅ)の報を得(え)、悪を行(ぎょう)ずる者は悪道の果を感ずという、この因果(いんが)の道理を聞けども聞かざるがごとし。初めていうに能(あた)わず。然(しか)れども分(ぶん)に順(したが)いて悪業(あくごう)を留(とど)めよ。縁に触れて念仏を行じ往生を期(ご)すべし。
(現代語訳)
十重禁戒を保って十念を称えなさい。四十八軽戒を守って、四十八願を頼みとすることは、心に深く願うところです。
およそどのような修行に専心するにしても、心に戒の行を保つには、〔水の中で〕浮き袋を手放さないかのようにし、身の振る舞い〔を正す〕には、油で満ちた鉢を傾けないほどの注意を払うようにします。
そうすれば、いかなる行も成就しないことはなく、いかなる願も叶わないことはありません。
けれども我々は、あるときには四重罪を犯し、またあるときには十悪を行います。あれも犯し、これも行います。誰一人、真に戒の行を保つ者はありません。
「諸の悪を作すこと莫れ、諸の善を奉行せよ」とは、過去・現在・未来の三世のすべての仏が共通してお教えになる戒であります。「善を修める者は善趣の報いを得、悪を犯す者は悪道の果を受ける」という、この因果の道理を聞いても、まるで聞いていないかのようであります。それは改めて言うまでもないことです。
けれども、出来る範囲で悪業をとどめなさい。折りにふれて、念仏を修め、往生を願いなさい。
(解説)
仏教には「戒」というものがあります。
「仏教徒としての習慣」という意味です。
その戒をお授けした方につくお名前が戒名です。
法輪寺では20年に一回「授戒会」という、戒をお授けする作法を行っています。
そのように、本来生きている間に授戒会を受けて、戒名をいただいておくべきです。
キリスト教では洗礼を受けると、クリスチャンネームというものがつきます。
それと同じように、仏教徒としてのお名前を「戒名」と呼ぶのです。
しかし、生前に授戒会を受けることができない人がほとんどでしょう。
ですから枕経の時に、授戒をごく簡略にした作法を行って、お戒名をお授けしているのが現状です。
戒の基本的なものはお釈迦さまが定めてくださいました。
お釈迦さまはお坊さん用の戒と、一般の方用の戒に分けられました。
お坊さん用の戒はたくさんあるのですが、一般の方用の戒は5つだけ定められました。
五戒といいいます。
一つ目は、自分が生きるため以外の殺生を避け、むしろあらゆる生き物を慈しみ大切にしなさい、といいます。
二つ目、人の物を盗まず、むしろあらゆる物を自分の物と同様に大切にしましょう。
三つ目、嘘をつくことをやめ、むしろ誠実に生きていきましょう。
四つ目、夫婦間以外の淫らな行為、不倫などはやめ、むしろ男女互いに敬い大事にしましょう。
そして五つ目、自分を見失うほどにお酒を飲んではいけませんよ。という5つです。
戒というものには色々あり、宗派によって異なります。
浄土宗では法然上人が天台宗、比叡山で授戒を受けておられますので、戒に関しては天台宗と全く同じ戒を受け継いでいます。
そして、一般の方にもお坊さんと同じ戒をお授けしています。
浄土宗の戒は十重四十八軽戒といいます。
一行目の頭に「十重」とあります。
そして一行目の真ん中に「四十八軽」とあります。
「十重四十八軽戒」です。
つまり、十の重い戒と、四十八の軽い戒があるわけです。
浄土宗の教えは「極楽浄土への往生を願って南無阿弥陀仏と称える者は阿弥陀さまのお導きによって極楽浄土へ迎え取っていただける」という教えです。
ですから極悪人でも往生することができる、と説かれます。
ただ、誰でも彼でも往生できるわけではもちろんありません。
「私は今まで繰り返し悪いことをしてきた。本当ならば地獄に行っても仕方ない。でも阿弥陀さまはこんな私でもお救い下さるという。阿弥陀さま、どうかお助け下さい」と心からお念仏をお称えする人は往生できると説きます。
それを自分の都合のよいように、誤解をする人がでてきました。
「いくら悪いことをしてもいいんだ。最後に南無阿弥陀仏って称えればいいんだから」という人が出てきました。
更には「戒を守って念仏を称えるのは阿弥陀さまの力を信じていない証拠だ。阿弥陀さまはどんな者でもお救い下さるのだから、積極的に悪いことをしたったらいいのだ。それが阿弥陀さまを信じているということだ」という人まででてきました。
そうすると当然他の宗派の人たちから非難を受けることになります。そしてその矛先は法然上人に向いていきます。
そこで法然上人は「浄土宗の教えはそういうものではありませんよ。これが正しい浄土宗の教えなんですよ」と比叡山にお手紙を出されます。
それを「登山状」といいまして、その一部が今回ご紹介する、御法語後編第十八章なのです。
一つ一つの語句が難しいので、内容をかいつまんで申し上げることに致します。
「まず仏教には戒というものがあり、浄土宗も決して例外ではないのだ。できるならば、戒を守り通してお念仏を称えるにこしたことはない。戒をしっかり守って正しく修行すれば、どんな行でもどんな願でも成就するのだ。しかし私達は戒をしっかりと守りきれない存在ではありませんか」というのです。
仏教では「体の行い」「口の行い」「心の行い」の三つを同じようにみます。
つまり、ナイフを持って人を殺すことと、「お前なんか死んでしまえ」と口で言うこと、それから心の中で「あんな人死んでしまえばいい」と思うことは同じ「殺生」という行為なのです。
私達は「心で思うだけなら罪がない」と思いますがそうではありません。
そういう厳密な意味で戒を守ることは非常に難しいんです。
法然上人も一生涯戒を守り、周りの人たちからは「法然上人はきっちり戒を守る方だ」と尊敬されていました。
しかしご本人はご自分の心の中をジッとご覧になって、「とても戒を守りきれない」と自覚なさってたのです。
「お釈迦さまの時代にはすぐれた指導者がおられたから、しっかり戒を守る人も多くいた。しかし、今の時代(つまり鎌倉時代)に本当の意味で戒を守れる人なんているのか、誰もいないじゃないか。しかし仏教ではそもそも、悪い行いをやめましょう、善い行いをしましょう。それが仏教なんだ、と昔から言われている。それがすべての仏さまに共通する教えである。善い行いをする人は善いところに生まれ、悪い行いをする人は命が尽きたら悪いところに生まれる。こういう因果の道理は誰もが知っているが、実際にできなければ意味がないではないか。善い行いをしようにもできない、悪い行いしかできなければどうしようもないではないか。しかし自分の分相応に悪い行いをやめていきましょう。そして縁に触れてお念仏を称えていきましょうよ。」とおっしゃるのです。
つまり、「どうせ戒なんて守れない。善い行いなんてできないのだから、戒なんて無視すればいい」というのではないのです。
「私は戒なんて守れない」、でも自分の分相応に守ろうとするのです。
守ろうとしても実際には守りきれないかもしれません。
そこで「普通なら戒の一つも守れない、救われようのない私を阿弥陀さまはお救い下さる。どうぞお救い下さい、南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏にすがればよいのです。
「いくら悪いことをしてもいい」というのと、「したくはないけれども悪いことをしてしまう」というのでは大きく違うのです。
ただ、「いくら悪いことしてもいい」というのは行き過ぎです。
私たちはそういう人がいたら、「それは救われないよ」と思ってしまいます。
しかしよく考えてみると、これは現在の我々がやっていることではないでしょうか。
「ウチの宗派は念仏を称えておけばいいらしい。だから楽なんですよ。何してもいいんです。念仏を称えるだけだから」などと言っているのはこれと同じです。
戒なんて無視してしまっています。
私なども妻帯していますし、肉も魚も食べます。お酒も多少飲みます。それでも念仏で救われることが当たり前だと思っていたならば、この人たちと同じです。
本当は守らなければならない戒であるが、世間や周りのこと、そして誘惑に勝てずに悪い行いをしてしまう。
でも阿弥陀さまがお救い下さるのだ」とその有り難さを再確認すべきです。
この御法語を改めてじっくり読んでゾッとしました。
「これは私に説かれた教えだ」と。