成道山 法輪寺

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御法語

後篇第五章 無上功徳

(本文)

善根(ぜんごん)なければ、この念仏を修(しゅ)して無上の功徳を得んとす。余(よ)の善根(ぜんごん)多くば、喩(たと)え念仏せずとも頼む方(かた)もあるべし。しかれば善導(ぜんどう)は、我が身をば善根(ぜんごん)薄少(はくしょう)なりと信じて、本願を頼み、念仏せよと勧め給えり。経(きょう)に一(ひと)たび名号(みょうごう)を称(とな)うるに、大利(だいり)を得(う)とす。又すなわち無上の功徳を得(う)と説けり。いかに況(いわん)や念々相続せんをや。しかれば善根(ぜんごん)なければとて、念仏往生を疑(うたご)うべからず。

 

(現代語訳)

善い行いを積んでいないので、念仏を修めて、この上ない功徳を得ようとするのです。念仏以外の善い行いを多く積んでいるなら、たとえ念仏を称えなくても頼る手立てもあるでしょう。

ですから善導大師は「自分は善い行いをごくわずかしか積んでいないと信じて、本願を頼みとし、念仏しなさい」とお勧めになりました。『無量寿経』に「一たび名号を称えると、大利益を得る。つまり、この上ない功徳を手に入れる」と説かれています。まして念仏を絶えず続けるならばなおさらです。ですから、善い行いを積んでいないからといって、念仏による往生を疑ってはなりません。(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊)

 

(解説)

昔中国に白居易(はくきょい)という詩人がいました。白楽天(はくらくてん)とも呼ばれています。
当時中国には、儒教、道教などの宗教があって、白居易はそれらは知っているけれど、仏教のことは余り知らない。
そうだ、有名な道林禅師という方に尋ねてみよう、と思いつかれました。
道林禅師も少し変わった方で、木の上で修行しておられたといいます。
白居易は、木の上の道林禅師に対して、「道林禅師でいらっしゃいますか?私は白居易と申します。私に仏教の教えを説いていただきたいと思いまして、こうして伺いました。お示しください」と言いました。
道林禅師は、「そうか。では説こう。悪いことはするな。善いことをせよ。そして我が心を清くするのだ。それが仏教であるぞ」と説かれました。
すると木の下の白居易は笑います。
「なんだ、仏教っていうのはそんな程度の教えなのか。悪いことをするな、善いことをせよか。そんなことは三つの子でも知っていることではないか」と馬鹿にします。
それを聞いた道林禅師も笑います。「その通り。三歳の子どもでも知っていることであるぞ。悪いことをするな、善いことをせよとは、三歳の子でも知っているけれども、人生経験を積んだ八十のおじいさんでも実行はできないではないか。誰もが知っていることでありながら、誰もできていないのだよ。だからそのために修行をしなくちゃいけないんだ」とおっしゃったのです。

災害が起こった時、どれだけ「気の毒に」と同情しようとも私たちのする義援金は、自分の生活がある上でのことです。
普段とさして変わらない贅沢をし、その上でそう生活に影響を及ぼさない程度の義援金しかできないのではないでしょうか。
家も家財道具も財産もすべて失った方に、自分の生活レベルを下げてまでは中々できません。
所詮自分中心の私たちです。
ですから善いことをしようにも大した善いこともできないのが現実の私の姿です。

善いことをせよという仏教の教えであるけれども、私たちがする程度の善いことでは話にならないのです。
ただ、お念仏の教えだけは違います。

阿弥陀さまは私たちが善いことの一つもできないことは重々承知なさっています。
だからこそ阿弥陀さまご自身のお名前に功徳すべてを収め込んでくださって、「我が名を呼べよ、それだけでよいぞ、我が名を呼べば私が救うぞ」と願ってくださっているのです。
善いことだけができるのであれば、お念仏も必要ありません。
お念仏がなければ救われようがないからこそ、阿弥陀さまはお念仏をご用意くださったのです。

さて本文に入ります。
「善根なければ此の念仏を修して無上の功徳を得んとす」
「善いことをしてこなかったのであるから、念仏を称えてこの上ない功徳を得ようとするのです」

「余の善根多くば、たとい念仏せずとも、頼む方もあるべし」
「念仏以外の善い行いをもし多く積んでいるのであれば、念仏しなくとも頼る手もあるでしょう。でもそうではないでしょう?」

「然れば善導は、我が身をば善根薄少なりと信じて本願を頼み、念仏せよ、と勧め給えり。」
だから善導大師は「自分は善い行いを殆ど積んでいないのだと信じて、本願を頼りにして念仏しなさい、と勧めてくださっています」

「経に一度名号を称うるに、大利を得とす。またすなわち無上の功徳を得と説けり」
「無量寿経に一度念仏を称えれば、大きな利益を得ることができる。つまり、この上のない功徳を手に入れる、と説かれています」

「いかに況んや念々相続せんをや」
「ましてや念仏を絶えず続けるならば尚更のことです」

「然れば善根なければとて、念仏往生を疑うべからず」
「ですから、善い行いを積んでいないからといって、私などは念仏を称えても救われない、などと救いを疑ってはなりません」

まずは自分が善い行いなどできないのだ、ということを明らかに自覚せねばなりません。そうでないと、自分の力を頼ってしまい、阿弥陀さまの救いを頼もうとしないでしょう。
阿弥陀さまの救いがなければ救われないのに阿弥陀さまにすがらなければ救われようがありません。
まずは自分の立場、置かれている位置をしっかり確認して、「阿弥陀さまの力でないと到底救われない私」が阿弥陀さまの力で救われていくことを信じるのです。
ただ、自分の力のなさを知るが余りに、勝手に卑下して、「いくら阿弥陀さまでもよもやわたしは救われまい」などと思う人がおられるかもしれません。
しかしそうではありません。
私に力はなくとも、阿弥陀さまに無量のお力があるのです。
何ともかたじけなくもありがたいみ教えなのです。