後篇第二十章 行者存念
(本文)
ある時には世間の無常なることを思いてこの世のいくほどなきことを知れ。ある時には仏の本願を思いて必ず迎え給(たま)えと申せ。ある時には人身(にんじん)の受け難き理(ことわり)を思いてこの度空しく止(や)まんことを悲しめ。六道(ろくどう)を巡るに人身(にんじん)を得(う)ることは梵天(ぼんてん)より糸を下(くだ)して大海の底なる針の穴を通さんが如しといえり。ある時は遇い難き仏法に遇えり。この度出離(しゅっり)の業(ごう)を植えずば何時(いつ)をか期(ご)すべきと思うべきなり。一度悪道に堕(だ)しぬれば阿僧祇劫(あそうぎこう)をふれども三宝(さんぼう)の御名(みな)を聞かず。いかにいわんや深く信ずることを得んや。ある時には我が身の宿善を悦ぶべし。かしこきも卑しきも人多しと雖(いえど)も仏法を信じ浄土を願う者は稀(まれ)なり。信ずるまでこそ難からめ、謗(そし)り憎みて悪道の因をのみ造る、然(しか)るにこれを信じこれを貴(たと)びて仏を頼み往生を志すこれ偏(ひとえ)に宿善のしからしむるなり。ただ今生(こんじょう)の励みにあらず、往生すべき期(とき)のいたれるなりと頼もしく悦ぶべし。かようのことを折(おり)に順(したが)いことによりて思うべきなり。
(現代語訳)
ある時には、世間が無常であることを思って、この人生がさほど長くないことをわきまえなさい。
またある時には、阿弥陀仏の本願を思って、「必ず極楽へお迎えください」と口に出しなさい。
ある時には、人間としては生まれ難いという道理を思い、この人生がその甲斐もなく終わるかもしれないことを悲しみなさい。「六道を輪廻する中で、人の身を得ることは、梵天から糸を垂らして、大海の底に沈む針の穴を通すようなものだ」と言われています。
またある時には、「遇い難い仏教に遇うことができた。この生涯で輪廻を逃れるための修行を積まなければ、いつの日に期待できようか」と思うべきです。ひとたび悪道に墜ちてしまえば、阿僧祇劫という長い年月を経ても、仏・法・僧という三宝の名さえ聞くこともありません。ましてそれを深く信じることなどできましょうか。
ある時には、自分が前世で積んだ善業を喜びなさい。身分の高い人もそうでない人も多くいますが、仏の教えを信じて浄土を願う者はまれであります。信じることまでは難しいにしても、〔多くの人々は〕謗り憎んで悪道に墜ちる原因ばかり造っています。ところが〔あなたは〕、この教えを信じ、これを貴んで、阿弥陀仏を頼みとし、往生を志しておられます。これはひとえに、前世で積んだ善業のおかげであります。ただ今生での努力だけではありません。「往生する機会が巡って来たのだ」と頼もしく思ってお喜びください。このようなことを、折りにふれ、事に応じて思うべきです。(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊)
(解説)
仏教の基本に「輪廻」という思想があります。
まずはこの「輪廻」についてお話ししておきたいと思います。
我々は、数十年の一生を過ごすだけではなく、生まれ変わり死に変わりをくり返しているといいます。
しかも人間が人間に生まれ変わるとは限りません。
それどころか、人間に生まれること自体が相当に難しいことです。
我々は六つの世界を生まれ変わり死に変わりしているといいます。
六道といいます。
まず地獄です。
地獄は苦しみばかりの世界です。
苦しみしかない、つらいつらい世界です。
その上に餓鬼道があります。
餓鬼道にいる餓鬼は、いつも飢えに苦しんでいます。
いつもいつもお腹がぺこぺこに空いているといいます。
食べものを食べようとしますと、
その食べものがボッと火に変わってしまって食べられない。
いつも喉がカラカラに乾いているのに飲み物を飲むと
それが熱湯に変わって喉が焼けただれてしまいます。
いつも飢えているのに食べることも飲むこともできない世界です。
法輪寺では毎年8月19日に施餓鬼という法要をします。
あの法要は、その名の通り「餓鬼を施す」法要なのです。
先ほども申したように、餓鬼は自分の力で食べたり飲んだりすることができません。
だからみんなで法要をして、食べものを餓鬼が食べることができるようにして施すのです。
そして私達、皆様方が餓鬼に施した、その功徳を亡きご先祖に振り向けるのが施餓鬼法要です。
決してご先祖が餓鬼道で苦しんでいるということではなく、施餓鬼をして、
私達がいただいた功徳を亡き人に差し上げるのが施餓鬼法要の重要な意義です。
次に畜生です。
これは動物の世界です。
自分の身を守るためだけに明け暮れる世界です。
いつ他の動物に襲われるか分からない不安に毎日さらされている世界です。
その上が修羅です。
戦いに明け暮れる世界、殺し合いを続ける世界です。
この世界も相当に辛い世界です。
その上が人、人間の世界です。
その上に天という世界があります。
天と極楽は異なります。
天は幸せの多い世界ですが、必ず寿命があります。
生きている間幸せな分、死ぬときは辛いといいます。
人間でもいざ死が近づいて来ると、「死にたくない」という思いが強くなってくることでしょう。
天は人間と比べものにならない程幸せで、しかも寿命も長いので、
死ぬ時は「ここから離れたくない!」という強い執着が沸き、
人間と比べものにならない程辛い思いをするといいます。
そして、自分が死ぬということは誰もが死ぬということです。
天であっても愛する人と死に別れなくてはならないのです。
天の世界は生きている間、楽しいことばかりですから、
自分も死に、愛する人とも死に別れる時は余計に辛い思いが強くなるのです。
この六道、どの世界をとっても苦しみの世界です。
絶対の幸せの世界はありません。
この六つの世界を生まれ変わり死に変わりしているのが私達です。
これが六道輪廻です。
この六道輪廻の世界を「娑婆」とか、「忍土」といいます。
この娑婆から逃れ出るのが仏教の目的です。
「解脱」あるいは「出離」ともいいます。
苦しみの世界、娑婆世界から脱出するのです。
その方法に浄土宗からみて二種類あるといいます。
一つは自分で修行して、煩悩を無くして悟りを開き、自分の力で脱出する方法です。
もう一つは自分の力ではとても脱出することはできないが、
南無阿弥陀仏と称えて阿弥陀さまにお任せして、
阿弥陀さまに救い出してもらうという方法です。
阿弥陀さまの力で、脱出させてもらうのです。
もちろん浄土宗の教えは後者です。
「南無阿弥陀仏」と称えて、阿弥陀さまに救っていただく教えです。
前置きが長くなりましたが、これをふまえていただきまして本文に入って参ります。
まず、「ある時にはこの世が無常であると思い定めなさい」ということです。
「無常」といいますのは、「すべては変化する」ということです。
すべては変化し続け、形ある物は必ず壊れます。
生まれてきた者は一瞬一瞬に老いてゆき、必ず病になり、必ず死にます。
しかもいつ死ぬか分からないのです。
ですから「ある時には仏の本願を思いて必ず迎え給えと申せ」とありますように、
「いつ死ぬか分からないのだから、常にお念仏を称えなさいよ」と説かれます。
いつ死ぬかわからないのですから「年取ったら念仏称えよ」とか、
「死ぬ前になったら称えよ」というのは通用しません。
かと言って、いつも「明日死ぬかわからん、今日死ぬかわからん」などと思って生きていたら大変です。
ですからいつ死んでも極楽浄土へ往けるように、
いつもお念仏を称えることを勧めるのです。
極楽への往生が決まっていれば、いつ死を迎えても大丈夫です。
往生を確信して、力強く生きていくのです。
次には「人間として生まれることは難しい」と書かれています。
私達は人間に生まれることを当たり前のように思って生きていまが、とんでもないことです。
先ほど六道輪廻の話をしましたが、六道を均等に生まれ変わるわけではありません。
地獄の次は餓鬼道、そして畜生道と順番に上がっていくのではありません。
私達自身の行いによって、その行き先が決まるのです。
私達は自分の煩悩だらけの行いを見つめると、決して良い世界にはいけそうもありません。
地獄か、餓鬼道か、畜生か。
圧倒的に地獄や餓鬼道、畜生道へ行く可能性が高いと言えます。
人間や天に生まれることは、相当に難しいのです。
ここでは人間に生まれることがどれだけ難しいかを喩えを使って説いてくださっています。
天から糸を垂らして、海の底に沈んでいる針の穴にその糸が通るぐらい、
人間として生まれることは難しいというのです。
天まで行かなくても、上空200メートルのところから糸を垂らして、風に吹かれ、
ようやく海面についたらそこには波があり、
海流がある中を海の底まで沈んでいって、
たまたまそこにある針の穴に糸が通る、そんな確率です。
目の前の針の穴に糸を通すだけでも大変です。
30センチ上から糸を垂らして針の穴に糸を通そうとしても恐らく何時間かかってもできないでしょう。
それが天から糸を垂らして海底の針の穴に糸を通すのですから、ほぼ不可能だと言えます。
でも可能性0ではありません。
人間として生まれるのは、それほどに難しいという喩えです。
そして人間として生まれて更に仏教のみ教えと出会うことは本当に難しいといいます。
考えてみますと、隣近所を見回して、「仏教」という言葉を知っている人は大勢います。
「阿弥陀さま」、「念仏」、「極楽浄土」という言葉は殆どの人が知識として知っています。
でもその教えを信じている人がどれだけいるかとなりますと、殆どいなくなるのではないでしょうか。
せっかく人間として生まれてきているのに、そして今ようやく解脱するチャンスを得たのに、
今の機会を逃せば次にいつ解脱できるかわからないのに。
それに一度地獄や餓鬼道に落ちたら抜け出すのが大変です。
地獄は苦しみばかりの世界ですから、
苦しみ続ける中で善い行いはできません。
自分が苦しくてたまらない時に、人に施したりする余裕はないはずです。
人間でも、自分が苦しい時には他人のことを構っていられないことでしょう。
餓鬼道もお腹が減ってたまらんときに善い行いなんてできません。
動物もそうでしょう。
動物は自分の欲望を満たすことだけで精一杯です。
自ら善い行いはできません。
修羅も戦いに明け暮れている訳ですから、それどころではありません。
だから一度そういう世界に行きましたら、はい上がってくるのが大変です。
ここでは、永遠ではないけれども、永遠に近いほどの時間がかかると書かれています。
仏教の教えを学んでいても、ある程度修行が進んでいても、
解脱できずに次に何かに生まれ変わったら、前世の記憶が失われます。
「ここまでできたから、その続きを…」というわけにはいきません。
今こうして人間として生まれてきて、仏教のみ教えと出会い、
そのみ教えを信じることができるのは、
決してこのたび生まれてきた数十年の間に善い行いをし、
善いご縁に恵まれただけではないのです。
前世、前前世、ずっと昔から余程に善い行いをし、ようやく人間に生まれて、
ようやく仏教のみ教えに出会い、ようやくそのみ教えを信じることができたのです。
決して当たり前のことではありません。
ようやく極楽へ往生することができる舞台まで登って来たのです。
機は熟しました。
このチャンスを逃せば次にいつ解脱できるかわかりません。
だから最後の文章「かようのことを折りに順いことによりて思うべきなり」と説かれるのです。
いつ死ぬか分からない人生です。
人間として生まれてくることは本当に大変なこと、仏教と出会い、念仏と出会うことは大変なことなのだ。
それが今ようやく往生するチャンスが訪れてきたのだ。
今念仏せねば!ということを、折りにふれて思い出しなさいよ、と説かれるのです。
「凡夫」と言う言葉があります。
これは単に「平凡」という意味ではありません。
「輪廻する者」という意味です。
ですから、大学の先生も偉いお坊さんもみんな凡夫です。
その凡夫の特徴は、「忘れる」ということです。
凡夫は輪廻していますが、前世の記憶はすべて失われます。
だから同じ過ちを繰り返し、何度も何度も輪廻を繰り返すのです。
今の一生の間でも大切なことをたくさん忘れます。
どんなに恩のある人に「このご恩は一生忘れません!」と思っていても、
年月が経つと恩があることぐらいは覚えているけれども同じ思いは持続できません。
段々薄れていきます。
戦争の怖さを強く味わって、「戦争なんて嫌だ!」と誰もが思うのに、戦争は無くなりません。
それと同じように「お念仏の教えは有り難い!」とどんなに感動しても
日常生活を繰り返すうちにお念仏のことを忘れてしまうのです。
だから、折々に「これがラストチャンスなんだ!このチャンスを逃せば二度と往生するチャンスは巡ってこないかも知れない!」と
自分に言い聞かせてお念仏をお称えなさい
と法然上人はおっしゃるのです。
宝くじで一千万円当たって銀行にそれを取りに行くのを忘れる人は誰もいません。
でも輪廻の呪縛からようやく逃れて往生できるというのに、
お念仏を忘れる人は大勢います。
よくよく注意しなくてはならない、
とお互い肝に銘じましょう。