後篇第二十六章 仏神擁護
(本文)
弥陀の本願を深く信じて、念佛して往生を願う人をば、弥陀佛よりはじめ奉りて、十方の諸佛諸菩薩、観音勢至、無数(むしゅ)の菩薩、この人を囲繞(いにょう)して、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)夜昼をも嫌わず影の如くに添いて、諸々の横悩(おうのう)をなす悪鬼悪神(あっきあくじん)のたよりを払い除き給いて、現世(げんぜ)には横さまなる煩(わずら)いなく安穏(あんのん)にして、命(みょう)終(じゅう)の時(とき)は極(ごく)楽(らく)世(せ)界(かい)へ迎(むか)え給(たも)うなり。されば念(ねん)佛(ぶつ)を信(しん)じて往(おう)生(じょう)を願(ねが)う人(ひと)は、ことさらに悪魔を祓(はら)わんために、万(よろず)の佛、神に祈りをもし慎みをもする事はなじかはあるべき。いわんや、佛に帰(き)し、法に帰し、僧に帰する人には、一切の神王(しんのう)、恒沙(ごうじゃ)の鬼神(きじん)を眷属(けんぞく)として、常にこの人を守り給うといえり。然(しか)ればかくの如きの諸佛諸神囲繞(いにょう)して守り給わん上は、又いずれの佛、神かありて悩まし妨ぐる事あらん。
(現代語訳)
阿弥陀仏の本願を深く信じ、念仏して往生を願う人については、阿弥陀仏をはじめ、あらゆる世界の諸仏・諸菩薩、観音・勢至〔などの〕無数の菩薩が、この人を取り囲み、立ち居起き伏し、昼夜を問わず影のように寄り添って、様々な思わぬ悩みごとをもたらす悪鬼・悪神のつけ入るすきを払い除き、現世において不当なわずらいもなく、平穏無事に過ごさせ、命の終わる時には極楽浄土へお迎え下さるのです。
それゆえ念仏を信じて往生を願う人は、ことさら悪魔を払い除くために数多くの仏や神に祈ったり、物忌みしたりする必要がどうしてあるでしょうか。まして、「仏に帰依し、仏の教えに帰依し、仏教教団に帰依する人については、あらゆる神王が無数の鬼神たちを引き連れて常にこの人をお守りになる」と説かれています。
ですからそのような諸仏や諸神が取り囲んでお守り下さるからには、その上どのような仏や神があって悩まし妨げることがあるでしょうか。
(解説)
今回のご法語には「仏神擁護」という題がついております。
お念仏を称える者には仏さまや神さまからのお守りがあるというのです。
ただ、お守りがあると言っても、浄土宗の目的はあくまで極楽へ往生することです。
ですからお念仏を称えていても「阿弥陀さま、どうか病気が治りますように!」と願ってお念仏を称えるのありません。
「阿弥陀さま、どうか大学に合格させて下さい!」と願うのでもありません。
たまにお仏壇に宝くじを供える方がありますが、これもちょっと違います。
もし阿弥陀さまに祈って宝くじを当てて下さったら、どんどん欲望が増えてしまいます。
しかしお金持ちになったら幸せになるかというと、決してそうとは限らないでしょう。
阿弥陀さまが大学に合格させて下さるなら、だれかを阿弥陀さまが落とさないといけなくなります。
阿弥陀さまはそんなことはなさいません。
阿弥陀さまが病気を治して下さっても、いつか必ず、誰もが死にます。
だからといって、極楽に往生すること以外に何もないかというと、決してそんなことはないのです。
極楽への往生を願ってお念仏を称えている内に、自然と得られる功徳はあるといいます。不求自得の功徳といいます。
求めずとも自ずと得られる功徳です。
現代においては、洗濯するのに洗濯機を使うことが多いですが、昔は洗濯板を使って、手で服を洗っていました。
これはあくまで服をキレイにすることが目的です。
しかし、服をキレイにしようとして洗っているのに、気が付くと手までキレイになっています。
手をキレイにしようなんて思っていないのに、キレイになっています。
これと同じように、目的はあくまで極楽への往生です。
往生したいと願ってお念仏を称えているのに、気が付いたら、「色々と守られているなあ」「あれもこれも仏様のお守りなんだなあ」と感じることがあります。
そのような、求めていないのに自ずと得られる功徳というものがあります。
本日の御法語は、往生を願ってお念仏を称えていると、自然と阿弥陀さまをはじめ、色々な仏さま、菩薩さま、神々から守られる、ということについて書かれています。
本文を見て参ります。
「阿弥陀さまの本願を深く信じて、念仏を称えて往生を願う人は、阿弥陀さまをはじめ、あらゆるところにおられる仏さま方、菩薩さま方、観音菩薩さま、勢至菩薩さま、無数の菩薩さま方がこの人を取り囲んで下さり、歩いていても立ち止まっていても、座っていても寝転がっていても、夜昼も関係なく、陰の如くに寄り添って下さって、色んな悩みを作る悪鬼、悪神なのどの魔を払い覗いて下さり、現世には余計な煩いなく、心安らかに穏やかにしていただいて、命終わる時には極楽浄土へ迎え取って下さるのです。
だからお念仏を信じて往生を願う人は、ことさらに悪魔を払おうとして、仏や神に祈ったり慎んだりする必要はないですよ」ということです。
私達は、厄年だとか、前厄だなどと気にしたり、嫌なことが続くと「厄払いしてもらいなさい」などと言ったり、テレビで占い師やスピリチュアル系のタレントが言ったことを一々気する人もあります。
しかしお念仏を称える者には、自然と魔が寄りつきませんから、そんなことは一切する必要がないのですよ、というのです。
「ましてや仏に帰依し、仏が説かれた法に帰依し、仏が説かれた教えに順う僧、これはお坊さんに限らず仏教徒がお互いを敬い合う、そういう者を、一切の神々と神々に付き従う数え切れない程の鬼神達が常に守って下さるといいます。だからこのように仏様や神様が守って下さるのですから、神様や仏様に悩まされることがありましょうか」ということです。
よく罰があたるとかいいますが、お念仏を称える者を神や仏が守って下さるのですから、なぜ守って下さる方が罰をあてるようなことをしますか、するはずがないでしょう、という意味です。
「うちの母はあれだけ信心深かったのに、なぜあんな死に方をしたのでしょうか」とか、「うちの母はお墓参りに向かう途中、タクシーから下りた時に転けて骨折しました。何で良いことをしているのにこんな目に遭わないといけないのですか。神も仏もないんじゃないですか!」と言われたことがあります。
しかし、念仏信仰の篤い人は絶対にこんなことは言いません。
法輪寺のお檀家さんに大阪の○○さんというとても信心深い方がおられました。
このおばあさん、大きな体ですが、自転車に乗っておられました。
転けたら危ないですよといつも言うのですが、足が悪いから自転車に乗る方が楽だとおっしゃいます。
心配していた通り、ある時自転車で転けて大腿骨を骨折なさいました。
お見舞いに行き「奥さん、えらい目に遭いましたなあ」と私が言いますと、○○さんは「おっさん、えらい目に遭いましたわ。でもいつもお念仏称えさせていただいて、仏さんが守ってくれたはるから、このぐらいの怪我ですみました」とおっしゃるのです。
大腿骨骨折といったら大けがです。
○○さんは日頃から、「言ったらきりがないくらい、今まで守ってもらいました。どんだけ助けてもろたか」とおっしゃいます。
今までお念仏を称えてきて、実際に守ってもらった、助けてもらったという実感があるからこそ言える言葉です。
○○さんの性格が良いだけではないのです。
実際の経験上、守ってもらっていることを感じるのです。
これは気持ちの問題などということではありません。
「大けがしたけれども、考え方によったら死ななくてよかったよ。そう思わなくちゃ」などと人から言われても痛いものは痛いのです。
そんなこと言われたら腹が立つことでしょう。
自分でそのように考えようとしても、限界があります。
あくまで極楽への往生を願ってお念仏を称える者が、「ああ、やっぱり守られているな」と気付くことなのです。
しかしこれも信心のない人に言うと、誤解を招きかねません。
「うちのおばあさん、あんなに大けがしてるのにまだあんなこと言うてるわ」と言って馬鹿にしたり、逆に「怪我や病気を軽くしてもらえるのか、それなら念仏を称えよう」などという人が出てくるので、かえってこういうことを言わない方がよいのかも知れません。
病気や怪我が治ると信じて念仏を称えていて、大けがをしたら、「なんや!ちっとも効果ないやんか!」となるのがオチです。
あくまで極楽への往生を願ってお念仏を称える、その副産物だということを忘れてはなりません。