後篇第二十五章 護念増上縁
(本文)
問うていわく、摂取(せっしゅ)の益(やく)をこうぶる事は、平生(へいぜい)か臨終かいかん。
答えていわく。平生の時なり。そのゆえは、往生の心まことにて我が身を疑う事なくて来迎(らいこう)を待つ人は、これ三心(さんじん)具足(ぐそく)の念佛申す人なり。この三心具足しぬれば、必ず極楽に生まるという事は観経(かんぎょう)の説なり。かかる志ある人を阿弥陀佛は八万四千の光明を放ちて照らし給うなり。平生の時照らし始めて、最後まで捨て給わぬなり。故(かるがゆえ)に不捨(ふしゃ)の誓約と申すなり。
(現代語訳)
問い。阿弥陀仏の救いの利益を蒙るのは、平生か臨終か、どちらでしょうか。
答え。平生の時です。つまり、往生を願う心に偽りがなく、わが身〔の往生〕を疑わずに来迎を待つ人は、三心を具えた念仏を称える人です。この三心を具えているならば必ず極楽に生まれるということは『観無量寿経』の説です。
このような志のある人を、阿弥陀仏は、八万四千の光明を放って照らされるのです。平生の時に照らし始めて、臨終までお捨てになりませえん。ですから「〔念仏者を救い取って〕捨てることがない誓約」というのです。
『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊
(解説)
今回の御法語は問答形式になっています。
お弟子が法然上人に質問されて、それに法然上人がお答えになっているというものです。
どういう質問かと申しますと、「問うていわく、摂取の益をこうぶることは平生か臨終かいかん」
摂取というのは「すくい取る」という意味です。
ビタミン摂取などとは意味が違います。
「阿弥陀さまがお救い下さるのは平生ですか、それとも臨終の時ですか?」という質問です。
念仏を称える者は、臨終の時に阿弥陀さまがお迎え下さり、臨終の時に極楽浄土へ往生させていただけます。
それならば答えは臨終ではないか?と思われるかも知れません。
しかし答えは違います。
「答えていわく、平生の時なり」とあります。
その理由が書かれています。
なぜならば往生の心が誠でとありますが、これは「本気で極楽への往生を願う」ということです。
そして「我が身を疑うことなく」というのは、「偉い坊さんは往生できるでしょうが、私のような者は往生できません」と思ってはいけない、いうことです。
極楽へ往くのは自分の力ではありません。
極楽へ往くのは阿弥陀様の力です。「私みたいな者は往けない」というのは、即ち「阿弥陀さまは私みたいな者は救えない」と阿弥陀さまの力を疑うということになります。
阿弥陀さまの力を疑ってはいけません。
「こんな愚かな私であるけれども、阿弥陀さまのお力によって必ず救っていただける」と深く信じなくてはいけません。
そして「来迎」、つまり阿弥陀さまのお迎えを待つ人は、「三心具足の念佛者」だといいます。
三心というのは一枚起請文にも「三心四修と申すことの候はみな決定して…」とるように、念仏者が具えなくてはならない三つの心です。
三心が具わった念仏を称えないと往生できないのです。
三心は「至誠心」「深心」「廻向発願心」の三つです。
「至誠心」は誠の心、「深心」は深く信じる心、「廻向発願心」は往生を願う心です。
必ず具えないといけない三つの心なのですが、この言葉自体が大事なのではなく、この心を具えることが大事なのです。
先ほど申した、往生の心が誠で我が身を疑うことなく、阿弥陀さまのお迎えを待つ人は、そのままで三心が具わった人です。
つまり「極楽へ往生させて下さい。
阿弥陀さまは私のような者でも必ず救って下さる。阿弥陀さまいつか必ずお迎え下さい」と思って念仏称える人は三心具足の念仏者なのです。
この「三心を具えれば必ず極楽へ往生する」ということは、『観経』というお経に書かれていますよと書いてあります。
『観経』は『観無量寿経』の略です。
このような志、つまり「三心を具えた念仏を称える人を阿弥陀さまは八万四千ものお慈悲の光でもって照らして下さっているのだ」と書かれています。
そしてそのお慈悲の光は、平生の時に照らし始めて最後臨終の時まで決して見捨てられない、だから不捨、「見捨てない約束」というのですよ、と説かれています。
念仏を称える者はやはり臨終の時に阿弥陀さまがお迎え下さって、臨終の時に極楽浄土へ往生するのです。
しかし、三心具足の念仏者はもうすでに平生の時に「往生間違いなし」の立場です。
三心具足の念仏を申す人を阿弥陀さまは「よく念仏を称えてくれた、そのまま死ぬまで続けろよ」とずっとお慈悲の光で照らして見守り続けて下さるのです。
『観無量寿経』に「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」とあります。
「阿弥陀さまのお慈悲の光は遍く十方の世界を照らして下さって、念仏を称える人々を救いとって捨て給わない」のです。
この「摂取」はまさに御法語の冒頭の質問にある「摂取」で、「不捨」は御法語の最後にある「不捨」なのです。
「救いとって決して捨てない」というお約束なのです。
昔から阿弥陀さまのお慈悲を母親がわが子を思う心に喩えられました。
「母心」です。
最近ではそれすらも通用しにくいようになったかもしれません。
あるお子さんを持つ女性が「男の人にはこの感覚わからないと思います。自分の中に命がある感覚。愛おしくて仕方ない」とおっしゃっていました。
そして「できたらこのままずっとお腹の中で育てたい」とまでおっしゃいました。
「産んでしまうとみんなのモノになるけど、お腹の中にいたら「私だけのモノ」でいられるからだ」と言うのです。
確かに母心は温かいものでしょう。
きっと多くの母親は、わが子を心から慈しんでおられることでしょう。
しかし、母心は「我が子限定」なのです。
他人の子も不幸になって欲しいとは思わないけれど、我が子と同じようにはいきません。我が子は「我がモノ」なのです。
「私の家」「私の財産」「私の家族」「私の子」です。
「我が子」は「私」なのです。
だから我が子が傷つけられると悲しいし腹が立ちます。
だから実は母心は「慈悲」ではなく、「執着」なのです。
仏さまのお慈悲とは全く異質なのです。
阿弥陀さまのお慈悲は平等の慈悲です。
すべての者を救って下さるお慈悲です。
だから、難しい修行はご用意されなかったのです。
難しい修行を用意したら、この人にはできるけれどもこの人にはできない、などということになります。
あるいは誰もできないということになります。
しかし、「私の名前なら呼ぶことができるであろう」とお考え下さったのです。
子どもでも「お母さん!」、「ママ!」と呼ぶことができるように、「南無阿弥陀仏!」と称えてくれと仰ったのです。
そしてそのたった六文字の中に、ご自身がご修行下さった功徳すべてを納め込んで下さいました。
私達ならば、自分が一生かけて貯めてきた財産があって、人に施そうと思うのに、わずかしか施さないくせに施したような気になってしまうかもしれません。
たくさんあっても出し惜しみしてしまうかもしれません。
しかし当然阿弥陀さまは出し惜しみされません。
ご修行下さった功徳すべてを惜しげもなくすべて詰め込んで下さったのです。
だからお念仏は最も簡単でありながら、最も優れた功徳があるのです。
ですから「私なんてとても往生できません」などと思うのは、阿弥陀仏のお慈悲とお力を見くびっているのと同じことです。
。
今村組というダンスチームを作って、不登校の子やぐれた子に一つのことに打ち込むことを教えておられる、今村克彦という元小学校教諭がいます。
見た目は。髪の毛を伸ばし、髭を生やして、サングラスをかけて、とても元小学校の先生とは思えません。
しかし本気で子ども達を愛しておられる良い先生です。
いじめをテーマにした討論番組に今村先生も出ておられました。
今村先生は、自分の生徒がいじめられていたら、その子に「お前の力でどうしようもなくなったら俺のところに来い。絶対助けてやるから」って言うのだとおっしゃっていました。するとその番組に出ていたタレントが、「先生、そうおっしゃいますが、私は以前息子に、あんたがいじめられたらお母さんに絶対言いや、お母さんが絶対助けたるって言ったんです。そしたら息子は、お母さん、そんなことしたら余計にいじめられるねんでって言いました。今村先生、子どもにとってはもっと難しい問題なんと違いますか?」と仰いました。
すると今村先生は、「そんな中途半端なことと違うんですよ。今の親御さんは、自分の子がいじめられたらすぐに学校に怒鳴り込んできて、学校のせいにし、いじめた相手を追求します。でもそんなことをしてもいじめは無くなりません。いじめてる子にも心の傷がある。それはそれで罰を与えるだけじゃなく、きっちり対処しなくてはなりません。いじめられている子には、いざとなったら、限界がきても必ず、絶対に助けたる!と本気で思い、それを伝えるんです。子どもには絶対に伝わりますよ。子ども達はその言葉を励みに頑張ってくれるんですよ」と仰いました。
阿弥陀さまのお慈悲もそうなのです。
この世はやはり苦しみ迷いの世界です。
娑婆世界です。
子どもの時に悩んでいたことは今考えたら馬鹿馬鹿しいモノもたくさんあります。
今悩むようなことも八十歳ぐらいになって思い出したらつまらないことになるのかも知れません。
でも年を取ったら悩みが無くなるかと言ったら決してそんなことはないでしょう。
逆に年齢を重ねるごとに体は弱り、思い通りにいかないことが増えてくる、愛する人との別れも多く重なってきます。
阿弥陀さまはこの世でもがいている私達をみて、「苦しいであろう、悲しいであろう。その中で念仏を称えて乗り切ってくれ。私が見守っているぞ。そして最後には絶対の幸せの世界、極楽浄土へ迎えとってやるから、それまで念仏を称えて乗り切れよ」とずっと励まして下さっているのです。
まるでいじめに遭った子が「絶対に助けてやるから」と言われて頑張るように、私達も「必ず命尽きた時には極楽浄土へ迎えとってやる」という阿弥陀さまの約束、「不捨の誓約」を頼みにお念仏を称えてこの世を乗り切っていきたいものです。