後篇第二十七章 転重軽受
(本文)
宿業(しゅくごう)限りありて受くべからん病は、いかなる諸々の佛、神に祈るとも、それによるまじき事なり。祈るによりて病も止み、命も延ぶる事あらば、誰(たれ)かは一人(いちにん)として病み死ぬる人あらん。況や、又佛の御力(おんちから)は念佛を信ずる者をば、転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)といいて、宿業限りありて重く受くべき病を軽く受けさせ給う。況(いわん)や非業(ひごう)を払い給わん事ましまさざらんや。されば念佛を信ずる人は、たとえいかなる病を受くれども、皆これ宿業なり。これよりも重くこそ受くべきに、佛の御力(おんちから)にてこれほども受くるなりとこそは申す事なれ。我らが悪業深重(じんじゅう)なるを滅して、極楽に往生する程の大事をすら遂(と)げさせ給う。ましてこの世にいく程ならぬ命を延べ病を助くる力ましまさざらんやと申す事なり。されば後生(ごしょう)を祈り本願を頼む心も薄き人は、かくの如(ごと)く囲繞(いにょう)にも護念にもあずかる事なしとこそ善導は宣(のたま)いたれ。同じく念佛すとも、深く信を起こして穢土(えど)を厭(いと)い、極楽を願うべき事なり。
(現代語訳)
前世の悪業の報いが定まっていて、受けねばならない病は、いかなる仏や神に祈ったとしても、それに左右されることはないでしょう。祈ることで病気も治り、寿命も延びるというのであれば、誰一人として病気になる人も、死ぬ人もいないでしょう。
その上、阿弥陀仏の御力は、念仏を信じる者を、「転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)」といって、悪業の報いが定まっていて重く受けるはずの病を、軽く受けるようにして下さいます。ましていわれのない禍を防いでくださらないはずはありません。
ですから念仏を信じる人は、たとえいかなる病を受けても、「すべてこれは過去に私が犯した悪業の報いである。これよりも重く受けるはずが、仏の御力でこの程度に〔軽く〕うけるのだ」と言うものなのです。
私たちの深くて重い悪業を滅して、極楽に往生するほどの重大な事ですら成し遂げさせて下さいます。まして、この世のわずかな寿命を延ばし、病を治す力がないはずがあろうかというものです。ですから「来世を祈って本願を頼みとする心が薄い人は、このように仏・菩薩に取り囲まれることも守られることもない」と善導大師は言われたのです。同じように念仏をしても、深く信心を起こしてこの穢土を厭い、極楽を願うべきなのです。
(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊)
(解説)
今月のご法語は、先月のご法語、後編第26章の続きです。
知恩院のご法語集は、あらゆるご法語の中から部分的にピックアップしたもので、続きになっているものは少ないのですが、今回のご法語は前回から直接続いています。
ですから内容も同じようなものになっています。
前回は「仏神擁護」という題のご法語でした。往生を願って念仏を称える人は、自然と仏さまや神さまに守られるという内容でした。
あくまで極楽への往生を願って称えるわけです。
往生を願って称えていると、求めずとも得られる、不求自得の功徳が得られる、知らない内に、色々と守られる、ということです。
今回は、「転重軽受」という題のご法語です。重きを転じて軽きを受ける、いわゆる大難を小難に変えるという意味なのですが、もちろん、ただ単に「念仏を称えていたら、病気が軽くなる」などというような単純なものではありません。
このことにつきまして、順を追って説明して参りたいと思いますが、今回はすべて訳すとかえって煩雑になりますので、掻い摘んで申し上げます。
まず、「宿業」というものがあるというのです。
「宿業」の「業」というのは、行いのことです。
「業が深い」などと申しますが、業は悪いものとは限りません。
善い業を善業といい、悪い業を悪業といいます。
この業によって、我々の将来、未来が決まります。
善い業を起こせば善い結果が出るし、悪い業を起こせば苦しみがやってきます。
善因楽果、悪因苦果といいます。
今起こした業の果は、一瞬後に生ずる場合もあれば、十年後になる場合もあり、更には来世、来来世に持ち越される場合もあるといいます。
でも善悪どちらかの業を起こせば、必ず将来、果が生ずるのです。
業は体と口と心で起こします。
毎日、相当な数の業を重ねていますが、その一々の果が必ず出てくるのです。
だから仏教では、「善いことをしましょう、悪いことは止めましょう」というのです。
よく「短い人生、楽しいことをして美味しい物を食べて暮らす方が賢い」などと言う人もありますが、仏教を信じる者は、今善い行いをして、悪い行いを止めなくてはなりません。
また、「親の因果が子に報い」などと聞くことがありますが、これは仏教ではありません。
仏教は「自業自得」を説きます。
親の因果は親に来ます。
子の因果は子に報いが来るのです。
自分で行った行いの果は、必ず自分に返ってきます。
自分が行ったことは、自分が責任を持たないといけないのです。
ただ、業とは別に「縁」というものがあります。
親が善い育て方をすることによって、善い行いをするようになったり、逆にひどい目にあって悪い行いをするようになる場合もあります。
縁は親に限らず、色んな人から、色んなものから得ます。
何もしないという縁もあります。
声を掛けようと思ったけれども止めた、そのことによって変わる場合もあります。
更には、どの国に生まれるか、どの時代に生まれるかという縁によって、大きく変わります。
戦争中に生まれ育って、兵隊に行かなくてはいけないような縁に遇ってしまうと、嫌でも人を殺してしまう、ということもあり得ます。
縁によって、避けられない状況になったとしても、最終的に「殺す」という業を起こしたら、自分に果がもたらされるのです。
業を因として果がもたらされるのを、因果の法則、因果応報といい、因と縁を合わせて因縁といいます。
よくご存じの言葉だと思います。
今行ったことによって未来が決まると申しましたが、逆に今起こっていることは、過去の業によるのです。
今苦しい思いをしているのは、過去に悪業を行ってきたからだといいます。
生まれてから今までの業かも知れませんが、前世の業かも知れません。
前世、前前世、過去世の業を宿業というのです。
過去世の縁を宿縁といいます。
このご法語の最初には、今病気になっているのは、宿業によるのだ、だから神や仏に祈っても仕方がないのだと書かれています。
宿業によるものだから、自分が報いを受けなくてはならないのです。
とても厳しいことです。
続けて祈って病が治るのであれば、誰が病になるのですか、祈って寿命が延びるのであれば、誰が死ぬのですかと書かれています。
そうであればお医者さんも必要ないのですから。
ただ、阿弥陀さまに病気を治したり寿命を延ばす力がないというのではありません。
阿弥陀さまには大きな力があるのです。
私達の業は、煩悩による業ばかりですから、善い業は殆ど積めないのに、悪い業はどんどん積もっていきます。
因果の法則からしますと、とても極楽へ往けるような業を私達は積んでいないのです。
しかし阿弥陀さまは「我が名を呼ぶ者、南無阿弥陀仏と称える者を極楽へ迎え取ろう」と言って下さっています。
自分の力のみではとても極楽へなど往けない私達を、因果の法則を超えてまで救って下さる力があるのです。
私達の積もり積もった悪業を払いのけて、極楽へ迎え取って下さるのです。
それほどの力をお持ちですから、私達の病気を治したり、寿命を延ばすぐらいはたやすいことなのです。
でもそうはなさらないのです。
なぜでしょうか?
それは、病気を治したって、寿命を延ばしたって、幸せにならないからです。
病気を治したら幸せになりそうにも思いますが、果たしてそうでしょうか?
病気が治ったことは嬉しいけれども、病気が治ってもまた次から次に苦しみや悩みがやってきます。
また病気になりますし、老いの苦しみがあります。
愛する人とも別れなくてはならないでしょうし、逆に大嫌いな人と会う、人間関係の苦しみも起こり得ます。
病気が治っても根本的に苦しみを無くすことにはならないのです。
阿弥陀さまは極楽への往生こそ幸せなのだとおっしゃるのです。
「娑婆世界はは苦しいであろう。悲しいであろう。その娑婆世界を念仏称えて乗り切ってくれよ。必ず極楽へ迎え取ってやるから。絶対の幸せの世界、極楽浄土へ迎え取ってやるから」と願って下さっているのです。
極楽へ往くにはどうするか。
もちろんお念仏です。
阿弥陀さまはお念仏を称える者を、益々お念仏が称えられるようにして下さるのです。
重い病気であれば、とてもお念仏など称えることができないかも知れません。
でも阿弥陀さまがこの程度にして下さった、だからまだお念仏を称えることができる。
阿弥陀さまがまだお念仏を称えることができるようにして下さったのだ!と思って、益々お念仏を称えることが大切なのです。
これは人に言われてもなかなか実感できないでしょう。
お見舞いに来た人に「このぐらいで済んでよかったですね。もっとひどい人はたくさんいますよ」などと言われたらムッとするかもしれませんね。
これは所詮軽く済んだ場合にはムッとするだけで収まるでしょうが、余命1ヶ月という人に、「まだ1ヶ月あってよかったですね」などとは絶対に言えないでしょう。
これは日頃からお念仏している人が、経験的に何度も「助けられた!」という実感があり、今回病気になったけれども、本当ならばもっとひどい病気になるところをこのぐらいにして下さったのだ、まだまだお念仏を称えることができるようにして下さったのだ、と思うことができるようになるということです。
念仏信者にとっては、阿弥陀さまに助けられたという証拠はいくらでもあるでしょう。
ただ極楽浄土へ往生したいと思ってお念仏を称えているだけなのに、何度も何度も助けてもらっているという経験があってこそ言えることなのです。
このご法語の題、転重軽受というものは、ただ単に「お念仏を称える人は病気が軽くなります」ということではないと先に申し上げました。
往生を願ってお念仏を称えている人が、知らず知らずの内に助けていただいていることを実感し、宿業からいえば、もっともっと重い病気になっていても仕方ないのに、軽くして下さって、お念仏を称えることができるようにしていただいたということを感じることができることなのです。