後篇第九章 至誠心
(本文)
至誠心(しじょうしん)というは、大師釈して宣(のたま)わく、至(し)というは真(しん)也。誠(じょう)というは実(じつ)なりと言えり。ただ真実心を至誠心と善導は仰(おお)せられたるなり。真実というは、諸々の虚仮(こけ)の心の無きをいうなり。虚仮というは、貪瞋(とんじん)等の煩悩をおこして、正念(しょうねん)を失うを虚仮心と釈するなり。すべて諸々の煩悩の起こることは源、貪瞋を母として出生(しゅっしょう)するなり。貪というについて、喜足小欲(きそくしょうよく)の貪あり、不喜足大欲(ふきそくだいよく)の貪あり。今浄土宗に制するところは、不喜足大欲の貪煩悩なり。まず行者、かようの道理を心得て念仏すべきなり。これが真実の念仏にてあるなり。喜足小欲の貪は、苦しからず。瞋煩悩も敬上慈下(きょうじょうじげ)の心を破らずして、道理を心得んほどなり。痴煩悩というは、愚かなる心なり。この心を賢くなすべきなり。まず生死(しょうじ)を厭(いと)い、浄土を願いて往生を大事と営みて、諸々の家業(かごう)を事とせざれば、痴煩悩なきなり。少々の痴は、往生の障りにはならず。これほどに心得つれば、貪瞋等の虚仮の心は失せて、真実心は易く起こるなり。これを浄土の菩提心というなり。詮(せん)ずるところ、生死の報を軽(かろ)しめ、念仏の一行を励むがゆえに、真実心とはいうなり。
(現代語訳)
至誠心については、善導大師が解釈して、「〈至〉というのは〈真〉である。〈誠〉というのは〈実〉である」と言われています。真実心こそが至誠心である、と大師はおっしゃったのです。
「真実」というのは、さまざまな嘘偽りの心がないことをいいます。「嘘偽り」というのは、貪りや憎しみなどの煩悩を起こして、正しい念いを失うことであり、それを「嘘偽りの心」と解釈するのです。
およそ、どのような煩悩も、もともとは貪りと憎しみと〔愚痴と〕を母として生まれ出るのです。
さて、貪りということについては、つつましい貪りもあり、強欲な貪りもあります。いまこの浄土宗で禁じるのは、強欲な貪りの煩悩です。念仏者はまずこのような道理をわきまえて念仏すべきです。これが真実の念仏というものです。つつましければ貪りもさしさわりはありません。
憎しみの煩悩にしても、目上の人を敬い、目下の人をいたわる心を失わずに、道理をわきまえる程度です。
愚痴の煩悩とは、愚かな心のことです。この心を賢くしなければなりません。まずこの迷いの境涯を厭い、浄土を欣って、往生こそが大事だと思いながら〔念仏に〕励み、さまざまな世間の家業のほうを大事だと思わないなら、愚痴の煩悩は無いに等しいのです。少々の愚かさは往生の妨げにはなりません。
この程度に理解しさえすれば、貪り、憎しみなどの「嘘偽りの心」は消え失せて、真実の心は容易に起こるのです。これを浄土宗の「菩提心」と言います。
要するに、俗世間での報いを重視せず、念仏の一行に励むので、真実心と言うのです。
(解説)
「念仏をただ称えればよい」といいますが、本当にただ称えればよいのでしょうか?
人によれば、「宝くじが当たりますように」「孫が合格しますように」などと人を差しおいて自分が得をすることを願うこともあるでしょう。
また「病気にもなり、老いてゆき、死を迎えるということは、誰にも避けられない」ことをしっかり見据えよという仏教の教えなのに、「病気が治りますように」「長生きしますように」などと教えに反することを願い求める人もいるでしょう。
あるいは「あの憎たらしい人がうまくいきませんように」などと人の不幸を願ったり、人の死を願うなどという恐ろしいことをさえも、あるかもしれません。
お念仏を称えてこのようなことを願うというのはよいのでしょうか?
阿弥陀さまがこの世は苦しい世界であるから、苦しみのない極楽浄土をお造りくださり、そこに迎えとるための行として「わが名を呼べよ」とお示しくださったのが「お念仏」です。ですからこちらは極楽へ往きたいと願い、南無阿弥陀佛と称えれば、必ず阿弥陀さまがお救いくださるということを深く信じて称えるのです。
ただ称えればよいというけれども、往生を願って、阿弥陀さまを信じる心が必要です。
そしてそれが本気でなくてはなりません。
本気でないお念仏とは、嫌々人に称えさせられたり、形だけ人に合わせて称えるお念仏などです。
法事やお葬式で形だけお念仏を称えても、「本気」だとは言えません。
本気で阿弥陀さまを信じ、本気で極楽へ往きたいと願う心、その「本気の心」を至誠心といいます。
この御法語はその至誠心について書かれたものです。
「至誠心というは、大師釈して宣わく、至というは真なり。誠というは実なりといえり。ただ真実心を至誠心と善導は仰せられたるなり」
「至誠心とは、善導大師は、至は真、誠は実であるから真実心のことを至誠心というとおっしゃっている」
では真実とは何かというのが次に示されています。
「真実というは、諸々の虚仮の心のなきをいうなり」
「真実というのは嘘偽りのないことをいうのだ」
これも漠然としていますが、要は先ほど書いた「本気の心」なんです。
本気で信じ、本気で願う心です。
法然上人は「どんなに罪深い者でも救いを求めて南無阿弥陀佛と称えるならば、阿弥陀さまが救ってくださるのですよ」とお説きくださいました。
その教えを聴いて、「それならどんなに悪いことをしてもいいのだ」「罪深い者も救うと阿弥陀さまがおっしゃているのに、悪いことをしないというのは阿弥陀さまを信じ切れていないことになる。積極的に悪いことをしよう」という者が現れました。
これを造悪無碍(ぞうあくむげ)といいます。
こういう人達が多くいたことで、旧仏教からの批判が段々大きくなり、ついには法然上人はその責任を取る形で四国へ流罪にまでなりました。
法然上人のみ教えの大きな特長の一つに、「煩悩がある者も念仏を称えれば救われる」ということが挙げられます。
普通仏教は、「私たちの苦しみの原因は煩悩であるから、その煩悩を断ちきるために修行をしなくてはならない」といいます。
しかしお念仏のみ教えは、煩悩があっても、その身そのままで救われるといいます。
それは「私は自分の力でとても煩悩を断ちきることなんかできません。そんな私を阿弥陀さまが救ってくださるのですか。なんと有り難いことでしょう」ということです。
でも造悪無碍の人達は「煩悩があっても救われなら、どれだけ煩悩の限りを尽くしてもよいのだな」と理解しました。
法然上人はお弟子や信者の中に造悪無碍の者が出たことを歎き、「そういう教えではないぞ」と戒められました。
この御法語はその戒めの文章の一部分でもあります。
この至誠心を起こすための前提に、「煩悩を野放しにしていては至誠心は起こらない」ということがあります。
それを次に説いてくださっています。
「虚仮というは、貪瞋等の煩悩を起こして、正念を失うを虚仮心と釈するなり」
「虚仮というのは、貪りや憎しみなどの煩悩を起こして、正気を失い、判断が効かなくなってしまうことを虚仮心というのだ」
「すべて諸々の煩悩の起こることは、源、貪瞋を母として出生するなり」
「すべてどんな煩悩も元々は貪りと怒りを母として生まれてくるものである」
代表的な煩悩に貪瞋痴があります。
三毒の煩悩といいます。
貪は貪りの心です。
欲しい、欲しいというものが手に入ってもまだまだ欲しくなる心です。
いわゆる欲です。
これは誰にでもある心です。
しかし、この心を野放しにしていると、収拾がつかなくなります。
法然上人は貪について、野放しにすることを戒めておられます。
「貪というについて、喜足小欲の貪あり、不喜足大欲の貪あり」
「貪には二種類あって、喜足小欲の貪と、不喜足大欲の貪がある」
喜足小欲とは読んで字の如く、小さな欲で足るを喜ぶことです。
決して贅沢はできないけれども、慎ましい生活だけれども、こうやって阿弥陀さまにお念仏を称えさせていただけるというので十分だ、十分に有り難いことだ、と喜ぶのが喜足小欲です。
対して不喜足大欲とは、これも読んで字の如く大きな欲を持っていつまでも満足しないということです。
まだまだ、まだまだとかき集めるのです。
「今浄土宗に制するところは、不喜足大欲の貪煩悩なり。まず行者、かようの道理を心得て念仏すべきなり。これが真実の念仏にてあるなり。喜足小欲の貪は苦しからず」
「今浄土宗で禁じるのは、強欲な貪りの煩悩です。まず念仏者はこのような道理をわきまえて念仏すべきです。これが真実の念仏です。喜足小欲の貪は問題ありません」
資本主義は常に右肩上がりを目指すのが基本です。
去年より今年、今年より来年とずっと成長し続けなくてはならないといいます。
それが今完全に頭打ちをしています。
縮小を考えなくていけないとも言われます。
資本主義の行き着くところは不喜足大欲です。
強欲資本主義等という言葉もあります。
「瞋煩悩も、敬上慈下の心を破らずして道理を心得んほどなり」
「瞋煩悩も敬上慈下の心を失わずに道理をわきまえるほどなら問題はありません」
敬上慈下とは、目上を敬い目下を慈しむことです。
いわゆる常識なのですが、カッとなったら「上も下もあるものか!」となるのが私たちです。
普段は押さえることができても、条件さえ整えばいつでも爆発するのです。
貪も瞋も人を見ているときはわかります。
あの人は不喜足大欲だな、敬上慈下の心を破ってしまっているなと。
しかし自分自身も危ういのです。
今、もし少しだけ悪いことをすれば、10億円が手に入るとしたらどうでしょう?
そんな可能性がないから「いや、私は大丈夫」と言えますし、新聞で不正をする人を裁くことができますが、本当に目の前にちらつかされたらするのではないでしょうか。
怒りにしても、今腹が立つ相手がいなければ「自分は大丈夫」と思ってしまいますが、決して大丈夫な私たちではありません。
今よい縁に恵まれているだけです。
悪い縁が来たらすぐに悪い方へ飛び込んでしまう程度の私であるという自覚が必要です。
この貪と瞋には更に大元の痴という煩悩があります。
「痴煩悩というは、愚かなる心なり。この心を賢くなすべきなり」
「痴の煩悩とは愚かな心をいいます。この心を賢くしなくてはいけません」
愚かな心というのは漠然としていますが、根本的な存在欲をいいます。
自分を生かそう、生かそうとする心です。
いわゆるエゴです。
自分を生かそう生かそうとするから必要以上に物を取り込み貪ります。
自分を生かそう生かそうとするから自分の思い通りにいかないと腹を立てるのです。
貪は取り込もう、取り込もうとする心、瞋は排除しよう、排除しようという心です。
正反対のようですが、根は同じです。
生存欲からくるのです。
人間には生存欲があるから、何よりも無視されるのが一番辛いといいます。
自分の存在を認めてもらえない、誰にも相手にされないのが最も人を苦しめます。
これは存在欲があるからです。
この根本的な存在欲を痴といい、道理に明るくないから無明ともいいます。
これほどやっかいなものはありません。
そして決して無くすことはできません。
でも大丈夫ですよと法然上人はおっしゃいます。
「まず生死を厭い、浄土を欣いて往生を大事と営みて、諸々の家業を事とせざれば、痴煩悩なきなり。少々の痴は往生の障りにはならず」
「まずこの迷いの世界を厭い、極楽へ往きたいと願って、往生こそが大事だと思いながらお念仏に励み、世間のことよりも極楽へ往生することが大事だと思えるならば、痴煩悩がないのも同じです。少々の痴があっても往生の妨げにはなりません」
煩悩を野放しにしていると、お念仏は出ません。
欲に心を奪われている時にはお念仏を称えません。
なぜなら、極楽へ往きたいどころか、この世での価値だけにしか心を向けることができない状態が不喜足大欲の状態だからです。
また、腹が立って腹が立ってどうしようもない時は極楽へも阿弥陀さまへもお念仏へも心が向きません。
そういう状態では阿弥陀さまも救いようがありません。
ですから、極楽、阿弥陀さま、お念仏に向くことができるかどうかが大きな基準となります。
「これほどに心得つれば、貪瞋等の虚仮の心は失せて、真実心は易く起こるなり。これを浄土の菩提心というなり」
「このように心得ていれば、貪、瞋などの虚仮の心は消え失せて、真実心は簡単に起こります。これが浄土宗の菩提心です」
菩提心とは覚りを目指す心です。
極楽、阿弥陀さま、お念仏に心を向けることができる程度ならば何の問題もないということです。
「詮ずるところ、生死の報を軽しめ、念仏の一行を励むが故に、真実心とはいうなり。」
「要するに、俗世間での幸不幸や利害損得に振り回されず、お念仏一筋に励むので、真実心と言うのです」
この世は色んなことがあります。
でも南無阿弥陀佛と称えておれば必ず命尽きた後に、煩いのない、苦しみのない、辛いことのない極楽浄土へ往けるのです。
この世では辛いことも悲しいこともあるけれども、こうしてお念仏を称えていたらいつかあの極楽浄土へ往生できる、ということを力に生きることができるならば、その心が即ち真実心、至誠心なのです。