成道山 法輪寺

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御法語

前篇第十章 一紙小消息②

原文

受け難(がた)き人身(にんじん)を受けて遇い難き本願に遇いて、起こし難き道心(どうしん)を起こして、離れ難き輪廻(りんね)の里を離れて、生まれ難き浄土に往生せん事、悦びの中の悦びなり。罪は十悪五逆の者も生まると信じて小罪(しょうざい)をも犯さじと思うべし。罪人なお生まる、況(いわん)や善人をや。行(ぎょう)は一念十念なお虚しからずと信じて無間(むけん)に修(しゅ)すべし。一念なお生まる、況(いわん)や多念(たねん)をや。阿弥陀仏(あみだぶつ)は不取正覚(ふしゅしょうがく)の言(ことば)を成就(じょうじゅ)して、現に彼の国(かのくに)に在(ましま)せば、定(さだ)んで命終(みょううじゅう)の時(とき)は来迎(らいこう)し給(たま)わん。釈尊(しゃくそん)は善き哉(かな)我が教えに随(したが)いて生死(しょうじ)を離ると知見(ちけん)し給(たま)い、六方(ろっぽう)の諸仏は悦ばしき哉(かな)我が証誠(しょうじょう)を信じて不退の浄土に生まると悦び給うらんと。天に仰ぎ地に臥して悦ぶべし、このたび弥陀(みだ)の本願に遇うことを。行住坐臥(ぎょうじゅうざが)にも報(ほう)ずべし、彼(か)の仏(ほとけ)の恩徳(おんどく)を。頼みても頼むべきは乃至十念(ないしじゅうねん)の詩(ことば)。信じてもなお信ずべきは、必得(ひっとく)往生の文(もん)なり。

 

現代語訳

受け難い人間としての生を受け、遇い難い本願にめぐり合い、起こし難い覚りを求める心を起こして、離れ難い輪廻の境遇を離れ、生まれ難い浄土に往生すること、それは悦びのなかの悦びであります。
罪については「十悪・五逆の罪を犯した者でも生まれる」と信じながら、「少しの罪も犯すまい」と思いなさい。罪人でさえ生まれます。まして善人は言うまでもありません。行については「一遍や十遍の念仏でも必ず実を結ぶ」と信じながら、絶え間なく称えなさい。一度の念仏でさえ往生します。まして多く念仏する者は言うまでもありません。
阿弥陀仏は「〔四十八の本願が叶わない限りは〕正しい覚りを開くまい」という〔誓いの〕言葉を成就して、現にかの極楽国におられますので、必ず命の終わる時にはお迎えくださるでしょう。釈尊は「よいことだ。〔念仏者は〕私の教えに随って、迷いの境涯を離れる」とお見通しになり、m六方の世界におられる諸仏は「悦ばしいことだ。私たちの証言を信じて、覚りに向かって退くことのない極楽浄土に生まれる」とお悦びくださっているでしょう。
天を仰ぎ、地にひれ伏して悦びなさい、この生涯で阿弥陀仏の本願にめぐり合えたことを。立ち居起き臥しにも報いるべきです、かの阿弥陀仏の恩徳に。頼みとして上になお頼みとすべきは「最低十念する人でも〔救い取ろう〕」というお言葉であります。信じた上にもなお信じるべきは「〔念仏すれば〕必ず往生することができる」という一文であります。

 

解説

輪廻という言葉をご存知でしょうか。生まれ変わり死に変わりを繰り返すということです。ただ、日本人はこの輪廻という言葉を割と楽観的に見ているような気がします。
「生まれ変わったらまた一緒になろうね。」とか、元プロ野球の清原選手の引退試合に時に、ソフトバンクの王監督が「生まれ変わったら一緒にチームでホームラン争いをしよう。」と言っておられました。それはそれでよいのですが、本来の輪廻はそんな楽観的なものではありません。苦しみ迷いの世界を経巡り続けて苦しみ続けるのが輪廻です。
インド人はこのように考えます。「この世では死にたくないのに死ぬ、病になりたくないのに病になる、老いたくないのに老いる、愛する人と別れたくないのに別れる、輪廻したらそれをまた繰り返さなくてはならない。」というわけです。しかも人間に生まれることは殆どないのです。
輪廻とは六道輪廻とも申しますように、六つの世界を経巡り続けるのです。江原啓之さんなどが前世は武士だったなどと言っていますが、人間が輪廻してまた人間に生まれ変わるなどということは奇跡に近いことです。六道とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つです。その中でも時に恐ろしい地獄・餓鬼・畜生の三つを三途といいます。三途の川の三途です。私たちは自分の行いの善し悪しによって行く先が決まるといいます。
私たちはどこから生まれたのかというと、殆どが三途で、死んだらどこに行くのかというと、殆どが三途だといいます。つまり私たちは三途から来て三途に還っていくのです。
一度三途に墜ちますと、這い上がってくることは難しいのです。なぜなら苦しい時には善いことなどできないからです。地獄は苦しみしかない世界です。限界の苦しみを味わっている最中に善いことなどとてもできません。自分のことで精一杯です。ですから地獄での寿命が尽きてもまた地獄に生まれねばなりません。
私たちは三途から来たと申しました。それなのに人間に生まれてきたということは、前世で三途のいたであろうにその苦しみの中で相当に善いことをしたのか、もしくは誰かの心のこもった廻向を受けたのかどちらかです。
お釈迦さまは人間に生まれることを、砂に喩えられました。ガンジス川の砂を指で一掬いして、弟子の阿難尊者に「この大きなガンジス川にあるすべての砂と、私の指に乗っている砂ではどちらが多いと思うか?」と尋ねられました。阿難尊者は「もちろんガンジス川の砂の方が多いでしょう。」と答えられました。お釈迦さまは「その通りである。人間に生まれてくるというのは、ガンジス川の砂と比較してこの指に乗っている砂ほどの僅かな確率なのだよ。」と仰ったといいます。
輪廻し続けて苦しみの世界を経巡り続けてようやく人間として生まれたのです。人間に生まれてくるということは決して当たり前のことではないのです。
本文を見ていきましょう。
「受け難き人身を受けて、遇いがたき本願に遇いて、発こし難き道心を発して、離れ難き輪廻の里を離れて生まれ難き浄土に往生せんこと、悦びの中の悦びなり。」
「受け難い人の身を受けて、遇いがたい阿弥陀様の本願、お念仏のみ教えに出会って、発し難い道心を発し」道心とは極楽へ往生したいと願う心です。
「離れ難い苦しみ、迷いの輪廻の里を離れて往生し難い極楽浄土へ往生することができるのは悦びの中の悦びですよ。」ということです。
今自分が置かれている立場を理解しましたら、極楽への往生を願わなくてはならないことがお分かりいただけるのではないでしょうか。
お念仏は称えても称えなくてもどちらでもいいのではありません。称えなかったら地獄へ行くしかない私であるから称えるのです。
次に私たちはどのような者で、これから何をすればよいかということが書かれています。
「罪は十悪五逆の者も生まると信じて小罪をも犯さじと思うべし。罪人なお生まる、いわんや善人をや。」
十悪五逆は、この一紙小消息の前半にも出て参りました。私たち十悪、五逆の者も往生できるとする一方、しかし少しの罪も犯さないように注意を促すのです。どんな悪人でも往生できるからといって、どんな罪を犯しても構わないということではありません。本来犯してはならないものだけれども、私たちは悲しいことに煩悩があり、次々に罪を犯してしまうのです。したくないけど罪を犯し、知らず知らずのうちに罪を犯す私たちですが、できるだけ少しの罪も犯さないでおきたいものであります。罪人でも往生できるのであるから、善人は当然であると書かれています。
「行は一念十念なお虚しからずと信じて無間に修すべし、一念なお生る況や多念をや。」
「一遍、十遍のお念仏でも往生できると信じて絶えずお念仏を称えましょう。一遍でも往生できるのだからたくさんなら尚のことであります。」
一遍、十遍で往生できるというのは、臨終の時のことです。人によってお念仏と出会う縁に早いか遅いかがあります。たとえお念仏との出会いが遅く、臨終間際にようやく出会い、僅かな数のお念仏しか称えることができなかったとしても往生できますよ、ということです。私たちは幸いに早くにお念仏と出会ったのですから、一生涯お念仏を続けて参るのです。
次に書かれているのは、阿弥陀様とお釈迦さまと六方の諸仏のことです。
阿弥陀様はお念仏を称える者をすべて救いとって下さいます。お釈迦さまはお経を説いて下さって、その中で「遙か西の彼方に極楽浄土という世界がある。そこは素晴らしい世界で、阿弥陀仏という仏様がおられる。南無阿弥陀仏と称える者をすべて救いとってくださるのだ。」とおっしゃっています。つまり阿弥陀様は「念仏を称えて来い」とおっしゃり、お釈迦さまは「阿弥陀様を信じて念仏を称えて行け」とおっしゃっているのです。釈迦は行け、弥陀は来いであります。そして六方の諸仏は阿弥陀様の教えは間違いない、お念仏を称えよと勧めて下さっています。
「阿弥陀仏は不取正覚の言を成就して現に彼の国にましませば、定めて命終の時は来迎し給わん。釈尊は善哉、我が教えに随いて生死を離ると知見し給い、六方の諸仏は悦ばしき哉、我が証誠を信じて不退の浄土に生まると悦び給うらんと。
「阿弥陀様はすべての本願を成就するまで仏にならないとお誓いになったあと、すべて成就なさり、極楽浄土をおつくりになりました。そこに今実際にいらっしゃるのです。ですから私たちは本願にしたがってお念仏を称えれば、命が尽きたときには間違いなく阿弥陀様がお迎えくださるのです。お釈迦さまは、よろしいそれでいいのだ、私のお経にしたがってお念仏を称え、輪廻の世界から離れるのだ、と見守って下さっています。六方の仏様方は、悦ばしいことだ、私たちが阿弥陀様の教え間違いないと証誠したことを信じてお念仏を称え、迷いの世界に二度と戻ることのない極楽浄土へ往生していくのだ、と喜んで下さっていることでしょう。」
「天に仰ぎ地に臥して悦ぶべし、この度弥陀の本願に遇うことを。行住坐臥にも報ずべし、彼の仏の御徳を。」
「天にも仰ぎ、地にも伏せてこのたび阿弥陀様の本願に遇えたことを悦ぶべきですよ。いつでもどこでもどんな時でもお釈迦さまのご恩に報いてお念仏を称えましょう。」
「頼みても頼むべきは乃至十念の詞、信じてもなお信ずべきは必得往生の文なり。」
「阿弥陀様の念仏往生の願を頼りにし、善導大師の念仏を称える者は必ず往生が叶うと仰った言葉を信じるべきですよ。」
非常に尊く、大事なことばかりが書かれている、内容の濃い御法語であります。