前篇第十章 一紙小消息①
(原文)
末代の衆生を往生極楽の機にあてて見るに、行少なしとても疑うべからず。一念十念に足りぬべし。罪人なりとても疑うべからず。罪根深きをも嫌わじと宣えり。時下(くだ)れりとても疑うべからず。法滅以後の衆生なおもて往生すべし。況(いわん)や近来(きんらい)をや。我が身悪(わろ)しとても疑うべからず。自身はこれ煩悩具足せる凡夫(ぼんぶ)なりと宣(のたま)えり。十方に浄土多けれど西方(さいほう)を願うは、十悪(じゅうあく)五逆(ごぎゃく)の衆生の生まるる故なり。諸仏の中に弥陀に帰(き)し奉(たてまつ)るは、三念五念に至るまで自ら来迎(らいこう)し給う故なり。諸行の中に念仏を用うるは、彼の仏の本願なる故なり。今弥陀の本願に乗じて往生しなんに、願として成(じょう)ぜずということあるべからず。本願に乗ずることは信心の深きによるべし。
(現代語訳)
末法の時代の衆生を、極楽に往生できるかできないかの能力に当てはめて考えるとき、行が少なくても、疑ってはなりません。一遍や十遍(の念仏)で充分なのです。(悪業を犯す)罪人であっても、疑ってはなりません。「罪深くても、分けへだてはしない」と説かれています。
時代が下ったとしても、疑ってはなりません。仏教が滅んだ後の衆生でさえ往生することができるのです。まして末法の今については言うまでもありません。自身が悪くても疑ってはなりません。「私たちは煩悩を具えた凡夫である」と説かれています。
あらゆる方角に浄土は多くありますが、西方(浄土)を願うのは、十悪・五逆の罪を犯した衆生までもが生まれるからであります。様々な仏がおられるなかで、阿弥陀仏に救いを求めるのは、三遍や五遍(しか念仏できずに死に臨む者)に至るまで、自らお迎え下さるからであります。様々な行のなかで念仏を用いるのは、かの阿弥陀仏の本願(の行)だからです。今、阿弥陀仏の本願に乗じて往生したならば、いかなる願いも成就しないはずはありません。本願に乗じることは、信心の深さによります。
(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会より)
(解説)
今回の御法語は「一紙小消息」と呼ばれるものです。皆さんよくご存じの一枚起請文と共に、よく読まれる御法語です。一枚起請文は浄土宗の教えの肝要を最も簡潔に説かれたもので、一紙小消息は浄土宗の教えを理論的にまとめたものと言ってよいでしょう。それだけに非常に内容が濃いのです。
一紙小消息は消息、つまりお手紙です。法然上人が黒田の上人という方に送られたものです。黒田の上人がどういう方であったかは未だにはっきりとわかっていません。しかし、相当浄土宗の教義を深く理解しておられる方に送られたものと考えられます。
それがわかるのは、この方は「自分が愚かである」ということをすでに知っておられるということです。自分が煩悩だらけで、罪を作り続けていて、このまま命尽きたら地獄に行くしかないような者であるという自覚があるのです。
現代の私たちはどうでしょうか。自分が愚かであると言っても、少し失敗して反省したり、人間関係につまずいて「私もバカだなあ」と思う程度でしょう。「あなたは愚かですから地獄に行くことになるでしょう」などと言われたら腹を立ててしまうのではないでしょうか。
浄土の教えをいただくにはまず「自分の力では救われない」といことを知ることが大切です。一紙小消息のお相手の方はすでにそのレベルの方であるということを意識していただいて、本文を読んで参りたいと思います。
最初に「末代の衆生を往生極楽の機にあててみるに」とあります。
機といいますのは、素質とか能力という意味です。機を器に置き換えた方が意味が分かりやすいかも知れません。まず「どういう素質・能力の者が極楽へ往生するのか」ということです。
「お釈迦様のおられた時からずっと下った時代に生きる人々が極楽へ往生する器であるのかどうかみてみると」ということです。
「行少なしとても疑うべからず、一念十念に足りぬべし」「たとえお念仏の数が少ないとしても往生を疑ってはなりませんよ。一遍、十遍の念仏でも往生を叶えてくださるのです」
このように言いますと、現代人は「ちょっと念仏を称えるだけでいいんだな。簡単なんだな。」と単純に思うでしょう。しかし、恐らくこの手紙のお相手の方はお念仏をもっと称えている方だと思います。「称えても称えても私如きが往生できるとは思えない」という方に「お経には数少ない念仏でも往生できると記されていますよ。」とお伝えするのです。それを聞かれた方はさぞ喜ばれたことでありましょう。
次に「罪人なりとても疑うべからず、罪根深きをも嫌わじと曰えり。」とあります。
この一文は中国の法照禅師『五会法事讃』に「破戒と罪根深きとを簡(えら)ばず」と書かれているのを前提としていますので「~と曰えり」と記されます。「法照禅師が曰えり」ということです。
ここでいう罪人とは、いわゆる法律を犯した犯罪者を指すのではありません。煩悩によって日々やりたくなくとも悪い行いを繰り返してしまうことを自覚して言うのです。自分の嫌いな相手に対して「死んでしまったらいいのに」というような思いを抱くのは殺生の罪です。殺生さえも犯しかねない私は罪人以外の何者でもないでしょう。「罪人であっても往生を疑ってはなりません。お釈迦様が説かれたお経には、どんな罪深い人も阿弥陀さまは見捨てられないのだと記されているのです」ということです。
次に「時下れりとても疑うべからず。法滅以後の衆生猶もて往生すべし、況や近来をや。」これは天災や飢饉、戦によって人々が絶望している時代の方が「お釈迦様の時代から遠く隔たった私たちは救いから漏れてしまいますね」と思っているところへ「時が隔たっていても往生を疑ってはなりません。仏教が滅びたあとの人々でさえもお念仏を称えれば往生するのですよ。ましてやまだ滅びていない時代ではないですか。」と仰るのです。
「我が身悪しとても疑うべからず。自身は煩悩具足せる凡夫なりと曰えり」「自分は煩悩を断つこともできないから往生できない」という方に、善導大師様のお言葉を引用されてお説きになります。
善導大師様は中国の唐の時代に浄土教の教えを完成された方です。お仏壇の向かって右側におられる方です。
「善導大師様でさえ、自分は煩悩だらけの凡夫であるとおっしゃっているのですよ。」と説かれるのです。その善導大師様が煩悩だらけの凡夫が救われる教えを伝えてくださっているのですから、煩悩があることは障害にならないのです。
ここまでが「どういう素質、能力の者が往生するのか」について書かれた箇所です。結論は「どんな素質、能力の者でも往生できる」ということです。
ただ誤解してはならないのは「極楽への往生を願い、阿弥陀様を信じ、南無阿弥陀仏と念仏を称える者」はどんな素質、能力の者でも往生できる、ということです。逆に言いますと、たとえどれだけ社会的地位が高かろうが、人に親切なよい人であろうが、ボランティアに尽くす人であろうが、極楽への往生を願わず、阿弥陀様を信じず、念仏を称えないならば、往生は難しいということになります。
これ以降はこの三つのキーワード、「西方極楽浄土・阿弥陀仏・念仏」について書かれています。
浄土というのは極楽だけではありません。仏様は無数におられ、その仏様お一方につき一つの浄土があります。薬師如来様の浄土は東方瑠璃光浄土といいます。お釈迦様の浄土は無勝荘厳浄土といいます。阿弥陀様の浄土を指して西方極楽浄土といいます。
芥川龍之介の『蜘蛛の糸』には「ある日の事でございます。御釈迦様(おしゃかさま)は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。」とありますが、お釈迦様が極楽の蓮池のふちを歩かれることはありません。極楽におられる仏様は阿弥陀様だけです。芥川龍之介ほどの人がなぜこのようなことを書かれたのかはわかりませんが、ありえないことです。
「十方に浄土多けれど西方を願うは十悪五逆の衆生の生まるる故なり」「あらゆるところにたくさんの浄土がある中で、なぜ西方極楽浄土を願うのかというと、十悪五逆の悪人が救われるからです」とあります。他の浄土でもいいじゃないか、なぜ極楽なのかというと十悪五逆の悪人が救われるからなのです。
十悪とは殺生、盗み、不倫、嘘をつく、悪口を言う、おべんちゃらを言う、二枚舌を使う、生きることに必要なもの以上のものを欲しがる、腹を立てる、道理に暗い行いをするというもので、代表的な地獄・餓鬼・畜生行きの行いです。
これを思うと私たちがしていることばかりです。体の行いだけでなく心の行いが重要ですから、先に申し上げた人の死を願うなどというのは殺生になるわけです。十悪のどれをとっても私たちがしている行いとして当てはまらないものは何もないのです。五逆は更に親殺しや悟った人を殺すなどの重い罪です。私たちは十悪五逆の罪人なのです。この罪人を迎えてくれる浄土は、無数にある浄土の中で極楽だけなのです。他と比べて極楽へ往こうという前に、私たちが行けるのは極楽だけです。極楽のみが広く門戸を広げてくださっているのです。
「諸仏の中に弥陀に帰し奉るは三念五念に至るまで自ら来迎したまう故なり」「たくさんおられる仏様の中で、なぜ阿弥陀様を敬うのかというと、それは三遍、五遍といった数の少ないお念仏の一声も聞き漏らさず、臨終の時には阿弥陀様自らがお越し下さり極楽へ導いてくださるからです」
更にはここにはありませんが、極楽へ往生したあとちゃんと仏になるまで責任をもってお育て下さるのです。そんな至れり尽くせりの仏様が他におられますかということです。
「諸行の中に念仏を用うるは彼の仏の本願なる故なり」「色んな修行方法がある中でなぜ念仏なのかというと、それは阿弥陀様の本願だからなんだ」
南無妙法蓮華経とお題目を称えてもいいじゃないか、般若心経を称えてもいいじゃないか、千日回峰でも座禅でも陀羅尼を称えてもいいじゃないか、なのになぜ念仏なのかというと、それは阿弥陀様が約束してくださっているからだというのです。阿弥陀様ご自身が「南無阿弥陀仏と称える者を極楽に迎えとるぞ」と言ってくださっているのです。
念仏は極楽往き専門の行です。他の修行は極楽へ往くための修行ではありません。この世で悟りを開くためのものです。私たちは自分自身を見つめて、とても修行してこの世で悟りを開くことができない自分を認め、お念仏をお称えするのです。そして阿弥陀様のお力によって極楽へ往生させていただき、そこで悟りを開くことができるまで阿弥陀様に育てていただくのです。
最終的な目的は同じですが、私たちにできる道はお念仏の道しかないと信じます。「今弥陀の本願に乗じて往生しなんに、願として乗ぜずということあるべからず」「今阿弥陀様の本願を信じて往生しようと願うならば、それが叶わないことは決してありません」
「本願に乗ずることは信心の深きによるべし」「本願に身を任せて往生するということは、阿弥陀様をお慕いする心の深さによるのです。」
以上が一紙小消息の前半です。
非常に内容が濃いことがお分かりいただけると思います。
極楽への往生を願い、阿弥陀様を信じ、南無阿弥陀仏と称える者はどんな者でも極楽へ往生することができるということを理論的に整理して説かれているのです。