成道山 法輪寺

〒661-0035 兵庫県尼崎市武庫之荘4-4-10
お問合せ:06-6431-2695
FAX:06-6431-2796
E-mail:

御法語

前篇第十五章 信行双修

(原文)

(いち)(ねん)(じゅう)(ねん)(おう)(じょう)をすといえばとて、(ねん)(ぶつ)()(そう)(もう)すは(しん)(ぎょう)(さまた)ぐるなり。(ねん)(ねん)()(しゃ)(しゃ)といえばとて、(いち)(ねん)()(じょう)(おも)うは(ぎょう)(しん)(さまた)ぐるなり。(しん)をば(いち)(ねん)()まると(しん)じ、(ぎょう)をば(いち)(ぎょう)(はげ)むべし。(また)(いち)(ねん)()(じょう)(おも)うは、(ねん)(ねん)(ねん)(ぶつ)ごとに()(しん)(ねん)(ぶつ)になるなり。その(ゆえ)は、()()()(ぶつ)(いち)(ねん)(いち)()(おう)(じょう)()ておき(たま)える(がん)なれば、(ねん)ごとに(おう)(じょう)(ごう)となるなり。

 

(現代語訳)

「一念や十念でも往生する」と説かれるからといって、念仏をおざなりに称えるのは、(本願への)信心が念仏の行を妨げているのです。「念仏し続けて片時もやめないならば(往生できる)」と解釈されるからといって、「一念では(往生が)不確かだ」と思うのは、(念仏の)行が(本願への)信を妨げているのです。信心については「一念で往生できる」と信じ、行については、生涯続けて励むべきです。
また「一念では(往生が)不確かだ」と思うならば、一声一声の念仏が、それぞれに不信の念仏となります。そのわけは、阿弥陀仏(の本願は)、一念に一度の往生をあてがわれた願なので、念仏するたびにそれが往生のための行いとなるからです。(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊)

 

(解説)

念仏の教えは「阿弥陀様の本願を信じて南無阿弥陀仏と称えれば必ず阿弥陀様が救ってくださる」というみ教えです。そのお念仏の数についてお経には「たとえ十遍の念仏であっても」と記されています。中国の唐の時代にお念仏の教えを完成された善導大師は「十遍の念仏で救われる」というのは「一遍の念仏でも救われる」というこのなのだとおっしゃいます。
そうすると、「それじゃ一遍でいいじゃないか。阿弥陀様の教えを信じてさえいれば、多く称える必要などない。」という人が出てきます。「一念義」といいます。「一度念仏を称えた、その時にはすでに救われているのだ」というのです。
そ れに対して「いやいや、そうではないんだ。念仏は多ければ多いほどいいんだ」と言う人もできてきます。これを「多念義」といいます。
「一念義」は、称えることよりも信じること、「信」を重視します。「多念義」は、「信」よりも「行」を重視します。ですから、「一念義」か「多念義」かという議論は、「信」か「行」かという議論なのです。
法然上人はどのようにおっしゃっているかというと、「信」だけでもなく「行」だけでもない、どちらも必要なんだとおっしゃいます。どちらか片方でよいということではない、車の両輪のように「信」と「行」はお互いを励まし合いながら進んでいくのだとおっしゃいます。それをふまえて本文をお読みします。
「一念十念に往生をすといえばとて、念仏を疎想に申すは信が行をさまたぐるなり」「一遍十遍の念仏で往生するからといって、念仏を称えるのをいい加減にするのは信が行を妨げることになります。」
「念々不捨者といえばとて、一念を不定に思うは行が信をさまたぐるなり」
「念々不捨者」というのは、善導大師のお言葉で、一瞬一瞬に捨てない、つまり「ずっと続けていく」という意味です。ですから、「念仏をずっと続けていくようにと善導大師はおっしゃっているが、一遍の念仏では往生できないと思うのは、行が信を妨げているのですよ」となります。
次の言葉が法然上人の立場を明確に表現しています。「信をば一念に生まると信じて行をば一行に励むべし」「一遍の念仏で往生できるのだと信じてひたすら称えましょう」つまり一遍で往生できるからといって、一遍で終わりではないということです。たった一遍の念仏で往生できるのだから、益々称えましょうということです。
「又一念を不定に思うは念々の念仏ごとに不信の念仏になるなり」「一遍の念仏では往生できないと思うのは、一声一声の念仏がすべて信のない念仏になりますよ。」要は一遍でだめだというのなら、何遍称えてもだめでしょう、だめなものをどれだけ重ねてもだでしょう、というわけです。
「その故は阿弥陀仏は一念に一度の往生をあておき給える願なれば、念ごとに往生の業となるなり」「なぜならば、阿弥陀様は一遍の念仏で救うと願を立ててくださっているのだから、一声一声がどれも往生の業となるのですよ 」というのです。一声で往生なのですから、称える毎に「往生、往生、往生、往生」と往生の業が積み重なっていくのです。
ただ、そもそも十遍の念仏というのは、お経では臨終の時の十念をいいます。『観無量寿経』というお経には、生きている間散々悪いことをしてきた人が、臨終の時に念仏者によって初めて念仏の教えを聞いて、念仏を称えた人の、その称えた数が十遍であったけれども間違いなく往生したとあります。
臨終間際に念仏信仰のある人がお見舞いにやってきて、念仏の教えを伝え「今まで知らなかったけれどもそんなありがたい教えがあったのか」と気づき、南無阿弥陀仏と称えた人は往生するのです。
実際に臨終間際で念仏の教えと出会う人は多くはないと思います。でも私などは、枕経で初めてお会いする人がいます。恐らく今までお念仏を称えてはおられなかったでしょう。そういう人に私は枕経の際に直接話しかけます。「初めまして。法輪寺です。阿弥陀仏という仏様が私たちのために極楽浄土という絶対の幸せの国を作ってくださいました。南無阿弥陀仏と称える者はすべて極楽へと迎えとると言ってくださっています。今まであなたがお念仏を称えてこられたかどうかわかりませんが、どうか今称えてください。声に出して称えることはできないでしょうが、私も家族のみなさんも一緒にお念仏を称えてくださいますので、どうか最後の今、称えてください」と申し上げてお念仏を十遍称えます。それから改めて家族の方にご挨拶をし、打ち合わせをし、正式に枕経のお勤めをします。枕経というのは大事な時です。それが終わって念仏を称えてお通夜を勤めます。親しい人が故人を思って思い出話をするのもよいのかも知れませんが、取り返しのつかない大事な時ですから、やはりお通夜はお念仏を称えて過ごすべきでしょう。そしてお葬式で導師が引導を渡し、十遍の念仏を授けるのです。
信心さえあれば一遍の念仏でもいいなどと言いますが、私達凡夫の信心なんていい加減なものです。「ありがたいな」と思っても、そのまま放っておいたら信心なんてなくなってしまいます。だからやはり念仏を称えなくてはならないのです。ありがたいと思ったら、南無阿弥陀仏と称えるのです。そしてまたありがたいと信心を深めて更にお念仏を称えるのです。
また、「多念義」のように、ただ多く称えればよいと言っても、信心がなければ多く称えることなんてできません。信仰もないのに1万遍念仏を称えるなんてことは、苦痛以外の何者でもないでしょう。
信心を起こし、念仏を称え、また信仰を深める。これが法然上人がお説きくださるお念仏のみ教えです。