前篇第十九章 乗仏本願
(原文)
他力本願に乗(じょう)ずるに二つあり、乗(じょう)ぜざるに二つあり。乗(じょう)ぜざるに二つというは、一つには罪を作るとき乗(じょう)ぜず。その故は、かくの如く罪を作れば念仏申すとも往生不定(ふじょう)なりと思うときに乗(じょう)ぜず。二つには道心(どうしん)の起こるとき乗(じょう)ぜず。その故は、同じく念仏申すとも、かくの如く道心(どうしん)ありて申さんずる念仏にてこそ往生はせんずれ。無道心(むどうしん)にては念仏すとも叶うべからずと、道心(どうしん)を先(さき)として本願を次に思うとき乗(じょう)ぜざるなり。次に本願に乗(じょう)ずるに二つの様(よう)というは、一つには罪作るとき乗(じょう)ずるなり。その故はかくの如く罪を作れば、決定(けつじょう)して地獄に堕(お)つべし。然(しか)るに本願の名号(みょうごう)を称(とな)うれば、決定(けつじょう)往生せんことの嬉しさよと喜ぶときに乗(じょう)ずるなり。二つには道心(どうしん)起こるとき乗(じょう)ずるなり。その故は、この道心(どうしん)にて往生すべからず。これ程の道心(どうしん)は無始(むし)よりこのかた起これども、未(いま)だ生死(しょうじ)を離れず。故に道心(どうしん)の有無を論ぜず、造罪(ぞうざい)の軽重(きょうじゅう)を言わず、ただ本願の称名(しょうみょう)を念々相続(ねんねんそうぞく)せん力に依りてぞ往生は遂(と)ぐべきと思うときに、他力本願に乗(じょう)ずるなり。
(現代語訳)
(阿弥陀仏の)他力本願に乗じる場合に二つあり、乗じない場合に二つがあります。
「乗じない場合に二つ」とは、第一に、罪を犯す時に乗じません。そのわけは、「このように罪を犯せば、念仏を称えても往生は確かでない」と思う時には乗じないからです。
第二に、菩提心が起こる時に乗じません。そのわけは、「同じように念仏を称えても、このように菩提心があって称える念仏によってこそ、往生できるであろう。菩提心がなくては念仏しても叶うはずがない」と(自らの)菩提心を優先させ、(仏の)本願を二の次に思う時には乗じないからです。
次に、本願に乗じる場合の二つのありようとは、第一に、罪を犯す時に乗じます。
そのわけは、「このように罪を犯せば、必ず地獄に堕ちるだろう。けれども、本願の名号を称えれば、必ず往生できるとは何と喜ばしいことか」と喜ぶ時には乗じるからです。
第二に、菩提心が起こる時に乗じるのです。そのわけは、「この菩提心によっては往生できない。この程度の菩提心は、遠い過去から今まで(何度も)起こしてきたが、いまだ私は迷いの境涯を離れてはいない。だから菩提心の有無に関わらず、犯した罪の軽さ重さを問わず、ただ本願の称名念仏を絶え間なく続ける力によってこそ、往生は遂げることができる」と思う時には他力本願に乗じるからです。
『法然上人のお言葉』(総本山知恩院布教師会刊)
仏教には「自力の仏教」と「他力の仏教」があります。
自力の仏教とは「修行や難しい学問をして、自分自身を高めて最終的に覚りを得よう」という教えです。
つまり「自分の力で覚りを開こう」という教えです。
その「自分の力」を「自力」といいます。
片や「他力の仏教」とは、どういうものか。
難しい修行や学問などできないどころか日々煩悩により悪い行いばかりを繰り返して、到底覚りなど覚束ないと自覚した者を、阿弥陀仏という仏さまが見るに見かねて、「私の名前を呼ぶ者を救ってやろう」と言って下さいました。
それを信じて南無阿弥陀仏と称えるならば、阿弥陀さまの力によって初めて極楽浄土へ救いとって頂けるという教えです。
その「阿弥陀さまの力」を「他力」といいます。
このように申しますと、それなりに「そういうものか」とご理解いただけると思うのですが、完全に「他力」というものをご理解いただくことはとても難しいのです。
分かったようでわからないのが「他力」ではないでしょうか。
なぜわかりにくいのかと言いますと、「自分の力も認めたい」という心が誰しもあるからです。
「阿弥陀さまの力によって救われる」と言いながら、「しかし私の力だって少しは役に立っている」と思いたいのですね。
ここに二人の信仰者がいるとしましょう。
一人は家でお念仏を称えています。
そしてもう一人は西国霊場をすべて回ってお念仏を称えているとします。
西国霊場を回ってお念仏を称える人は、「私は家でお念仏を称えている人よりも少しレベルが高い」と思ったりします。
西国霊場を回っても極楽浄土へ往生できないのに、南無阿弥陀仏と称える者を救うと言って下さっているのに、私の努力で少しは近づいたような気になるものです。
それでは他力を理解したとは言い難いですね。
私達は自分の力では往生できません。
往生するのに自分の力は少しも役に立ちません。
阿弥陀さまの力によって初めて往生できるのです。
もちろん霊場巡りをすることが悪いはずはありません。
仏菩薩に対する敬いの心は、とても尊いことです。
ただ、その「私の努力」によって極楽へ往生するのだ、という心は慢心です。
尊いことをする時も注意しないと、ついつい強い「我」が出てくるものです。
また、自分は罪深いのだと思うが余り「南無阿弥陀仏で往生できるはずはない。そんな簡単に救われるはずがない」と阿弥陀さまを信じることができない人も往生できません。
先の「自力」を頼る人、後の自分を卑下して阿弥陀さまの救いの力を疑う人は共に往生できません。
しかしこういう人が多い。
そこで今日の御法語があるのです。
少しややこしい御法語で、何気なく読むと「さっきこうかいてあったのに次は逆のことが書いてある」と思うかもしれません。
ですから少し丁寧にお読み下さい。
「他力本願に乗ずるに二つあり、乗ぜざるに二つあり」
「阿弥陀さまの本願の力で往生できるのに二つのパターンがある。
また往生できないのに二つのパターンがある。」
「乗ぜざるに二つというは、一つには罪を造るとき乗ぜず。」
「往生できない二つのパターンの内、一つは罪を造ると往生できません。」
罪を造る人は往生できないといいます。
しかし念仏の教えは罪を造る者でも往生させていただけるという教えですよね。
「どうしてだろう?」と思いつつ読み進めることにします。
「その故は、かくの如く罪を造れば、念仏申すとも往生不定なりと思う時に乗ぜず」
「なぜならば、このように罪を造っていたら念仏を称えていても往生なんてできないと思ってしまう場合には往生できません」
先ほど申し上げたことですね。
自分が罪深いと思うが余りに阿弥陀さまの力さえも疑ってしまうようではダメです。
「二つには道心の起こる時乗ぜず。」
「二つ目は道心が起こる場合は往生できません。」
道心というのは「必ず覚りを開くぞ」という強い心です。
ですから決して悪い心ではありません。
むしろ善い心です。
しかし道心がある人はダメだというのです。
なぜか?と思いつつ読み進めていきます。
「その故は、同じく念仏申すとも、かくのごとく道心ありて申さんずる念仏にてこそ、往生はせんずれ。無道心にては念仏すつも叶うべからずと、道心を先として、本願を次に思う時乗ぜざるなり」
「なぜならば、同じように念仏を申していても、私のように道心があって申す念仏によってこそ、往生できるのだ。道心がなければ念仏していても往生なんてできっこないと、道心を優先して阿弥陀さまの本願を次に思ってしまうようでは往生できません」ということです。
先に申し上げた西国霊場を巡る人がこのパターンですね。
自分が「悟るぞ」という強い心を持っているからこそ往生できるのだと、自力を頼ってしまうのです。
阿弥陀さまの力よりも自分の力を頼る、あるいは阿弥陀さまの力で救われるのだけれども、自分の力も加わってこそ往生は叶うというように他力を信じ切れないのではダメです。
「次に、本願に乗ずるに二つの様というは、一つには罪造る時乗ずるなり。」
「次に阿弥陀さまの本願によって往生できるのに二つのパターンがあるという内の一つは、罪を造る場合は往生できます」
前半では罪を造る人は、自分の罪深さを自覚する余り、阿弥陀さまでも私など救うことはできないと阿弥陀さまの力を疑うからダメだと書かれていました。
しかし今度は罪を造る人が往生できるとあります。恐る恐る読み進めて参ります。
「その故は、かくの如く罪を造れば、決定して地獄に堕つべし。しかるに、本願の名号を称うれば、決定往生せんことの嬉しさよと喜ぶ時に乗ずるなり」
「なぜならば、このように罪を造っていたら、間違いなく地獄に堕ちるであろう。しかしながら、阿弥陀さまの本願である南無阿弥陀仏のお名号を称えていたら、間違いなく往生できるということが嬉しいなあ、と喜ぶ場合は往生できます。」ということです。
日々罪を造る私達は、そのままでは到底極楽往生など覚束ない者です。
地獄行き間違いないなのです。
しかし、そんな私が南無阿弥陀仏と称えて阿弥陀さまにすがれば間違いなく往生できるのです。
自力では100%往生できない者が他力によって100%往生させていただけるのですから、こんな有り難いことはありません。
それをしっかりと分かって念仏を称える者は大丈夫ですよということですね。
「二つには道心起こる時乗ずるなり」
「二つ目は道心が起こる場合は往生できます」
先ほどは道心が起こる人は自力に頼って他力を侮るから往生できないとされたのが、今度は往生できるとあります。「おや?」と思いつつ読んでいきます。
「その故は、この道心にて往生すべからず。これ程の道心は無始よりこのかた起これども、未だ生死を離れず。故に、道心の有無を論ぜず、造罪の軽重を言わず、ただ本願の称名を念々相続せん力に依りてぞ、往生は遂ぐべきと思う時に、他力本願に乗ずるなり」
「なぜならば、この道心で往生するのではない。この程度の道心は過去に輪廻を繰り返す内に起こったこともあるであろうが、未だに輪廻しているではないか。だから道心の有無は関係ないのだ、罪の軽い重いも関係ないのだ、ただ阿弥陀さまの本願である称名念仏をずっと続けていくことによってのみ、往生できるのだと思う場合に阿弥陀さまの本願によって往生できるのだ」
無始というのは、始まりのない昔という意味で、前世、前前世、ずーと昔ということです。この程度の道心は何度も輪廻を繰り返す中で起こしたこともあるだろう。
でもまだ人間として輪廻の輪の中で苦しんでいるじゃないか。
そんな私が起こす程度の道心なんて何の足しにもならないではないか、という自覚をした上で、阿弥陀さまにすがるしかないと気づいた人は往生できるのです。
阿弥陀さまは、「わが名を呼ぶ者を救う」と言って下さっています。
ただそれだけです。
なのにこちら側が勝手に「私の罪ではダメだ」とか、「あの人と比べたら私の方が頑張ってる」と他人と比較して上だとか下だとか言っているのです。
阿弥陀さまからご覧になれば、ドングリの背比べです。
何の違いもないのです。
「ただすがれよ」と言って下さっている、それを素直に信じていくのです。
このことを私はいつも大きな川を渡るという比喩を以て説明します。
大きな川があるとします。その川は濁流です。
こちらの岸は食べる物もないし、そのことで争いが絶えない世界です。
でも向こう岸は楽園です。向こうに渡れば助かるのです。
自力の人は体を鍛えて向こう岸に渡ろうとします。
でも実際に渡れる人は殆どいません。途中で溺れてしまいます。
私達はどうかといいますと、背中に籠を背負わされ、次々に重い石が積まれています。
背中にたくさんの石を抱えたままでは泳ぐどころか水に入ったらたちまちに沈んでしまいます。
途方に暮れていると、阿弥陀さまが見るに見かねて大きな舟を用意して下さいました。
どんな大きな石を背負っていようと、どんなに重い石を抱えていようとも阿弥陀さまの舟に乗れば必ず向こう岸に渡していただけます。
阿弥陀さまは「早く乗れよ。必ず向こうに渡してやるから。」と呼びかけて下さいます。その声に応えて阿弥陀さまの舟に素直に乗れば必ずや向こう岸へ渡り、幸せに過ごすことができるのです。
しかしある人は、「私はみんなよりたくさんの重い石を背負っているから、阿弥陀さまの舟に乗ったらきっと舟が沈んでしまう」と言って阿弥陀さまの舟に乗ろうとしません。
阿弥陀さまも舟に乗らない人は向こう岸へ渡すことはできません。
これはまるで「私のような罪深い者は絶対に救われない」と言ってお念仏を称えない人のようではありませんか。
せっかく阿弥陀さまが必ず救うと言って下さっているのにこちら側がその声を信じることができないのであればどうしようもありません。
またある人は、背中に積もった石を一つずつ放って籠を軽くしようとしています。
でも放った先からまた石は積まれていきます。
ところが本人は石がどんどん積まれていることに気づいていません。
阿弥陀さまは「お前も重い石を背負っているな。この舟に乗らないと自分で泳いだら沈んでしまうぞ」と言って下さっています。
でもこの人はそんな声に耳を傾けず、「大丈夫大丈夫。私は何も背負っていないし体をいつも鍛えている。だから泳いで向こうへ渡れるさ」と言います。
しかし実際には重い石を背負っているのですぐに溺れてしまいます。
これはまるで西国霊場を巡って自分が偉くなったような気がしている人のようではありませんか。
阿弥陀さまはただ「わが名を呼ぶ者を救う」とおっしゃっているのですから、それを信じて称えるのみです。
こちら側の浅はかな計らいで、罪が軽いとか深いとか、道心があるとかないとかを無駄に悩んで阿弥陀さまを信じることができないようでは話になりません。
私達は自分の力では決して救われることはないですが、阿弥陀さまの力、即ち他力によってのみ救われるのだということにしっかりと思いを定めねばなりません。