成道山 法輪寺

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御法語

前篇第十七章 易行往生

(原文)

念仏を申し候(そうろう)ことはようようの義(ぎ)候(そうら)えども、ただ六字(ろくじ)を称(とな)うる中(うち)に、一切の行(ぎょう)は収まり候(そうろう)なり。心には本願(ほんがん)を頼み、口には名号(みょうごう)を称(とな)え、手には念珠(ねんじゅ)をとるばかりなり。常に心を掛くるが極めたる決定(けつじょう)往生の業(ごう)にて候(そうろう)なり。念仏の行(ぎょう)は、元より行住坐臥(ぎょうじゅうざが)時処諸縁(じしょしょえん)を嫌わず、身口(しんく)の不浄を嫌わぬ行(ぎょう)にて易行(いぎょう)往生と申し候(そうろう)なり。ただし、心を清くして申すを第一の行(ぎょう)と申し候(そうろう)なり。人をも左様(さよう)にお勧め候(そうろう)べし。ゆめゆめこの御心(みこころ)はいよいよ強くならせ給い候(そうろう)べし。

 

(現代語訳)

念仏を称えることには、様々な意味がありますが、ただ(南無阿弥陀仏の)六字を称える中に、一切の行がおさまっています。心には本願を頼みとして、口には名号を称え、手には数珠を繰るだけです。常に(そのように)心がけることが、必ず極楽往生の叶う、この上ない行であります。
念仏の行は、言うまでもなく、立ち居起き臥しや、時、所、状況を選ばず、身と口との不浄を問わない行であって、(それによるのを)易しい行による往生と申すのです。
ただし、心を浄くして称える念仏を、最上の行と申します。他の人にも、そのようにお勧め下さい。つとめてこの御心を、よりいっそう強くなさって下さいますように。

(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会)

 

(解説)

法然上人のお弟子、信者の層の幅は多岐にわたります。

天皇や貴族から何と泥棒までいます。

もちろん説かれた教えが念仏という誰もが救われるみ教えであるということもありますが、法然上人のお人柄の懐の広さがよくわかります。
その中でも武士が目立ちます。

武士というと多く身分が高いというイメージを持ちますが、鎌倉時代の武士と江戸時代の武士では全く違います。

鎌倉時代の武士は野蛮人と見られていたようです。

教養もありません。

武勲を挙げるということ、つまり出世するためには殺生を重ねなくてはなりません。

武士だってできれば殺生なんてしたくありません。

そしてそれが罪だということは分かっています。

でもせざるを得ない。

もう救いを諦めるしかなかったのです。

そこに法然上人は、「その生業をやめることができるのであればやめなさい。しかしやめることができなければ、その身そのままでお念仏を称えなさい。必ず救われますよ。」とお説き下さいました。

こうして多くの鎌倉武士が法然上人に帰依し、念仏者となっていきました。
その鎌倉武士の頂点は源頼朝公です。

その奥さんは北条政子さま。

「尼将軍」などとも呼ばれ、NHKの大河ドラマでも何度も取り上げられてきましたのでご存じでしょう。
北条政子さまは臨済宗の信仰を持っていました。

しかし部下である御家人の中に多くの念仏者がいたので、念仏の教えも知っておかねばということも思われたのかも知れません。

そういう思いで法然上人に手紙を送られました。

それに対して法然上人がご返事を書かれました。

その一部分がこのご法語です。

「念仏を申し候事は、ようようの義候らえども、ただ六字を称うる中に一切の行はおさまり候なり。」
「念仏を申すということには、三心や四修などの色んな義があるけれども、ただ南無阿弥陀仏という六文字を称えるという中にすべての行の功徳が収まっています。」

法然上人は常に「極楽浄土へ往くには、ただ南無阿弥陀仏と称えるだけ」とお示しくださいます。

その一方「誠の心を持って」「深く信じる心をもって」「極楽へ往きたいと願って」という「三心」や、念仏生活の仕方を示す「四修」などもお説きくださっています。

ただ、これらは細かく分析して色んな角度から説いてくださったもので、その一々を常に気にしないといけないのではありません。

ただ「南無阿弥陀仏の六字を称える」という行為の中に、すべて収まってくるのです。

そして私達がすべきことは
「心には本願を頼み、口には名号を称え、手には念珠をとるばかりなり」です。

「心には阿弥陀様の本願を頼りにし、阿弥陀様お救い下さいと思って、口には南無阿弥陀仏と称え、手には数珠を繰るだけですよ」ということです。

体の行い、口の行い、心の行いすべてを極楽へ、阿弥陀様へ、念仏へと向けていくのです。

数珠というのは念仏の数を数える道具です。

数を数えるというのは非常に励みになります。

これは間違いのないことです。
例えばダイエットをするにも、体重を量りますよね。

体重を量らないと成果がわからないので努力する気が起こりにくいようです。

食べるものを減らし、運動をして体重を量る。

そうして少しでも減っていると嬉しくなってまた運動する気が起こる。

でもダイエットはある程度まで体重が下がるとその後一旦どれだけやっても減らない時期が来るのだそうです。

そうするとやる気が失せてきます。

そしてダイエットを止めてしまう。
しかしお念仏は称えれば称えるほどに増えていきます。

増えるともう少し、もう少しと益々やろうという気が起こってくるわけです。

私達はお寺へ来てどれだけ有り難い法話を聞いて、お念仏を称える気になっても家に帰ったら「あーおなか空いた、晩ご飯、晩ご飯!」とすっかりスイッチを切り替えてしまいます。
お念仏のスイッチをオンオフしてしまうんですね。
でもそれではいけません。
お念仏生活が底辺にあって、その上で日常の生活ができればありがたいことです。
そのためには放っておいてはいけません。
お念仏が続くように工夫や努力が必要です。
数珠を使うのもその一つです。
私は万歩計を使ってお念仏を数えて、日々の念仏が続くように工夫しております。
色々と工夫をして、極楽へ、阿弥陀様へ、お念仏へと向けていくことが必要です。
ですからご法語はこのように続きます。

「常に心をかくるが極めたる決定往生の業にて候なり」
「常に心を極楽、阿弥陀様、お念仏にかけるのが往生するための究極の行いなのですよ。」ということです。
そして念仏とは決して難しいものではないのですよ、ということが書かれています。

「念仏の行はもとより行住坐臥、時処諸縁をきらわず、身口の不浄をきらわぬ行にて、易行往生と申し候なり」
「念仏の行は元々歩いていても立ち止まっていても座っていても寝転んでいても、できますよ。いつでもどこでもどんな時でも称えることができますよ。そして体や口の汚れ、不浄も嫌わない行であるから、容易く往生できる行であるよというのです。」ということです。

どんな行でも場所を選びます。例えば座禅でしたら、時々電話が掛かってきたり、車の音が聞こえたりする場所ではきません。
ですから曹洞宗のお寺は多く山の中にあります。
でもお念仏は歩きながらでもできますし、たとえ雑踏の中でもできます。
もちろん大きな声では称えられませんが、私は電車の中でも称えます。
隣の人が気づかないほどの声でいつも称えます。
そんなことができる行は念仏以外にありません。

また、神社や大きなお寺に行きますと柄杓で手を洗い、口を洗ってから神前、仏前に進みます。

あるいはお香を焚いて、時にはお香を跨いで、体にお香を塗ったりして道場に入ります。
しかし念仏はそれすらも必要ないのです。
その身そのままでできる唯一の行なのです。

これはとても有り難いことです。
いつも正座をしてビシッと背筋を伸ばして念仏を称えよと言われたら、足が痛くなったり病気になったらできなくなってしまいます。
私達は好む好まざるにかかわらず、老いていきますし病気にもなります。

誰一人寝たきりになりたい人はいないのに、なってしまうこともあります。

でもそうなったらそうなったままで称えることができます。

起きられなかったら寝転んだままで、大きな声で称えられなかったら小さな声で称えることができるというのは本当に有り難いことです。
阿弥陀様は私達の弱いところをとことんお考え下さって、私達が置かれた状況のままでできる行を用意して下さったのです。

もちろんやる気がなかったらできません。

極楽へ往生したくない人には念仏を称えることは難しいでしょう。

しかし往生したいと思う人、やろうと思う人は誰でもできるという行です。

やろうと思ってもできないことは山ほどあります。やる気はあっても体がついてこない、能力がついてこないということは一杯あります。

念仏は本当に誰でもできます。

あとはこちら次第です。

そして次の一文です。
「但し、心を清くして申すを第一の行と申し候なり」
「色々と理屈もあるけれども、それは一旦おいて、但し、心を清くしてお念仏を申すのが第一ですよ。」ということです。

心を清くするといっても心を清くするのは非常に難しいことです。

私達は中々心が清くなりません。煩悩だらけの凡夫です。

心は汚れ、散り乱れています。

それを清くせよと言われたらとてもできません。

ここではそのようなことをいうのではありません。
ただ純粋に「阿弥陀様お救いください」という思いで南無阿弥陀仏と称えるだけです。

それだけなのです。

「人をも左様にお勧め候うべし。ゆめゆめこの御心はいよいよ強くならせ給いそうろうべし。」
「北条政子さま、あなたのようなお立場の方は人にもそのようにお勧めください。どうぞどうぞこの御心を益々強くお持ち下さいよ」ということです。

臨済宗の信仰をお持ちの北条政子さんに対して、浄土宗の大きな特長をお伝え下さっている有り難いお言葉です。