前篇第十一章 深心
原文
ただ心の善悪(ぜんなく)をも顧(かえり)みず、罪の軽(かろ)き重きをも沙汰(さた)せず、心に往生せんと思いて、口に南無阿弥陀仏と称(とな)えては、声に尽きて決定(けつじょう)往生の思いをなすべし。その決定心(けつじょうしん)によりて、即ち往生の業(ごう)は定まるなり。かく心得えねば往生は不定(ふじょう)なり。往生は不定と思えばやがて不定なり。一定(いちじょう)と思えば一定する事にて候うなり。されば詮(せん)は、深く信ずる心と申し候うは、南無阿弥陀仏と申せばその仏の誓いにていかなる身をも嫌わず、一定迎え給うぞと深く頼みて、いかなる咎(とが)をも顧みず、疑(うたご)う心の少しもなきを申し候うなり。
現代語訳
ただ心の善悪をも顧みず、罪の軽重をも問題とせず、心に「往生したい」と願って、口に「南無阿弥陀仏」と称えては、声にあわせて「必ず往生できる」という思いを抱きなさい。
その「必ず往生できる」という思いによって、たちまち念仏による往生が確かなものとなるのです。このように心得ないと、往生は不確かです。「往生は不確かだ」と思えば、そのまま不確かです。「確実だ」と思えば、確実なものとなるのです。
ですから結局は(この)深く信じる心というのは、「南無阿弥陀仏とお称えすれば、その阿弥陀仏の誓いによって、どのような身でも分け隔てなく、確実にお迎え下さるのだ」と、深く頼みとして、どのような(わが身の)罪も顧みず、疑う心が少しもないことを言うのであります。 『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊
解説
仏教の教えは「人生そう長くないのだから、やりたいことをし、おいしい物を食べて、会いたい人と会って、楽しく過ごすのが幸せだ。」という教えではありません。逆にそんなことをしていても決して幸せにはなりませんという教えだと言っても過言ではないでしょう。
まず自分を深く深く見つめましょうということを大切にします。
しかし自分を見つめると言ってもその見つめ方には色々とあります。
「私は素晴らしいのだ、本当は無限の可能性を持っているのにそれに気づいていないだけなんだ。」という見方もあります。最近の歌の歌詞や詩人の詩などにはこのような考え方が多いようです。他にもコマーシャルのコピー、それから新興宗教にもそのような説き方をするところが多くあります。
悲観的になって自暴自棄に陥っている人に対してはこう説くことも一つの手段でしょう。しかし最近は余りにこの価値観を広げすぎのような気がします。「自分は本当は素晴らしいのだ」と根拠のない自身を持ち、他人を見下す若者がいたり、「自分には無限の可能性があるのに今くすぶっているのは親の育て方が悪いのだ。社会が悪いのだ。」と他人のせいにするのです。
浄土宗で言う「自分を見つめる」というのはこれとは正反対です。自分の「愚かさ」を見つめるのです。煩悩によって正しい見方ができず、正しい行いができず、悪業を重ねている自分に気づくのです。その煩悩にまみれた私は自分の力ではどうにも救われがたい身であるということをしっかりと見つめるのです。そして、阿弥陀様にすがるより外に道はないと気づき、こんな煩悩だらけの私であるけれども阿弥陀様は間違いないなくお救いくださるということをしっかりと信じるのです。
これを踏まえて文章を見て参ります。
「ただ心の善悪をも顧みず、罪の軽き重きをも沙汰せず、心に往生せんと思いて、口に南無阿弥陀仏と称えては、声につきて決定往生の思いをなすべし。」
自分自身の心の中をしっかり見つめ、善い心なのか悪い心なのかを考えると、どう考えても悪い心ばかりの私であることに気づかされます。しかしそんな私を阿弥陀様は必ず救いとってくださるのです。ですから「ただ自分の心の善悪も顧みることなく、自分の罪が軽い重いということも考えることもなく、心に往生するのだと思って口に南無阿弥陀仏と称えるならば、その一声一声によって往生すること間違いなしという思いを持つべきだ。」
往生間違いなしと強く思うことを決定心(けつじょうしん)といいます。
「その決定心によりて即ち往生の業は定まるなり。かく心得ねば往生は不定なり。往生は不定と思えばやがて不定なり。一定と思えば一定することにて候うなり。」
「その決定心によって往生は定まるのですよ。このように心得なければ往生は定まりません。往生は定まらないと思えばはっきりと定まりません。間違いないと思えば間違いないということです。」
往生はできると信じて念仏を称えればできるし、できないと思えばできないのです。よく「往生なんて死んでみないと分からないよ。極楽なんて本当にあるのかね。誰も見て帰ってきた人なんていてないよ」という人がいますが、そういう人は往生できないと法然上人はおっしゃっています。極楽は信じていない人が往くのではありません。往きたい人が往くところなのです。
「されば詮は、深く信ずる心と申し候は、南無阿弥陀仏と申せばその仏の誓いにていかなる身をも嫌わず、一定迎え給うぞと深く頼みて、いかなる咎をも顧みず疑う心の少しもなきを申し候なり。」
「だから要するに深く信じる心というのは、南無阿弥陀仏と称えれば阿弥陀仏の誓いによっていかなる愚かな身であってもお嫌いにならず、必ず迎えとって下さると深くおすがりして、いかなる自分自身の罪科をも顧みず極楽往生を疑わないのを深く信じる心というのですよ。」
自分自身がどうしようも救われがたい身であることを認識して、阿弥陀様におすがりするのです。私自身は愚かであるけれども、阿弥陀様のお力は大きいのです。どんな愚かな身でも救いとって下さるのです。
このような喩えがあります。
太平洋の真ん中で泳いでいるとします。本人は太陽が燦々と照り、美しい海で泳いでいることに満足です。「いつまでもこうやって泳いでいたいなあ」と思っています。しかし阿弥陀様から見ればこんなに危なっかしいことはありません。「アメリカや日本まで自力で泳ぎ着ける者ならいいだろう。でもそんな力がある者がどこにいるのか。いつ鮫や鱶の餌食になるかもしれない、いつ足がつっておぼれるかもしれない、そうでなくても間もなく力尽きておぼれ死ぬこと間違いないではないか」とご心配下さって、お慈悲の船で助けに来て下さっています。そしてお念仏という名の浮き輪を放って、「つかまれよ、助けてやるから!」と呼びかけ続けて下さっているのです。しかし危険に気づかず、楽しんでいると思いこんでいる者にはそんな声は聞こえません。もし聞こえても「大きなお世話だ」とばかりに無視します。このままでは手遅れになります。そんな時にもし自分が危ういことに気づいたらすぐそこに浮き輪があります。もしおぼれかかっても、すぐそこに浮き輪があります。ただつかまればよいのです。浮き輪に捕まった瞬間「助かった!」と思います。実際にはまだ船にまで引き上げられていないのに、「助かることは間違いない!」と思うことができます。これが決定心です。実際にはまだ極楽へ往生はしていません。往生するのは臨終の時です。しかしお念仏を称えていると間違いなく阿弥陀様が極楽へ往生させて下さると深く信じておれば、実際にまだ往生していなくても、往生したも同然の気持ちになるのです。浮き輪を持っていても引き上げられるまでは何があるか分かりません。大きな波が来るかもしれません。大雨が降るかもしれません。しかし、しっかりと浮き輪を掴んでいたら、絶対に助かると信じるという心が大切なのです。それは浮き輪がない時と比べたら不安の度合いが全く違うでしょう。しかしそれでも疑う人はいるものです。「このロープ切れるんじゃないか?」そう思うと浮き輪に捕まっていても不安で仕方ありません。「間違いなく引き上げてもらえるんだ」としっかり信じなくてはなりません。お念仏を称えていても色々と悩みや苦しみは日々起こります。しかし、いつか必ず憧れの極楽へ往生できるとしっかりと信じるならば、強い心を持つことができるはずです。力強く生き生きと生きることができるはずです。 (高松市浄願寺上野忠昭上人考案「浮き輪の譬喩」)
「念仏は死んでからの教えだ、生きる者には役に立たない」と言う人がいますがそれは大きな間違いです。信じる者は強いのです。