前篇第六章 五劫思惟
原文
酬因感果(しゅういんかんか)の理(ことわり)を大慈大悲(だいじだいひ)の御心(みこころ)の内に思惟(しゆい)して、年序(ねんじょ)そらに積もりて星霜(せいそう)五劫(ごこう)に及べり。しかるに善巧(ぜんぎょう)方便を巡らして思惟(しゆい)し給えり。しかも、我別願をもて浄土に居(こ)して、薄地底下(はくじていげ)の衆生を引導すべし。その衆生の業力(ごうりき)によりて、生まるるといわば、難(かた)かるべし。我(われ)須(すべから)く衆生のために、永劫(ようごう)の修行を送り、僧祇(そうぎ)の苦行を巡らして、万行万善(まんぎょうまんぜん)の果徳(かとく)円満し、自覚覚他(じかくかくた)の覚行窮満(かくぎょうぐうまん)して、その成就せんところの万徳無漏(まんとくむろ)の一切の功徳をもて、我が名号(みょうごう)として衆生に称えしめん。衆生もしこれにおいて、信をいたして称念(しょうねん)せば、我が願に応えて生まるることを得(う)べし。
現代語訳
法蔵菩薩は、修行という原因に応じてその報いたえられるというすじみちを、(衆生のために)大慈大悲の御心でお考えになるうち、年数はいつしか積み重なり、歳月は五劫に及びました。それでも巧みな手立てをあれこれとお考えになりました。
その上に、「私は特別の願を立てて浄土に住まいし、仏道修行の低い位にある衆生を導き入れよう。その衆生自身の修行の力で浄土に生まれるという(すじみち)であれば、それは難しいだろう。
私は是非とも衆生のために、限りなく長い修行生活を送り、果てしなく長い難行を重ねて、多くの修行と多くの善行の結果としての徳をも円かに満たし、自らも覚り他者をも覚らせるという覚りへの修行をも窮め、そのことで具わった、煩悩のけがれのない無数の功徳を、すべて私の名号にこめて、衆生に称えさせよう。衆生がもしこれを深く信じて称名念仏するならば、私の願に応じて、(間違いなく)生まれることができるであろう」(とお考えになったのです。)
解説
仏教とキリスト教は大きく違うところがいくつかあります。その一つは、キリスト教の神様は最初から神様という存在ですが、仏教の仏様は最初から仏ではないということが挙げられます。仏様はみんな修行して、悟りを開いて初めて仏になられます。ご本尊の阿弥陀さまも最初から仏ではありませんでした。阿弥陀さまの修行中のお名前を法蔵菩薩様といいます。
法蔵菩薩様は、すべての者を救いたいと願われました。しかしすべての者を救うことは大変なことです。仏教には因果応報の道理というものがあります。
因果応報とは「原因があって結果がある」ということです。善い行いをすれば結果として楽がもたらされます。悪い行いをすれば苦しみがもたらされます。それも自業自得といって、自分の行いの結果は必ず自分に返ってきます。
法蔵菩薩様は「すべての者を救いたいけれども、どう見ても殆どの人たちは善い行いなどできないではないか、悪い行いばかりしているではないか」と考え込んでしまわれます。悪い行いをする者を善い方向へ導くことは因果応報の道理に背きます。
法蔵菩薩様は悩みに悩まれます。その悩まれる時間は五劫といわれます。劫というのは時間の単位です。お経にはこのように記されています。
大きな岩があるとします。百年に一度天から天女が降りてきて、羽衣で岩をスッと人撫でします。そうすると理屈上、目に見えないような僅かではありますが、岩が削れます。それを百年に一度繰り返し、徐々に岩が削れて無くなってもまだ一劫は終わらないとお経に説明されています。
寿限無という落語をご存じでしょうか。「寿限無寿限無五劫の擦り切れ」という五劫はこの法蔵菩薩様が悩まれた時間からきています。「子供が生まれたので名前を付けて下さい」と裏長屋の長者さんに頼んだところ、それでは「寿(ことぶき)限りなし」という意味で寿限無とつけようと言われます。「もっとめでたい名前はないですか」と言いますと、「では五劫の擦り切れと付けましょう」となり、天女の説明がなされます。五劫というのはとてつもない時間であるから、これを名前にすればさぞ長命に育つであろうというお話しです。この法蔵菩薩様が悩まれた時間からきているのです。今は多く裏長屋の長者さんに命名を頼んだことになっていますが、浄土宗のお寺の住職に頼んだ、というのが古い形なのだそうです。
黒谷金戒光明寺には五劫思惟像というお像があります。笑福亭鶴瓶さんが昔アフロヘアーをされていましたね。あのような大きな頭をしておられます。あのお像を見ますと多くの方が笑うのですが、実はその髪の毛の長さは、「救われがたい者達を救うにはどうしたらよいか」と悩んで悩んで悩み尽くしてくださった、その時間がいかに長いかを表しています。とても笑うことなどできません。逆に言えば、私たちはそこまで悩んでいただかなければ救われない存在であることに気づかされるのです。では本文に入ります。
「酬因感果の理を大慈大悲の御心のうちに思惟して、年序空に積もりて星霜五劫に及べり。」酬因感果とは因果応報のことです。「法蔵菩薩様は、因果応報の道理からすると善い行いができない人々を救うことができないではないか、どうすれば救うことができるであろうと大いなる慈悲でもってお考え下さっているうちに、年月はいたずらに流れ、気が付けば五劫という時間が経っていた」ということです。
「善巧方便」とは、「善い方へ導く手だて」という意味です。「善い方向に導く手だてを駆使して、このように考えられた。私は別願を建てて浄土をつくって、修行の覚束ない、覚りに至る能力のない人々を救うのだ。しかし、その人々の行いによって往生することは難しいであろう。だから私は人々のために永遠ともいえる永い間修行をし、気が遠くなるほどの長い間苦行を積んで、すべての行、すべての善の功徳を成就させ、自ら悟り、他も悟らせる道を究めたならば、この身に具わった功徳すべてを一切漏らすことなく、私の名前に込めて、人々に称えさせよう。もし人々が信を持って我が名を称えるならば、私の誓いによって往生することができるであろう。」と法然上人が阿弥陀さまの立場に立ってお書き下さったものです。
本来私たちは自分が修行をしなくてはならないのです。しかし、阿弥陀さまは「とても修行についていける者などいないではないか」と考えられました。因果応報の道理からすると、自分が修行しなくては自分に善い結果をもたらすことなどできません。そこで五劫もの間考えに考えて「では私が代わって修行しよう」と永遠に近い長い間修行して下さったのです。そして私たちは悪い行いばかりを繰り返しますから、自分が結果として苦を受けなくてはならないところを、法蔵菩薩様が代わって苦しみを受けて下さったのです。そしてご修行下さったとてつもない功徳をご自分の為に使われるのではなく、この私たちの為にすべて使って下さったのです。功徳すべてを「南無阿弥陀仏」のたった六文字の中に収め込んで下さったのです。そして、「難しい修行はできないかも知れないが、私の名前を称えるぐらいならできるであろう。この名前に功徳すべてを収め込んだから、頼む、称えてくれ。お願いだから称えておくれ。」と言って下さっているのです。
ここまでお膳立てをして下さっているのです。後は信じて称えるのみです。
「お念仏いうても難しいですわ。なかなかねえ。」なんてことは口が裂けても言えないのです。
お念仏自体は簡単です。しかし続けることは確かに難しいです。でも法蔵菩薩様が、阿弥陀様がここまでして下さっているんだと思えば、続ける努力や工夫ぐらいはこちらがしなくてはならないと思いませんか。