前篇第八章 万機普益
原文
浄土一宗(いっしゅう)の諸宗(しょしゅう)に超え、念仏一行(いちぎょう)の諸行(しょぎょう)に勝(すぐ)れたりということは、万機(ばんき)を摂する方(かた)をいうなり。理観り(かん)、菩提心(ぼだいしん)、読誦(どくじゅ)大乗(だいじょう)、真言(しんごん)、止観(しかん)等、いずれも仏法の疎(おろ)かにましますにはあらず。みな生死(しょうじ)滅度(めつど)の法なれども、末代になりぬれば、力及ばず。行者の不法なるによりて、機が及ばぬなり。時をいえば末法(まっぽう)万年(まんねん)の後(のち)、人寿(にんじゅ)十歳につづまり、罪をいえば十悪(じゅうあく)五逆(ごぎゃく)の罪人なり。老少男女(ろうしょうなんにょ)の輩(ともがら)、一念十念のたぐいに至るまで、みなこれ摂取不捨(せっしゅふしゃ)の誓いにこもれるなり。この故に諸宗に超え諸行に勝れたりとは申すなり。
現代語訳
浄土一宗が他の諸宗に勝り、念仏一行が他の様々な修行より優れているということは、あらゆる衆生を救う点を言うのであります。
真理を対象とする観法、覚りを求める心、大乗経典の読誦、真言、止観など、どの修行も仏の教えとして不十分であるというわけではありません。みな迷いの境涯を離れて覚りを得るための教えではありますが、末法になったので、力が及ばず、修行者が教えに背いてしまうことで、能力が追いつかないのです。
時代についていえば、末法の一万年が過ぎた後、人間の寿命が十歳に縮まり、罪についていえば、十悪や五逆を犯す罪人であります。(しかしそんな)老若男女の人々で、一念や十念しか称えない人たちに至るまで、みな「救い取って捨てない」という誓いの対象に含まれるのです。
こういうわけで、(浄土宗は)他の諸宗に勝り、(念仏は)他の様々な修行より優れていると言うのであります。
解説
仏教には無常という教えがあります。あらゆるものは移り変わる。普遍のものは何一つとしてない。生きとし生けるものはいつか必ず死ぬ。それもいつ死ぬか分からない。形あるものはすべて壊れる。栄えるものがずっと栄え続けることはない。どんなに栄えたものでも必ずいつか滅びる。これが無常です。
仏教の教え、法は真理です。真理は無常ではありません。いつの時代もどんな状況でも誰にでも当てはまるのが真理です。時代によって変わるものを真理とはいいません。
ただ、仏教教団はいつか滅びます。僧侶も信者もいつかいなくなって、法はあっても誰も法を知る人がなくなる時が来るといいます。「仏教だけが不変で栄え続けるんだ」とはなりません。
仏教教団にとって、最もよい時代は今から2500年前、お釈迦様がおられたときです。仏さまが目の前で教えを説いて下さるわけですから、そんなにありがたいことはありません。お釈迦様のおられた時には「教え(教」)、「修行(行)」、「悟り(証)」の三拍子が揃っていました。お釈迦様がお亡くなりになってからも500年はその余力でよい時代が続くといいます。この時代を「正法の時代」といいます。
500年過ぎますと、正法の時代が終わり、「像法の時代」がやってきます。「像」は「似る」という意味があります。正法の時代に似ているが、少し劣った時代です。「教」、「行」はありますが、「証」がない時代です。像法の時代は1000年続きます。
像法の時代が終わりますと、「末法」の時代がやってきます。「教」はあるが、「行」も「証」もない時代です。この時代が1万年続きます。その後仏教が滅びるのです。「法滅」の時代といいます。日本では平安時代に末法に入り、まだ1万年経っていませんから、今現在まだ末法の時代です。 お念仏のみ教えはこの末法以降の者を救う為に説かれた教えです。これを踏まえて文章をみていきましょう。
「浄土一宗の諸宗に越え、念仏一行の諸行に勝れたりという事は、万機を摂する方をいうなり。」「浄土宗が他の宗派を越え、念仏が他の修行よりも勝れているのは、すべての者が救われるという点である」ということです。「万機」の「機」は「素質」とか「能力」という意味です。「万機」ですから、「ありとあらゆる者」という意味です。優れた者だけを救うのではないということです。世の中には色んな能力の人がいますが、「南無阿弥陀仏」と称える者はどんな者でも救って下さるのです。
だからといって、他の宗派がダメで浄土宗だけが勝れていると言っている訳ではありません。次にそのことが書かれています。
「理観・菩提心・読誦大乗・真言・止観等」これは浄土宗以外の宗派がする修行を並べているのです。「どれもお釈迦様が説かれた仏教であるから、つまらない教えだということではない」ということです。
「どの教えも迷いを離れ、悟りを求める教えであるが、末法の時代になったならば、人々の力が及ばないんだ。修行する者が法に背くし、人々の教えを受け止める能力ではこれらの修行についていけない。今の時代を見てみると、末法が一万年を過ぎると人の寿命は十歳に縮まり、人殺し、盗人、親殺しの罪人ばかりになってしまう」今の時代は平均寿命80何歳と言われますが、末法が過ぎて法滅の時代になると、寿命は十歳になり、悪人だらけになるというのです。
「そんな時代にお念仏は、老いも若きも男も女も、わずか一遍や十遍の念仏しかできずに亡くなっていった人でさえも皆阿弥陀仏の誓いにすべての功徳が籠もっているので救われる。だからあらゆる宗派を越え、あらゆる行よりも勝れた教えなのだ」ということです。
お釈迦様は人それぞれに合う教えを説かれました。どの教えにも「対象」があります。お念仏は末法以降の人のために説かれた教えです。後の時代の人々は難しい修行などはできなくなるだろうということで、お釈迦様は「後の時代の人のために阿弥陀様のお念仏の教えをしっかりと伝えていけよ」と説かれたのです。
阿弥陀様は「後の者は難しい修行などできないが、我が名を呼ぶことならできるだろう」とお念仏をご用意くださいました。劣った者ができる行だからといって、劣った行ではありません。劣った者が救われるためには勝れた功徳が具わっていなくてはなりません。阿弥陀様はお念仏にご自身が修行された功徳すべてを収め込んでくださいました。本来自分で修行しなくてはならないところですが、阿弥陀様が「難しい修行などできないであろう、我が名を呼べよ、私が救ってやろう」とお念仏をご用意くださったのです。
お念仏以外の他の行も確かにお釈迦様が説かれた教えですから、正しいことは間違いありません。そしてまたそれらすべて優れた教えなのです。しかし、教えは尊くても行う側が劣っていてはどうにもなりません。
たとえば、どれだけ便利な機能を備えたコンピューターがあっても、使う能力がない者にとれば何の役にも立ちません。それと同じように、「人々にできる教え」でなくてはなりません。
お念仏は末法の時代を生きる私達のために説かれた教えです。私達はすでに、色んな教えを選ぶ力はありません。どれも末法の者のために説かれた教えではないからです。唯一お念仏だけが我々にできる行です。唯一私達が救われる行なのです。