前篇第五章 選択本願
(本文)
本願というは、阿弥陀仏のいまだ仏にならせ給わざりし昔、法蔵菩薩と申しし古(いにしえ)、仏の国土を清め、衆生を成就せんがために、世自在王如来(せじざいおうにょらい)と申す仏の御前(みまえ)にして四十八願(しじゅうはちがん)を起こし給いしその中(うち)に、一切衆生の往生のために一つの願を起こし給えり。これを念仏往生の本願と申すなり。すなわち無量寿経の上巻に曰く、設(も)し我(われ)仏(ほとけ)を得(え)たらんに、十方の衆生、至心(ししん)に信楽(しんぎょう)して、我が国に生(しょう)ぜんと欲して、乃至十念せんに、若し生(しょう)ぜずば正覚(しょうがく)を取らじと。善導和尚(ぜんどうかしょう)、この願を釈して宣(のたま)わく、若し我(われ)成仏せんに、十方の衆生、我が名号を称すること、下(しも)十声(じっしょう)に至るまで、若し生(しょう)ぜずば正覚(しょうがく)を取らじ。彼(か)の仏(ほとけ)、今現(げん)に世(よ)に在(ましま)して成仏し給えり。正(まさ)に知るべし。本誓(ほんぜい)の重願(じゅうがん)虚(むな)しからざることを。衆生称念すれば必ず往生を得(う)と。念仏というは、仏の法身(ほっしん)を憶念(おくねん)するにもあらず、仏(ほとけ)の相好(そうごう)を観念するにもあらず、ただ心をいたして、専(もは)ら阿弥陀仏の名号を称念する、これを念仏とは申すなり。故に称我名号(しょうがみょうごう)というなり。念仏の外(ほか)の一切の行は、これ弥陀の本願にあらざるが故に、たとえめでたき行なりといえども、念仏には及ばざるなり。大方(おおかた)、その国に生まれんと思わん者は、その仏の誓いに従うべきなり。されば、弥陀の浄土に生まれんと思わん者は、弥陀の誓願に従うべきなり。
(現代語訳)
本願というのは、阿弥陀仏がまだ成仏しておられなかった昔、法蔵菩薩と呼ばれた遠い過去世、仏の国土を浄め、衆生を救うために、世自在王如来という仏の御前で四十八願を起こされたその中で、すべての衆生の往生のために、ある一つの願を起こされました。これを念仏往生の本願と申します。
つまり、『無量寿経』の上巻には「もし私、法蔵菩薩が仏の位を得たとして、十方の衆生が、誠を尽くして信じ願い、私の国に生まれたいと望んで、わずか十遍でも念じて、もし生まれないならば、私は覚りを開かないであろう」とあります。
善導和尚はこの願を解釈して「もし私が成仏するとして、十方の衆生のうち、私の名号を称えることがわずか十声の者まで、もし生まれないならば、覚りを開かないであろう、と法蔵菩薩はお誓いになった。その阿弥陀仏は、今現在、極楽世界にあって仏と成っておられる。まさに知るべきである。阿弥陀仏がかつて誓われた大切な願は、虚しいものではない。衆生が称名念仏するならば、必ず往生することができる」とおっしゃっています。
念仏というのは、真理そのものとしての仏を思い念ずるのでもなく、仏の身体の特徴をありありと想い画くのでもありません。ただ心を尽くしてひたすら阿弥陀仏の名号を声に出して称える、これを念仏と申すのです。だからこを善導和尚は、「我が名号を称すること」と解釈されたのです。
念仏以外の一切の行は、阿弥陀仏の本願の行ではないので、たとえ立派な修行であっても、念仏には及ばないのです。
おおよそ、仏の国に生まれたいと願う者は、その国の仏の近いに随うべきです。それゆえ、阿弥陀仏の浄土に生まれたいと願う者は、阿弥陀仏の誓願に随うべきであります。
(解説)
キリスト教と仏教の違いはたくさんあります。キリスト教の神は天地創造の神です。この大地も草木も動物も私たち人間もすべて神が創ったといいます。仏教では仏様が天地を創ったとは説きません。この世の真理を悟った方が仏様です。またキリスト教の神には誰もなれませんが、仏教ではすべての者が「仏になる可能性」を持っているといいます。これは大きな違いです。そして、キリスト教の神は最初から神様ですが、仏様は最初から仏であったわけではありません。どの仏様もみんな修行して悟りを開いて仏になられました。 浄土宗のご本尊である阿弥陀如来様も最初から仏ではなく、法蔵菩薩という菩薩様でした。菩薩というのは「仏になるための修行をしている方」をいいます。観音菩薩様や地蔵菩薩様は、いつでも仏になる力をお持ちですが、敢えて私たちに近い存在でいるために菩薩の位で止まって下さっているといわれています。菩薩には上から下まで修行の段階がありますが、「仏になるための修行をしている方」を総じて菩薩といいます。
法蔵菩薩様には世自在王如来というお師匠様がおられます。如来ですから仏様です。法蔵菩薩様は世自在王如来様の前で「すべての者を救いたい」と告白なさいます。世自在王如来様は「すべての者を救いたいと言うが、一部の者を救うだけでも困難なのだよ。すべての者を救うことは非常に難しい。」とおっしゃいます。しかしそれでも法蔵菩薩様は「すべての者を救いたいのです。」と固い決意でおっしゃいます。「そのまで言うのなら…」と世自在王如来様は法蔵菩薩様に色んな仏様の浄土を見せられます。
浄土というのは極楽だけではありません。阿弥陀様以外にも多くの仏様がおられます。無数の仏様がおられ、その仏様お一方につき一つの浄土があります。極楽浄土は阿弥陀様の浄土です。薬師如来様には瑠璃光浄土という浄土があり、釈迦如来様には無勝荘厳浄土という浄土があります。
世自在王如来様は法蔵菩薩様に、その無数にある浄土をお見せになります。法蔵菩薩様は多くの浄土をつぶさにご覧になり、それぞれの浄土のよいところを選び取られます。そして「理想の浄土を造りたい」と考えられます。
法蔵菩薩様は四十八の誓いを建てられて「私が仏になったならばこういう浄土を造りたい。こういう者を救いとりたい。救いとった者にはこうしてやりたい。もしそれができなければ私は仏になりません。」と誓われました。四十八願です。ここから柔道の四十八手や相撲の四十八手などという言葉が生まれます。この四十八願の第十八番目にこの理想の浄土に迎えとる手段を挙げておられます。第十八願のことを「念仏往生の願」といいます。「もし私が仏になったならば、我が名を呼ぶ者を救いとってやろう。」という願です。歌舞伎の十八番やカラオケの得意な曲を十八番と言いますのは、この法蔵菩薩の十八願が語源なのです。
この四十八願のことを「本願」」といいます。「本願」は「元の願、昔の願」という意味です。「阿弥陀仏が昔、まだ法蔵菩薩であったときに建てた願」という意味で本願といいます。よく「本願とは根本的な願である」と言う方がおられますが、本来の意味は違います。四十八願のことを本願と言い、その中の中心が第十八願ですから、第十八願のことを「王本願」と呼びます。しかし、「本願」と言う場合、「第十八願」のことを指して言うことが多くあります。
ところで皆さんはこの「法蔵菩薩」のお話をそのまま信じることができますか?
現代人は昔の人に比べて宗教的な素養が豊かでないと言われています。浄土宗の根幹であるにもかかわらず、「阿弥陀仏が過去に法蔵菩薩と呼ばれていてその法蔵菩薩が修行して覚りを開いて阿弥陀仏になった」といういわゆる「法蔵因位の話」をすると、不思議な顔をされ、「これは3千年ぐらい前の話ですか?」とか「これは物語でしょうか?」などとおっしゃり、そのまま受け止めることができない方もおられます。
お釈迦さまの話は比較的受け入れられやすいようです。実際にインドに歴史上存在した方ですから、それはわかるのですね。
そのお釈迦さまが説かれた教えが「お経」として現代に受け継がれています。「お経」はお釈迦様が一人一人の能力や素質、人柄などと考慮して「人に合わせて」説かれたものです。これを「対機説法」といいます。
Aさんの素質や能力、性格を見てお釈迦様が「あなたはこういう修行をしなさい」と言われ、Aさんは「お釈迦様がおっしゃることだからこの修行をしていたらいつか覚れるのだ」と信じて修行すると多く覚ったわけです。もちろん「お釈迦様がそうおっしゃるけれど、信じられないからしない」という人はダメです。「お釈迦様を信じて実行する人」が導かれてゆくのです。
同じようにBさんにはBさんに合う教え、CさんにはCさんに合う教えを説いていかれます。しかし、Aさんが覚るのをみて、TさんがAさんと同じ修行をしても必ずしも覚ることはできないかもしれません。素質や能力、人柄が異なるからです。
お釈迦さまのお弟子に周利槃特(しゅりはんどく)という方がおられました。彼は生来物覚えが悪く、一緒に仏門に入った兄からは「お前は修行に向いていないよ。早い内に辞めた方がいい」と言われて落ち込んでいました。お釈迦様は落ち込んでいる周利槃特に声をかけ、「お前にはお前のよさがある。お前は何事も真面目にするのがよい。お前はひたすら塵を”払い垢を落とす”と言いながら掃除をしなさい」とホウキを与えます。周利槃特は「お釈迦様の言うとおり」その修行をひたすら続けてやがて覚ったのです。しかしかといって「掃除をすれば覚ることができる」ということではありません。周利槃特だからその修行が合ったのです。
そのようにして多くの教えは生まれました。その中で我々のお念仏の教えは「未来の凡夫」を対象に説かれました。お釈迦様の時代の方は宗教的な素養が豊かであったので、高度な修行もできましたが、時代が下るにつれて人々の宗教的素養が貧しくなっていきます。ですから、「昔の人と同じ修行では後の時代の煩悩だらけの凡夫は救われない」とお釈迦様がお考えくださり、「遙か西の彼方に極楽という世界がある。そこに阿弥陀仏という仏がおられて我が名を呼べば救うとおっしゃっている。阿弥陀仏は昔法蔵と名乗っておられて・・・」と説かれました。「これをこのまま信じよ。そして南無阿弥陀仏と称えよ」と示してくださっているのです。
それなのに信じることができず、こんなに容易いお念仏すらできなければ救われようがないのです。
あるところに大きな屋敷がありました。そこには三人の幼い息子がいました。三人兄弟はとても仲がよくて、毎日楽しく遊びました。
ある日、三人は遊んでいるとその遊びに夢中になり、はしゃぎます。「ちょっと出かけるよ」と父親が声をかけても聞こえません。父親は「仕方のない息子達だ」と思いましたが急いでいたのでそのまま出てきました。
仕事を終えて帰ると、何と屋敷から火の手が上がっています。しかし息子達はそれにも気づかず、はしゃいで遊んでいます。「おーい、出てこいよ!」と大きな声で叫ぶのですが、はしゃぎすぎて気づきません。「火事だ!」と言ったら気づくでしょうが、間違えて火の元に逃げてしまって余計に危険な目に遭うかも知れません。
父親は一計を案じて「お前達が前から欲しがっていた自転車を買ってきてやったぞ!外に置いているから見においで!」というや否や、子どもたち三人は「え?今お父さん自転車買ってやった、って言っていなかった?わーい!」と喜んで玄関から飛び出して、無事に救われたのでした。
この息子達が救われるには、「実際に自転車があるのかどうか」は関係ありません。自転車がなくても飛び出したわけです。
もし「お父さんは自転車を買ってやったと言うけれど、それは嘘だと思うよ」などと言ってお父さんが言うことを疑ったならば、彼らは助からなかったことでしょう。
同じようにお釈迦様が「阿弥陀さまを信じていけよ」と教えを説いてくださっているのに「法蔵菩薩が修行して覚りを開いた、なんて信じられないよ」となると救われようがない、ということになります。
誤解なきように言っておきますが、「極楽は本当はない」と言っているのではありません。しかし、我々の力では今見ることはできませんから、お釈迦さまの言葉を信じて念仏を称えるしかないのです。「見ないと信じられない」と言っていると、間に合わないかもしれません。
さて、一行目から読んで参ります。
本願というのは阿弥陀様がまだ仏になられていない昔、法蔵菩薩と名乗っておられた古のこと、仏の国を清めて人々を救いとるために、世自在王如来という仏様の前で四十八願を起こされたその中に、すべての人々の往生のために一つの願を起こされた。これを念仏往生の本願という。ここからが第十八願です。無量寿経の上巻には「もし私が仏になったならば、あらゆるところにいる人々が心を込めて私を信じ、私の国に生まれたいと願って十念して、もし往生できなければ私は仏になりません。」と誓われました。
この「十念」には色んな解釈があります。「十念」と言いますと、私たちは「十遍南無阿弥陀仏と念仏を称える」と思っていますが、そもそも「念仏」には色んな種類があるのです。後に「法身を憶念する」と出てきますが、「教えそのものを念じる」ことも念仏です。後には「仏の相好を観念する」と出てきますが、「仏様の姿を瞑想によって心に映し出す」ことも念仏です。これを善導大師様が解釈してくださいました。
善導大師様がこの願を釈しておっしゃるには、「もし私が仏になったならば、あらゆるところにいる人々が私の名を声に出して称えること、十声に至るまで、もしそうした者が往生できなければ私は仏になりません。その仏様はすでに仏になっておられるのです。よく知っておきなさい。本願はすべて成就されたのだ。人々は声に出して念仏を称えれば必ず往生するのだ。」と。
法蔵菩薩様は四十八願で、「こうこうこういうことがしたい。これができなかったら仏になりません!」と誓われて、すでに仏になっておられるわけです。四十八願が成就できていなかったら仏にはなれないのです。だから阿弥陀様の名を呼ぶ者はすべて往生できるのです。
先ほど申し上げたことですが、本文にはこのようにあります。
念仏というのは仏の法身を憶念するのではない。仏の姿を観る念仏でもない。ただ心を込めて専ら阿弥陀様の名を声に出して称える、これを念仏という。だから善導大師も「称我名号」とおっしゃったのだ。念仏の外のすべての行は、阿弥陀様の本願ではないから、たとえどんなに立派な行であっても往生するには念仏に及ばない。大方その国に生まれたいと思う者は、その仏の近いに随うべきである。そうであるから、弥陀の浄土に生まれたいと思う者は、弥陀の誓いに随うべきである。
阿弥陀様はすべての者を救いたいと願って極楽を造ってくださいました。その極楽に迎えとる方法が難しければすべてを救いとることはできません。「私の名前なら呼ぶことができるであろう」とお念仏をご用意くださいました。その「南無阿弥陀仏」という六文字に、法蔵菩薩様がご修行くださった功徳すべてを収め込んでくださったのです。本来私たちは自分で修行を積んで、自分で悟りを開かなくてはならないところ、私たちに代わって阿弥陀様がご修行くださったのです。だから私たちは念仏を称えるだけで往生できるのです。本来私たちは自分が行ったことは自分で責任を負わなくてはなりません。自業自得の法則です。私たちが自分の行いを見つめたとき、地獄や餓鬼道に往くような行いしか積んでいないのに極楽へ往くことができるのは、法蔵菩薩様が私たちに代わって先に苦を受けてくださったからなのです。
極楽へ往くには極楽へ往くための行があります。お念仏を声に出して称えるのです。お念仏は往生専門の行、往生行です。他の色んな修行はこの世で悟りを開くための行です。往生するための行ではありません。極楽へ往生するにはお念仏です。
阪急電車に乗るには阪急電車の切符が必要です。JRの切符を5万円分持っていても役に立ちません。極楽へ往くには極楽往きの行、お念仏が必要なのです。
同様に「私は何十年も座禅をしてきました」と言われても「極楽に往くにはお念仏を称えましょう。阿弥陀さまの本願ですから」と言わねばなりません。