前篇第二十章 難修観法
(原文)
近来(ちかごろ)の行人(ぎょうにん)、観法(かんぼう)をなすことなかれ。仏像を観(かん)ずとも、運慶(うんけい)康慶(こうけい)が造(つく)りたる仏(ほとけ)ほどだにも観(かん)じ現すべからず。極楽の荘厳(しょうごん)を観(かん)ずとも櫻梅桃李(ようばいとうり)の花果(けか)ほども観(かん)じ現(さんこと難(かた)かるべし。彼(か)の仏(ほとけ)今(いま)現に世に在(ましま)して成仏(じょうぶつ)し給(たま)えり。当(まさ)に知るべし本誓(ほんぜい)の重願(じゅうがん)虚(むな)しからざることを。衆生(しゅじょう)称念(しょうねん)すれば必ず往生を得(う)の釈を信じて、深く本願を頼みて、一向(いっこう)に名号(みょうごう)を称(とな)うべし。名号(みょうごう)を称(とな)うれば三心(さんじん)自(おの)ずから具足(ぐそく)するなり。
(現代語訳)
今の時代の仏道修行者は、観想(かんそう)の行法(ぎょうほう)を行ってはなりません。仏の姿を観想(かんそう)しても、運慶(うんけい)や康慶(こうけい)が造った仏像ほども、ありありと想い画くことはできません。極楽の荘厳(しょうごん)を想い画いても、(この世の)桜、梅、桃、李(すもも)の花や果実ほども、ありありと想い画くことは困難でしょう。
「かの(阿弥陀)仏はいま現在、(極楽)世界にあって、仏となっておられる。阿弥陀仏が立てられた、深重(じんじゅう)なる誓願(第十八願)が実を結んでいることを、当然わきまえるべきである。衆生が称名念仏すれば必ず往生できる」という(善導大師の)解釈を信じ、深く本願を頼みとして、ひたすらに(阿弥陀仏の)名号を称えるべきです。名号を称えれば三心が自ずと具わるのです。『法然上人のお言葉』(総本山知恩院布教師会刊)
(解説)
念仏といいますと「南無阿弥陀仏と称えること」というのが、今では当たり前ですが、実は念仏には色んな種類があります。
法然上人の時代には、声に出す「称名念仏」は主流ではありませんでした。
「念仏」は「仏を念じる」と書きますように、「心に仏を映し出す」という修行法を主に「念仏」といったのです。
「心に仏を映し出す」といいますと、何となく仏さまをイメージする程度のことかと思われるかも知れませんが、そんな簡単なことではありません。
目を開けていても閉じていても、いつでもどこでも「阿弥陀さまと会いたい」と思えば目の前にありありと阿弥陀さまが目の前に現れ、「極楽を観たい」と思えばいつでも目の前に極楽の情景を観ることができるというものです。
これを観法(かんぼう)とか、観相(かんそう)念仏とか、観念(かんねん)の念と申します。
口で言うのは簡単ですが、非常に高度な修行です。
それにそれが出来たらもう修行が完成して、悟りに至ることができるのかというとそうではありません。
まだ修行の過程なのです。
恐らく今現在この観法(がんぼう)ができる人はいないでしょう。
法然上人の時代にも殆どいませんでした。
法然上人は観法をしたいと思ってされたわけではありませんが、晩年称名念仏をしている内にできるようになられました。
しかし法然上人の時代であってもごく一部の修行者にしかできませんでした。
もちろんお釈迦さまの時代には多くの修行者ができました。
時代を経るに従って、どんどん人々の宗教的な能力が衰えてきて、できなくなってきました。
それにも関わらず修行者は、みんな観法をしようとします。
法然上人も比叡山に於いて観法の修行を続けられました。
修行者達はできもしない観法をずっと続け、亡くなっていきます。
悟りに至ることなしに、修行半ばで命が尽きると元の木阿弥です。
8割できたから死んだら続きをするわけにはいきません。
死ねばまた輪廻して、どこかに生まれ変わって仏教と出会うことができるかさえもわかりません。
法然上人は、「多くの修行者達は一生懸命修行をしている。けれども悟りどころか観法もできないじゃないか。私もできずに死んでいくのか…」と悩まれました。
そして苦しみ続け、称名念仏の道と出会われたのです。
観法をする修行は自力の修行です。
自分が悟りに向かって上がっていく方法です。
修行をして自分を高めていくのです。
方や称名念仏は自分が上がっていく教えではありません。
自分はそのまま、低いままです。
「自分の力では到底救われない。いや、このままでは地獄に行くしかない」という自分の器に気づき、阿弥陀さまにすがって「南無阿弥陀仏」と称えたならば、自分が上がるのではなく、阿弥陀さまが私たちの処に降りてきて、寄り添って下さり救って下さるのです。自分が上がるのではなく阿弥陀さまがすくい上げて下さるのです。
この阿弥陀さまの力を他力といいます。
お釈迦さまは末世(まっせ)の凡夫(ぼんぶ)のためにお念仏をお説き下さいました。
末世の凡夫は観法ではなく称名念仏をせよと。
観法をする力がないのにいつまでも観法をしていたら、どれだけ時間が経っても悟りの世界からはほど遠いということになります。
その辺りをふまえていただき、本文をご覧いただきたいと思います。
「近来の行人、観法をなすことなかれ。」「今の修行者は観法をすることはないですよ。」ということです。
末世の凡夫には観法ではないのです。
「仏像を観ずとも、運慶、康慶が造りたる仏ほどだにも観じあらわすべからず。」
観法の修行段階で、いきなり仏さまを観ようとしても絶対観ることはできませんので、まず仏像を観て、それを心に映し出そうとするのです。しかし、私たちの能力からいくと、仏像を観ても所詮仏像を超えることはできません。ましてや運慶や康慶といった鎌倉時代の超一流仏師が造る仏像を超えるほどの力は決してないということです。
「極楽の荘厳を観ずとも、桜梅桃李の花果ほども観じあらわさんこと難かるべし。」
「極楽の様子を観ようとしても所詮桜や梅、桃、すももなどの美しさを超えることはできません。」
極楽の美しさはこの世の美しさとは比べものにならないほど美しいはずです。
それなのにこの世の桜や梅、桃、すももの美しささえも超えることができないほどの力しかないではないか、ということです。
その私たちのために阿弥陀さまはおられます。
「彼の仏今現にましまして成仏したまえり。正に知るべし。本誓の重願虚しからざることを。衆生称念すれば必ず往生を得の釈を信じて、深く本願を頼みて一向に名号を称うべし」
阿弥陀さまは今現在極楽浄土におられて仏となっておられます。
決して昔の話ではないんです。
今現在、今こうしている間も阿弥陀さまは「我が名を呼ぶ者を救うぞ。頼む、称えてくれ。」と願って下さっています。
決して阿弥陀さまの本願は虚しいものではない、「救うことができなかったら仏にならないと誓われたのにちゃんと仏になっておられるのだから。人々が称名念仏を称えれば必ず往生できるという言葉を信じて、深く本願を頼りに一筋に南無阿弥陀仏と称えよ」ということです。
「名号を称うれば三心自ずから具足するなり。」
「南無阿弥陀仏と称えれば心も自然とついてきますよ」ということです。
「お念仏と言いますが、中々難しいですわ」とよくおっしゃいますが、本来の修行、観法と比べたらそんなことは言えないでしょう。
「私救われたいんです。」という人に「そうですか。では観法をしましょう」と言われたらもう救われることを諦めざるを得ません。
法然上人の時代はそうだったのです。
だから称名念仏の教えがすぐに広まったのです。
救われないと諦めている人のところに阿弥陀さまがそっと寄り添って下さって、「そうかそうか、救われたいか。ならば私の名前をお呼び。救ってやるから」と言って下さっているのです。
救いを諦めている人からすると、「そんな簡単に救われるんですか!」という思いでしょう。
お念仏が簡単か難しいかは「救われたいかどうか」にかかっているのです。