成道山 法輪寺

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御法語

前篇第二十四章 別時念仏

(本文)

時々別時(べつじ)の念仏を修(しゅ)して、心をも身をも励まし調え進むべきなり。日々に六万遍七万遍を称えば、さても足りぬべきことにてあれども、人の心ざまは、いたく目慣れ耳慣れぬれば、いらいらと進む心少なく、明け暮れはそうそうとして、心閑(しず)かならぬようにてのみ、疎略(そりゃく)になりゆくなり。その心を進めんがためには、時々別時(べつじ)の念仏を修(しゅ)すべきなり。しかれば善導和尚(ぜんどうかしょう)も、懇(ねんご)ろに励まし、恵心(えしん)の先徳(せんとく)も詳しく教えられたり。道場をもひきつくろい花香(けこう)をも供え奉らんこと、ただ力の堪えたらんに随うべし。また我が身をも殊に清めて道場に入りて、或いは三時、或いは六時なんどに念仏すべし。もし同行など、数多(あまた)あらん時は、代る代わる入(い)りて、不断念仏にも修(しゅ)すべし。かようのことは、各々ように随いて、計らうべし。

 

(現代語訳)

時おり別時念仏を修めて、心身ともに奪い起こし、調え、誘うべきです。

毎日六万遍七万遍を称えるならば、それで充分でありましょうが、人の心のあり方は、たいそう見慣れ、聞き慣れてしまうと、せわしく、誘う心が少なく、毎日が忙しく、ただただ心が落ち着かないありさまとなって、念仏がおろそかになっていくものです。

そうした心を誘うためには、時おり別時念仏を修めるべきです。それゆえ善導和尚も心を込めて奨励され、徳ある先人、恵心僧都(えしんそうず)も詳しく教授されました。

道場を立派に整え、花や香をお供えすることは、ただ力の及ぶ範囲で結構です。また、自分の身体も、特に清潔にして道場に入り、ある場合には六時間、ある場合には十二時間というように念仏すべきです。もしも同行者などが多くある時には、交替で(道場に)入り、不断念仏としても修めるのがよいでしょう。こうしたことは、それぞれの事情に応じて取り計らうことです。

 

(解説)

浄土宗のお念仏は、「いつでもどこでもどんな時でも」できるという大きな特長があります。
他にいつでもどこでもどんな時でもすることができる仏道修行は殆どありません。
そして「南無阿弥陀仏」と称えるだけですから、非常に簡単です。
しかしそんな簡単なお念仏を、最初は「有り難い」と思って始めたのに、いつの間にかその有り難さを忘れて惰性になってしまうのです。
普通なら、一旦止めて休憩し、またちょっとずつやればよいということになるのかも知れません。
しかしお念仏は、一旦休憩してしまうとそのまま止まってしまうのです。
ではどうすればよいのでしょうか。
法然上人は、「時と場所を定めて集中的に、たっぷりとお念仏をしましょう」とおっしゃいます。
この「時と場所を定めて集中的にするお念仏」を別時(べつじ)といいます。
今日のご法語はその別時についてのお話しです。

「時々別時の念仏を修して、心をも身をも励まし調え進むべきなり」
「時々別時の念仏を行って、心も体も励ましていくべきですよ」

「日々に六万遍七万遍を唱えばさても足りぬべきことにてあれども、人の心ざまはいたく目慣れ耳慣れぬれば、いらいらと進む心少なく明け暮れは忽忽として心閑かならぬようにてのみ、疎略になりゆくなり。」
「毎日六万遍七万遍を唱えていたら、それで十分なようであるけれども、人の心は目も耳も非常に慣れやすいもので、段々と励んでいく心がなくなってきて、朝夕は慌ただしく心が乱れてきて念仏が雑になってくる」

「その心をすすめんためには時々別時の念仏を修すべきなり」
「そんな心を励ますためには時々別時の念仏を行うべきである」

「しかれば善導和尚もねんごろに励まし、恵心の先徳もくわしく教えられたり」
「そうであるから浄土宗の高祖である善導大師も別時念仏をするよう励まして下さっているし、比叡山の念仏の先駆者である恵心僧都源信和尚も詳しく別時念仏の作法を教えて下さっている」

「道場をもひきつくろい、花香をも供えたてまつらんこと、ただ力の堪えたらんに従うべし」
「道場もしっかりと調え、花やお香も供える。それは自分の分相応にすればよいですよ」

いつもと一緒のしつらえでしたら、心もいつもと変わりなくなってしまいます。別時は怠けてしまった心を励ますものですから、いつもと違う、いつもより厳かにする必要があります。ただ、それは贅沢にせよという意味ではなく、自分の身の丈に合ったものをすればよいのだということです。

「また我が身をも殊に清めて道場に入りて、或いは三時、或いは六時なんどに念仏すべし」
「また自分の体も特に清めて道場に入って、時には三時、時には六時に念仏するがよい」

普段のお念仏は、体が清かろうが汚れていようが、その身そのままで称えればよいのですが、別時の時は普段と違うということを意識するためにわざわざ沐浴清浄して道場に入るのです。

三時というのは半日十二時間を三つに分けてお勤めするという法要があります。
六時というのは一日二十四時間を六つに分けてお勤めするという法要です。
夕方4時、夜8時、夜中12時、未明4時、朝8時、昼12時の6回です。
それぞれの時間に合わせてお念仏を称えるのです。

「もし同行など数多あらん時は、代わる代わる入りて不断念仏にも修すべし。かようのことは各々ように随いて計らうべし」
「もし一緒にやろうという人がたくさんいるならば、交代交代に道場に入ってお念仏が絶えないように、不断念仏を行うのである。このようなことはそれぞれの環境や縁に随って行うのです」

浄土宗の大本山、百万遍知恩寺では毎年一月二十四日のお昼から二十五日のお昼まで、二十四時間の別時を行っています。
一月二十五日が法然上人の祥月命日ですのでそれに合わせてのお念仏をしています。
二十四時間のお念仏といっても、ずっと二十四時間お念仏し続けているわけではありません。
三時間ほどお念仏を称えては三十分ほど休憩してはまた道場に入るということを繰り返すのです。
それぞれが自分のペースでお念仏を称えては休憩するのです。
大勢いますので、道場では常にお念仏の声が絶えないということになります。
そういうものを不断念仏(ふだんねんぶつ)といいます。

法輪寺でも春と秋の年に二回、念仏会というものを行っています。
※残念ながら新型コロナウイルスの感染状況を鑑みて、令和2年、3年春現在は休止しています。

昼の二時から夜の十時までの八時間のお念仏です。
私たちはずっとお念仏を称えていますが、お参りに来られる方は好きな時間に来て、それぞれの都合がよい時間までお念仏をされてお帰りになります。
これも不断念仏であり、別時念仏です。

百萬遍の不断念仏にしても法輪寺の念仏会にしても、参加したらありがたいことがよくわかります。
特に夜です。
昼間は人の出入りが気になったりしますが、夜は周りが見えませんから、阿弥陀さまと向かい合わせになります。
阿弥陀さまと私の二人だけの世界になります。
それぞれが日頃生活する中で、悩みや苦しみを抱えています。そんな中、別時を行って阿弥陀さまと向かい合わせになると堪りません。
「ああ、阿弥陀さまはいつもいつも見守って下さっているんだなあ」とか「なんて情けない自分なんだろう」いう思いが込み上げてきて、阿弥陀さまの有り難さを再確認します。そうすると日頃のお念仏もまたやる気になってくるのです。
この有り難さはやってみなければわかりません。
やればすぐにわかります。

プロ野球の選手は毎日野球をしています。
昼間練習をして、夜試合をしているわけです。
それだけ野球をしているのに、シーズン前には必ずキャンプに行きます。
阪神タイガースなら、普段練習しているところは鳴尾浜や甲子園のグラウンドです。
そこで練習すればいいのに、わざわざシーズンオフには沖縄に行き、その後高知でキャンプします。
わざわざ場所を変えて二十四時間野球漬けにするわけです。
そうすることによって、普段では気づかなかった自分の弱点や課題が見つかって、あるいは弱点を克服してまた普段の練習に戻るわけです。
場所を変えて集中的に、更に野球をすることによって技術だけでなく心も励ますのです。
別時もそれと同様です。
普段からお念仏しているのに、わざわざ集中的にお念仏を行うことによって、更にお念仏を続けていく力になっていくのです。
別時は、お念仏を続けていくためにとても大切なことです。