成道山 法輪寺

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御法語

前篇第二十六章 光明摂取

(本文)

観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)に曰(いわ)く、一々の光明(こうみょう)遍(あまね)く十方(じっぽう)の世界を照らして、念仏の衆生を摂取(せっしゅ)して捨て給わず。これは光明ただ念仏の衆生を照らして、余の一切の行人(ぎょうにん)をば照らさずというなり。但し余の行(ぎょう)をしても極楽を願わば仏光照らして摂取(せっしゅ)し給うべし。いかがただ念仏の者ばかりを選びて照らし給えるや。善導和尚釈して曰く、弥陀の身色(しんじき)は金山(こんせん)の如し、相好(そうごう)の光明十方(じっぽう)を照らす、ただ念仏の者のみありて光摂(こうしょう)を蒙(こうむ)る、正に知るべし本願最も強きを。念仏はこれ弥陀の本願の行(ぎょう)なるが故に、成仏の光明返りて本地(ほんじ)の誓(願を照らし給うなり。余行(よぎょう)はこれ本願にあらざるが故に、弥陀の光明嫌いて照らし給わざるなり。今極楽を求めん人は本願の念仏を行(ぎょう)じて、摂取(せっしゅ)の光に照らされんと思(おぼ)し召(め)すべし。これにつけても念仏大切に候。よくよく申させ給うべし。

 

 

(現代語訳)

『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』には、「阿弥陀仏の一つ一つの光明は、遍く十方の世界を照らし、念仏を称える衆生を救い取って、捨てることがない」とあります。これは、光明が念仏を称える衆生だけを照らして、他の一切の行者を照らさないということです。

ただし、他の行を修めても極楽を願うならば、仏の光が照らして救済されてもよいはずです。どうして、ただ念仏する者だけを選んで、照らされるのでしょうか。

善導和尚は解釈して言われます。「阿弥陀仏の身体の色は黄金の山のようである。(一つ一つの)相好から放たれる光明はあらゆる方角の世界を照らす。ただ念仏を称える者だけが光明の救いをいただく。(阿弥陀仏の)本願のはたらきが最も強力だと理解すべきである」と。

念仏は阿弥陀仏の本願の行であるので、成仏された後の光明が、ひるがえって、成仏される以前の念仏往生の誓願を照らされるのです。他の行は本願ではないので、阿弥陀仏の光明は(これを)選び捨てて照らされないのです。

今、極楽を求める人は、本願の念仏を修めて、救いの光に照らされようとお思いになってください。このことからしても念仏は大切です。よくよくお称えになってください。

(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊)

 

(解説)

阿弥陀さまが「救ってやろう、救ってやろう」と願ってくださるみ心を「お慈悲」と申します。
そのお慈悲はよく光に譬えられます。
「光明」などといいます。
浄土宗の阿弥陀仏像は、後ろに舟形の光背が施されています。
この光背はお慈悲を表します。
罪の重い者は重い石を背負っているようなものだから、自分では向こう岸、つまり極楽になど行けないわけです。
しかし、阿弥陀さまの大きな慈悲の船に乗れば、どんな重い罪を背負った者でも必ず向こう岸、極楽浄土へと届けてくださるというのです。
舟形の光背はそのことを表します。
浄土真宗の阿弥陀仏像には光が四方八方に放たれていることを表す光背になっています。この浄土真宗の光背は光明を表します。
光明ですから、こちらもお慈悲を表現しているのです。
阿弥陀さまのお慈悲の光は常にあらゆるところを照らしてくださっているということです。
阿弥陀さまはいつもお慈悲の光を放って、「救ってやろう」と願ってくださっています。その中で「南無阿弥陀仏」と念仏を称える者を極楽へ迎え取ってくださるのです。
しかしこういう反論があるかも知れません。
「救ってやりたいと願うならば、念仏を称えようが称えまいが救ってやればいいじゃないか。なぜ念仏を称える者だけというような心の狭いことを言うのか」と。
仏教では因果の法則を説きます。
原因があって結果がある。
それも「自業自得」というように、自分がした行いが自分に返ってくるのです。
だから何もしない者には何も返ってはきません。
何もしない者を救うことは阿弥陀さまにもできません。
本当はそれぞれが善い行いを続ければよいのです。
そして難しい修行をして、功徳を積めばよいのです。
功徳を積んで覚りを開けばいいわけです。
しかしそれができない者ばかりだと阿弥陀さまは思われたのです。
「煩悩による行いばかりを繰り返す者は自業自得の道理によって、地獄や餓鬼に墜ちるしかないではないか。どうすればよいか。難しいことをせよと言っても無理であろう。でも私の名前ぐらいなら呼べるであろう。そうだ、私の名前に私が行った功徳を収め込んでやろう。そうすれば因果の道理を崩すことなく救うことができるぞ」
そして「我が名を称える者を極楽へ迎え取ってやろう」という「本願」を建ててくださったのです。
「南無阿弥陀仏と称える」という「因」を起こせば、本願によって「極楽へ往生する」という「果」が出るのです。
だから南無阿弥陀仏のお念仏は極楽へ往生するための専門の行です。
「往生行」といいます。方や座禅や瞑想、護摩を焚くなどの修行、殆どの修行は極楽へ往くための行ではありません。
これらの修行はこの世で覚りを開こうという修行です。
ですから目的が違うのです。
極楽へ往きたいならばお念仏でなくてはなりません。
この世で覚りを開こうというのなら、他の修行でなくてはなりません。
それぞれの行にはそれぞれの目的があります。
そういうことがこのご法語には説かれています。

「観無量寿経にいわく、一々の光明、遍く十方の世界を照らして念仏の衆生を摂取して捨て給わず」
観無量寿経とは浄土宗が大切にする三つのお経、浄土三部経の一つです。そこに記されている一文です。
日常勤行の中の摂益文です。
「光明遍照 十方世界念仏衆生 摂取不捨」です。
阿弥陀さまのお慈悲の光はあらゆるところを照らしてくださって、その中で念仏称える者を救いとって決して捨てられることがないという文です。

「これは光明ただ念仏の衆生を照らして余の一切の行人をば照らさずというなり」
これは阿弥陀さまのお慈悲の光は念仏称える者だけを照らして他の修行者を照らさないということです。

「但し余の行をしても、極楽を願わば、仏光照らして摂取し給うべし。いかが、ただ念仏の者ばかりを選びて照らし給えるや」
ただし他の行をしても極楽を願えばいいじゃないか、なぜ念仏の者だけが救われるんだ、という意味なのですが、不思議な文章です。
「どっちなんだ?」と言いたくなります。

私は以前からこの文章がよく分かりませんでした。
色んな方が訳されたものを見比べても、みんな悩んでおられたようで、バラバラです。
しかし数年前に仏教大学の先生に教えていただきました。
法然上人のご法語にはいくつかの種類があり、伝承によって同じものでも多少文章が異なるものがあります。
このご法語にも他の伝承があり、そこには「但し」の前に「世の人曰く」という言葉がありました。
これですっきりしました。
つまりこういうことです。
阿弥陀さまは念仏称える者だけを救いとってくださるのだけれど、世間では念仏以外の修行をしていても極楽に行きたいと願えば救ってくださるというではないか。
なぜ念仏者だけを選んで照らすというのか、ということです。

実は法然上人が浄土宗を開かれるまではどうすれば極楽へ往生できるのかがはっきりと示されていませんでした。
極楽へ往生したいと願っていればどんな修行をしていても救われると思っている人もいたんです。
しかし法然上人はお経の中に根拠を見つけられたのです。
本願です。
南無阿弥陀仏と称える者こそが往生できる。
ちゃんとお経に書いてあるではないか、ということです。

その問いに善導大師のお言葉を引用されて答えておられます。
「善導和尚釈して曰く、弥陀の身色は金山の如し、相好の光明十方を照らす。唯念仏の者のみありて光摂を蒙る。当に知るべし。本願最も強きを」
これは善導大師の『往生礼讃』の中の「三尊礼」にある一節です。
「善導大師が解釈しておっしゃるには、阿弥陀さまの体は金の山のようなものだ。お姿から光が十方を照らしてくださっている。ただ念仏を称える者だけが光を受けることができる。よく心得よ。本願は最も強いのである」ということです。

念仏を称える者が阿弥陀さまによって極楽へ迎え取っていただけるのは、阿弥陀さまの本願だからです。
念仏は阿弥陀さまのお名前を呼んでいるわけですが、本願がなければただ名前を呼んでいるというだけになります。
南無釈迦牟尼仏、南無観世音菩薩、南無大師遍照金剛など仏様や菩薩様、祖師様のお名前を呼ぶ、という行は色々あります。
でもそれは仏菩薩、祖師方を敬っているという意味であって、それだけで救われるというものではありません。
南無阿弥陀仏は阿弥陀さまご自身が、称えれば救うと約束してくださっているのですから、他のものとは全く異なるのです。

「念仏はこれ弥陀の本願の行なるがゆえに、成仏の光明かえりて本地の誓願を照らし給うなり」
「念仏は阿弥陀さまの本願の行であるから、仏となられた阿弥陀さまが照らす光は返って、昔阿弥陀さまが建てた本願を信じて念仏を称える者を照らしてくださるのである」

「余行はこれ本願にあらざるがゆえに、弥陀の光明嫌いて照らし給わざるなり」
「念仏以外の行は本願ではないから、本願ではないから阿弥陀さまは避けて照らされることがないのである」

「今極楽を求めん人は、本願の念仏を行じて、摂取の光に照らされんと思し召すべし」
「今極楽往生を願う者は、阿弥陀さまの本願である念仏を行じて、救いの光に照らされたいと思うべきである」

「これにつけても念仏大切に候。よくよく申させ給うべし」
「これにつけても念仏は大切です。しっかりお称えしなさいよ」

阪急電車に乗るのに「JRの切符が1万円分あるから乗せろ!」と言っても乗ることはできません。
阪急電車に乗ろうとすれば阪急電車の切符を買わなくてはいけません。
いくら1万円分だと言ってもだめです。
それと同じように、極楽へ往生したいならば南無阿弥陀仏のお念仏なのです。
もちろん他の行もお釈迦様が説かれたものですから、大きな功徳はあります。
でも往生することはできません。
「往生したいならば何を為すべきか」なのです。