前篇第二十八章 来迎引接
(本文)
法爾(ほうに)の道理と云うことあり。炎は空に上り、水は下りさまに流る。菓子の中に酸きものあり、甘きものあり。これらはみな法爾(ほうに)の道理なり。
阿弥陀仏の本願は、名号をもて罪悪の衆生を導かんと誓い給いたれば、ただ一向に念仏だにも申せば、仏の来迎(らいこう)は法爾(ほうに)の道理にて疑いなし。
(現代語訳)
「動かしようのない自然の道理」ということがあります。炎は空に昇り、水は低い方に流れます。果物の中に酸いものもあれば、甘いものもあります。これらはみな「動かしようのない自然の道理」です。
阿弥陀仏の本願は「名号によって罪悪の衆生を救済しよう」と誓われたものですから、ただひたすら念仏さえ称えれば、阿弥陀仏のお迎えは「動かしようのない自然の道理」であって、疑いありません。(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊)
(解説)
今回の御法語は、いつもに比べて文章量がかなり少ないですが、この中で法然上人はとてもはっきりと断言なさっている、気持ちの良い御法語でもあります。
早速見て参りましょう。
法爾と申しますのは、「真理のまま」という意味です。
法然上人の「法然」という名もこれと同義語です。
これに世間的な意味と、「出世間(しゅっせけん)」、つまり仏教的な意味の二つがあります。
この御法語の前半は世間的な意味です。
「法爾の道理ということあり。炎は空に上り、水は下りさまに流る」
「ものには変わらぬ真理というものがある。たとえば炎は空に上るでしょう。水は高いところから低いところに流れていくでしょう」ということです。
当たり前の道理ですね。
「菓子の中に酸きものあり甘きものあり。これらはみな法爾の道理なり」
この時代に菓子といえば、果物を指します。
後に果物を乾燥させたり砂糖を塗すなどして現代にいう菓子に発展しましたが、中世に菓子というと果物を指します。
今でも果物のことを「水菓子」というでしょう。
「果物の中には酸っぱいものもあるし、甘いものもある。これらはすべて自然の道理である」
これらが世間的な法爾の道理です。
誰も疑わない当然の道理です。
後半は出世間的な道理です。
「阿弥陀仏の本願は、名号をもて罪悪の衆生を導かんと誓い給いたれば、ただ一向に念仏だにも申せば、仏の来迎は法爾の道理にて疑いなし」
「阿弥陀仏の本願」というのは、どの御法語にも出て参ります。
それは「わが名を呼ぶ者を一人残らず救いとってやるぞ」という阿弥陀さまの誓いです。
「阿弥陀さまの本願は、南無阿弥陀佛という六字の名号でもって罪深い人々を導いてやろうと阿弥陀さまご自身がお誓いくださったものであるから、ただひたすらお念仏を称えておれば、その者の臨終の時に阿弥陀さまご自身がお迎えくださり、極楽へ往生させていただけることは当然の法として疑いのないことなのである」ということです。
現代人はとかく「極楽なんてあるわけない」「極楽や阿弥陀さまなんて想像上のものだ」と言います。
信じる力が非常に乏しいのです。
かなり前になりますが、島田紳助さんがテレビに出ておられた時におっしゃっていました。彼は京都の大谷高校という真宗の学校の出身です。
ですから教師も僧侶が多いのです。
その学校の宗教の時間に先生が極楽の話をなさったそうです。
当時悪かった紳助さんは先生に「極楽なんてほんまにあんのか!?」と茶化しました。
すると先生は「極楽なんてない。極楽も地獄も私達の心の中にある。心の状態がいい時はそれが極楽である。悪いときにはそれが地獄となる。紳助、今のお前の心には極楽はない」とおっしゃったというのです。
それを紳助さんが語ったとき、テレビの出演者はこぞって、「深い話だなあ。
」「いい話だなあ」と感心していました。
「心の中に極楽がある」そういう説き方もないことはありません。
自分の心を見つめた時に、自分の心の善し悪しを見るために極楽や地獄に喩えるという宗派もあります。
しかし、浄土宗で説く極楽はそういうものではありません。
極楽というのは本当に西の彼方に、この世とは別にあり究極の楽を得る世界です。
そこに実際に阿弥陀仏という仏さまがおられて、今現在極楽で説法しておられます。
南無阿弥陀佛と称える者をいつも阿弥陀さまや先に往生された大切な方々が見守ってくださっています。
そしてお念仏を称えてきた者の臨終の時には阿弥陀さまが多くの菩薩さま方を引き連れて、迷わないように、不安のないように自ら迎えにお越しくださいます。
極楽へ往生したら、先に往生した方々と手に手を取り合って再会を喜び合い、共に仏になるための修行を楽しく行じることができます。
こう言うと、「荒唐無稽なことだ」などと言う方がいるかも知れません。
しかし、「心の中に極楽はあるのだ」と思っていても、本当に苦しいとき、悲しいとき、寂しいとき、ピンチの時には何の役にも立ちません。
「自分の心を極楽にするために、修行をして煩悩を滅する」という宗派の修行は、厳しく険しい道です。
そのように修行できる方はそうすればいいのです。
しかし大多数の人の日々の行いは、煩悩を滅するどころか、ほぼすべて「煩悩がリードしている行い」です。
そしてそのことに気づいても煩悩を滅することができない人々です。
老いに抗い、死に抗い、生に執着し、人間関係に悩み、愛する人を失って悲しみ、貪り、怒り、嫉妬し、自分だけが得するようにふるまってしまう私たちです。
そんな私たちが「心の中に極楽がある」と言われても、ほとんど気休めにしかならないでしょう。
本当に極楽があって、お念仏を称えていると苦しいときも悲しいときも阿弥陀さまが見守ってくださっていると感じる方がよほど力になります。
「念仏を称えていたら、必ず先立ったあの人にも会える」という教えがどれだけありがたいことでしょうか。
法然上人は「疑い」を一蹴なさいます。
「炎が空に上ることを疑う人がありますか?水が高いところから低いところへ流れることを疑う人がありますか?なのに念仏を称えれば極楽浄土へ往生できることをなぜ疑うのですか?念仏を称えれば往生できるというのは阿弥陀さまの本願ですよ。阿弥陀さまご自身が我が名を呼べよ、必ず救うから、とおっしゃっているのですよ。お釈迦さまもお経の中で阿弥陀さまを信じよとおっしゃっているのですよ。どこに疑う余地があるのですか?称えれば往生できるということは当たり前の道理ですよ」と。
尊くも力強いお言葉に励まされます。