成道山 法輪寺

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御法語

前篇第三十章 一期勧化

(本文)

法蓮房(ほうれんぼう)申さく、古来の先徳(せんとく)みなその遺跡(ゆいせき)あり。しかるに、今精舎(しょうじゃ)一宇(いちう)も建立(こんりゅう)なし。ご入滅(にゅうめつ)の後(のち)、いずくをもてかご遺跡(ゆいせき)とすべきやと。上人(しょうにん)答え給わく、あとを一廟(いちびょう)にしむれば遺法(ゆいほう)遍(あまね)からず。予(わ)が遺跡(ゆいせき)は諸州(しょしゅう)に遍満(へんまん)すべし。ゆえ如何(いかん)となれば、念仏の興行(こうぎょう)は愚老(ぐろう)一期(いちご)の勧化(かんげ)なり。されば念仏を修(しゅ)せんところは貴賤(きせん)を論ぜず、海人(かいにん)漁人(ぎょにん)が苫屋(とまや)までも、皆これ予(わ)が遺跡(ゆいせき)なるべしとぞ仰(おお)せられける。

 

(現代語訳)

法蓮房信空が〔法然上人に〕申すことには、「古来の徳ある先人は、どなたにもその遺跡があります。ところが、今のところ〔上人には〕寺院の一つも建立されておりません。ご入滅の後には、どこをご遺跡とすべきでしょうか」と。

上人がお答えになるには、「遺跡を一つの廟堂に限ってしまうと〔私の〕遺す教えは行き渡りません。私の遺跡は諸国に広く行き渡った方がよいのです。なぜかといえば、念仏の盛行は私の生涯をかけた教化活動だからであります。それゆえ、念仏の声するところは、貴賤を問わず、漁師たちの質素な家までも、すべて私の遺跡とすべきです」と。

(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊)

 

(解説)

法然上人のお念仏のみ教えは、多くの方々に広がりました。
しかしそのことで旧来の仏教教団は危機感を持ち、また念仏者の中にも間違った教えを広める者が現れました。
法然上人はお弟子の不始末の責任をとるという形で、晩年には流罪、つまり島流しに遭われました。
法然上人は八十歳でご往生なさったのですが、流罪は七十五歳です。
今の七十五歳はお元気ですが、八百年前、平均寿命がもっと短いときです。
相当なご高齢でありました。

その老齢の身で四国は讃岐の国、今の香川県に流されます。
讃岐に向かう途中には兵庫県の高砂で漁師の夫妻にお念仏のみ教えを説かれました。
漁師の夫妻は「私たちは殺生を生業としています。そんな私たちは救われないのでしょうか?」と法然上人に尋ねます。
法然上人は「ただ往生を願って南無阿弥陀仏と称えよ。必ず救われるから」と諭されます。漁師の夫妻はよろこんで念仏に励んだといいます。

また室津では、遊女にお念仏のみ教えを説いておられます。
讃岐にはきっと多くの漁師やお百姓がいたことでしょう。
そういう人々にも「必ず南無阿弥陀仏と称える者は極楽へ救いとっていただけるのだよ」と説かれました。

讃岐におられたのはわずか9ヶ月ほどです。
そこから畿内に入ることは許されましたが、洛内に入ることは許されませんでした。
そこで、箕面の勝尾寺で四年間過ごされます。
勝尾寺は今でこそ車ですぐに行けますが、それでも奥深い山の中ということは分かります。ましてや八百年前のことですから、言わずもがなです。
遠く讃岐から勝尾寺に来られ、厳しい自然環境の中です。
老いたお体にはとても堪えたことでしょう。

ようやく帰洛が許されて京都に帰って来られました。
その土地が現在の知恩院の場所です。
もちろん今のような大きなものではなく、小さな庵でありました。

帰って来られたものの、長きにわたる過酷な生活がたたって、床につくことが多くなりました。
誰から見ても「そう長くはない」と見て取れる状況です。

法然上人には多くのお弟子がおられますが、その中でも特に年長の信空上人という方がおられました。
信空上人は、法然上人が比叡山で修行なさっているときから弟弟子でした。
法然上人が比叡山を下りて、浄土宗を開かれたときに一緒に山を下りて法然上人のお弟子になられたのです。
つまりは最も付き合いの長い、法然上人が最も信頼されているお弟子でありました。

信空上人は法然上人亡き後、間違いなく教団を引っ張っていかなくてはならない立場です。
そこで意を決して法然上人に問いを投げかけられました。
それがこのご法語です。

「法蓮房申さく、古来の先徳みなその遺跡あり」
「法蓮房信空上人がおっしゃいました。昔の偉いお坊さんにはみんな遺跡というものがあります。伝教大師には比叡山延暦寺という遺跡があります。弘法大師には高野山金剛峯寺という遺跡があります」

「しかるに今精舎一宇も建立なし。御入滅の後、いずくをもてか御遺跡とすべきやと」
「しかし今まで法然上人さまはお寺の一つも建ててらっしゃいません。上人が往生されて後、どこを遺跡とすればよろしいでしょうか?」

それに対して法然上人がお答えになりました。

「上人答え給わく、跡を一廟にしむれば遺法遍からず。わが遺跡は諸州に遍満すべし。故如何となれば、念仏の興行は愚老一期の勧化なり。されば念仏を修せんところは、貴賤を論ぜず、海人漁人が苫屋までも、みなこれわが遺跡なるべしとぞ仰せられける」
「跡を一カ所に決めてしまえば、教えが広まらないではないか。わたしの遺跡は全国各地に広まるべきだ。なぜならば、念仏のみ教えを広めることが私の一生涯かけての役割であった。だから、念仏の声するところは、貴賤を問わず、漁師の苫屋に至るまで、みな私の遺跡である、と仰った」

法然上人は晩年流罪に遭うまでは、殆ど京都におられました。
老若男女があとを絶たずにやって来ます。
ですから、流罪で地方に赴かれて、初めて田舎の人たちに教えを説かれたわけです。
そんな人たちに、「法然上人の遺跡は知恩院の地である」と言ってもとても来ることなどできません。
今の様な交通事情ではないのですから。
法然上人はきっと田舎の漁師やお百姓、遊女など、教えを説いた方々を思い浮かべられたことでしょう。
彼らは今、それぞれの場所でお念仏を称えている。
それこそが私の遺跡であるとお考えになったことと思います。

法然上人臨終の地、知恩院は今、浄土宗の総本山になっています。
また法然上人の足跡にあるお寺は二十五霊場と名付けられ、多くの信者がお参りに行きます。

それ自体は法然上人のご生涯に思いを馳せるために、必要なものでしょう。
しかし、そこでもしお念仏の声が一つも聞こえないというのであれば、それはご遺跡とは言い難いということになります。
お念仏の声が聞こえるところは、みなさんのお家であれ、法輪寺であれ、法然上人のご遺跡となるのです。