前篇第七章 諸仏証誠
原文
六方恒沙(ろっぽうごうじゃ)の諸仏(しょぶつ)、舌をのべて三千世界に覆(おお)いて、専(もは)らただ弥陀(みだ)の名号(みょうごう)を称(とな)えて往生すというは、これ真実なりと証誠(しょうじょう)し給(たも)うなり。これ又念仏は弥陀の本願なるが故に、六方恒沙の諸仏これを証誠し給う。余(よ)の行(ぎょう)は本願にあらざるが故に、六方恒沙の諸仏、証誠し給わず。これにつけても、よくよくお念仏候うて、弥陀の本願、釈迦の付属(ふぞく)、六方の諸仏の護念(ごねん)を深く被(こうぶ)らせ給うべし。弥陀の本願、釈迦の付属、六方の諸仏の護念、一々に虚(むな)しからず。この故に、念仏の行は諸行に勝(すぐ)れたるなり。
現代語訳
六方世界の諸仏が、舌をのばして三千世界を覆い、「〈専ら阿弥陀仏の名号のみを称えて往生する〉という教えは、真実である」と証言なさるのです。これも念仏が阿弥陀仏の本願であるので、六方世界の数限りない諸仏がこれを真実であると証言なさいます。念仏以外の行は本願ではないので、六方世界の無数の諸仏が、真実であるとは証言なさいません。
このことからしても、しっかりとお念仏なさって、阿弥陀仏の本願、釈尊の付属、六方世界の諸仏の守護を、深くお受けになって下さい。
阿弥陀仏の本願、釈尊の付属、六方世界の諸仏の守護は、それぞれに、みな実のあるものなのです。それゆえ念仏の行は、他の様々な修行より勝っているのです。
解説
浄土三部経の一つ、阿弥陀経というお経をご存知でしょうか?お年忌法要の時にはいつもお読みしております。
阿弥陀経は前半と後半で内容が二つに分かれています。前半は主に極楽の様子が描かれています。「ここから西に向かって十万億という距離を過ぎたところに一つの世界がある。それを極楽という。そこには阿弥陀仏という仏様がおられて、今現在も説法して下さっている。その国の人々には苦しみがなく、幸せばかりの世界であるから極楽というのだ。」そして極楽の美しい様子が縷々描かれています。「その幸せばかりの極楽浄土へ往くには、お念仏を称え続けることだ。必ず命が尽きる時に阿弥陀様が多くの菩薩様方を引き連れて迎えに来て下さるのだ。」と説かれています。
後半はあらゆるところにおられる仏様方がみんな、阿弥陀様が説かれるお念仏のみ教えは間違いない教えだと証明なさり、阿弥陀様を讃え、念仏を称える者を護って下さるのだと説かれています。
仏様は阿弥陀様だけではありません。数え切れないほど多くの仏様がおられます。阿弥陀経では六方の仏様が出て参ります。東南西北下上の仏様です。お経には十方とか六方という方角がよく出てきますが、十方は八方+上下、六方は四方+上下です。いずれにしても「あらゆるところ」を意味します。その六方の仏様方がみんな舌を出して念仏を称える者が極楽へ往生することを間違いないと証明して下さっているのです。
私たちの感覚では舌を出すのは嘘をついたり、人を馬鹿にするときの仕草ですが、昔のインドでは「私が言っていることは間違いないです」と証明するときに舌を出したといいます。「もし私が言っていることが嘘であったならば、今出している舌を二度と口の中にしまいません。舌が爛れて腐ってしまっても構いません。」という誓いなのです。
この話をしていると、ある方が「嘘をついたら閻魔様に舌を抜かれるというのはここからきているんですか?」と仰いました。恐らくその通りでしょう。「私が嘘をついていたらこの舌が無くなっても構わない。」という誓いなのですから。
以上のことを踏まえて本文を見て参ります。
「六方恒沙の諸仏」とあります。六方は四方+上下だと申しました。恒沙は「ガンジス川の砂」という意味です。阿弥陀経では恒河沙とあります。仏教はインドの北部で広まりました。インド北部には母なる川、ガンジス川が流れています。誰もがガンジス川を知っています。「ガンジス川の砂ほどの」というと、数え切れないものという意味です。「星の数ほど」ということです。
「あらゆるところにおられる数え切れないほど多くの仏様方が、舌をのばして三千世界という我々の住む世界の10億倍の大きさの世界を覆い尽くして、専らただ阿弥陀様の名を称えて極楽へ往生することは真実であると証明なさっています。これは阿弥陀様の本願であるから六方恒沙の諸仏は証明して下さるのです」ということです。
阿弥陀様が、念仏を称える者をすべて救うと約束して下さっているのが本願です。阿弥陀様が「救う」と言っておられるのだから間違いないのだということです。
そして「お念仏以外の行は本願ではないから六方恒沙の仏様方は証明なさらないのだ」とあります。六方の仏様がみんな間違いないと証明なさるようなお経は唯一阿弥陀経だけです。「阿弥陀様の誓いなのだから、間違いないのだ。」と他の多くの仏様方もみんなおっしゃっているのです。
「これにつけてもよくよくお念仏を称えて、阿弥陀様の本願、お釈迦様の付属、六方の諸仏の護念を深くいただかれるがよろしい。」
「付属」といいますのは、教えをしっかりと伝えることをいいます。お釈迦様は同じく浄土三部経の一つ、『観無量寿経』の最後の部分で、お弟子の阿難尊者に阿弥陀様の名前をしっかりと後まで伝えていけよとわざわざおっしゃっているのです。それが「付属」です。
「護念」といいますのはお護りのことです。ただ単に病気や災難から守って下さるのではありません。仏様からご覧になれば、私達にとって極楽へ往くことが最も幸せだとお考えです。極楽へ往くには私達は往生を願ってお念仏を称えねばなりません。ですからお念仏を称える者を、益々お念仏が称えることができるようにお護り下さるのです。それが「護念」です。
「阿弥陀様の本願」、「お釈迦様の付属」、「六方の諸仏の護念」はどれ一ついい加減なものはありません。ですからお念仏の行は他に多くの行がある中でも勝れた行なのです。
「弥陀、釈迦、諸仏」です。阿弥陀様が本願を建てて、「念仏を称える者を必ず極楽に迎えとろう」と約束して下さり、お釈迦様が「後の人々にお念仏のみ教えを伝えていけよ」と付属なさり、六方の諸仏が「念仏を称える者を護ってやるぞ」と言って下さっているのです。
このようにすべての仏様から太鼓判を押されている行は唯一お念仏だけです。
阿弥陀経の最後に「お念仏の行は信じがたい法であるぞ」と説かれています。それは私達がいかに疑り深いかということです。せっかく救ってやると阿弥陀様がおっしゃりお釈迦様が後押しして下さっているのに、「お念仏で本当に救われるのか」、「極楽なんて本当にあるのか」、「阿弥陀様なんて本当にいるのか」などと自分の知識や経験にないものを疑い、信じることができないという私達ではありませんか。そんな私達のために六方の諸仏がくどいほどに「阿弥陀様の教えは間違いない」と仰っているのです。この仏様もあの仏様もその仏様もどの仏様もみんな「阿弥陀様の教えは間違いない」と証明して下さっているのです。微に入り細に至るまで私達を信じせしめようとご苦労下さっているのですね。