成道山 法輪寺

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御法語

後篇第三十章 廻向

(本文)

当時 日ごとのお念仏をも、かつかつ廻向しまいらせられ候うべし。亡き人のために念仏を廻向(えこう)し候えば、阿弥陀仏、光を放ちて地獄、餓鬼、畜生を照らし給い候えば、この三悪道(さんなくどう)に沈みて苦を受くる者、その苦しみ休まりて命終わりて後 解脱(げだつ)すべきにて候。大経に、もし三途(さんず)勤苦(ごんく)の処(ところ)にありてこの光明を見たてまつらば、皆休息(くkそく)を得てまた苦悩なし。寿終(じゅじゅう)の後、皆解脱を蒙(こうぶ)らんといえり。

 

(現代語訳)

平生においては、毎日のお念仏をも、ともかくも廻向なさるべきです。亡き人のために念仏を廻向すれば、阿弥陀仏は光を放って、地獄・餓鬼・畜生の境界を照らされますので、この三悪道に墜ちて苦しんでいる者も、その苦しみが和らぎ、命が終わって後にはその境界を逃れることができるのです。

 

(解説)

今回の御法語のお題は「廻向」です。
廻向という言葉はお寺の法要において聞かれるのではないでしょうか。
墓廻向、塔婆廻向、施餓鬼廻向、それから月参り、お年忌、お盆の棚行など、お寺とお檀家さんとの関わりは殆ど廻向が関係してきます。
廻向というのは、読んで字の如く「回し向ける」という意味です。
何を回し向けるのかと言いますと、功徳を回し向けるのです。

そもそもお念仏は、自分の為の行です。
「阿弥陀さま、この私をお救い下さい」「極楽浄土へ往生させて下さい」という思いで、南無阿弥陀仏と称えます。
自分が極楽浄土へ往生することを願い、念仏を称えることによって、阿弥陀さまの力で極楽へ迎えとっていただけるのです。
つまり阿弥陀さまに功徳をいただくのです。
そうして初めて廻向することができます。

自分の為に念仏を称えなければ、廻向するにも廻向するものがありません。
ここが大切なところです。
まず自分の往生を願ってお念仏を称えるのです。

だから私はいつもお経の本を皆さんにも開いていただき、一緒にお経やお念仏を称えて下さるようにしているのです。
私だけが称えて、私の功徳を廻向してもいいのですが、やはりご先祖さまも、皆さまが称えて廻向して下さったら、益々喜ばれることだと思うのです。
よく、「最近の仏教は堕落していて、先祖供養だけしかしない」などと批判されることがありますが、そういう意味では、先祖供養だけということは成り立たないのです。
自分の為に功徳を積まないと、先祖への廻向はできないのですから。

さて、本文の一行目です。
「常時日ごとのお念仏をもかつかつ廻向し参らせられ候べし」
かつかつというのは、「とりあえず」という意味だそうです。
「いつも、毎日自分の為に称えている念仏だけれども、とりあえず廻向しましょう」ということです。

廻向をよく銀行に預けるお金に喩えられます。
自分の為に貯めているお金、貯金であっても、他人の為に使うことができるわけです。
親や子供のために使うことができます。
それと同じように、自分の為に積んだ功徳を亡き人に回すことができるのです。
ただ、貯金は他人の為に使うと減ってしまいますが、功徳を廻向すると、回向した人に益々功徳が積もるのです。
これはしないと損ですね。
もっとも、そんな気持ちでする廻向ではなく、そのまま差し上げる気持ちで廻向しなくてはなりませんが。

続いて訳します。
「亡き人の為に念仏を廻向したならば、阿弥陀様がお慈悲の光を照らして下さって、地獄、餓鬼、畜生を照らして下さって、その三悪道(地獄、餓鬼、畜生、これを三途ともいう)に沈んで苦しみを受けている者は、その苦しみが休まって、命が終わった後、解脱できます」ということです。

ここでいう命が終わった後というのは、地獄や餓鬼道での寿命が終わったらという意味です。
私達に寿命があるように、もちろん地獄や餓鬼道でも寿命があります。
ただ、地獄や餓鬼道ではよい行いをすることが非常に難しいので、寿命が尽きた後、良いところには生まれにくいのです。
地獄は苦しみばかりの世界です。
苦しみばかりの世界で良いことを行うのは至難の業です。
苦しいと益々悪い行いが重なりますので、また地獄に生まれざるを得ないという悪循環になります。

しかし、念仏を廻向すれば、阿弥陀さまのお力によって、地獄での寿命が尽きたら救い出していただけるのです。
普通解脱というのは、悟りを開くという意味ですが、ここでは地獄、餓鬼、畜生から出るという意味です。

次に根拠が書かれています。
内容はほぼ前文と同じです。
「大経に」とあります。
大経とは、正式には無量寿経といいます。
非常に長いお経なので、通称大経というのです。

「大経に、もし三途の苦しみの世界にあって、阿弥陀様の光を見せていただいたならば、皆安らぎを得て、苦しみ悩みがなくなる。そして命が尽きた後、解脱できますよ」とあります。

往生を願って念仏を称える人は、すぐに極楽浄土へ往生することができます。
100%往生できます。
即得往生といって、死んだらすぐに往生できます。
しかも二度と地獄や餓鬼道といった世界に生まれなくても済みます。
ですから、皆さまのご先祖さまは極楽へ往生されているのです。
しかし、私達の周りには、念仏どころか何の信仰もしないで死んでいく人の方が多いのではありませんか?
そういう人にも、「私が自分の往生の為に称えたお念仏の功徳ですが、どうぞ差し上げます」と廻向させていただくのです。

ではご先祖への廻向は何の為にするのでしょうか。
ご先祖は極楽へ往っておられます。
極楽へ往けば、あとは成仏間違いなしです。
こちらと比べものにならないほど、修行が進んでおられるはずです。
そこに私達が廻向しても、さして役に立たないかも知れません。
しかし、残された者の心情としては、少しでも亡き人の為にして差し上げたいと思うわけです。ですから、「私達の積んだ功徳はあなたにとっては微々たる功徳かも知れませんがどうぞお使いください」と廻向するのです。

無量寿経には娑婆世界で行う善根は浄土で行う善根よりずっと大きな功徳がある、と説かれています。
我々の住む娑婆世界は誘惑が多い、非常に修行がしにくく、善根を積みにくいところです。
そんな場所で極楽往生を願って念仏する人は貴重です。
ですから我々は「こんなわずかな功徳でも」と思いますが、実は大きな功徳となるのです。

そのように廻向すれば、間違いなくご先祖は喜ばれます。「
そっちの娑婆世界の方がよっぽど大変なのに、よく私に廻向してくれた」と喜ばれることでしょう。
そして「その娑婆世界でしっかりと念仏称えて過ごせよ。命尽きたら必ず極楽へ往生できるからな」と極楽からこちらへ廻向して下さるのです。
「益々念仏称えよ」と廻向して下さるのです。
こちらはご先祖のためにと廻向しますが、ご先祖はこちらの為にと廻向して下さるのです。お互いがお互いの為に廻向する、これが有り難いのです。