後篇第十五章 日課
(本文)
毎日の所作に、六万十万の数遍(すへん)を念珠(ねんじゅ)を繰りて申し候(そうら)わんと二万三万を念珠を確かに一つずつ申し候わんといずれかよく候べき。答う。凡夫(ぼんぶ)のならい、二万三万をあつとも、如法にはかないがたからん。ただ数遍の多からんにはすぐべからず。名号を相続せんためなり。必ずしも数を要とするにはあらず、ただ常に念仏せんがためなり。数を定めぬは懈怠(けだい)の因縁なれば、数遍を勧むるにて候。
(現代語訳)
〔問い〕毎日の勤めにおいて、六万遍、十万遍の念仏を、数珠を〔おおまかに〕繰って称えるのと、二万遍、三万遍の念仏を数珠で確実に一つずつ称えるのとでは、どちらがよいのでしょうか。
答え。凡夫の常として、二万遍、三万遍を〔日課に〕割り当てたとしても、仏の教えに適うことは難しいでしょう。とにかく念仏の数が多いのに越したことはありません。名号を称え続けるためです。必ずしも数そのものが重要なのではありません。ただ常に念仏するためです。念仏の数を定めないのは怠け心のもとになるので、数を決めた念仏をお勧めするのです。
(解説)
今回のご法語は問答形式になっていまして、どなたかが質問され、それに法然上人がお答えになっておられます。
「毎日お念仏を称えるのに、6万、10万という数を荒っぽく称えるのと、2万、3万という数をしっかり数珠を繰ってお念仏を数えながら称えるのとどちらがよろしいですか?」という質問です。
我々が聞きそうな質問なのかもしれません。
ただ、2万、3万と6万、10万とを比べてるのですから、相当な念仏者です。
かなり高レベルの話だといえます。
そもそも数珠というものは、お念仏を数える道具なのです。
2万、3万のお念仏を丁寧に数珠を繰って称えるのと、雑に6万、10万を称えるのとどちらが良いですか?ということなのです。
普通の感覚から言いますと、「6万、10万っていう数を雑に称えるよりも、多少減っても2万、3万なんやから、それを丁寧に称える方が良いのでは?」と思いませんか?
しかし答えは反対なのです。
「私達凡夫というのは、たとえ2万、3万であってもきっちりと身と心を整えて称えることなんかできないでしょう。だから数が多い方が良いのですよ」という理屈です。
そして「それは数が多い方がお念仏が続くからだ」とも書かれています。
相続といいますのは、継続することです。
多ければ多いほど、間無くお念仏を称えることができるのですから、多く称えなさいよ、ということです。
「必ずしも数多ければいいというものではありませんが、常に念仏をするだめには多い方がお念仏を続けることができるでしょう。
数を定めないのは怠けの原因になるから、数を定めることを勧めているのですよ」と書かれています。
数を数えるってことは非常に励みになります。
よく万歩計を持って歩いている人がいるでしょう。
「今日は5千歩歩いた、明日はもっと歩こう」と。
それと同じように、お念仏も「今日は千遍称えた、明日は2千遍称えよう」となります。お念仏は称えれば称えるほど、また称えたくなるものです。
今回の御法語には「日課念仏」という題がついています。
日課ですから、一日何遍称えるということを定めるのです。
数を定めないと、体調や気分によって称えない日が出てきて、しまいには全く称えなくなってしまうのが私達の常です。
ですから仏さまの前で「私は一日千遍称えます」という風に誓うのです。
五重相伝や授戒会を受けた方は毎日何遍称えるということをすでに誓います。
たとえば1日に3百遍としますと、称える時間はあっという間です。
5分~10分もあればできます。
形だけではなしに、実行していただきたいと思います。
そのように日課を定めることが、常に念仏を称えることにつながるのです。