後篇第十一章 廻向発願心
(本文)
廻向発願心(えこうほつがんしん)というは、過去及び今生(こんじょう)の身口意業(しんくいごう)に修(しゅ)するところの、一切の善根(ぜんごん)を真実の心をもて、極楽に廻向(えこう)して、往生を欣求(ごんぐ)するなり。これを廻向発願心と名付く。この三心(さんじん)を具(ぐ)しぬれば、必ず往生するなり。
(現代語訳)
廻向発願心というのは、過去世およびこの生涯において、身・口・意の行為を通して積んだすべての善根を、真実の心をもって、極楽〔往生のため〕に振り向け、往生を願い求めることです。これを廻向発願心と名づけます。この〔至誠心・深心・廻向発願心の〕三つの心を具えたならば、必ず往生するのです。
(解説)
今回は「廻向発願心」がテーマです。廻向発願心というのは、「とにかく極楽へ往きたい!」と強く願う心です。
私は法話の際、聴衆によくこのように尋ねます。
「みなさん、極楽へ往きたいですか?」
そして「今すぐにでも極楽へ往きたい人!」と尋ねますと、みなさん笑いつつも誰も手を挙げません。
「10年後ぐらいに極楽へ往きたい人!」と尋ねますと、年配の方が苦笑しながらパラパラと手を挙げられます。
「いつか分からないけれども、自分の臨終の時には極楽へ往きたい人!」と尋ねますと、大方の人が手を挙げられます。
「地獄へ行きたいですか?極楽へ往きたいですか?」と尋ねますと、「そりゃどちらかというと極楽へ往きたいです」とおっしゃいます。
しかし、「極楽へ往きたいとか往きたくないとか、考えたことはないです」というのが正直なところでしょう。
極楽は願って行くところです。
仏教では基本的に「この世は苦である」と説きます。
この世は萎んでいく世界です。
こどもの頃は「プロ野球選手になりたい!」とか「アイドルになりたい!」などと自分の能力や適性と関係なく夢を持ちました。
「大人になれば何か良いことがあるんだろうなあ」と思います。
しかし成長するにしたがって、夢は身の丈に合ったものになってきます。
私が今「プロ野球選手になりたいんです!」と言っていたら、誰にも相手にされないでしょう。
夢は段々ささやかなものになります。
そしてある程度の年齢になると、老いを意識します。
老いを実感し、死を意識し出します。
これを正面からジッと見つめると、「この世は苦である」というのは紛れもない事実として受け止めることができるでしょう。
しかし、人は「この世は苦である」とは認めたくありません。
だから生きていればよいことがあるかのように、自分を騙します。
「この世は苦である」などと言うと世間では嫌われます。
仏教では、真正面から人生を見つめると苦と認めざるを得ないと説きます。
そして、「苦である」と気づいた人のために苦から逃れるための修行方法を説くのです。ただ、苦から逃れるには能力が必要です。
それなのに能力がある人は殆どいません。
阿弥陀さまはそんな状態の私たちを哀れみ給い、極楽浄土をおつくりくださいました。
「まずは極楽へ迎え入れよう。極楽へ迎え入れるのに難しい行を用意しても誰も来れまい。しかし私の名なら呼ぶことができるであろう。わが名に私が修行した功徳すべてを収め込んでおこう。極楽への往生を願い、わが名を呼ぶものは私が自ら救いにいこう」とお誓いくださいました。
ですから、極楽へ往くには「極楽へ往きたい!」と願うことが大前提なのです。
極楽へ往きたくない人には念仏も苦痛となるでしょう。
しかし極楽へ往きたい人にとっては、これほど容易い方法で苦しみの世界から逃れることができるなら、こんなに有り難いことはありません。
人は必ず死を迎えます。ですが、その先のことは考えません。
だから「極楽へ往きたいとか往きたくないなど考えたことがない」と言うのです。
私たちはただただ日常のことを考えます。
「今日の晩ご飯は何を食べよう」
「明日はお医者さんへ行く日だ」
「来月は法事だな」
「来年は年男だ」
「10年後には元気で暮らせているだろうか」
「コロッと逝きたいものだ」
などと人生の間のことを日々考えています。
人生には先輩が多くいますから、何となく自分の行く末を予測できます。
でも、先輩達を見ていると、どうも先行きは暗い。
あまりこの先に幸せは期待できない。
だから目線を反らしていこう。
趣味を持ち、生きがいを見つけよう。
とはいえ生きがいも一生できるものはありません。
いずれ身体が弱れば、生きがいが生きがいでなくなります。
この世の行く先を想像すると、悲しく暗くなるしかありません。
でもお念仏を称える者は必ず死んだ先には極楽浄土があります。
これを想像することには価値があります。
「極楽ってどんなところだろう」と日々想像します。
身体が不調の時は何もする気が起こりません。
元気な時には苦にならないことが、不調の時には苦になります。
極楽へ往生したら、誰もが金剛力士の如き健康体なります。
だから何をするにも苦になりません。
極楽ではこの世のように寒くなったり暑くなったりしません。
いつも適温です。
いつもお気に入りの服を着て過ごすことができます。
そして憎い人がいない。
私の醜い憎む心も無くしてもらえます。
私は毎晩寝る前に漠然とこういった極楽の様子を想像します。
そして「いつか往きたいなあ」と思います。
ベッドで寝転んでからまず極楽を想像し、妻や子ども達を想います。
家族の健康を願うのは当然だと思いますが、しかしもし何かがあって先立つようなことがあっても、「阿弥陀さま、この子を極楽浄土へ迎えとってください」と願って十遍念仏を称えます。
社会に出ていますと、嫌でも辛いことや悲しいことに悩まされます。
どんな嫌なことがあっても「高々数十年の人生。これを乗り切ったらあの楽しい極楽へ往生できる」と思って過ごすことができるかもしれません。
「極楽へ往きたい」というと、世間の人は「何と悲観的な」と笑います。
しかし、この世のことしか想像しない方が余程悲観的です。
萎むしかない未来なのですから。
死ぬことを考えるというより、新たな生まれ変わりを喜ぶのです。
「往生」は「往き生まれる」ということです。
苦しみのこの世を捨てた後は、幸せばかりの世界に新たに生まれ変わらせていただくのです。
学生時代はテストが憂鬱の種でした。
でも期末テストの後は楽しい夏休みがあると思うと何とか乗り切れたものです。
辛く悲しいことも多い人生ですが、念仏を称えて過ごせば間違いなくあの幸せばかりの極楽へ往くことができます。
それを夢見ることができれば力強くこの世を歩むことができるでしょう。
この廻向発願心は、「とにかく極楽へ往きたい!」と強く願う心であると先に申しました。
廻向とは普通、私たちがお経やお念仏を称えて、その功徳を亡き人に回し向けることをいいます。
回向にはもう一種類あります。
例えば私が道を歩いていると、お年寄りが大きな荷物を持っておられるとします。
私はその荷物を持ってあげます。これは一般的に「善いこと」ですね。
私は別に極楽へ往きたいからこの「善いこと」をしたわけではありません。
お年寄りをお助けするためにしたまでです。
私たちは生涯の間、多少なりとも善いこともするでしょう。
殆どの行いが悪い行いであるのは認めざるを得ませんが、少しは善いこともします。
前世でも多少は善いことをしたことがあるでしょう。
そういった功徳を全部かき集めてきて、「この功徳全部使って極楽へ往生させてください!」と願う心が廻向発願心です。
へそくりを部屋のあちこちから出してきて欲しい物を買うように。
ですから「とにかく極楽へ往きたい!」と強く願う心だと申し上げたのです。
本文は短い御法語ですので、一通り読んでみましょう。
「廻向発願心というは、過去及び今生の、身口意業に修する所の一切の善根を、真実の心をもて極楽に廻向して、往生を欣求するなり。これを廻向発願心と名付く。この三心を具しぬれば、必ず往生するなり」
「過去とは前世。今生は生まれてから今まで。その間に身と口と心で行ったすべての善い行いを、誠の心でもって極楽に回向して往生を願う。これが廻向発願心というのだ。こういった心を持てば、あとは念仏を称えるだけで往生できるのである」
極楽なんて往きたくない!と言われたらなすすべはありませんが、もし「極楽へ往きたい」と願う心が必要だということを知らなかったというのであれば、是非今日からでもその心を育ててください。
まずは極楽を想像するのを日課とすること、これをお勧めします。