後篇第四章 特留此経
(本文)
双巻経(そうかんぎょう)の奥に、三宝(さんぼう)滅尽(めつじん)の後(のち)の衆生(しゅじょう)、乃至(ないし)一念に往生すと説かれたり。善導(ぜんどう)釈して曰(いわ)く、万年に三宝滅して此の経住(とど)まること百年、その時聞きて一念すれば、皆まさに彼処(かしこ)に生(しょう)ずることを得(う)べしと言えり。此の二つの意(こころ)を持て、弥陀の本願の広く接し、遠く及ぶほどをば知るべきなり。重きをあげて軽(かろ)きを収め、悪人をあげて善人を収め、遠きをあげて近きを収め、後をあげて前(さき)を収むるなるべし。誠に大悲誓願の深広(じんこう)なること、容易(たやす)く言葉をもて述ぶべからず。心を留めて思うべき也。抑(そもそ)もこの頃、末法(まっぽう)に入(い)れりといえども、未だ百年に満たず、我ら罪業(ざいごう)重しといえども、未だ五逆をつくらず。しかれば、遙かに百年法滅の後を救い給えり。いわんやこの頃をや。広く五逆(ごぎゃく)極重(ごくじゅう)の罪を捨て給わず。いわんや十悪の我らをや。ただ三心(さんじん)を具(ぐ)して、もはら名号を称(しょう)すべし。
(現代語訳)
『無量寿経』の末尾に、「三宝が滅びた後の人々も、わずか一度の念仏で往生する」と説かれています。善導大師はこれを解釈して、「末法一万年の後、仏・法・僧の三宝が滅びても、この経だけは百年間、世に留まる。その時に阿弥陀仏の名号を聞き知り、一声でも念仏すれば、だれでもかの極楽浄土に往生することができる」と述べています。
これら二つの文意から、阿弥陀仏の本願が、いかに幅広い人々を包みこみ、いかに遠い未来にまで及ぶかを理解すべきです。
これは罪の重い者を挙げて軽い者を含め、悪人を挙げて善人を含め、遠い未来の者を挙げて近い将来の者を含め、末法一万年以降の者を挙げてそれ以前の者を含めているのでしょう。
まことに〔阿弥陀仏の〕大いなる憐れみにもとづく誓願が、いかに深く広く行き届いているかは、たやすく言葉に表すことなどできません。心を傾けて推し量るべきです。
そもそも、今は末法の時代に入ったとはいえ、まだ百年も経っていません。私たちの犯した悪業は重いとはいえ、五逆罪までは造っていません。それゆえ、遠く三宝が滅んだ後の百年間の者をもお救いになるのです。まして今の時代の私たちをお救いにならないはずはありません。幅広く五逆というこの上なく重い罪を犯した者までお見捨てにならないのです。まして十悪を犯した程度の私たちを、お見捨てになるはずはありません。
ただ、三心を〔欠くことなく〕具えて、ひたすら〔阿弥陀仏の〕名号を称えるべきです。
(解説)
お釈迦さまが入滅されてから500年ほどはお釈迦さま在世当時と同様人々の宗教的な能力が高いので、覚る人が大勢いたといいます。それが正法の時代です。
その後1000年ほどは少し宗教的能力が落ちてくるので、覚る人が減ってくるわけです。それが像法の時代です。
その後の一万年が末法の時代です。能力が低いために修行する力もなく、当然覚る人などほぼいなくなるという時代です。法然上人の時代はすでに末法の時代に入っています。現代もまだ末法の時代が続いています。今は末法に入って1000年弱しか経っていません。
末法の時代が1万年続いた後のことなど、その頃には私たちは生きていませんから、関係ないと言えばそうなのですが、お釈迦さまはその後のことまでお説き下さっています。末法が1万年続いた後には何と仏教は滅びるといいます。これを法滅といいます。
ところで仏教が成り立つのに必要な三つの宝を三宝といいます。仏・法・僧の三つです。仏はほとけさま、法は仏が説かれた教え、僧は教えを信じる者です。仏さまがおられても、教えがなくては成り立ちません。教えがあっても信じる者がなければあってもないのと同然です。仏教の教えは真理ですからずっと変わらないのですが、末法が1万年過ぎた後には、教えを伝える者がいなくなりますから、当然教えを信じる者がいなくなります。そういう法滅の時代を三宝が滅びた時代ということで、三宝滅尽の時代といいます。
三宝滅尽の時代には、あらゆるお経が失われます。ただ一つ、無量寿経というお経だけが、三宝滅尽の後も100年間残るといいます。無量寿経は上下二巻ありますので、別名双巻経ともいいます。では本文を見ていきましょう。
「双巻経の奥に三宝滅尽の後の衆生、乃至一念に往生す、と説かれたり」
「無量寿経の末尾に、三宝が滅びた後の人々も、無量寿経を読んで念仏を称えれば往生できると説かれている」
「善導釈して曰く、万年に三宝滅して、此の経住まること百年、その時聞きて一念すれば、皆まさに彼こに生ずることを得べし、といえり」
「善導大師がおっしゃるには、末法が1万年過ぎて三宝が滅びた後もこの無量寿経だけは百年間この世に留まる。その時念仏のことを聞いて、念仏を称えれば極楽浄土へ往生できるということである」
「この二つの意をもて、弥陀の本願の広く摂し、遠く及ぶ程をば知るべきなり」
「無量寿経に説かれていること、善導大師がおっしゃっていることの二つの心によって、阿弥陀さまの本願がいかに広くを包み込み、遠く未来まで及ぶのかを知ることができる」
「重きを挙げて軽きを摂め、悪人を挙げて善人を摂め、遠きを挙げて近きを摂め、後を挙げて前を摂むるなるべし」
「罪が重い者を救うと説いて下さって罪が軽い者も含んで下さり、悪人を挙げ善人も含めて下さり、遠く未来の者を挙げて近い者も含めて下さり、末法1万年後の三宝滅尽の時代の者を挙げてそれより手前の者を含めてくださる」
「誠に大悲誓願の深広なること、たやすく言をもて述ぶべからず。心を留めて思うべきなり」
「誠に阿弥陀さまの大きな慈悲による本願がいかに深く広いかは言葉では言い尽くすことなどできない。心を寄せて仏の有り難さを思うべきである」
「そもそもこの頃、末法の入れりといえども、未だ百年に満たず。我ら罪業重しといえども未だ五逆をつくらず」
「そもそも今の時代は末法に入ったといってもまだ百年も経っていない」
末法に入ったのが日本では平安時代、西暦1052年と計算されます。法然上人がお生まれになった、西暦1133年にはまだ末法に入って百年足らずであったということです。
「私たちは罪深いといっても、まだ生まれてこのかた五逆はつくっていない」
五逆とは、父親を殺す、母親を殺す、覚りを開いた者を殺す、仏さまに血を流すような傷をつける、仏教教団を破壊するという五つです。
「然れば遙かに百年法滅の後を救い給えり。況んやこの頃をや」
「そう考えてみると、法滅の後百年経った者まで救って下さるのだから、今の時代の者が救われないはずがありません」
「広く五逆極重の罪を捨て給わず。況んや十悪の我らをや」
「広く五逆という最悪の罪の者さえもお捨てにならないのであるから、十悪の我々をお捨てになることがあろうか、いやそんなことはない」
十悪というのは、五逆の次に重い罪なのですが、実は私たちは毎日その重い罪を犯しています。
まず殺生です。私たちは毎日生き物を殺して生きています。
次に盗みです。別に万引きしたり空き巣に入るわけではありませんが、人の物を羨んだり欲しがったりすることも含みます。といいますのは、私たちは人の目を気にして生きていますが、人の物を羨む心があると、全く誰も見ていない、咎めない状況ができた場合には盗みかねない心なのです。
次は不倫です。他人の妻や夫と邪な関係になると、いらぬ争いの元になります。時には骨肉の争いにまで発展させる大きな原因になります。
それから嘘をつく、二枚舌を使う、悪口を言う、おべんちゃらを言う。
そして必要以上に欲をかく、腹をたてる、自分ばかりを生かそう生かそうとするという十の行いを十悪といいます。
これが地獄・餓鬼・畜生行きの行いなのです。私たちが日常的に行う、毎日していることが地獄・餓鬼・畜生行きの行いだというのです。厳しいと思いませんか?そんなことを言われたら生きていけないじゃないかと思いませんか?そうです。末法の私たちは十悪の行いをしないと生きていけないのです。お釈迦さまの時代の優れた修行者には避けることができた行いが、今はしないと生きていけないのです。
だから念仏が必要なのです。念仏がなければまともに修行することすらできない私たちです。十悪の者も五逆の者も救われる教えです。末法の者でも法滅後の者でも救われる教えです。
まるでドブさらいするかの如く、どんなに悪い者でもどんなにひどい時代の者でも救ってくださるのです。つまり、「私なんて救われない」という人は一人もいないということです。すべてを救いの範疇におさめてくださっています。
阿弥陀さま側からは100%救う用意がなされています。あとはこちらが救いを信じてお念仏を称えるかどうかだけです。ただこちらが気づいて向き合うだけなのです。