成道山 法輪寺

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御法語

前篇第二章 立教開宗

原文
おおよそ仏教多しといえども、所詮(せん)戒定慧(かいじょうえ)の三学(さんがく)をば過ぎず。いわゆる小乗の戒定慧、大乗の戒定慧、顕教(けんぎょう)の戒定慧、密教の戒定慧なり。しかるに、我がこの身は戒行(かいぎょう)において一戒(いっかい)をも持(たも)たず、禅定(ぜんじょう)において一つもこれを得ず。人師(にんじ)釈して、尸羅(しら)清浄(しょうじょう)ならざれば三昧(さんまい)現前(げんぜん)せずといえり。又、凡夫(ぼんぶ)の心は物に従いて移り易し。例えば猿猴(えんこう)の枝に伝うが如し。誠に散乱して動じ易く、一心静まり難し。無漏(むろ)の正智(しょうち)、何によりてか起こらんや。もし無漏の智剣(ちけん)なくば、いかでか悪業(あくごう)煩悩(ぼんのう)の絆(きずな)を断たんや。悪業煩悩の絆を断たずば、何ぞ生死(しょうじ)繋縛(けばく)の身を解脱(げだつ)することを得んや。悲しきかな、悲しきかな。いかがせん、いかがせん。ここに我ら如きは、すでに戒定慧の三学の器(うつわもの)にあらず。この三学の他に我が心に相応(そうおう)する法門ありや、我が身に堪(た)えたる修行やあると、よろずの智者に求め、諸々の学者に訪(とぶ)らいしに、教うるに人もなく、示すに輩(ともがら)もなし。しかる間、嘆き嘆き経蔵(きょうぞう)に入(い)り、悲しみ悲しみ聖経(しょうぎょう)に向かいて、手ずから自ら開き見しに、善導和尚(かしょう)の観経の疏(かんぎょうのしょ)の一心に専(もっぱ)ら弥陀(みだ)の名号(みょうごう)を念じ、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に時節(じせつ)の久近(くごん)を問わず、念々に捨てざる、これを正定(しょうじょう)の業(ごう)と名付く、彼の仏の願に順ずるが故に、という文(もん)を見得(みえ)て後、我らが如くの無智(むち)の身は、ひとえにこの文(もん)を仰ぎ、専らこの理(ことわり)を頼みて、念々不捨の称名(しょうみょう)を修(しゅ)して、決定(けつじょう)往生の業因(ごういん)に備うべし。

 

 

現代語訳
およそ仏の教えは数多くありますが、つまるところは、戒定慧という三種の修行方法以外にありません。すなわち、小乗仏教の戒定慧、大乗仏教の戒定慧、顕教の戒定慧、密教の戒定慧であります。
ところが私自身は、戒の修行については一つの戒すら守ることができず、禅定については一つもこれを体得していません。ある高僧が解釈して「戒が浄らかでなければ、対象に心を集中する境地は現れてこない」と言われました。
また、凡夫の心は物事を見聞きするにつれて移ろい易いのです。たとえば、猿が枝から枝へと渡っていくようなものです。本当に散乱して動き易く、心を静めることは難しいのです。(そんな時、)煩悩に染まらない正しい智慧が、どうして起こるでしょうか。もし煩悩に染まらない正しい智慧が、どうして起こるでしょうか。もし煩悩に染まらない智慧の剣がなければ、どうして悪業や煩悩という絆を断ち切ることができるでしょうか。本当に悲しいことです。本当にどうしたらよいのでしょうか。
そこで、「我々のような者は、もはや戒定慧という三種の修行の器ではない。この三種の修行方法の他に、私のような者の心にふさわしい教えはあるだろうか、私のような者の身に可能な修行はあるだろうか」と、多くの智者に教えを請い、様々な学者を訪ねましたが、教えてくれる人もなく、示してくれる友もありませんでした。
そういうわけで、嘆きつつ経蔵に入り、悲しみつつ仏典と向き合い、みずから手にとって読んだところ、善導尚の『観経疏』の「心を一つにしてひたすら阿弥陀仏の名号を念じ、立ち居起き伏し、時間の長短を問題とせず、片時もやめない、これを正しく定まった行いと名づける。それはかの阿弥陀仏の本願に順っているからである」という一文を知ることができました。それからというもの、「我々のような無智の者は、ひたすらこの文を仰ぎ敬い、専らこの道理を頼みとして、片時もやめない称名念仏を修めて、往生を決定させる因として準備するべきである」(と深く心に留めたのであります)。

 

 

 

解説
今回の御法語について申し上げる前に、法然上人の半生について触れる必要があります。
法然上人は岡山のお生まれです。岡山の北部、美作というところで、現在お生まれの地には誕生寺というお寺が建っております。もちろん元々お寺があったのではなく、法然上人の誕生の地だということで、お弟子の熊谷次郎直実という方が建てたお寺です。
法然上人は武士の子です。押領使という役人で、地方の治安を維持するお役目でありました。武士といいますと、身分が高かったのですねと言われる方がおられますが、そうでもないようです。我々は多く江戸時代の、身分制度が確立してその頂点に武士が収まっている武士をイメージしますが、古代の武士はそうではありません。天皇や貴族の警護をしたり、地方を武力でもって治める、どちらかというと乱暴者のようなイメージでみられていた部分もあるようです。法然上人のお父様、漆時国公も下級武士   ですから、そのような面もあったのかも知れません。
押領使は国が任命する役人です。ですから押領使が管理するのは朝廷の土地です。それとは異なり古代、中世には荘園というものがありました。貴族や寺社が土地を所有していて、そこから年貢などを徴収します。この荘園の管理者を預所といいます。預所も武士です。
漆時国公が治安を守る土地のすぐそばに荘園があり、京都から派遣された預所の明石源内武者定明という武士がいました。近い場所で立場の違う武士がいて、どちらが身分が高いかも定かになっていません。この時代は政治のシステムが崩れている時代でした。
そのようなことから、漆時国公と明石源内武者定明は非常に仲が悪かったといいます。法然上人が数え年9歳のある夜、突然定明が大勢で時国公の屋敷を攻めてきました。時国公は深手を負い、それが致命傷となって死んでしまいます。ご自分の死を覚悟した時国公は、枕元に息子である法然上人を呼び、非常に尊い遺言を残されます。法然上人は武士の子ですから、当然「必ず仇を討ちます!」とおっしゃったことでしょう。

しかし時国公はそれをお許しになりませんでした。「仇を討つな」とおっしゃったのです。「仇を討つな。お前が私の仇を討ったならば、敵の子や家来がまたお前の命を狙うであろう。恨み憎しみというものは尽きることがないのだよ。恨み、憎しみはお前のところで断ち切るべきだ。そしてお前は出家をして私の菩提を弔ってくれ。そしてお前自身が覚る為の道をしっかりと突き進んでくれよ。」とお示しになったのです。
これは現代でいう平和主義というものとは大きく次元を異にします。当時は敵討ちは美徳でありました。ましてや夜討ちという卑怯な手でやられたのですから、敵討ちをしない方がおかしいと考えます。卑怯者と言われるのです。その時代に、しかも自分が普段から憎む相手に今やられたところです。そんな時に「仇を討つな」と仰ったということは並のことではありません。
ただ、遺言は尊いですが、それを言われる法然上人はつらかっただろうと思います。「この恨みを忘れず、臥薪嘗胆、いずれ大きくなったら必ず私の仇を討ってくれよ。」と言われる方がよっぽど気が楽だったと思います。
しかしお父様はそのまま亡くなってしまいますから、その遺言を守らなくてはなりません。
まだ数えで9歳、今でいう小学校2年生という幼さです。私の先輩がかつて養護施設に勤めておられまして、その方が仰るには、一番心を開かないのは目の前で親を殺された子だということです。何を言っても笑わないというのです。実際にそういう子がいたのだそうです。法然上人の時代と現代を比べると、現代人は精神的に弱くなっているということもあるかも知れません。しかし目の前で親を殺されたというショック、悔しさ、悲しさには違いはないでしょう。
法然上人はお父様のご遺言を胸に、お母様の弟、観覚得業というお坊さんの元で仏教を学ばれます。同じ岡山の菩提寺という山の中のお寺です。法然上人は一を聞いて十を知る、非常に頭の良いお方でした。観覚得業様は「こんな田舎の山寺にいつまでも置いておくにはもったいない」と法然上人を比叡山に送られます。法然上人数え年十三歳、今でいう小学校六年生で比叡山に登られたのです。登山の年齢につきましては十五歳という説もありますが、多くの学者が十三歳説を採っておられるのでそれに従います。
このときにお母様とは生き別れです。二度と会われることはありませんでした。もちろん今のように交通は発達していませんし、比叡山に登るということは二度と家族と会わないという覚悟をしなくてはならないことでした。
比叡山に登ってから法然上人はがむしゃらに学び、修行に励まれます。そうしているとやはり徐々に有名になってきます。お師匠様には「お前は頭が良い。いずれは天台の棟梁になるべき器だ。」などと言われます。しかし法然上人はそんな出世や名声には全く興味がありません。法然上人の目的はただ一つ、お父様のご遺言の通りに悟りを開くことです。このままいたら出世競争に巻き込まれてしまうということで、わずか十八歳、これも数えですから今でいう高校二年生という若さで隠遁してしまわれます。比叡山の中でも特に奥深い黒谷という土地に青竜寺というお寺があります。青龍寺には叡空上人がおられ、法然上人と同じように隠遁してひたすら学問と修行をする人が集まっていました。法然上人はそれ以来、この黒谷青龍寺で二十五年間も過ごされます。黒谷におられる上人という意味で、法然上人のことを黒谷上人ともいいます。

京都に浄土宗の大本山、黒谷金戒光明寺がありますが、ここは黒谷上人が比叡山から下りて来られて念仏布教をなさった土地ですから、黒谷と名付けられたのです。青龍寺を元黒谷、金戒光明寺を新黒谷と呼び分ける場合もあります。金戒光明寺がある場所は丘になっており、決して谷ではありません。その場所を黒谷と呼ぶのは、以上のような謂われがあるからなのです。
さて、黒谷青龍寺に入られてからの法然上人は今までにも増して学び、厳しい修行をなさいます。しかし学べば学ぶほど、修行すればするほどに、教えの尊さと自分の器に距離を実感してきます。前置きが長くなりましたが、この御法語は法然上人が大きな悩みにぶつかられた部分なのです。
「おおよそ佛教多しと言えども、所詮戒定慧の三学をば過ぎず。」とあります。
「佛教には色んな宗派があるが、どれをとっても所詮戒定慧の三学に過ぎないんだ。」ということです。
戒定慧の戒は、仏教徒としての正しい習慣です。悟りに至るには、正しい行いをしなくてはなりません。しかし私達は何が正しい行いなのか、何が悪い行いなのかが分かりません。時代や集団の価値観に左右されてしまうからです。だから、お釈迦様が「○○をしてはいけません。」と悪い行いを示して下さっているのです。これが戒です。例えば「人を殺してはいけませんよ。」「嘘をついてはいけませんよ。」 「人の物を盗んではいけませんよ。」などです。悪い行いを止めることが即ち善い行いをする習慣になっていきます。
戒を守る人が定という修行をします。定は、心を静かに定めることをいいます。禅定などとも言います。いわゆる座禅などの瞑想です。
そして悟りの智慧を得る。これが慧です。
戒定慧と言いますと、三つが並列に価値を持つと思われるかも知れませんが、実はこれは修行の段階です。戒を守る者が定という修行をし、悟りの智慧を目指すのです。
佛教には色んな宗派や学派がありますが、どれも修行方法としては戒定慧の三学に過ぎないのだ、ということです。
「いわゆる小乗の戒定慧、大乗の戒定慧、顕教の戒定慧、密教の戒定慧なり。」
佛教を大きく、小乗仏教、大乗仏教の二つに分けることができます。ただ、「小乗仏教」という呼称は「大乗仏教」から見て「小さな乗り物」を表す蔑称だということで、原文と現代語訳はそのままにしますが、この解説では以後「南伝仏教」と表現します。南伝仏教はタイやミャンマー、スリランカなどに伝わっていった佛教です。大乗仏教は中国、朝鮮、日本、あるいはチベットに伝わっていった佛教です。
「南伝仏教と大乗仏教は、教えは色々と違うところがあるけれども、修行はそれぞれに戒定慧を行うのだ。」ということです。
また、大乗仏教を大きく二つに分けて、顕教と密教とに分けることができます。顕教とは教えが明らかになっている佛教です。殆どの宗派がこれに当たります。密教は教えが明らかになっていない佛教、真言宗と天台宗の一部です。その顕教も密教も修行の段階としては戒定慧なのです。
「しかるに我がこの身は戒行において一戒をも持たず、禅定において一つもこれを得ず。」
「しかし私は戒を一つも守れない。心を静かに定める禅定も一つもできない。」と仰るのです。法然上人は智慧第一の法然房と呼ばれていましたが、戒についても法然上人ほど厳しく戒を守る人はいないと尊敬されていました。その法然上人が戒を一つも守れないとおっしゃるのです。これは謙遜ではありません。殊勝なお言葉を述べておられるのではありません。戒は厳密に言うと、体と口と心で守らなくてはなりません。法然上人は体や口では一生涯きっちりと戒を守り通されたのです。しかし、心ではどうか。人を殺してはいけない、不殺生戒でさえも守れない。父を殺した明石源内武者定明を亡き者にしたい。あいつがいなければ父と死に別れ、母と生き別れることもなかった。殺してやりたい。そんな思いがあったのかもしれません。心を静かに定めようにも、怒り、憎しみを持ち続けている私である。一つの戒も守れない、心を静かに保つことなどできない私であるという、真剣にご自分自身を見つめられた告白なのです。
「人師釈して、尸羅清浄ならざれば三昧現前せずといえり。」
「人師釈して」は「昔の偉い方が仰るには」という意味です。
「尸羅」というのは「戒」と同じ意味です。インドの昔の言葉で戒のことをシーラと言ったのです。それを音写した言葉です。「三昧」は瞑想の境地です。カニづくし料理をカニ三昧だなどと言いますが、本来の意味から言うと全く違います。
ですから、「昔の人が仰るには、戒を守って行いを清くしておかなければ、瞑想の境地である三昧には到達しないと言われています。」ということです。
「又、凡夫の心は物に従いて移り易し。たとえば猿候の枝に伝うが如し。誠に散乱して動じ易く、一心静まり難し。」
「私達凡夫の心というものは一々移り変わり易いものだ。まるで猿が木の枝から枝へピョンピョン飛び移るかのように、心が散乱して動いてしまい、一つ処に心を静めることができないのだ。」ということです。
「無漏の正智、何によりてか起こらんや。もし無漏の智剣なくば、いかでか悪業煩悩の絆を断たんや。悪業煩悩の絆を断たずば、何ぞ生死繋縛の身を解脱することを得んや。」
「悟りの智慧はどうやったら得られるのだ。もし悟りの智慧を得る方法がなければ、どうやって悪業煩悩を断つことができようか。悪業煩悩を断つことができなければ、どうやって苦しみ迷いの娑婆世界から抜け出すことができようか。」と絶望なさるのです。
「悲しきかな悲しきかな、いかがせん、いかがせん。」
このままでは父の遺言である悟りへ到達することなどとてもできないと行き詰まってしまわれるのです。「ああ、悲しいことだ、どうすればいいんだ。」
「ここに我ら如きはすでに戒定慧の三学の器にあらず。」
「私のような者はすでに戒定慧の三学の器ではありません。」と仰います。先ほど、佛教は戒定慧の三学に尽きると仰ったのに、私は戒定慧の器ではないと仰るのです。もう私は佛教では救われないのかというところまで追い込まれているのです。
法然上人は数え年十八歳で黒谷青龍寺に入り、それから二十五年間修行を続けられたのですが、二十四歳の時に一度だけ比叡山を下りておられます。そして奈良や京都の他の宗派の偉い学者達を訪ね歩いて教えを請われました。元々頭脳明晰で多くの知識を持っておられる法然上人ですから、学者達の説く教えを悉く理解されます。どの宗派の教えも素晴らしい。どれもお釈迦様が説かれた教えですから尊い教えばかりです。しかし、どれも修行は戒定慧の三学です。どの教えも極めれば尊いけれども、そこに到達することができなければ意味がない。私ができる教えがどこにもないと気付かれ、また肩を落として比叡山に戻って行かれるのです。
「この三学の外に我が心に相応する法門ありや、我が身に堪えたる修行やあると、万の智者に求め、諸々の学者に訪いしに教うるに人もなく、示すに輩もなし。」
「この三学の外に私の心に相応しい教えはあるのか、この私が耐えられる修行はなるのかと多くの智者や学者を訪ねて教えを請うが、誰も教えてくれない、誰も示してくれない。」というのです。
青龍寺に戻った法然上人は、経蔵に籠もってお釈迦様が説かれたお経をひたすら読み続けられます。お釈迦様が生涯かけて説かれた教えをすべて合わせて一切経といいます。五千巻以上のお経がありますから、一人の人が一生かけても読み尽くせないと言われています。それを法然上人は十八歳から四十三歳までの二十五年間で何と五回もご覧になったといいます。お釈迦様が説かれた教えの中にこの私が救われる教えがないはずがない、必ずどこかにあるはずだとひたすらに探し求められました。
「嘆き嘆き経蔵に入り、悲しみ悲しみ聖教に向かいて、手ずから自ら開き見しに、善導大師の観経疏の、一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず、念々に捨てざる、これを正定の業と名付く、彼の仏の願に順ずるが故に、という文を見得て後、我らが如くの無智の身は、偏にこの文を仰ぎ、専らこの理を頼みて、念々不捨の称名を修して、決定往生の業因に備うべし。」
嘆きながら経蔵に入り、悲しみながらお釈迦様が説かれた一切経をくまなくご覧になること五回、とうとう五回目に中国の唐の時代に浄土教を大成された善導大師の観経疏という書物と出会われました。
そこには「一心にただひたすら阿弥陀様の名前を称え、歩いていても立ち止まっていても座っていても寝ていても、念仏を称える期間の長さに関係なく、一生涯続ける。これを極楽往き間違いなしの行いという。なぜなら極楽の主である阿弥陀様がそう約束して下さっているのだから。」という一文がありました。
弥陀は阿弥陀様です。名号は南無阿弥陀仏のお念仏。念じるは声に出して称えることです。時節の久近を問わずというのは、念仏のみ教えと若い時に出会えば長い期間お念仏が称えられます。しかし年を取ってから出会えば、称える期間は短くなります。あるいは死ぬ間際に念仏と出会っても、殆ど称える時間はありません。でもその期間の長さに関係なく、ということです。
念々は一瞬一瞬です。一瞬一瞬捨てない、つまりずっと続けるということです。
正定の業とは、極楽往きの為の正しく定まった行いということです。
彼の仏とはもちろん阿弥陀仏です。願とは阿弥陀仏の本願です。本願に南無阿弥陀仏と称える者を必ず極楽浄土に迎え取るとお約束下さっています。
「ただひたすら南無阿弥陀仏と称える。いつでもどこでもどんな時でも、死ぬまで称える。そうすれば必ず極楽へ往生できる。阿弥陀様の本願にそう誓われているのだから。」という文です。
法然上人はこの一文を見つけて、男泣きに泣かれたといいます。お伝記には「落涙千行」と書かれています。とうとう三学を超えた教えを見つけた。これなら私にもできる。父も母もすべての人々も救われる。
「この一文を見つけてからは、私のような無智の者は偏にこの一文を仰ぎ、この理を頼りにして、一声の念仏も見捨てられないという称名念仏を行って、来る往生に備えなくてはならない。」と締めくくっておられるのです。
このように申しますと、よく「昔の人はすごいですねえ。」と言われます。しかし、そんな次元の話ではありません。昔の人の中でも比叡山で修行される勝れた人ばかり、その中でも飛び抜けて勝れた法然上人が、この私にできる教えは念仏しかないとおっしゃったのです。昔の人でも多くの人は、できていないのにできているようなフリをし、あるいはできているような錯覚をして、三学を行っていたのです。法然上人の素晴らしいところは智慧が勝れていることはもちろんですが、それ以上にご自分自身を見つめられる厳しい目を持っておられたことです。
法然上人はお父様の遺言通り、悟りを目指されたのです。形だけの出世が目的ではありません。だから、三学をできていないのにできているような顔をしていても何にもならなかったのです。
本気でやろうとしたら、私には絶対にできない。どれも教えは尊いが、できなければ絵に描いた餅です。本気で私達が救われる教えはお念仏しかないのです。
私達はたまたま浄土宗のウチに生まれ、あるいは嫁いだ先が浄土宗であったと思っています。でもそうではないのです。本気で求めたならば、真剣に自分自身を見つめたならば、浄土宗の教えでなければ救われない私に気付くはずです。