成道山 法輪寺

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御法語

元祖大師法然上人御法語第二十一章

(本文)

或いは金谷(きんこく)の花をもてあそびて、遅々(ちち)たる春の日を虚しく暮らし、或いは南楼(なんろう)に月をあざけりて漫々(まんまん)たる秋の夜(よ)をいたずらに明かす。或いは千里の雲にはせて、山のかせぎをとりて歳(とし)を送り、或いは万里の波に浮かびて、海のいろくずを獲りて日を重ね、或いは厳寒に氷を凌(しの)ぎて世路(せろ)を渡り、或いは炎天に汗をのごいて利養(りよう)を求め、或いは妻子眷属(けんぞく)に纏(まと)われて、恩愛(おんない)の絆(きずな)切り難し。或いは執敵怨類(しゅうてきおんるい)に会いて、瞋恚(しんに)の炎(ほむら)止むことなし。総じてかくの如くして、昼夜朝暮(ちゅうやちょうぼ)、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、時として止むことなし。ただ欲しきままにあくまで三途(さんず)八難(はちなん)の業(ごう)を重ぬ。しかれば或る文(もん)には一人(いちにん)一日の中(うち)に八億四(し)千の念あり、念々の中の所作皆これ三途(さんず)の業(ごう)と言えり。かくの如くして、昨日もいたづらに暮れぬ。今日もまた虚しく明けぬ。今幾(いく)たびか暮らし、幾(いく)たびか明かさんとする。

 

(現代語訳)

ある時は(荊州)金谷園(きんこくえん)の花を慰みとしてはのどかな春の日を空しく過ごし、ある時は(武昌県)南楼閣で月を詩に詠んでは長い夜をいたずらに明かすのです。

ある時は千里の雲の彼方まで走っていっては山の鹿を捕らえて年月を送り、ある時は万里の波間を漂っては海の魚を捕らえて月日を重ね、ある時は炎天下に汗を拭いながら財物を求め、ある時は妻子や親族にまとわり付かれて情愛の絆は断ちがたいのです。ある時は仇敵に出会って怒りの炎の消えることがありません。

すべてこのようにして、昼夜朝暮、立ち居起き臥し、少しの間も止むことがないのです。ただ勝手気ままに、どこまでも三途八難を招く悪業を重ねてしまいます。

ですから、ある経文には、「人間には、一日に八億四千の思いがわき起こる。その思いの中で行うことは、みな三途へ堕ちる悪業である」とあります。

このようにして昨日も空しく夜を迎えました。このうえ、いくたび夜を迎え、いくたび朝を迎えるのでしょうか。

 

(解説)

法然上人の教えは「誰もが救われる教え」です。
当時、救われないと諦めていた人々が「私も救われる」と感激し、瞬く間に広がりました。
多くの人に教えが広まることはありがたいことですが、法然上人がおっしゃることがそのまま伝わるのではなく、自分勝手な解釈をする者が多く出てきました。
例えば「念仏称える者は救われるが、それ以外の修行をしている者は救われない」という者、「念仏を称えてさえいれば何をしてもいい。どんな悪いことをしても救われるのだから」という者が多く現れて、間違った教えを巷で触れ回ったのです。
今まで法然上人の浄土宗を、天台宗の一派としかみていなかった比叡山も「それはおかしい」と考え出しました。
そこで法然上人は「浄土宗の教えはちゃんと仏教にのっとった教えですよ」ということを比叡山に伝えるために、お弟子の聖覚(せいかく)という方に文章を書かせ、手紙として比叡山に送りました。
この手紙は相当な長文です。
「比叡山に登る」という意味で「登山状(とざんじょう)」と呼ばれています。

今回のご法語は、その「登山状(とざんじょう)」の一節です。
「登山状(とざんじょう)」には色々なことが書かれていますが、今回のご法語は「私たちの生き方や今の生活」について説かれ、そのままでいいのですか?と問われているのです。

本文を見て参ります。
「あるいは金谷(きんこく)の花をもてあそびて遅々たる春の日を虚しく暮らし」
金谷(きんこく)といいますのは、昔中国に金谷園(きんこくえん)という立派な庭園があったそうです。
その庭園の持ち主、大金持ちが花を愛でて優雅に暮らす姿を「虚しく暮らし」つまり「無駄に」過ごしているとおっしゃっているのです。

「あるいは南楼(なんろう)に月をあざけりて、漫々たる秋の夜をいたずらに明かす」
これも中国晋の時代、ある将軍が南楼(なんろう)という大層立派な建物を建てて、風流に月見をしている姿が描かれています。
それを「いたずらに明かす」つまりこれも無駄に過ごしていると説かれるのです。

ここまでは大金持ちや風流人についてのことですが、ここからは労働者、私たちのことについておっしゃっています。

「あるいは千里の雲にはせて山のかせぎをとりて年を送り」
山のかせぎというのは鹿のことです。
鹿をとって過ごしている、これは猟師さんです。

「あるいは万里の波に浮かびて海のいろくずを取りて日を重ね」
こちらは海の漁師さんです。
海のいろくずは魚です。

「あるいは厳寒に氷を凌ぎて世路(せろ)を渡り」
厳寒の中を働き働き世間を渡っていく人です。

「あるいは炎天に汗をのごいて利養(りよう)を求め」
炎天下の中一生懸命働いて利益を求める人です。

「あるいは妻子眷属(けんぞく)に纏(まと)われて恩愛(おんない)の絆切り難し」
「あるいは妻子や一族の者達に頼られて情愛の絆を断ち切ることもできない」ということです。

「あるいは執敵怨類(しゅうてきおんるい)に会いて瞋恚(しんに)の炎(ほむら)止むことなし」
「時には大嫌いな人と会って瞋(いか)りの炎を燃やす」

「総じてかくの如くして昼夜朝暮(ちゅうやちょうぼ)行住坐臥(ぎょうじゅうざが)時として止むことなし」
「すべてこのようにして昼も夜も朝も夕暮れも、いつでもどこでもどんな時も、一瞬たりとも心を悩まさない時はない」

「ただ欲しきままにあくまで三途八難(さんずはちなん)の業(ごう)を重ぬ」
「ただ心の赴くままにどこまでも地獄(じごく)、餓鬼(がき)、畜生(ちくしょう)行きの行いを重ねていく」

「しかれば或る文には一人一日(いちにんいちにち)の中(うち)に八億四千の念あり」
私たちは朝から晩まで一つのことをジッと考え続けているわけではありません。
浄土菩薩経というお経には、人が一人過ごすのに八億四千の心の動きがあると記されています。

「念々の中の所作、皆これ三途(さんず)の業(ごう)といえり」
「一瞬一瞬の心の行いはすべて地獄・餓鬼・畜生行きの行いばかりである」というのです。

「かくの如くして、昨日もいたずらに暮れぬ。今日もまた虚しく明けぬ」
「このようにして昨日も無駄に暮れていった。今日もまたこうやって虚しく明けていく」

「今幾たびか暮らし、幾たびか明かさんとする」
「これから何度このような日々を送るのですか」ということです。

非常に厳しい内容ですね。
しかしよく見ますと、そんなに悪いことは書かれていません。
人殺しをしたとか、人のものを盗んだとか、人を騙したという人はこのご法語には出てきません。
普通の人々です。
最初のお金持ちにしても、お金の力で人に嫌がらせをしたということではありません。
風流人といっても、月見をしているというだけで、決して悪いことをしたということは書かれていないのです。

また、労働者は鹿を捕ったり、魚を獲らなければ生きていけないのです。
寒い中、あるいは炎天下に一生懸命働く人、家族仲良く暮らす人、時には嫌いな相手と会って、腹を立てるということがあっても、その程度です。

正に私たちの現状ですね。
私たちは特別な善人ではなくても、どちらかといいますと善良な市民ですよね。
人から後ろ指を指されるようなことはしていないつもりです。
ところが、私たちの行いすべてが地獄・餓鬼・畜生という、恐ろしいところに生まれなくてはならないほどの悪い行いだというのです。

その原因は煩悩にあります。
普通に生きているつもりでも、私たちの行いは、ほぼ煩悩による行いです。
自分を生かそう、生かそうと思って必要以上にものを欲しがり、自分を生かそうという余り、自分にとって不都合な人に腹を立てるのです。
そういう行いを続けている私たちは知らず知らずの中に、地獄・餓鬼・畜生行きの行い、罪が積もっていくのです。

「誰だってやっていることじゃないか!」と腹を立てても仕方がありません。
何の悪いことをしたつもりがなくても悪い業(ごう)が積み重なっていきます。
まるで「お医者さんに罹ったことがない」と言っている人の体の中で、知らない間に病気が進行していくかのようです。
それなのに気づかず、対処をしないようでは、救われようがありません。

そんな私たちが今できることといったらお念仏を置いて他にはありません。
普通に暮らしていて何の自覚もないままに地獄・餓鬼・畜生に生まれているようではあまりにも悲しいではありませんか。
今気づいて今なすべきお念仏を称えなくてはならないのです。