成道山 法輪寺

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御法語

元祖大師法然上人御法語第三十一章

(本文)

念仏の行(ぎょう)を信ぜざらん人に会いて、御物語(おんものがた)り候(そうら)わざれ。いかに況(いわ)んや宗論(しゅうろん)候(そうろ)うべからず。強(あなが)ちに異解異学(いげいがく)の人を見てこれをあなずり誹(そし)ること候うべからず。いよいよ重き罪人になさんこと不憫(ふびん)に候うべし。極楽を願い念仏を申さん人をば塵刹(じんせつ)の外(ほか)なりとも父母(ぶも)の慈悲に劣らず思(おぼ)し召(め)すべきなり。今生(こんじょう)の財宝ともしからん人をば、力を加えさせ給うべし。もし少しも念仏に心をかけ候わん人をば、いよいよ御(おん)勧め候うべし。これも弥陀如来(みだにょらい)の本願の宮使いと思(おぼ)し召(め)し候うべし。

 

(現代語訳)

念仏の行を信じていない人に出会っても、話し込んではなりません。まして宗派同士の論争などすべきではありません。解釈や学問の異なる人を見て、むやみにその人を軽んじ、誹謗することがあってもなりません。〔相手を〕ますます重罪の人にするのは、気の毒でありましょう。

極楽を願い、念仏を称える人がいれば、無臭の世界のかなたにあっても、父母の慈愛に劣らずお思いになるべきです。この世での財宝が乏しい念仏者には援助なさってください。もしわずかでも念仏に心を寄せている人には、ますます〔念仏を〕お勧めください。これも阿弥陀如来の本願へのご奉仕とお考えになってください。

(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊)

 

(解説)

法然上人が生きた時代は、平安末期から鎌倉初期です。
ということは、源平の争いは当に法然上人が過ごされた時代だといえます。
平家の者や源頼朝、義経、木曾義仲などは同時代の人です。

その源頼朝公の奥方は尼将軍とも言われた北条政子さま。
北条政子さまは臨済宗の信仰を持っておられたと言われます。
ですから鎌倉には鎌倉五山を初め、臨済宗のお寺がたくさんあります。
しかし御家人の中には念仏信者が多くいました。
だから統治者としてお念仏のことを知っておく必要があったと思われます。

このご法語はそんな北条政子さまが、念仏者を装って、もしくは本当に信仰があったのかはわかりませんが、法然上人に質問状を送られた、それに対する法然上人からの返事の一部分です。

北条政子さまから法然上人に宛てた手紙は現存していませんが、法然上人が北条政子さまに返した手紙の内容が伝えられていますので、そこから推測しますと、どうも「念仏信者は他の信仰の者とどのように接すればよろしいでしょうか?」と質問なさったようです。それに対する法然上人のお答えです。

「念仏の行を信ぜざらん人に会いて、御物語候わざれ」
「念仏の教えを信じない人に会ったら語ってはなりません」
もちろん話をするなということではなく、教えについて語ってはならないとおっしゃるのです。
説得して教えを信じさせよとはおっしゃらないのです。

「いかに況んや宗論候うべからず」
宗論とは自分の宗は釈尊の教えそのものであり、相手の宗は間違っていると論争することです。そういう論争はすべきでないとおっしゃるのです。

「強ちに異解異学の人を見て、これをあなずり誹ること候べからず」
「強引に違う理解、違う学問、つまり違う信仰の人をみて、あなどったり誹ったりしてはなりません」
こちらが念仏信仰を有り難いと受け取りますと、人に勧めたくなります。
違う信仰の人を見ると、何とも気の毒に思い、そんな教えよりも念仏の教えの方が有り難いよと言いたくなります。
しかし、それは違う信仰の人にとったら迷惑です。
勧める方はよかれと思って勧めます。
でも言われた方は反発し、たとえそこで言い負かされて納得したふりをしても、結局は腹を立てて念仏の悪口を言うということになりがちです。
そうなると、お釈迦様の正しい教えであるお念仏の教えを軽んじるという罪を犯すことになるわけです。
最初は相手のことを思い、よかれと思って勧めたはずが、相手に罪を起こさせることになってしまいます。
そのことが次に書かれています。

「いよいよ重き罪人になさんこと、不憫に候べし」
「ますます思い罪人にしてしまうことは気の毒ではないか」

ここまでは念仏の教えに背を向けている人に接するにはどうすればよいかということが説かれています。
逆にここからは念仏の教えに興味を持つ人にはどうすればよいかということを説いたものです。

「極楽を願い、念仏を申さん人をば、塵刹の外なりとも父母の慈悲に劣らず思し召すべきなり」
「極楽への往生を願い、念仏を申す人にはどれだけ遠くにいようとも、父母が我が子を可愛がるその慈悲におとらないほどの思いを持ってください」

「今生の財宝ともしからん人をば、力を加えさせ給うべし」
北条政子さんは権力も財力も持った人ですから、「念仏信者で貧しい人がいたならば、援助して差し上げなさいませよ」とおっしゃいます。

「もし少しも念仏に心をかけ候わん人をば、いよいよ御勧め候べし」
「もし少しでも念仏に心を向ける人がいたならば、益々お勧めなさいませ」
「これも弥陀如来の本願の宮使いと思し召し候べし」
「これも阿弥陀さまの本願の宮使いとお思いなさいませよ」

宮使いとは本来宮廷に仕えることを言いますが、ここでは阿弥陀さまの本願の宮使いと説かれます。
阿弥陀さまの本願とは、苦しみ悩みのこと娑婆世界から離れて、極楽浄土への往生を願う者に我が名を呼べば必ず極楽へ迎え取ってやるぞとお誓いくださっているものです。
ですから極楽往生を願う者がいたら、積極的に南無阿弥陀仏と称えることを勧めればいいのです。
極楽浄土へ往きたいのに違ったことをしている人がいると気の毒ですから、「阿弥陀さまは南無阿弥陀仏と称えれば救うと仰っていますよ」と勧めればよいのです。

しかし、このご法語の前半の方は極楽へ往生したいと思っていない人です。
極楽なんて往きたくないという人にいくら「南無阿弥陀仏と称えれば極楽へ往けるよ」と言っても何にも喜びません。
ですから、極楽へ往きたいと思う人には積極的にお念仏を勧め、極楽へ往きたくない人には勧めるべきではないと仰るのです。