成道山 法輪寺

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御法語

元祖大師法然上人御法語 後篇第二章

(本文)

およそ生死(しょうじ)を出(い)ずる行(ぎょう)、一つにあらずといえども、まず極楽に往生せんと願え。弥陀(みだ)を念ぜよということ、釈迦一代の教えにあまねくすすめ給えり。そのゆえは、阿弥陀佛本願をおこして我が名号(みょうごう)を念ぜん者、我が浄土に生まれずば正覚を取らじと誓いて、すでに正覚をなし給うゆえに、この名号(みょうごう)を称(とな)うる者は必ず往生するなり。臨終の時、諸々の聖衆(しょうじゅ)と共に来たりて必ず迎接(こうしょう)し給うゆえに、悪業(あくごう)として障(さ)うるものなく、魔縁(まえん)として妨ぐる事なし。男女(なんにょ)貴賎(きせん)をも選ばず、善人悪人をも分かたず、至心に弥陀を念ずるに生まれずという事なし。喩(たと)えば重き石を船に乗せつれば、沈む事なく、万里の海を渡るがごとし。罪業(ざいごう)の重き事は、石の如くなれども、本願の船に乗りぬれば、生死(しょうじ)の海に沈む事なく、必ず往生するなり。ゆめゆめ我が身の罪業によりて、本願の不思議を疑わせ給うべからず。これを他力の往生とは申すなり。

 

(現代語訳)

おおよそ、迷いの境涯を離れる行は少なくありませんが、何よりもまず「極楽に往生しよう」と願いなさい。「阿弥陀仏の名号を称えよ」ということは、釈尊が生涯にわたって説かれた教えのあらゆるところでお勧めになっています。

というのも、阿弥陀仏が本願を立てて、「私の名号を称える者が、私の浄土に生まれないならば、〔決して〕覚りを得ることはあるまい」と誓われた上で、すでに覚りを成就しておられますので、この名号を称える者は必ず往生するからです。

臨終の時、〔阿弥陀仏は、〕諸菩薩とともにおいでになり、必ず〔浄土へ〕迎え取って下さいますから、いかなる悪業も障害とはならず、どのような悪魔も妨げることはありません。男女の別や、身分の高低にかかわらず、善人・悪人の区別もなく、心を込めて阿弥陀仏〔の名号〕を称えるならば、〔浄土に〕生まれないということはありません。

たとえば、重い石も、船に載せたならば、沈むことなく、はるかな海路を渡るようなものです。〔私たちの〕罪業の重いことは石のようですが、本願の船に乗れば、輪廻の海に沈むことなく、必ず往生するのです。

自分に罪深い行いがあるからといって、決して本願の、人知を超えた力をお疑いになってはなりません。これを他力による往生と言うのです。

(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊)

 

(解説)

後編第一章で輪廻のことについて申し上げました。
この世を生きるのは一筋縄ではいきません。
生きるのは大変です。
散々にしんどい思いをして、一生を終えても決して安らかに眠ることなどできません。
生まれ変わるのです。
しかも人間に生まれ変わることはほぼ不可能だとお釈迦さまはおっしゃっています。

お釈迦さまがお弟子の阿難尊者を連れて旅をしておられたある日、ガンジス川の河原に立ち寄られました。
ガンジス川は私も行ったことがありますが、とても大きな川です。
川の両岸は広く、たくさんの砂が積もっています。
お釈迦さまはガンジス川の砂を一握り取り、もう片方の手の人差し指にサラサラとその砂をかけました。
そうしますと人差し指の爪の上に少しだけ砂が残ります。お釈迦さま阿難尊者に尋ねられます。
「阿難よ。ガンジス川のすべての砂と私の指の上に乗っている砂ではどちらが多いか?」阿難尊者は「お釈迦さま、もちろんガンジス川のすべての砂の方が多いです」とお答えになります。
するとお釈迦さまは、「そうであろう。阿難よ。人間に生まれてくるというのは、ガンジス川のすべての砂に対して私の指の爪に乗っている砂ほど、稀なことなのだよ」と仰ったといいます。

ですから、今人間として生まれてきていることは奇跡のようなものだと言えます。
その人間として生まれてきたのに、何もせずに欲望のまま過ごしていたら、次に生まれる先は地獄・餓鬼・畜生といった苦しみばかりの世界ということになってしまいます。
一度地獄・餓鬼・畜生に生まれると、そこから這い出すのは至難の業です。
なぜなら苦しい世界に生まれると善い行いができないからです。
考えてみますと、自分が苦しいときに人のために尽くすことは大変に難しいことでしょう。苦しいときには自分のことで精一杯になってしまいます。
地獄・餓鬼・畜生の世界は人間世界とは比べものにならないほど苦しい世界ですから、善い行いをすることが非常に難しいのです。
ですから、その次に生まれる先もまた地獄・餓鬼・畜生、その次もそのまた次も、結果的に未来永劫に至るまで地獄・餓鬼・畜生の世界を生まれ変わり死に変わりせざるを得ない、ということになります。

第一章でも申し上げましたが、その永遠に生まれ変わり死に変わりを繰り返す、輪廻からの脱出が仏教の目的です。
脱出するには煩悩を無くさなくてはなりません。
その煩悩を無くす方法をお釈迦さまはたくさんお説き下さいました。

その多くは自分で修行して、煩悩を無くす方法です。煩悩を無くして輪廻から脱出することを解脱、出離、成仏、あるいは正覚をとる、覚りを開くなどと申します。
自分を磨いて自力で輪廻から脱出するのです。

わずか数十年の人生の中で修行をし、煩悩を無くして覚りを開くことができずに死んでしまったら輪廻してしまいます。
輪廻しますと前世の記憶はなくなりますから、修行の続きはできません。
かと言って、一口に煩悩を無くすといってもそれは不可能に近いほど難しいことです。
となりますと、殆ど誰も輪廻から抜け出すことなどできないということになります。

阿弥陀さまという仏さまは、そんな私たちの為に極楽浄土という世界をお造りくださいました。
極楽は憎しみも悩みもない、幸せの世界ですが、極楽の一番の特長は修行がし易いということです。
この世は修行がしにくい世界です。
まず生きるのに精一杯で修行に目が向きません。
誘惑も多いです。
そして修行をしようと志しても途中で萎えたり、諦める。
修行を続けても覚りにはほぼ至ることができません。
しかし極楽へ往けば、修行が楽しくて楽しくて仕方がないといいます。
ですから後戻りしません。
極楽へ往けば輪廻の世界に舞い戻ることはありません。
どんどん修行が進み、必ず覚りに至ることができます。阿弥陀さまはそういう世界をお造り下さり、その極楽へ私たちを迎え入れようとお考え下さいました。

しかし折角極楽を造っても、極楽へ往く方法が難しければ同じことです。
阿弥陀さまはお考え下さり、「そうだ、私の名前なら誰でも呼べるであろう。
私の名前に私が修行した功徳すべてを収め込んでおこう。
私の名前を呼んでごらん。必ず私が救ってやるから」とお誓い下さいました。
これを本願と申します。

直接覚りを目指すことは不可能であっても、まず極楽へ往生すればよいのです。
極楽に往けば必ず覚りに至るのですから。
極楽へ往くには難しい修行は必要ありません。
ただ阿弥陀さまの名を呼ぶだけです。
南無阿弥陀仏と称えるだけです。
極楽へ往きたいのであれば、南無阿弥陀仏と称えるのです。
自力では到底輪廻から抜け出すことなどできない私たちですが、阿弥陀さまの力、他力でなら必ずや輪廻から抜け出すことができます。

では本文に移ります。

「およそ生死を出ずる行、一つにあらずといえども、まず極楽に往生せんと願え」
生死というのは「せいし」ではありません。「しょうじ」です。
生き死にではないのです。
生まれては死に、生まれては死にを繰り返すということ、つまり輪廻のことです。
ですからここは「輪廻を抜け出す行は一つではないけれども、私たちはまず極楽へ往生することを願いなさい」ということです。

「弥陀を念ぜよということ、釈迦一代の教えに普く勧め給えり」
「弥陀」とは阿弥陀さまのことです。「念じる」とは称えることです。
つまり「阿弥陀さまの名を称える、南無阿弥陀仏と称えよということは、お釈迦様が一生涯かけて説かれた教えのあらゆるところでお勧めくださっています」

「その故は、阿弥陀仏、本願を起こして我が名号を念ぜん者、我が浄土に生まれずば正覚を取らじと誓いて、すでに正覚を成り給う故に、この名号を称うる者は、必ず往生するなり。
「というのも、阿弥陀さまが本願を建てて私の名前を称える者はもし私の浄土に生まれることができなければ覚りを開かない、仏にならない、と誓われたのにすでにちゃんと阿弥陀仏という仏になっておられるのだから、南無阿弥陀仏と称える者は必ず往生することができる」

「臨終の時、諸々の聖衆と共に来たりて、必ず迎接し給う故に、悪業として障うるものなく、魔縁として妨ぐることなし」
「私たちの臨終の時には、多くの菩薩さま方を引き連れて、阿弥陀さまが自らお迎えに来て下さるから、私たちは煩悩による悪い行いばかりを繰り返してきたが、それが障害にならず、悪魔に邪魔されることもない」

「男女貴賤をも選ばず、善人悪人をも分かたず、至心に弥陀を念ずるに、生まれずということなし」
ここではどうすれば極楽へ往生することができるか、その条件が書かれています。
「男か、女かなどは関係ない。身分が高いとか賤しいということも関係ない。さらには善人か悪人かさえも関係ない。唯一の条件は、心を込めて南無阿弥陀仏と称えるならば、極楽に生まれないということはない」

「例えば、重き石を船に載せつれば、沈むことなく万里の海を渡るが如し」
「譬えて言うならば、思い石であっても大きな船に載せれば、沈むことなく大海原を渡ることができるだろう」

「罪業の重きことは石の如くなれども、本願の船に乗りぬれば、生死の海に沈むことなく、必ず往生するなり」
考えてみると私たちは罪が重いので大きな石を背負っているようなものです。
ですから海を渡ろうと思っても海に入ればブクブクと沈んでしまいます。
しかし本願の船に乗れば大丈夫です。

「罪が重いことはまるで石のようなものだけれども、阿弥陀さまの本願の船に乗れば、生死輪廻の海に沈むことなく必ず極楽へ往生することができる」

「ゆめゆめ我が身の罪業によりて、本願の不思議を疑わせ給うべからず」
「決して自分が罪深いからといって、本願を歌勝手はなりません」

お念仏を称えればどんな者でも救われますよとどれだけ言われても、「私みたいな者が本当に救われるのだろうか」と不安になる人もいます。
しかしそんな必要はないというのです。阿弥陀さまの本願の船はどんな重い罪の者でも運んで下さるのです。

「これを他力の往生とは申すなり」
「この阿弥陀さまの力を他力というのだ」

他力とは決して自分で大した努力もせずに人任せにすることではありません。
自分の力で苦しみの世界、輪廻の世界を抜け出そうと煩悩を無くそうとしてもとてもとても無くすことができない私たちです。
その私たちを、名前を呼べば救うと言ってくださっているのです。
どんな者でも救っていただける阿弥陀さまの力のことを他力というのです。