成道山 法輪寺

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御法語

元祖大師法然上人御法語 後篇 第十二章

(本文)

昔の太子は万里の波を凌ぎて、竜王の如意宝珠(にょいほうじゅ)を得給えり。今の我らは二河(にが)の水火を分けて弥陀本願の宝珠を得たり。彼は竜神の悔いしがために奪われ、これは異学異見のために奪わる。彼は貝の殻をもて大海を汲みしかば、六欲四禅(ろくよくしぜん)の諸天来たりて同じく汲みき。これは信の手をもて疑謗(ぎぼう)の難を汲まば、六方恒沙(ろっぽうごうじゃ)の諸仏来たりて汲みし給うべし。

 

(現代語訳)

その昔、〔印度の波羅奈国の〕大施太子は、遙か遠い波路をくぐり抜け、龍王が持つ、あらゆる願いがかなう宝玉を手にしましたが、今の私たちは〔貪りと憎しみという〕水火の二河に分け入り、阿弥陀仏の本願という宝玉を得たのです。

龍王の宝玉は、龍神たちが惜しんだために奪い返されましたが、本願という宝玉は、学説や見解の異なる者によって奪われるのです。

太子が貝殻で大海の水を汲み干そうとしたところ、六欲、四禅の神々が来て、ともに水を汲み出しました。

私たちが信心の手で〔他宗の人の〕疑いや謗りという困難を汲み出すならば、六方の、ガンジス河の砂の数ほどの諸仏が来て、味方して下さるでしょう。(総本山知恩院布教師会刊『法然上人のお言葉』)

 

(解説)

この御法語は、二つのお話を比較しながら説かれたもので、その二つの話を知らないと何のことやらさっぱり分からないでしょう。
ですから前提となる二つのお話をまずご紹介いたします。

一つ目は『賢愚経』というお経にあるお話です。
昔インドの波羅奈国という国に大施太子という方がおられました。
大施太子は自ら治める国にいる貧しい人々に財産からずっと施しを与えていました。
しかし財産はどんどん減っていくけれども貧しい人々は減っていきません。
どうすればよいか考えていると、竜宮の如意宝珠のことを知ります。
海底にある竜宮に竜王がおり、その髻に如意宝珠という立派な美しい玉が飾られている。その如意宝珠を手に入れれば金銀財宝は思いのままに手に入るといいます。
如意宝珠があれば貧しい人々を救うことができると、大施太子は勇んで海の中に入り、竜宮へ行きます。
竜宮で竜王と面会し、如意宝珠を譲ってくれと懇願します。
竜宮は大施太子の志にいたく感動して、如意宝珠を譲ってくれることになりました。
竜王は帰りの道中に危険があってはいけないと竜神を大施太子のお供につけてくれました。
ところが竜神達は大施太子のようなどこの馬の骨かもわからない者に竜宮の宝である如意宝珠を持って行かれることをよしとしませんでした。
そこで大施太子を騙して、「竜宮の宝である如意宝珠をもう見ることができないので、最後一目見せてください」と太子に頼み、太子が差し出したとたん、竜神達は如意宝珠を奪って逃げていきました。
大施太子は慌てて追いかけますが、追いつきません。
困り果てた大施太子は竜神達に言います。
「如意宝珠を返さないというならば、貝殻でもって海の水を汲み尽くしてしまうぞ」と。「そんなことができるものか。一生掛かってもできるわけがない」と竜神達は笑います。大施太子は「一生掛かってできなければ、何度生まれ変わっても汲み尽くしてみせる。
そして貧しい人々を救うのだ」と一人で水を汲み始めます。
ところがそこに天の神々が大施太子の志に感激して降りてきました。
無数の神々が同じく貝の殻でもって海水を汲み始めたところ、みるみる海水は減っていき、とうとう竜宮の甍が見えてきました。
竜神達は慌てて、奪った如意宝珠を大施太子に返します。
その如意宝珠の力で、大施太子は多くの貧しい人々を救ったというお話です。

もう一つは二河白道という譬え話です。
浄土宗の高祖、唐の善導大師が私たちが極楽浄土への往生を願う心を細く白い道に譬えてくださいました。

旅人が一人行く当てもなく暗い霧の中を彷徨っていました。
そこに盗賊が現れ、旅人は逃げます。
さらに猛獣たちが襲いかかります。
旅人は必死で西へ西へと逃げます。

ようやく盗賊や猛獣から離れたと思ったその時、突然目の前に大きな河が現れます。
北は逆巻く水の河、南は燃えたぎる火の河です。
河は南北に際限なく続いています。
後ろからは盗賊や猛獣が迫ってきます。

しかし前の河をよく見ると、火の河と水の河の間に一本の細い道が見えます。
わずか四・五寸といいますから、12センチ~15センチの細い細い道です。

川の幅は約百歩(ぶ)。
善導大師の時代一歩は今の約1.56メートルですから、百歩は約156メートルです。
道の細さを考えると、相当遠く感じる距離でしょう。

その道を水が洗い、火が被るのです。
そんな状況では、道があるといってもとても向こう岸まで渡りきることができそうにありません。

旅人はどうするか。
前に進むも立ち止まるも後ろに戻るもすべて死が待っています。
当に万事休すの状態です。

そこに向こう岸から声が聞こえます。
「大丈夫だ、渡って来いよ。必ず渡りきることができるであろう」

後ろからも声が聞こえます。
「向こう岸からの声を信じて渡れよ。大丈夫だから。必ず助かるから」

その声を頼りに旅人は一歩一歩白道を渡ります。
しかし何歩か歩いた時に後ろから別の声が聞こえます。
「そんな道渡ったら危ないぞ。戻ってこいよ」

旅人は迷います。
「そうだな。とても渡りきることなんてできないな。後ろから声をかけてくれている人は良さそうな人だな。助けてくれるかも知れない」

そこにまた前から先ほどの声が聞こえます。
「大丈夫だ。必ず渡れるから。大丈夫だ。大丈夫だ」
そして後ろからも先ほどと同じ励ましの声が聞こえます。
「向こう岸の声を信じて行けよ。大丈夫だ。大丈夫だ」
旅人は再び意を決して向こう岸に向かい、無事に渡って平和に暮らしました。

この譬えを「二河白道の譬え」と申します。
これは譬喩ですから、譬えているものを説明する必要があります。
まず旅人は私たち。暗い霧は私たちの自分ばかりを生かそう、生かそうという自分中心の心です。
そんな煩悩の中で人生に迷っている私たちです。

そこに現れた盗賊は私たちの感覚器官です。
目に見るものによって、食欲や性欲が湧いてくる。
聞くことによって人を偏見の目で見たり、憎しみを抱いたりします。
臭うことによって、必要以上に食欲が増し、際限がないのです。
味わうことによってまた欲しくなってしまう。
そして一瞬一瞬考えることはろくなことがありません。
そういった観覚器官によって煩悩は更に膨らんでいきます。

猛獣は私たちの疑い心や高慢な心です。
正しい教えを受けても信じようとせず、また自分を上にして教えを判定しようとする、救われがたい心です。

突然目の前に現れた河。
水の河は私たちの貪りの心を表します。
欲しい物が手に入ってもまた次の物が欲しくなる。

火の河は瞋りの心です。
自分の思い通りにならないと腹を立てる私たちの怒りの心。

間の白道は極楽へ往きたいという心。
極楽往生を願う心です。
それはとてもか細い心です。
貪りの水に流され、瞋りの火に燃やされそうな弱い心です。

ただ、たった一人きりで渡るのではありません。
たった一人であったならば渡りきることはできないでしょう。
向こう岸からの声があります。
後ろからの励ましの声があります。
向こう岸から「来いよ」と言ってくれる声は阿弥陀さまの声です。
後ろから「行けよ」と言ってくださる声はお釈迦さまの声です。
また後ろから聞こえる「帰ってこいよ」の声は他の信仰の人です。
せっかく極楽へ往生しようと思っているのに、それを邪魔する誘惑です。

しかし前からの「来い」と後ろからの「往け」の声に励まされてお念仏を称えて往けば、間違いなく向こう岸、西方極楽浄土へ往生し、先に往生した方々と手に手を取り合って再会し、幸せに過ごすことができるのです。

以上が二河白道の譬えの意味するところです。
大施太子の話と二河白道の話をまずご紹介しました。
これでようやく御法語に入ることができます。

「昔の太子は、万里の波を凌ぎて竜王の如意宝珠を得給えり」
「大施太子は、遙か遠い波をくぐり抜けて竜王が持つ如意宝珠を手に入れた」

「今の我らは二河の水火を分けて弥陀本願の宝珠を得たり」
「今の私たちは水と火の二つの河を分け入って、弥陀本願の宝珠を手に入れた」

「彼は竜神の悔いしがために奪われ、此は異学異見のために奪わる」
「如意宝珠は竜神達が悔しがったために奪われたが、弥陀本願は違った考え方や信仰の人によって奪われる。」

「彼は貝の殻をもて大海を汲みしかば、六欲四禅の諸天、来たりて同じく汲みき。」
「大施太子が貝の殻でもって海の水を汲もうとしたら、天の神々が降りてきて一緒に水を汲み出した」

「此は信の手をもて疑謗の難を汲まば、六方恒沙の諸仏来たりて与し給うべし」
「私たちが信心の手で、違う見解や違う信仰の人達からの疑いや謗りを汲むなら、東西南北上下、つまりあらゆるところの、ガンジス川の砂の数ほどたくさんの仏様方がやってきて、疑いを晴らしてくださるだろう」

私たちは今まで自分の経験と自分の考えだけで生きてきました。
しかし今お念仏のみ教えと出会いました。
「そうか、ありがたいな」と思って一歩二歩と進もうとします。
そうしますと素直な心で歩みますから、あらゆることを素直に聞こうとします。そこに声が聞こえる。
後ろからの誘惑の声です。
「帰ってこいよ。危ないぞ」この声はお念仏と異なった信仰の人の声です。
「極楽なんて本当にあると思ってるの?あるはずないじゃないか」という無神論の人もそこに含まれるでしょう。
「念仏なんて称えると地獄に堕ちるぞ」という新宗教の人の声もそうです。
もしかしたら一人一人の声を聞けばそれなりに納得できるのかも知れません。
でも私たちは今お念仏の教えを漸く信じて一歩二歩と進み始めたところです。
一一の話を聞いて、「なるほど。一理あるな」などと納得していると、一歩も進めません。

前からは「来い」と阿弥陀様が言って下さっているんです。
後ろからはお釈迦様が「往け」と言って下さっています。
誘惑の声は所詮人間の声、凡夫の声です。
「来い」と「往け」は凡夫の声ではありません。
仏の声です。

お念仏を称えていても貪りや瞋りの煩悩は湧いてきます。
疑いの心も出てくるでしょう。
しかし「仏様が示してくださり、間違いないと言って下さっている教えなんだ」と信じ、そのことのみを信じて往くのです。
これが二河白道の譬えです。

まずは自分から進んで疑いを晴らそうとしなくてはなりません。
自分から疑いの心を大きくしたり、人からの心ない言葉に惑わされていてはなりません。そのためには何よりもお念仏を続けることです。
疑いが湧いてこようが、人から何を言われようがお念仏を続けることです。
阿弥陀さまが、お釈迦さまが、あらゆる諸仏がみんな力を貸してくださって、苦しみ多き娑婆世界にあっては間違った道に進まないようにお守りくださり、幸せをつかめるように導いてくださるのです。