成道山 法輪寺

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御法語

元祖大師法然上人御法語 後篇 第十三章

(本文)

一々の願の終わりに、もし爾(しか)らずば正覚(しょうがく)を取らじと誓い給(たま)えり。しかるに阿弥陀仏、仏になり給いてよりこのかた、すでに十劫(じっこう)を経(へ)給えり。正に知るべし、誓願虚(むな)しからず。しかれば、衆生(しゅじょう)の称念(しょうねん)する者、一人も虚しからず、往生することを得(う)。もししからずば、誰(たれ)か仏になり給える事を信ずべき。三宝(さんぼう)滅尽(めつじん)の時なりと言えども、一念すれば尚往生す。五逆深重(じんじゅう)の人なりと言えども、十念すれば往生す。いかに況(いわん)や三宝の世に生まれて五逆を造らざる我ら、弥陀の名号を称えんに往生疑うべからず。今、この願に遇える事、実にこれおぼろげの縁にあらず。よくよく悦(よろこ)び思(おぼ)し召(め)すべし。たとひ又、遇うといえども、もし信ぜざれば遇わざるがごとし。今深くこの願を信ぜさせ給えり。往生疑い思し召すべからず。必ず必ず二心(ふたごころ)なく、よくよくお念仏候(そうろう)て、このたび生死(しょうじ)を離れ、極楽に生まれさせ給うべし。

 

(現代語訳)

〔阿弥陀仏が四十八の誓願を立てられたとき、〕それぞれの願の最後に「もし、この〔願いの〕通りにならなければ、〔私は〕正しい覚りを開くことはない」と誓われました。そして、阿弥陀仏は仏となられてから、すでに十劫という長い年月を過ごしておられます。まさしく知らねばなりません、誓願は空言(そらごと)ではないのです。ですから念仏を称える人々は、一人残らず往生することができます。もしそうでなければ、〔阿弥陀仏が〕仏になられたことを誰が信じられるでしょうか。

仏・法・僧の三宝がことごとく滅びてしまった時代でさえ、一度でも念仏すれば往生します。五逆という深くて重い罪を犯した人でさえ、十遍念仏すれば往生します。まして仏・法・僧の三宝がなお残る時代に生まれ、五逆の罪を犯していない私たちが、阿弥陀仏の名号を称えれば往生することを疑ってはなりません。

今この阿弥陀仏の本願に出逢えたことは、本当に並大抵の因縁ではありません。よくよくお喜びなさいませ。たとえまた、本願に出逢えたとしても、もし信じないならば、出逢わないのと同じことです。〔あなたは〕今、深くこの願を信じておられます。ご自身の往生をお疑いになってはなりません。必ず必ず二心なく、よくよくお念仏なさり、この生涯を限りに迷いの境涯を離れ、極楽にお生まれ下さいませ。

 

(解説)

みなさんは阿弥陀さまのプロフィールをご存じでしょうか?
私たち浄土宗の者のご本尊は阿弥陀さまですから、阿弥陀さまのことについては知っておく必要があります。
阿弥陀さまも最初から仏さまだったのではありません。
厳しい修行の末覚りを開き、阿弥陀仏という仏になられたのです。
ですから当然覚りを開く前は阿弥陀仏ではありませんでした。
仏になるために厳しい修行をなさる方を菩薩と申します。
観音菩薩さまや勢至菩薩さま、地蔵菩薩さまなどは有名ですが、いずれの菩薩さまもまだ仏にはなっておられません。
阿弥陀さまも修業時代は「法蔵菩薩」というお名前でした。
法蔵菩薩さまは修行を始めるにあたって、すべての者を救いたいという思いのもと、四十八の誓いを建てられました。
その一々には「もし私が仏になったならば、○○をしよう。もしそれができないならば私は仏にはならない!」という強い決意が示されています。
政治家の公約に似ていますが、政治家の公約は守られないことも多くあります。
しかし菩薩の誓いに「それができないならば私は仏にならない」とあれば、できなかったら仏になれないのです。
これから修行をしようという時に強い決意をしてから修行に入るのです。

法蔵菩薩さまは「もし仏になったならばこんな世界を造ろう」、「その世界はこんな世界にしよう」、「その世界にはこんな者を招こう」と細かく設定されます。
これを「仏が昔仏になる前の菩薩時代に建てた願」という意味で本願と申します。
「かつての願」だから「本願」なのです。

京都には浄土真宗の本山で本願寺というお寺があります。
本願寺の「本願」という言葉は、この仏がかつて誓った願のことです。
相撲の技が四十八手あるとか、柔道の四十八手などというのは四十八願からきています。

四十八の阿弥陀様の本願の第十八番目の願を念仏往生の願といいます。
「もし私が仏になったならば、私が造った世界に来たいと願い、私を信じて私の名前を呼ぶ者をその世界に迎え取ろう。それができないならば私は仏にならない」という誓いです。
この十八という数字は後に歌舞伎の十八番の数字の由来となり、カラオケの得意曲を十八番と呼ぶようになります。
法蔵菩薩さまは本願を建てた後、長い間厳しい修行に耐えてとうとう仏になられました。
それが阿弥陀仏です。
「もし○○ができければ仏にならない」と誓われているのにちゃんと仏になられたとお経には記されています。
ということはすべての本願は達成されたということを示します。
阿弥陀仏が「私の名前を呼ぶならば私の世界に迎えとろう」とおっしゃるのですから、私たちは阿弥陀様の名前を呼べばいいのです。それが「南無阿弥陀仏」です。「南無」は「助け給え」ですから、「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀様助け給え」を意味します。

 

以上を踏まえて本文を見てまいります。
「一々の願の終わりに、「もし爾らずば正覚をとらじ」と誓い給えり。」
「四十八の本願の一々の願の終わりに、もしできなければ仏にならない、と誓っておられる」

「然るに阿弥陀仏、仏になり給いてよりこのかた、すでに十劫を経給えり」
「しかし阿弥陀さまは仏になってからすでに途方もない長い時間が経っている」
つまりもうとっくに仏になられたということになります。

「当に知るべし、誓願虚しからず」
「阿弥陀仏の四十八の誓いの言葉はそら言ではありません」

「然れば衆生の称念する者、一人も虚しからず往生することを得」
「だから衆生の中で南無阿弥陀仏と称える者は一人残らず往生することができる」

「もし一人でも往生したいと願って南無阿弥陀仏と称えているのに一人でも往生できない者があれば、阿弥陀仏がほとけになられたこと自体を疑わねばなりません」

「三宝滅尽の時なりといえども、一念すればなお往生す」
次にその阿弥陀様の本願がどれぐらいの未来まで効力を発揮できるかについて説かれています。
「仏教が滅びた後でも念仏を称えれば往生できる」と説かれます。

遠く未来まで念仏を称える者は救われることが約束されています。
これは無量寿経というお経に記されていることです。

「五逆深重の人なりといえども、十念すれば往生す」
次は、悪人でも救うというけれども、どれぐらいの悪人を救うかが説かれています。
親を殺すなどの極悪な行いを五逆といい、仏教では五逆の罪人は地獄の中でも無間地獄という最悪の地獄に堕ちて永く苦しむとされます。
しかし、「五逆の罪人でも臨終間際に念仏との縁を得て念仏を称えるならば救われる」といいます。
これは観無量寿経というお経に記されています。

「いかに況んや三宝の世に生まれて五逆を造らざる我ら、弥陀の名号を称えんに、往生疑うべからず」

仏教が滅びた後の者でも念仏を称えれば往生できるのに、「私たちはまだ仏教がある時代に生まれているじゃないか。」
そして五逆という最悪の罪人でも救われるというけれども、「私たちは罪深いといっても五逆を造るほどの悪人ではないではないか」

だから「お念仏を称えて極楽へ往生することには疑う余地はない」のです。

「今この願に遇えることは、実にこれおぼろげの縁にあらず。よくよく悦び思し召すべし」

私たちは仏教と出会い、念仏の教えと出会ったことを偶然だと思い、当たり前に思っていますが、無量寿経にはこの縁がいかに大変なことなのかが説かれます。仏教と出会うことができる人というのは、全く記憶にはないけれども前世に相当な善いことをしたというのです。生まれ変わり死に変わりする中で、全く覚えていないけれどもかなりの善いことをしたのだと書かれています。
更に念仏の教えを信じる人はどういう人かというと、前世のどこかで仏様と逢ったことがある人なのだそうです。
私はこのように説かれていることに気づいたとき、鳥肌が立ちました。
仏さまと逢った覚えはないけれども、今阿弥陀さまを信じ、お念仏を称えることができるのは前世のどこかで仏さまと逢ったことが縁となって繋がっているというのです。
しかしよくよく考えてみると、その仏さまと逢った時に仏さまの説かれる教えに従っておれば、とっくに覚りを開くなり極楽へ往生していたはずです。
しかし未だに迷いの世界である人間に生まれているということは、仏さまと逢ったにも関わらずそのみ教えを信じることができなかったということです。
なんということでしょう。
かつて仏と逢うまでの強烈な縁にありながら背いた私ですが、そこからコツコツと善い行いを積み重ねて今またお念仏の教えと出会ったのです。
今度こそ信じて称えなければなりません。もう二度と同じ失敗をくり返してはなりません。

「たといまた遇うといえども、もし信ぜざれば遇わざるがごとし。」
「たとえお念仏の教えと遇っても、信じていなければ遇っていないのと同じことだ」

仏教という言葉やお念仏という言葉は日本全国多くの人が知っています。
知恩院に観光で来られる方もたくさんいます。
でもだからといって、仏教のみ教えを信じお念仏のみ教えを信じているかといえば、そういう人は極稀でしょう。
法然上人は別のご法語で「称えていなければ信じていないのと同じである」ともおっしゃっています。
とても厳しいようですが、よく考えてみますと当たり前のことです。

「今深くこの願を信ぜさせ給えり。往生疑い思し召すべからず」
「今あなたは深くこのお念仏の教え、本願を信じていますね。極楽への往生を疑ってはなりません」

「必ず必ず二心なく、よくよくお念仏候うて、このたび生死を離れ、極楽に生まれさせ給うべし」
「どうかあちこちの信仰に振り回されることなくしっかりとお念仏を称えて、このたびこそは迷いの世界を離れて極楽浄土へ往生させていただきましょう」

信仰がある程度進むと、かえって迷うこともあるやもしれません。他の信仰も有り難く感じることもあるかもしれません。しかしそのようにフラフラしていてはどっちつかず
で結局迷い、逆戻りする因となります。
だから「二心なく」なのです。
お念仏のみ教え一筋にいきましょうねと法然上人はお説きくださっているのです。