成道山 法輪寺

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御法語

元祖大師法然上人ご法語第十六章

(原文)

念仏の数を多く申す者をば、自力を励むという事、これまたものも覚えず浅ましき僻事(ひがごと)なり。ただ一念二念を称うとも、自力の心ならん人は自力の念仏とすべし。千遍万遍を称え、百日千日夜昼励み勤むとも、偏(ひとえ)に願力(がんりき)を頼み、他力を仰(あお)ぎたらん人の念仏は、声々念々(しょうしょうねんねん)、しかしながら、他力の念仏にてあるべし。されば、三心(さんじん)を起こしたる人の念仏は、日々夜々(にちにちやや)、時々刻々(じじこくこく)に称うれども、しかしながら願力を仰ぎ、他力を頼みたる心にて称えいたれば、かけてもふれても、自力の念仏とはいうべからず。

(現代語訳)

「念仏の数を多く称えるのは自力を励む人だ」と言うこと、これまた道理を外れ、あきれる程の心得違いです。わずか一念二念を称えても、自力の心構えである人(の念仏)は、自力の念仏とすべきであります。
千遍万遍を称え、百日千日、昼夜に励み努めても、ひたすら(阿弥陀仏の)願力を頼みとし、他力を尊ぶ人の念仏は、一声一声が、そのまま全部他力の念仏であるとすべきです。
それゆえ三心を起こした人の念仏は、毎日毎夜、絶え間なく称えたとしても、それらはすべて願力を尊び、他力を頼みとする心で称えているのですから、決して自力の念仏と言うべきではありません。

(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会刊)

(解説)

お念仏の教えは「南無阿弥陀仏と称える者を阿弥陀様が救って下さる」という教えです。お念仏を称えてこちらが段々偉くなって救われるのではありません。こちらは自分の力ではどうにも救われない身であるけれども、阿弥陀様の力によって救われるのです。その阿弥陀様の力を「他力」といいます。
一般的に「他力本願」といいますと、「自分は大した努力もせずに他人任せにすること」と、とらえられていますが、本来の意味とは大きく違います。本来は「阿弥陀様の力」のことを限定して「他力」というのです。
自力というのは、自分を磨いて正しい生活をし、難しい修行をして悟りを開く力をいいます。そういうことがとてもできない私達は、他力にすがらなくてはならないのです。
ですから、自力の心で念仏を称えてはなりません。あくまで、阿弥陀様の力、他力を仰いでお念仏をお称えするのです。
ただ他力という言葉に固執するとややこしいことになります。といいますのは、念仏を多く称えるのは自力であるなどということを言う人がいます。
たとえば「お念仏をたくさん称えるのは半自力半他力だ」などという批判です。
法然上人ご在世当時からそういった批判はあったようです。それに対して法然上人が「そうじゃないですよ。」とおっしゃったのが今日のご法語です。
最初から読んで参ります。
「念仏の数を多く申す者をば自力を励むということ、これまたものも覚えず浅ましき僻事なり」「念仏の数を多く申す者のことを、自力を励んでいるという人がいるが、これは物事を知らない浅はかな考えであるぞ」ということです。
「ただ一念二念を称うとも、自力の心ならん人は自力の念仏とすべし」「たった一遍、二遍というわずかな念仏しか称えていないとしても、自力の心で称えていれば自力の念仏となります」
「千遍、一万遍称え、百日、千日夜も昼も念仏に励み勤めたとしても、偏に阿弥陀さまの本願の力を頼りにし、他力を仰ぐ人の念仏は、一声一声ごとがすべて他力の念仏となるでしょう」
「されば三心を起こしたる人の念仏は、日々夜々、時々刻々に称うれども、しかしながら願力を仰ぎ他力を頼みたる心にて称えいたれば、かけてもふれても自力の念仏とは言うべからず」
三心とは、至誠心、深心、回向発願心の三つです。至誠心とは誠の心、深心は深く阿弥陀さまを信じる心、回向発願心はとにかく極楽へ往きたいと願う心です。この三つの心をもって念仏する者が極楽へ往生するのです。
このように言いますと、非常に難しいですが、「阿弥陀さま、極楽へ往生させて下さい、南無阿弥陀仏」と称える念仏がすなわち三心が具わった念仏なのです。
ですから前文を訳しますと、「三心を起こした人の念仏は、昼も夜もずっと称えていて、はたから見たら大変な苦行をしているうように見えても、すべて本願力を仰ぎ、他力に頼る心で称えているのであるから、決して自力の念仏ではありません」となります。
つまり念仏の数が少ないから他力で、念仏の数が多いから自力というわけではないということです。数の多少に関わらず、自力の心で称えれば自力の念仏となるし、他力の心で称えれば他力の念仏となるのです。自力、他力と分けて考えると非常にややこしいですが、つまりは「阿弥陀さま、お救い下さい」という思いで念仏を称える、ただそれだけなのです。
それだけなのに私達は念仏を称えるようになると、他人と比べて「あの人より私の方が念仏を称えている」と意識し、何となく偉くなったような気になるものです。でも南無阿弥陀仏とは、「阿弥陀さま、助けて下さい!」です。「阿弥陀さま、助けて下さい、阿弥陀さま、助けて下さい!」と称える者が偉いはずがないのです。阿弥陀さまにすがらなくては救われないのですから。そこを勘違いしないようにしなくてはなりません。
救う側は仏です。これは当たり前でありながら、実は理解しにくいことです。
たとえば知恩院の御前様は非常に知識も豊富、経験も豊富、人徳も勝れた方です。その御前様と私を知識や経験、人徳という基準で比べれば雲泥の差があります。しかし、称える念仏は同じです。「阿弥陀さま、助けて下さい。」の念仏です。救って下さるのは阿弥陀さまですから、知識や経験の差は関係ありません。
あくまで救う側は阿弥陀さまなのです。阿弥陀さまの力、つまり他力によって初めて救われるのが私達なのです。