成道山 法輪寺

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御法語

元祖大師法然上人ご法語第十二章

原文

それ速(すみ)やかに生死(しょうじ)を離れんと思わば、二種の勝法(しょうぼう)の中(うち)に、しばらく聖道門(しょうどうもん)を閣(さしお)きて、選びて浄土門に入(い)れ。浄土門に入(い)らんと思わば正雑(しょうぞう)二行の中(うち)に、しばらく諸々の雑行(ぞうぎょう)を抛(なげす)てて、選びて正行(しょうぎょう)に帰(き)すべし。正行を修(しゅ)せんと思わば、正助(しょうじょ)二業(にごう)の中に、なお助業(じょごう)を傍(かたわ)らにして、選びて正定(しょうじょう)を専(もは)らにすべし。正定の業(ごう)というは、即ちこれ仏の御名(みな)を称(しょう)するなり。名(な)を称すれば必ず生まるることを得(う)。仏の本願によるが故に。

 

現代語訳

さて、速やかに迷いの境涯を離れたいと願うならば、二種の勝れた教えの中で、まずは聖道門をさしおいて、選んで浄土門に入りなさい。

浄土門に入ろうと願うならば、正行と雑行の二行の中では、まずはもろもろの雑行をなげうって、選んで正行を依りどころとしなさい。

正行を修めたいと思うならば、正業と助業との二業の中では、やはり助業を脇に置き、選んでひたすら正定業に励みなさい。正定業というのは、つまり阿弥陀仏の名号を称えることです。名号を称えれば、必ず(浄土に)生まれることができます。阿弥陀仏の本願によるからです。

(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会)

 

解説

法然上人は多くのお言葉を残されていますが、その大部分はお弟子さんが法然上人からお話を聞いて、それを記録されたものや手紙などです。著作はただ一つだけで、『選択本願念仏集』といいます。
選択は普通「せんたく」と読みますね。浄土真宗ではこれを「せんじゃく」と読みます。浄土宗では伝統的に「せんちゃく」と読み慣わしています。
選択の意味はせんたく、つまり選ぶなのですが、法然上人は特に仏さまが選んだもののみに選択という言葉を使っておられます。
阿弥陀さまは「我が名を呼ぶ者を必ず救う」と本願を建てて下さいました。座禅をする者を救うとおっしゃったのではありません。滝に打たれた者を救うとおっしゃったわけでもありません。千日回峰行を行った者を救うとおっしゃったのでもありません。ただ「我が名を呼ぶ者」つまり念仏を称える者を救うとおっしゃったのです。ということは、阿弥陀さまは他の行ではなく、念仏を「選択」されたということになります。
お釈迦さまは、「後の時代の者のために念仏を残せよ」と観無量寿経というお経の中でおっしゃっています。お釈迦さまの時代は宗教的に勝れた人が多かったのです。しかし、時代を経るに従って、科学は発達していくけれどもそれに反比例するかのように宗教的な能力は劣ってきました。お釈迦さまは多くの教えを説かれたのですが、時代が下がるとその教えを行う力を持っている人がいなくなってしまうということを先にご存じでした。ですから、後の人々のためには念仏を残してやれよとお弟子の阿難尊者という方に託されたのです。つまり、後の私たちのためにお釈迦さまは念仏を「選択」して下さったのです。
阿弥陀さま、お釈迦さま以外の仏さまはどうかと申しますと、阿弥陀経というお経の中で、「阿弥陀仏の念仏の教えは間違いないぞ、皆信じて往けよ」と念仏の教えの素晴らしさを証明して下さっています。つまり諸仏も念仏を「選択」して下さったのです。
さて、今日の御法語はその『選択本願念仏集』が第一章から第十六章まである中の第十六章の一部分です。第十六章は全体のまとめの部分です。
「選択」という言葉は仏の「選び」だと申しましたが、この御法語は数ある教えの中で私たちが選んでいくものについて書かれています。私たちの「選び」です。
では本文を読んでいきましょう。
「それ速やかに生死を離れんと思わば、二種の勝法の中にしばらく聖道門をさしおきて選びて浄土門に入れ。」
生死という言葉はイコール輪廻です。私たちは生まれ変わり死に変わりを繰り返しているといいます。多くの人が、輪廻というと人間に生まれ変わると思っていますが、殆どそんなことはないのです。私たちのような煩悩だらけの者が生まれる世界は地獄か餓鬼道か畜生道です。仮に人間に生まれたとしても人間もまた苦しみの世界です。命が尽きたらまた地獄か餓鬼道か畜生道へ堕ちるかもしれません。苦しみの世界を生まれ変わり死に変わりし続けているのが今の私たちです。そこから逃れ出るのが仏教の目的です。輪廻からの解脱です。輪廻しないようにすると言ってもいいでしょう。その方法に二つあるというのです、。
「速やかに輪廻の世界から離れようと思うならば、二つの勝れた方法がある内の聖道門を置いておいて、浄土門に入りましょう」ということです。
聖道門とは「自力」の教えです。自分の力で悟りを開くのです。難しい修行や学問をして、自分を磨き、修行して煩悩を断ち切るのです。それには自分が優れていなくてはなりません。かたや浄土門は、自分は優れていないけれども阿弥陀さまという優れた方がいる。だから阿弥陀さまにお任せして、阿弥陀さまに救っていただくという「他力」の教えです。
どちらも優れているけれども、自分自身の能力を鑑みた場合に「どうか?」ということです。先ほども申したように、お釈迦さまの時代から随分下った時代に生きる私たちの宗教的な能力は劣っています。煩悩を断ち切ることができる私でしょうか。難しい修行に耐えて覚りに至ることができる私でしょうか。
今の私たちは色んな教えがある中で「これにしようか、あれにしようか」と選べる立場ではありません。私たちができて、私たちが救われる教えは念仏しかないのです。
「浄土門に入らんと思わば正雑二行の中にしばらく諸々の雑行を投げ捨てて選びて正行に帰すべし」
「浄土門に入ろうというなら正行と雑行の二行がある中の雑行をやめて、正行を選びましょう。」
浄土門を二つに分けると正行と雑行の二つがあります。ここには書かれていませんが、選択集の別の章に正行に五つあることが明らかにされています。五種正行といいます。
一つは読誦正行です。浄土三部経を読むことです。浄土三部経とは、無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の三つです。浄土三部経には阿弥陀さま、極楽浄土、念仏のことが詳しく書かれています。それを読むのです。
二つ目は観察正行です。お仏壇は極楽浄土を象ったものです。お仏壇を見て、「阿弥陀さまの元でご先祖様も幸せに過ごしておられるんだなあ。極楽はきっと素晴らしいところなんだろうなあ。いつか命が尽きたら極楽へ往ってみたいものだなあ」と極楽を恋いこがれることを観察正行といいます。
三つ目は礼拝正行です。仏法僧の三宝(ここでは阿弥陀仏、浄土三部経、極楽の聖衆)に体で敬いを表すことです。お経を読んでいるときも頭を下げる箇所が何カ所もありますね。チベットのお坊さんが地面に頭をこすりつけて仏さまを敬っている姿をテレビなどでご覧になったことがあるかもしれません。浄土宗でもそのように五体頭地接足作礼をします。色んな礼拝がありますが、仏さまを敬えば自然と頭が下がりますし、体で敬いを表しておれば自然と敬いも出てくるというものです。敬っているけれども体はふんぞり返っているというのはあり得ない話です。電話をしていても相手が大事な人であれば、向こうからは見えないのに一所懸命頭を下げるはずです。それと同じように敬いは体が伴うのです。
四つ目は称名正行です。実際に南無阿弥陀仏と称えることです。
五つ目は讃歎供養正行です。阿弥陀様を讃えたり、阿弥陀様にお供えをすることです。
この五つの行、五種正行は極楽に近しい行ですので正行というのです。
正行の正は分解すると一と止になります。これは一つに止める、つまりそれ専門の行という意味があります。ここでは極楽往き専門の行を正行というのです。
この正行以外を雑行といいます。雑行といいますと、いかにも役に立たないように聞こえますが、そうではありません。極楽往き専門の行でないものを雑行というのです。
ですから般若心経を読むのは雑行です。般若心経を読んでも極楽へは往けません。あるいは西国霊場を巡ることも雑行です。座禅も雑行、千日回峰行も雑行、写経も雑行です。これについては後にもう一度申します。
「正行を修せんと思わば、正助二業の中に、尚助業を傍らにして選びて正定をもはらにすべし」
正行を更に二つに分けます。正定業と助業です。
「正行をしたいと思うならば、正定業と助業の二つがあるうちの助業をおいておいて、正定業をしなさい」
「正定の業というは、即ちこれ仏の御名を称するなり。名を称すれば必ず生まるることを得。仏の本願によるが故に」
「正定の業というのは、阿弥陀様の名前を称えることである。名前を称えれば必ず往生することができる。阿弥陀様の本願に随うのであるから」
阿弥陀様が「南無阿弥陀仏と称える者を必ず極楽浄土へ迎えとってやるぞ」とお約束くださった、それを本願といいます。阿弥陀様は「南無阿弥陀仏と称える者」を極楽へ迎えとると往って下さったのです。「般若心経を読む者」、「西国霊場を巡る者」、「座禅をする者」、「千日回峰行をする者」、「写経をする者」を極楽浄土へ迎えとるとはおっしゃっていないのです。
ですから私たちは往生を願って念仏を称えるのみです。それだけをやっていればよいのです。念仏は誰にでもできますし、その中には阿弥陀様が修行された一切の功徳が収まっているのですから、こんなに有り難いことはありません。ただ、行ずる側の私たちは弱いのです。簡単な行すら簡単にできません。
そこで助業が必要になってきます。助業とは念仏をしやすくするものです。決して念仏の功徳が足りないから補足するものではありません。
読誦正行をして、浄土三部経を読めば、極楽浄土、阿弥陀様、お念仏のことが詳しく記されています。それで「ああ、極楽とはこういうところか、阿弥陀様はこんなに有り難い方なのか、お念仏はこんなに尊いものなのか」と理解すれば、当然お念仏が称えやすくなります。
観察正行をして、極楽浄土を想像して恋い焦がれたならばお念仏が出てきます。
礼拝正行をして、阿弥陀様への敬いを体で表せばお念仏が出やすくなります。
讃嘆供養正行をして阿弥陀様を讃え「阿弥陀様お召し上がり下さい」とお供えをすれば当然お念仏が出るわけです。
このようにお念仏を出やすくする行いを助業といいます。
この五種正行は最も極楽、阿弥陀様、お念仏に近しいものですが、先ほど雑行として一度排除したものもお念仏のためになるならば助業となります。
般若心経を読むことも、読んで「このような真理に到達するための修行はとても私には覚束ない」と自覚してお念仏に向かうならば立派な助業です。
西国霊場を巡って「観音様は有り難いなあ。観音様にお会いするために極楽へ往きたいなあ」とお念仏を称えるならば助業となります。
更には歩く時に必ずお念仏を称えるという人は歩くことが念仏の助業となっています。料理するときに称える人は料理が念仏の助業となっています。お風呂に入ることも寝ころぶことも、あらゆることを念仏の助業にすれば、念仏は決して難しいものではなく、どんどん相続することができるのです。